朝の小樽は明るかった。
ターニャは歩きながら、ときどき自分の呼吸を確かめた。胸の奥に昨日までの苦しさはない。歩調を少し上げても息は乱れず、足元にも不安はなかった。それでも病院を出たばかりだという感覚だけは身体のどこかに残っていて、いつもより急がずに歩いていた。
今日は仕事を休むように言われている。
だから、運河工藝館へ行っても仕事はしない。それでも足はそちらへ向かっていた。
あそこへ行けば、もしかしたら会えるかもしれない。
そう思うと、歩く理由はそれだけで十分だった。
昨日、病室まで来てくれた。呼んだわけではなかった。次に会う約束もしていない。それでも、目を覚ましてから思い出すのは、白い病室の中に立っていた少年の姿だった。
会いたい。
その気持ちは、考え直して別の言葉に置き換える必要のないものに思えた。
運河工藝館が近づくにつれて、ターニャは無意識に歩く速さを少しだけ上げていた。入口の見えるところまで来て、そこで足を止めた。
あの少年がいた。
思っていたことが本当になった瞬間、胸の内側がふっと軽くなった。昨日まで残っていた重さとはまったく違う。痛みでも息苦しさでもない。声を掛けるより先に、相手もこちらに気づいた。
「ターニャ! もう容態は、いいの?」
ターニャは立ったまま小さく息を吸った。苦しくない。顔を上げ、少年を見る。昨日、病室で横になっていたときとは違って、いまは自分の足でここまで歩いてきた。それを見せるように姿勢を直した。
「今日一日ゆっくり休めって、店長もお休みをくれました。」
言いながら工藝館の入口へ目を向けたが、中へ入るつもりはなかった。休みなのだから、炉の前へ戻る必要もない。少年とこうして会えたのに、仕事を理由に離れる必要もなかった。
何をしたいのかと考えたとき、先に浮かんだのは光だった。
夏の日差しを受けた水面。明るい空の下に広がる青い海。
「私、海が見たいんです。夏の日差しがキラキラ反射している海……連れて行って下さい」
口にしてから、ターニャは少年の顔を見た。
列車で銭函へ向かう間、ターニャは窓の外を流れていく夏の明るさを眺めていた。同じ列車に彼がいることを何度か意識したが、それだけでよかった。何か大切なことを急いで話さなければならないようには思わなかった。
昨日まで、自分の身体がどうなるのか分からない時間があった。息を入れようとしても胸がつかえ、薬を飲んでもすぐには楽にならず、そのまま病院へ運ばれた。今は列車の揺れを身体に感じながら、苦しさなく移動できている。外へ出て、自分で行きたい場所を選び、そこへ向かっている。
銭函で列車を降りてから、二人は短く歩いた。
喫茶店に入った。「樹の部屋」という名前の店だった。ターニャは窓の外へ目を向けた。
町並みの向こうに青い海が見えた。強い夏の光を受けた水面が、ところどころ白くきらめいている。
ターニャはしばらく海を見てから、少年へ顔を戻した。
「いいお天気ですね。きっと私が日本に来てから、一番いいお天気ですよ。」
言葉にすると、窓の外の明るさがいっそうはっきりした。
こんな日に、昨日まで病院にいた自分がここにいる。それが少し不思議で、嬉しかった。
けれど、昨日のことを思い出すと、胸に残るのは病院の白い天井だけではなかった。
赤いスズランの商品化はできないと聞いたとき、泣きそうになった。せっかく父の赤を使って、自分が作りたいと思った形にしたのに、それを商品にはできないと言われた。悲しくて、けれど、もう泣かないという自分の気持ちを守ろうとして涙を抑えた。
ターニャは、そのときのことを少年へ話した。
泣きそうになるのを我慢しているうちに胸が苦しくなったこと。涙を押し戻そうとした時間と、急に呼吸ができなくなっていった感覚が、自分の中では続いていたこと。けれど、あの苦しさが涙だけで起きたとは、ターニャも考えていなかった。朝から作業を続け、暑い工房にいて、店長へ作品を見せるまで緊張もしていた。そうしたものが重なったあとに、あの苦しさが来た。
それでも、ターニャの中には一つ引っかかっていることがあった。
泣かないことを、自分は大事にしすぎていたのかもしれない。
悲しいときに涙が出ることまで押さえ込んで、それで何かを守ったことになるのだろうか。
昨日の病室で見た夢を思い出した。幼い自分が赤いスズランを持ち、父が帰ってくるように祈っていた夢。夢の中の自分は、父が帰ってくるという答えを持っていたわけではない。ただ願っていた。叶うと分かっていたからではなかった。
赤いスズランも同じだった。
商品にならないと言われたからといって、作った意味までなくなるわけではない。悲しくなったからといって、その先まで諦めなければならないわけでもない。
ターニャは窓の向こうの海から、もう一度少年へ視線を戻した。
「涙を流して、悲しくなって……それで、夢を諦めたりしちゃいけませんね」
自分で言った言葉を、ゆっくり確かめた。
「涙を流して悲しい思いをするのを恐れて、夢を諦めてはいけないんですね。」
ターニャは指先を重ねた。
「私、好きな言葉があるんです。『たとえ明日、世界の終わりが来るとしても、私は今日、リンゴの樹を植える。』」
その言葉を口にすると、胸の中にあったものが少しずつ形になっていった。
明日がどうなるか分からなくても、今日できることをする。結果が約束されていなくても、作ることをやめない。父がもう帰ってこないと知ったあとも、自分は父の赤を探し続けた。そして、ようやく見つけた赤で、父が作ったものとは違う赤いスズランを作った。
「……素敵な言葉ですよね。私……私……」
そこで声が続かなくなった。
視界がにじんだ。
ターニャは一度まばたきをした。それでも涙は消えず、頬へ落ちた。
今度は止めようとは思わなかった。
胸は苦しくない。呼吸も乱れていない。ただ、涙だけが静かに流れた。
「今は……悲しい涙じゃないんです。私、うれしくて……」
言ってしまうと、なぜ嬉しいのかも分かってきた。
自分たちが作ったものが、いつか誰かの手へ渡っていく。父から受け取った赤を、自分の手で別の形にした赤いスズランもそうだった。少年と一緒に出来上がるまで見届けたものが、自分たちのところだけに留まらず、知らない誰かへ届くことがあるかもしれない。作品だけではなく、その中に込めたものまで、誰かが受け取ってくれるかもしれない。
そういうことが嬉しいのだと、ターニャは少年へ話した。
父の赤を見つけることだけが夢ではなかった。
父のようなガラス職人になりたいと思ってきた。その先に、自分の手で作ったものを誰かへ渡していくことがある。受け取った人の中に、少しでも何かが残るなら、それはきっと幸せなことだった。
涙が頬を伝っても、もう慌てなかった。
窓の外では、青い海が夏の光を返していた。
工藝館の前で見たいと言った海を、いま彼と一緒に見ている。
それだけのことが、ターニャにはとても嬉しかった。
二人はひとしきり話して店を出たあと、銭函駅へ向かった。
歩いているうちに、泣いたあとの熱が少しずつ頬から引いていった。歩いていても胸の内側に苦しさはない。病気がなくなったわけではないことは分かっている。今日はただ、こうして歩ける日だった。
隣を歩く少年との間には、ときどき沈黙があった。
ターニャはその沈黙を埋めようとはしなかった。さっきまで話していたことがまだ胸の中に残っていて、言葉を重ねるとこぼれてしまいそうだった。
銭函駅に着いたとき、別れる時間が来たことだけは分かった。
やがて少年は列車の中にいた。ターニャはホームに残った。
ここまで一緒に歩いてきたのに、列車の内側と外側に分かれただけで、急に距離ができたように見えた。
発車を待つ短い時間の中で、少年が尋ねた。
「『さよなら』ってロシア語でなんて言うの?」
ターニャは少しだけ目を細めた。
「『ダスヴィダーニャ』です。」
やがて列車が動き始めた。
「ダスヴィダーニャ! ターニャ!」
少年の声が届いた。
ターニャは列車へ向かって声を返した。
「До свидания!」
まだ届く距離だった。
列車はそのままホームの先へ進んでいった。少年の姿が少しずつ遠くなる。ターニャはその方向を見続けた。
さっきまで隣にいた人が離れていく。
会えるかもしれないと思って工藝館へ行った朝から、海を見たこと、泣いたこと、言葉にしたことまでが、一日の中に続いていた。昨日までは、次に会えるかどうかも分からなかった。今日も約束して会ったわけではない。それでも会えた。そして、自分が見たかった海を一緒に見た。
遠ざかる列車を見ていると、胸の奥に、誰に向けるものなのか迷う必要のない気持ちがあった。
列車はさらに遠ざかった。もうターニャの声は届かない。
それでもターニャは、遠くなった列車へ向かって呼びかけた。
「До свидания! До свидания!」
もう一度別れを告げようとしたとき、その気持ちが言葉となって口をついて出てきた。
「……До свидания, любимый」
* * *
由子は電話をかける前に、その日の監視で確認した事実だけを順に並べ直した。
対象は運河工藝館前でターニャ・リピンスキーと接触した。その後、二人で銭函へ移動した。銭函では喫茶店へ入り、暫くして二人で出てきた。そこから銭函駅へ向かい、駅で別れた。対象は列車へ乗り、ターニャはホームに残った。列車が銭函を離れたところで、由子は直接監視を終了した。
確認できたのはそこまでだった。
運河工藝館前で二人が何を話したのかは聞いていない。銭函へ向かう間の会話も、喫茶店の中で交わされた内容も知らない。駅で互いに何を言ったのかも取得していない。ターニャがホームに残り、対象が列車で離れたという外形だけが事実だった。
由子は前日から、対象に自分から接触し、一度きりで終わらない関係を作るよう命じられている。方法と時期は任されている。
今日、対象の動きへ自分を入れれば、接触そのものを成立させることはできたかもしれない。だが、ターニャとの接触後、対象はそのまま彼女と行動を共にして銭函へ移動した。二人が別れた時点では、対象はすでに列車でその場を離れている。そこへ由子が加わるなら、二人の行動へ割り込む形になるか、離脱しかけた対象の動線を自分から変える形になる。
由子はそのどちらも選ばなかった。
指示は、今日中に声を掛けろというものではない。必要なのは接触した事実ではなく、その後も相手の側から続けようとする関係だった。だから、由子は対象がターニャと行動している間も距離を保ち、最後まで外形監視だけを続けた。
その判断を長く説明する必要もなかった。
報告すべきなのは、確認した事実と異常の有無だけでいい。
回線がつながると、いつもの認証のあと、報告へ入った。
「対象は運河工藝館前でターニャ・リピンスキーと接触しました。その後、二人で銭函へ移動しています」
久住は黙って先を待った。
「銭函では喫茶店へ入り、暫くして退店。銭函駅で別れ、対象は列車に乗りました。銭函からの離脱を確認した時点で、直接監視を終了しています」
「異常は?」
「安全、機密保全上の重大な異常は確認していません」
そこで由子は言葉を止めた。
店内で何があったかを推定して付け加えることはしない。二人がどのような関係にあるかも、外から見ただけで決める必要はない。対象がターニャと会い、銭函へ行き、別れて列車で離れた。それ以上でも、それ以下でもなかった。
電話の向こうで、久住が短く息をついた。
「分かった。そのまま続けろ。接触の時機は引き続き任せる」
新しい指示は示されなかった。接触する場所も、方法も指定されなかった。
「了解」
由子は通話を終えた。