久住征一は、数十枚の資料を綴じたファイルを左手に持ち、室長室の前で一度だけ立ち止まった。表紙には、内部識別のための管理番号だけが記されていた。
81(アオ)6号。旧い命名規則によって付された管理番号だった。救出時に付された番号であり、少女の日常生活で使われている名とは別のものである。
久住は扉を叩いた。
「入れ」
札幌分室長の声が返った。
久住は室長室へ入り、扉を閉めた。室長は机の向こうから、久住の手にあるファイルを見た。
「例の件か」
「はい」
久住は机の前まで進み、資料を置いた。
「81(アオ)6号について、観察作戦の継続と適性評価の承認を上申します」
室長は表紙を見たまま、すぐには手を伸ばさなかった。
「6号か、ほかは?」
「評価対象の候補としては残っていません」
久住らの「市ヶ谷」関係が扱った案件では、未成年者が保護されることも、わずかながらあった。81(アオ)6号と採番された少女も、その一人だった。
救出したばかりの子供を警補官候補として見る者などいるはずもない。久住も、ほかの誰も、まず生存させ、保護し、通常の生活へ戻すことだけを考えていた。それが現場の担当局員としての仕事だった。
6号の子も同じはずだった。
室長がファイルを開いた。
「施設を移っているな」
「正式な措置変更です。こちらの関与で動かしたものではありません」
「この観察記録は?」
「応答が一時的なものかどうかを確認する必要がありました」
室長はページをめくった。記録には、診断名も結論も書いていない。
誰が泣けば近くに座った。何を言えば職員が安心するかを覚えた。別れの場では相手が待っている言葉を選び、移った先では新しい決まりと人間関係を短期間で把握した。
世話を受けた事実は正確に記憶している。だが、特定の職員や児童へ継続して会いたがる様子は、記録上ほとんど見られなかった。
どれも外形的な事実だった。
「事件の影響ではないと?」
室長が訊いた。
「断定はできません」
久住は答えた。
「救出直後の沈静でも、特定の養育者への服従でもない。少なくとも、その説明だけでは足りません」
「情が薄いとでも言うのか」
「いいえ」
その言葉は使えなかった。
少女は相手の感情を理解していた。むしろ、理解が早すぎるほどだった。
悲しんでいる相手には、悲しみを認める言葉を返す。褒められれば、相手が望む程度に笑う。拒絶すれば相手が困る場面では、拒絶しない。
感情を持たないのではない。
他者の感情を、自分の行動を決める情報として扱っているように見えた。
「観察、記憶、模倣、反応選択に偏りがあります」
久住は言った。
「対人接触に利用可能な適性かもしれません」
室長が顔を上げた。
「利用可能? 保護対象の子供だぞ」
「承知しています」
「警補官にするのか?」
「違います。まだその段階ではありません」
久住は即答した。
「現段階で求めるのは、継続観察と適性評価だけです。訓練は行わない。生活環境も変えない。施設と学校には、通常の保護を続けさせます」
「本人には」
「知らせません」
「施設側にもか」
「組織事情は知らせない。必要な情報は、通常の経過確認の範囲で得ます」
室長は椅子へ深く座り直した。
「作戦の境界はなんだ?」
久住は答える前に、一度資料へ目を落とした。
「観察と評価までです」
「評価した結果、使えるとなれば使う。そういうことだな」
「その時点で、改めて上申します」
室長はしばらく久住を見ていた。久住は視線を外さなかった。
自分が何を持ち込んだのかは分かっている。少女を守るための記録だったものを、利用可能性を測る資料へ変えた。
まだ訓練ではない。まだ組織管理への移行でもない。
だが、最初の線を引いたのは久住だった。
室長がファイルを閉じた。
「いいだろう。北部方面内事部長へ上げる。ただし、承認範囲は継続観察と適性評価に限定する」
「了解しました」
「警補官にすると決めたわけではないぞ」
「はい」
「訓練開始でもない」
「はい」
久住は資料を室長の机に残し、室長室を出た。廊下へ戻っても、手の軽さは感じなかった。
*
それからしばらくの時が過ぎた。久住が手に持つファイルは以前より厚くなったが、表紙は変わっていない。
81(アオ)6号。
少女の背は伸び、学校で扱う内容も増えていた。だが、内部記録上の呼び方は、救出時のままだった。
久住は室長室の扉を叩いた。
「入れ」
前と同じ声が返った。
室長室へ入り、追加記録を机へ置く。室長は資料の厚みを見た。
「結論が出たか」
「出せる段階です」
「6号についてか」
「はい」
室長は最初の数ページを読んだ。
継続観察の間、少女の生活は維持されていた。他の子どもと同じ学校へ通い、健康管理も通常の範囲で続いていた。評価は、その生活を壊さない範囲で行われた。
具体的な課題名や採点方法より、久住が重く見たのは結果の一貫性だ。
少女は相手の立場を読み、期待される答えを選んだ。新しい状況では、規則を説明される前から周囲を観察し、誤りを修正した。事実と推測を分けるよう求めれば、次からは分けた。
失敗しても動揺を長く引きずらず、誤りを指摘されれば、次の試行では修正した。褒められることへの執着も、拒絶されることへの恐怖も、外形上は強くなかった。
「変化は?」
「あります」
久住は答えた。
「能力は伸びています。傾向は変わっていません」
「愛着は?」
「生活上の関係は保てています。特定の相手へ強く固着する様子は、今もほとんどありません」
「本人は評価されていると知っているか?」
「知りません」
「自分をどう思っている?」
「診断的には捉えていません。求められたことを理解し、結果を見て、次の行動を選んでいるだけです」
室長は資料を閉じなかった。
「今回の上申は何だ」
久住は姿勢を正した。
「継続管理と、基礎訓練への移行です」
室長の手が止まった。
「つまり、保護した子供を警補官にするのだな」
「その承認を求めます」
室長は久住を見た。
「使えるのか?」
久住は室長の目を見た。何も言わなかったが、それが答えだった。
「……いいだろう」
その一言で、久住の責任が他へ移るわけではなかった。訓練開始を決定するのが室長でも、北部方面内事部長でも、その先の承認系統でも変わらない。
最初に少女の性質を利用価値へ読み替えたのは久住だった。
室長の机の上には、少女の名前ではなく、81(アオ)6号と記されたファイルが残っていた。