Op.クリムゾン・ランディシー   作:ゆきなんとか

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交差点

 ターニャは夢を見ていた。

 まだ幼かった自分が、赤いスズランを両手に持っている。花はガラスなのか、本物なのか、夢の中では分からなかった。ただ、その赤だけがひどく鮮やかだった。

 父はどこにもいない。いつ帰ってくるのかも分からないのに、幼いターニャは、赤い花を胸の前に抱いて祈っていた。帰ってきてほしい。もう一度、父の顔が見たい。そう願い続けているうちに、遠くにあったはずの赤が少しずつ近づき、いつしか昨日、自分の手で作った赤いスズランと同じ色になった。

 そこで目が覚めた。白い天井が見えた。夢の中にあった赤は消え、代わりに病室の静かな明るさが目に入る。身体を動かすと、胸の奥にまだ重さが残っているような気がしたが、昨日のような苦しさはなかった。

 小樽国際病院だった。

 昨日、工藝館を出たあとに倒れ、そのまま入院した。目を閉じると、路上で息ができなくなった感覚がまだ身体のどこかに残っている。それでも今は呼吸が乱れることもなく、横になっていれば苦しくはなかった。

 夢のことを考えているうちに、病室へ人が来た。顔を見た瞬間、ターニャは少し目を見開いた。昨日まで一緒にいた少年だった。

 そのことが嬉しかった。それと同時に、昨日、自分が彼の目の前で倒れたことを思い出す。きっと心配をかけた。その申し訳なさの方が先に口へ出た。

「いろいろとご迷惑をおかけしてしまって……」

 少年はずっとベッドのそばにいた。次に会う約束はしていない。昨日までは、また会えるかどうかさえ分からなかった。

 ターニャは枕元にあったメモを取り、少年へ手渡した。そこには、彼女の電話番号が書かれていた。

 少年はメモを受け取った。彼の手に渡ったメモを見ていると、少しだけ恥ずかしくなった。

 ターニャは、さっき見た夢のことを話した。

 父のことを話しているうちに、声は少しずつ途切れがちになった。身体の重さが戻り、まぶたが閉じていく。

 最後まで話し終えたのか、自分でも分からなかった。

 ターニャはそのまま眠りに落ちた。

 

* * *

 

 昼を過ぎても、ターニャから連絡はなかった。

 久住は朝からそれを異常とは見ていなかった。前夜の時点で、ターニャが体調を崩していたことは分かっている。通常の報告が遅れる可能性はあったし、朝から連絡を入れて確認を急ぐ必要もないと考えていた。

 ただ、昼を過ぎても本人から何もないとなれば、これ以上待つより現在の状況を確認した方がいい。

 久住は電話をかけた。

 何度か呼び出し音が続いたあとで、回線がつながった。

「Это Кусуми.(私は久住だ)」

 返事までに、わずかな間があった。

「……Да.(はい)」

 久住は日本語に戻した。

「昨日はどうした?」

「……ごめんなさい。発作を起こしてしまいました。小樽国際病院に入院しています」

「今は?」

「もう大丈夫です。何もなければ、明日の朝には退院できるそうです」

 発作だったことに驚きはなかった。前夜の由子の報告から、久住も発作の可能性は考えていた。

「例の少年は?」

「今日、病院まで来てくれました」

 久住は一拍置いた。

「お前が呼んだのか」

「いいえ」

「次に会う約束は?」

「していませんが、電話番号を教えました」

 昨日までなら、少年がもう一度ターニャへ会おうとするか、その関係がどこまで続くかを見る意味があった。だが、今日はもう条件が違う。少年はターニャに呼ばれていないにも関わらず、体調を崩したターニャを心配して、自ら小樽の病院まで来ている。

 もはやそこには、ターニャの会話や自己開示だけでは切り分けられない動機が入っていた。

 これは失敗ではない。ただ、測る条件が崩れただけだった。

 しかし、同じ条件で測れなくなった以上、このまま少年との関係を評価材料として引き延ばす理由はない。

「あの少年に関する任務はここまでだ」

 受話器の向こうが静かになった。

「……もう会ってはいけないんですか」

「会うなとは言わない。自然に顔を合わせたなら、避ける必要はない。急に態度を変えて不審に思わせるな。こちらから関係を作る任務は終わりだ。普通に会っただけなら、もう報告はいらない。機密に触れる問題があれば連絡しろ」

 すぐには返事がなかった。

「……分かりました」

 久住はそれ以上説明しなかった。なぜ今ここで終わらせるのか、何が評価できなくなったのかをターニャ本人へ知らせる必要はない。最終的な適性判断も、まだ別の問題として残っている。

 通話を終えると、久住は受話器を置いた。

 ターニャについては、これでいい。少年との関係をこれ以上追わせても、知りたいことは増えない。

 由子……。

 二日前、由子は酔客二人を追い、必要な確認を終えたあとにも一手を加えた。何を考えてそうしたのか、由子は話さなかった。久住も、それ以上は追求しなかった。

 だが、あの一件で、由子について見るべきものが一つ増えた。もともと予定していた最終評価の中で、それも確かめればいい。

 そして今なら、ちょうどいい相手がいる。

 少年は市ヶ谷側の事情を知らない一般人で、由子とは顔を合わせているだけだった。継続した関係はまだなく、北海道にいる間なら、由子自身にそこから関係を作らせる余地がある。

 久住は由子へ電話を入れた。

「今、あの少年はどうしている?」

「ロイズ平岸店に入っています」

「ターニャの件は終わった」

「了解」

「そこで、もう一件ある」

 由子は何も尋ねず、次の言葉を待った。

「少年には、お前から接触しろ。一度きりで終わらせるな。向こうからも続けようとする関係を作れ」

 久住は言葉を切った。

「継続して連絡を取れる状態まで持っていけ。方法と時期は任せる」

「……了解」

 由子自身が接触の機会を選び、相手の側にも関係を続けようとする意思が残るところまで持っていけるかを見る。この時点で由子に与える条件は、それで十分だった。

 久住は通話を終えた。

 

* * *

 

 久住との通話が終わった後も、由子はロイズ平岸店の出入口から距離を取った位置を変えなかった。

 朝から追っている相手は同じだった。ただ、久住の電話を境に、その意味は変わっていた。それまでは外から行動を確認するだけの対象だった少年に、今度は由子自身が接触し、継続する関係を作らなければならない。

 いつ、どうやって接触するかを今ここで決める必要はない。由子はそれ以上考えるのを止め、出入口へ意識を戻した。

 この日の航空自衛隊での勤務も、すでに必要な手続きを通して調整されていた。由子は朝、春野家のあるローズヒル周辺で少年が外出するのを待ち、難なく少年を捕捉した。

 少年は鉄道を使って札幌を離れた。由子は、既に少年に顔を見られている。至近距離を保ち続ければ、監視そのものを露見させる可能性が上がる。駅でも移動中でも距離を取り、一時的に視界が切れる危険より、正面から顔を見られる危険を避けた。

 最初の少年の行き先は、小樽だった。やがて小樽国際病院の建物へ入っていく。由子は足を止め、外で待った。

 しばらくして少年が出てくる。由子は再び距離を取り、その後を追った。少年は札幌へ戻った。

 大通公園付近で、少年が携帯電話を使う姿も見えた。誰と話しているのかは分からない。由子はそのまま追った。

 やがて少年はロイズ平岸店へ入り、由子は外に残った。そこで久住から電話を受けた。

 しばらくして、少年が店から出てきた。

 由子はすぐ後ろへつかず、人の流れの中に距離を残したまま追った。少年は周囲を意識していない。ただの素人だ。だからといって距離を縮める理由にはならない。いずれ自分から接触することになる。だからこそ、その前に監視を悟られるわけにはいかなかった。

 やがて少年は、4丁目プラザ付近へ向かった。

 由子は直後を追わず、道路と人の流れを挟んだ斜めの位置へ移った。少年の正面へ出ないことを優先しながら、歩く方向と周囲だけを見る。

 そこで、一人の少女が視界へ入った。由子は足を止めないまま視線だけを向けた。

 里中梢だった。

 交差点を行き交う人の流れの向こうで、少年と梢が互いの前に立ち止まった。二人が言葉を交わしているのは分かる。だが、この距離では内容までは聞こえない。

 信号が変わり、横断する人の列が一時的に視界を横切った。数秒だけ二人の姿が隠れる。

 由子は位置を変えなかった。遮蔽を避けるために前へ出れば、少年の視野へ近づく。いま取るべきなのは情報量ではなく、監視を露見させないことだった。

 人の列が抜けると、二人はまだ同じ場所にいた。接触は続いている。

 由子が見ている前で、少年の手から梢の手へ、何かが渡った。

 何を渡したのかは分からない。ロイズに立ち寄ったことと、その物を結び付ける根拠もない。二人がなぜ会っているのかも、以前から知り合いなのかも判断できなかった。

 由子に与えられた新しい任務では、少年へ自分から接触する必要がある。だが、それは今この瞬間でなければならないという意味ではない。しかも目の前では、由子が何もしていないところで別の接触が成立している。そこへ姿を見せれば、観察できるものまで自分で変えることになる。

 しばらくして、少年と梢は別れた。由子は梢を追わず、少年の方を追った。

 少年はやがて平岸へ戻り、春野家のあるローズヒル方面へ向かった。

 由子はそこで追尾を切った。既知の滞在先へ戻ると判断できれば足りる。この日の直接監視は、そこで終了した。

 

* * *

 

 夜になって、久住は由子からその日の報告を受けた。

 由子は朝からの経過を順にまとめた。ローズヒル周辺で少年を捕捉したこと。少年が小樽へ移動し、小樽国際病院へ入ったこと。病院を出たあと札幌へ戻り、ロイズ平岸店へ立ち寄ったこと。

 病院へ入った理由について、由子は何も付け加えなかった。

 午後にターニャから聞いた話と食い違いはない。久住はそのまま先を聞いた。

 由子は通常経過をそこで一度切った。

「一件、特記事項があります」

「言え」

「4丁目プラザ付近で、少年が里中梢と接触しました。短時間、二人で会話しています。その間に、少年から梢へ何かが渡りました」

 久住はすぐには意味を足さなかった。

 里中梢は、由子が以前から別件で接点を作っている相手だ。その梢と、今日から由子が関係を作ることになった少年が、由子も久住も何もしていないところで直接接触した。

「会話は聞けたか」

「いいえ。聞いていません」

「渡した物は?」

「確認できません」

 久住はそれ以上を求めなかった。少年と梢が会い、少年から何かが渡った。それだけ分かればいい。何を話したのかも、何を渡したのかも分からない。二人の関係まで、今ここで決めつける理由はなかった。

「その後は?」

「監視を継続しましたが、その後は誰とも会わず、春野家方面へ戻るところで終了しています」

「分かった」

 少年と梢が会ったのは、こちらが仕向けた結果ではない。ならば、その先までこちらで作る必要はなかった。二人がまた会うかどうかも、まだ分からない。

 ただ、少年の方から再び梢へ近づき、その関係を通じて周囲へ接点が広がるなら、そのときは由子に使わせればいい。

「少年と梢がまた会うよう、こちらから仕向けるな」

「了解」

「ただ、梢とのつながりから、少年が彼女の知人たちと自然に関わるようなことがあれば、その機会は使っていい。必要なら、制御できる範囲で少し揺さぶれ」

 受話器の向こうは静かだった。

「方法と時機は任せる。その場で、少年が誰とどう動くかを見ろ」

「了解」

 

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