「昨日の基地見学は、予定どおり終了しました」
由子は、札幌分室で前日の基地見学の結果を、あらためて久住に報告した。
「異常は?」
「秘密保全上の重大な異常は確認していません」
「少年の反応は」
「見学の最後に、『もっと見たいな』と答えています」
「どう見る」
「私が勤務している場所と生活の一端を見たあとで、さらに知りたいという関心を示したと判断します」
「好意を得たと見ていいか」
「いいえ。そこまでは判断できません」
久住はそれ以上を訊かなかった。
短い沈黙が落ちた。久住は視線を外し、由子はそのまま待った。昨日の結果について、これ以上どちらかが言葉を足す必要はなかった。次に考えるべきことは、もう別にあった。
昨日までと同じ種類の接触を今日も重ねる必要はない。少年へ次に連絡するなら、見せるものを変える方がいい。基地では、勤務先、仕事、同僚、食堂、寮といった、外から確かめられる桜町由子を見せた。次は、確かめにくいところへ移る。
「明日は香月曹長の結婚式があります。これを使います」
久住が由子を見た。
「どう使う」
「失恋を題材に、私的な話をします。実際に酒を飲んで、酔って無防備に見える状態を作る。必要なら眠ったように見せます」
「何を見る」
「酔って無防備に見える私に、少年がどう接するかを見ます。気持ちは判断しません。実際の行動だけです」
「酒はどこまで入れる?」
「結婚式では周囲に合わせます。そのあとも必要なら追加します。上限は越えません」
久住は一拍置いた。
「その状態で少年に会うのか」
「はい。酔っていること自体を使います」
「なら、抑制剤が要るな」
「使います」
酩酊症状抑制剤。酒席を利用する対人工作で、飲酒による注意力や反応の低下を抑えるために使われる任務用の薬だった。酒そのものを消してくれるわけではない。飲めば酔わなくなる薬でもなかった。
「使用は認める。薬はこっちで手配する。一回分だけ受け取れ」
「了解」
* * *
翌日、最初に酒を口にする前に、由子は抑制剤を服用した。
香月曹長の結婚式には実際に出席した。香月と十九歳の後輩へ祝意を伝え、その場で酒も実際に口にした。二人が結婚することを、由子は心から祝うことができた。それでも、胸の奥には失恋の痛みが残っていた。
その感覚を長く追わず、由子はその日の夕方、ススキノから少年へ電話した。
「もしもーし。桜町でーす! あはははは! 元気? 突然だけどさぁ……今から会えない? 私、ススキノにいるんだけどさ……」
「うん。いいよ。」
「OK! それじゃ、100数える間に来てね。1・2・3・4」
由子はそこで通話を終えた。
少年が来たとき、由子は黒いドレスで路上に座っていた。
「……97……98……99……100!! すごーい! 間に合ったね。私、うれしいなぁ。」
頬には酒の熱が残っている。身体の中にアルコールがあることも、喉が乾き始めていることも分かる。それでも、少年が近づいてくる姿を見誤るほどではない。抑制剤の効果だった。
「由子さん……酔っぱらってるの?」
「酔っぱらってなんて……いません! ただお酒と、戯れているんです。ささっ! 社長! もう一軒!」
少年は由子を支えた。由子は少年の肩を借りながら歩き、一軒の店の前まで来た。
「え? ここ……どこ?」
「キュービック!」
「キューブリック? ああ……2001年ね」
「馬鹿なこと言ってないで、ほら! 中に入って!」
少年に支えられ、由子は喫茶店「CUBIC」の席に着いた。
由子は酔態を崩さなかった。けれど意識は途切れない。酒の匂いも、頬の熱も本物だった。そこへ、必要なだけの酔態を重ねる。
「今日は、とってもおめでたい日なんだよ。私の上官と部下の結婚式! だからほら。私、お洒落してきましたー。知ってる? 女性自衛官が男性自衛官と結婚する確率は、なんと90%! ほとんどが営内恋愛なの。それだけ出会いがないのかしらね。」
由子は赤くなった頬のまま笑った。いつもより表情も姿勢も緩んでいる。
「由子さんは営内恋愛してるの?」
「してた!……片思いだったけどね。でも、もう終わっちゃった」
寂しげな笑顔を残したまま、由子は続けた。
「私の……初恋の話、してあげるね。」
由子はそのまま、十歳だったときの冬の話を続けた。それは由子自身が組み立てた過去だった。父の運転する車が猛吹雪の山道でエンストし、父と兄と由子の三人は歩くこともできず、空腹と寒さの中で途方に暮れた。クラクションで鳴らしたSOSを聞きつけ、自衛隊のジープで若い香月が助けに来た。香月は三人へ暖かい毛布と温かいココアを渡し、自分は吹雪の中で汗だくになって父の車を修理した。幼い由子はその姿に憧れ、この人のお嫁さんになりたいと思った――由子は、いま自分の記憶を語るように、その話を少年へ渡した。
それから八年後、自衛隊に入った由子は香月と再会した。香月は曹長になっていた。涙が出るほど嬉しかったが、気持ちは伝えられず、香月も由子を覚えているようには見えなかった。それでも上官としての香月は素敵な人で、年も離れている以上、いつか別の人生を歩くのだろうと思っていた――由子は語りを止めず、そのまま今日の結婚へつないだ。
「でもね! 聞いてよ! 彼が結婚した相手は19歳……私の後輩なのよ! 彼女も、すごくいい子だから『おめでとう! 幸せにね』って心からそう思ったし……二人にもそう言ったし……でも……私の心はどうなっちゃうのよ? ずっとずっと……誰にも言えないまま誰にも気付かれないまま消えちゃった私の心は?」
由子は顔を伏せた。目にはわずかに涙が浮かんでいた。下がった眉の下でしばらく視線を落としていたが、やがて顔を上げ、少年を見た。
「登場人物がみんな善人だから困っちゃうのよ。一人ぐらい悪人がいたら、そいつのせいに出来るのに……」
「シンデレラのお話って有名だけどあそこに出てきた『意地悪なお姉さん』……彼女だって女だし、ひょっとしたらシンデレラよりもずっと王子様のこと好きだったかもしれないじゃない?」
「『意地悪』って決めつけられてるけど、そう思ってるのは物語の作者だけで、実はすごくいい人だったかもしれないじゃない」
由子は少年を見ていた。酔いの残る赤い顔のまま、その答えを求めるように視線を向けていた。
「おとぎ話ですら、そんなに残酷なんだから、現実の物語は、きっと、もっと厳しいんだよね。……ねぇ? 飲んでる?」
「コ……コーヒーなら、飲んでるけど……」
由子はそのまま言葉を重ねた。
「今日は朝までつきあってもらうわよ!」
「え……でも由子さん……」
「朝まで……つきあって……」
由子は言葉を切り、眠りに落ちたように見せた。
目を閉じても、意識まで閉じたわけではない。音と接触に注意を残し、何かあればすぐに動ける状態を保つ。由子が知覚できる範囲で、少年がその場を離れたことは確認できなかった。身体の境界を越える接触も、所持品を探るような動きもなかった。
そのまま時間だけが長く過ぎた。少年はずっと由子のそばにいた。路上で由子を支え、店まで付き添い、そのまま夜を越えた。無防備な相手につけ込むこともしなかった。由子が確認できたのは、そこまでだった。それが何を意味するのかは、まだ決めなかった。
店の外が白み始めたころ、少年が由子を起こした。由子はゆっくりとまぶたを開いた。眠りから覚めたばかりのように視線を揺らし、まだ酒が残っているような様子も崩さない。そのまま少年に駅まで送られ、そこで別れた。
抑制剤のおかげで、最後まで判断力と反応は保てた。それでも、実際に飲んだ酒と一晩の疲労は身体に残っていた。口の中はひどく乾き、身体は重かった。胸の鼓動も、普段より強く感じられた。
由子は地下鉄のホームの自動販売機で水を買った。蓋を開け、何口か続けて飲んだ。
冷たい水が、美味かった。