その日の朝、由子と少年は平岸駅で合流し、そのままバイクで支笏湖へ向かった。走り出してしまえば、話すことはない。風がヘルメットを叩き、エンジンの音が絶えず耳に届く。由子は流れてくる路面と周囲の車を見ながら走った。
今の任務は、少年との接触を続けることだった。自分のことを話し、少年の側にも、また会いたい、もっと知りたいと思う理由を残す。その反応を見て、久住に報告する。
少年が後ろにいる。それは、今日の接触が予定どおり続いているということだった。それ以上ではない。背中に人ひとり分の重さを意識したのは、発進した直後だけだった。
市街地を離れてしばらくすると、視界の中を占めるものが建物から山の緑へ変わっていった。由子は速度を一定に保ち、前だけを見て走った。支笏湖に着いてバイクを降りると、身体に残っていた振動もすぐに薄れた。
「あのね。支笏湖って携帯電話が入るか入らないかのギリギリのエリアなんだ。だからもし呼集がかかった時、繋がらなかったらどうしようって結構ドキドキなんだ」
すると少年が呼集について訊いた。
「前にも言ったけど、自衛隊は24時間勤務が基本なの。災害はいつ起こるかわからないし、病院じゃ対処できないような急患がいつ出るかもわからないから……」
「だからそういう場合に備えて24時間準備してるのよ。何か事件が起こったら、広報の私たちも取材に対応しなくちゃいけないしね」
由子は湖の方へ目をやった。
「ここって千歳から近いから、時々一人で来るんだ。友達とジェットスキーやりに来ることもある」
少年は今度は、広報の仕事について尋ねてきた。
由子は、見学者や取材の案内、航空祭のポスター作り、音楽会の計画などのPR活動を挙げた。
「毎日違うことがあって、すごく楽しいよ。見学でも幼稚園生や同世代の子やマニアな人まで来て、みんながへーっと思って帰ってくれるの」
「あっ、それと聞いた話なんだけど、基地の近くに住んでるお爺さんとお婆さんが、孫の上を戦闘機が飛ぶのを見て、いつもやかましいって思ってたんだって」
「でも基地を見学した後、『ああ頑張ってるんだな』って思ってくれるようになったんだって……それ聞いて、なんか嬉しかったな……」
少年は由子の仕事の話に、自分から関心を向けた。
「楽しい」「嬉しかった」という言葉も、考えなくても口から出た。そう感じた記憶があることも、そのときどんな顔をしていたかも知っている。けれど、いま胸の内を探しても、そこに同じものはなかった。
旅に出た記憶は、由子の中にもそのまま残っている。バイクで走った道も、知らない街でバスを降りたことも、そこでカメラを向けた風景も覚えていた。少年に話すために作った過去ではない。この八月はそんな余裕もなかったが、暇があればふらりと出かけることはあった。
「そういう時にさ、絶対に忘れたくないような風景とか人の表情とかに出会うの……だから私、いつもカメラを持ってる」
コンパクトカメラではそれなりの写真にとどまり、高級なカメラでは重くて大きい。その比較も、今使っているカメラを選んだ経緯も記憶している。
「そういう意味で私、このコンタックスG1が一番のお気に入りなんだ」
しばらくして、由子は苔の洞門の話をした。久しぶりなのは本当だった。少年が知らないなら、札幌へ戻る前に寄って案内する流れも不自然ではない。由子は少年を連れていくことにした。
洞門へ入ると、由子は苔に覆われた壁へ目を向けた。
「見て! すごいよね。さっき案内板に書いてあったんだけど、ここには30種類の苔があるんだって……」
由子はそのまま先に立って歩いた。歩幅は変えない。少年の足音が少しずつ後ろへずれ、呼吸が速くなっていることも分かっていた。大きく足を運び、腕を振る。少年の前にいるのは千歳基地で勤務する自衛官の桜町由子で、その歩き方もまた、いま少年に見せている自分の一部だった。
「歩くの速いかな? 訓練の時ってさ、歩幅六十五センチで歩かされるんだ。背の低い子なんて大変よ」
歩きながら、由子は自衛官は歩幅が大きく、きちんと腕を振り、立ち止まれば自然と「休め」の姿勢を取るものだと話した。
話し終えたところで、由子は写真を撮った。少年の呼吸はまだ荒い。由子は振り返り、大丈夫かと声を掛けた。若いのだからもう少し身体を鍛えた方がいい、と笑ってから、今度は少年がついて来られる速さで先へ進んだ。
苔に覆われた洞門を抜けるころには、二人とも汗をかいていた。由子は近くに温泉があることを思い出し、そこへ寄ろうと持ちかけた。少年も応じたので、二人は丸駒温泉旅館へ向かった。
温泉に入ってしまえば、少年とは別になる。別に声を掛ける必要はなかった。上がったあと、バイクのところで待てばいい。
それでも、声なら届く。
由子は少し考えてから、呼びかけた。
「おーい! 元気?」
返事はなかった。
由子はもう一度呼んでみようかと思った。こういう場所で女の方から声を掛けられれば、多少は意識するかもしれない。そうならなくても何も失わない。しばらくして由子は先に風呂を上がった。
札幌へ戻ると、由子は少年を夕食に誘った。選んだのはマジックスパイスだった。店に入り、二人でカレーを食べ始める。
「なんか元気になってくるような味でしょ? 私のもちょっと、食べてみる?」
少年は由子のカレーを少しだけ味見した。由子はその様子を見て、水を差し出した。
「あははっ……ちょっと辛すぎた? はい。お水」
水を受け取った少年が、今度は由子の皿を見て訊いた。
「そんな辛いの食べて大丈夫なの?」
由子は、唐辛子は身体によく、新陳代謝を促して脂肪を燃焼させる効果があるのだと答えたが、話はそこから、前日の冷し中華屋台へ戻った。青木があれ以来、冷し中華まで嫌いになっていなければいい、と由子は冗談めかして話した。
だが、青木が口にした自衛隊への言葉については、冗談では済ませなかった。
「批判するのも自由だし、それで自衛隊が良くなるならむしろ歓迎したいくらいよ。でも現状はそれ以前に自衛隊について、知らな過ぎる人が多いの。」
すると少年は、由子自身のことを訊いてきた。
「自衛隊に入ってよかったことって何?」
由子は、まず寮生活と給与面の利点を挙げた。寮に住んでいる分、給与を使える余地が大きい。入隊してから身についたものもある。免許を取る機会があり、英会話も覚えた。
それだけではない。他の仕事ではできないような経験があり、月並みな言い方でもやりがいがある。由子はそう続けた。「やりがい」も、支笏湖で口にした「嬉しかった」も、千歳基地で働く桜町由子としては実感を伴っている。
支笏湖で話していた基地見学も、見学者の案内も、由子が毎日勤務している千歳基地での仕事だった。明日そこへ連れていけば、少年は由子が話したものを実際に見ることになる。次の接触としても自然だった。由子は少年を見た。
「ねえ、明日さぁ、ウチの基地、見学しない? キミにはもっと、私たちのこと知って欲しいんだ」
「うん、いいよ。」