夜になって、由子は少年へ電話をかけた。
呼出音が途切れた。少年が出たのを確かめて、由子は「桜町由子」の声で名乗った。
「もしもし、桜町です。夕べはごめんね。」
前夜、少年は朝まで由子のそばに残った。けれど、その事実の意味を由子はまだ決めきれていない。
あのときの由子は、酒に酔い、眠り込んだように少年には見えていたはずだ。少年がその場に残った理由には、酔っ払った女性を放っておけなかっただけという可能性も混じっている。由子という相手との時間を続けたかったのか、それとも、放って帰れなかっただけなのか。前夜の条件では、その二つを分けられない。
ならば、条件を変えればいい。今夜の由子は酔っていない。明日も、少年に世話をしてもらう状況を作る必要はない。その状態で由子の方から新しい予定を差し出し、少年が応じるかを見る。断ることのできる誘いに応じ、翌朝、本当に約束の場所へ来るなら、前夜とは違う意味を持つ事実が増える。
それは、ここまで続けてきた接触の意味を絞り込むために必要だった。任務として考えるなら、必要なのは保護する理由のない状態で、少年がもう一度由子との時間を選ぶか確かめることだった。行き先が積丹でなければならない理由はない。
けれど、桜町由子として少年と過ごしてきた時間には、別の意味が生まれていた。朝まで一緒にいたばかりなのに、もう一度会いたい。明日も会って、二人で走り、海を見たい。その思いが選んだ行き先が積丹だった。
任務上必要な次の接触と、桜町由子として望む明日の過ごし方は、同じ一つの誘いになった。
「あのさ……明日、休みが取れたんだけど、二人でツーリングに行かない?」
由子は一度言葉を切った。
「私、積丹の海が見たいんだ。」
返事を待つ間、由子は何も言い足さなかった。理由を増やせば、少年の選び方まで変えてしまう。
「うん。いいね。」
少年は応じた。これだけで、少年が由子をどう思っているのかまでは分からない。恋愛感情があるとも、付き合うつもりだとも言えない。だが、少年は由子との時間をもう一度持つことを選んだ。その事実は残る。
その事実を確認したのと同じ瞬間、胸の内がふっと軽くなった。少年が来てくれる。嬉しかった。その感覚を、任務の結果へ置き換える必要はない。何を確認できたかは分かっている。それとは別に、明日が楽しみだった。
「それじゃ、明日の朝、平岸駅に迎えに行くね。ばいばい。」
由子は通話を終えた。
* * *
翌朝、由子はバイクで平岸駅へ向かった。少年は約束した場所に来ていた。電話で誘いに応じることと、翌朝、本当にそこへ来ることは同じではない。由子は少年の姿を見つけ、その違いを一つの事実として受け取った。同時に、待ち合わせ場所にいる少年を見て自然に笑った。
「いいお天気で良かったね。それじゃ、後ろに乗って!」
走り出すと、少年と言葉を交わすことはできなくなった。由子のすぐ後ろに少年の身体がある。加速や減速のたび、その重みがシート越しに伝わってくる。それは支笏湖へ向かったときと同じだった。けれど、今日は、その近さをただ確認して終わることができなかった。
昨日の夜に誘い、少年は今朝ここへ来た。そしていま、由子の後ろに乗って積丹へ向かっている。前夜のように、少年が由子を見守り続けなければならない理由はない。電話への返事も、平岸駅への来訪も、一つずつ由子が確かめた事実として積み重ねた。少年の内側にある答えは、まだ少年のものだった。
走るうち、やがて海が視界に入ってきた。積丹へ行こうと言ったのは自分で、少年はその誘いに応じた。そしていま、二人でそこへ向かっている。それを思うと、今朝から続いていた小さな高揚が、また少しだけ強くなった。
由子は駐車場でバイクを降り、少年と女郎子岩の展望台まで歩いた。潮の匂いを含んだ風が由子の髪を揺らし、波の音が途切れずに耳に届いた。
「あそこに見える女郎子岩には、悲しい伝説があるんだ。旅立つ恋人を追いかけて、波に飲まれてしまった娘が、亡くなった後も岩に化身して沖を見つめてるって」
由子は沖を見遣った。待ち続ける恋。相手を追い、届かないまま、それでも見つめ続ける恋。
「そんな風に純粋に恋できるのって、ちょっと……うらやましい気もするけど……私はそんなに気が長くないわ。」
その言葉は、少年に聞かせるためだけに選んだものではなかった。
香月を好きになったのは、桜町由子として生きる自分だった。会えば嬉しかった。近くにいれば意識した。結婚すると知ったときには痛かった。十九歳の後輩を憎むことはできず、二人を心から祝福したいと思った。それでも、自分の恋が終わったことは悲しかった。
由子は、その感情がどこから生まれたものなのかも知っている。香月を最初の相手として選んだことも、恋を恋として受け取る仕組みを自分で作ったことも忘れてはいない。
それでも、桜町由子にとって、その恋まで偽物になるわけではなかった。
昨日、少年へ語った失恋も、その自分が実際に失った恋だった。
そしていま、岩を見ながら「私はそんなに気が長くない」と言ったのも同じ自分だった。
終わった恋をいつまでも見つめ続ける必要はない。香月が結婚したという事実は変わらない。何も告げないまま終わったことも変わらない。けれど、その先でどうするかは選べる。
次に誰かを好きになったなら、待っているだけで終わらせなくてもいい。自分から会いに行くことも、自分から言葉にすることも、自分から相手との距離を縮めることもできる。
そう考えていることも、その一方で少年との接触をどこまで進め、何を確かめるべきか判断していることも、由子には同時に分かっていた。ただ、同じ出来事につける意味が違っていた。
桜町由子としての自分は、もう終わった恋の前に立ち止まってはいなかった。
由子はもう一度、女郎子岩を見た。
待ち続ける恋を羨ましいと思う気持ちは、本物だった。
それでも、桜町由子は待つ方を選ばなかった。
* * *
昼食はウニ丼にした。
由子は箸を取り、ひと口食べた。舌に味が広がった瞬間、おいしい、と思った。
それは味を識別したというだけのことではなかった。朝から少年と一緒に走り、海を見て、二人でここまで来た。その一日の中で食べるウニ丼を、桜町由子としての自分は素直においしいと感じていた。
「ねぇ、知ってる? ここってウニ丼の元祖なんだよ。」
そう言って、もう一口食べる。
昨日まで、失恋は桜町由子の胸に重さを残していた。香月が結婚することを思えば、いまでも何も感じなくなったわけではない。それでも、今日はその痛みだけで埋まってはいなかった。
食事はおいしい。積丹まで来られたことは嬉しい。少年が向かいに座っている時間を、楽しいと思っている。
由子は、その一つ一つが自分の中に生じていることを知っていた。そして、それを任務上の反応として読み替える必要もなかった。
「ご飯がこんなにおいしいのは、きっと私が失恋のショックから立ち直ってる証拠だよね。」
その言葉は、香月を好きになり、その恋を失った桜町由子として自然に出たものだった。口にしてみると、自分でもしっくりきた。
誰かが測った回復ではない。失恋を経験した自分が、いま目の前のものをおいしいと思い、少年と過ごす時間を楽しいと思えている。その変化を、自分でそう受け取っただけだった。
香月への恋が終わっても、恋愛そのものまで終わるわけではない。
失った場所にとどまり続けなくてもいい。誰かを好きになり、もう一度始めることもできる。
そこまで考える桜町由子を、由子は否定しなかった。
むしろ、そう考えていることまで含めて、自分の中で起きていることとして知っていた。
さっき女郎子岩を見たときより、その思いは少しだけ具体的になっている。
ただし、何を、誰と始めたいのか。
そこだけは、まだ言葉になっていなかった。
* * *
日が傾くころ、二人は島武意海岸へ出た。海には屏風岩が黒い輪郭を浮かべ、水面へ落ちる光が低くなっていた。海と空の境目には、ゆっくりと夕方の色が広がっていた。
由子は少年の横顔を見た。
昨夜の電話に少年は応じた。今朝は平岸駅へ来た。由子の後ろに乗って積丹まで来た。それから一日、由子との接触を続けた。
前夜だけでは分けられなかったものは、今日の事実を重ねることで、少しずつ絞られている。
それでも、少年が由子を好きだと決めることはできない。付き合いたいと思っているかも分からない。誰かより由子を選ぶのかも分からない。そこは、今日の由子に確かめられる範囲ではなかった。
確かめるべきものは、もっと手前にある。
今日で終わらない関係を由子から差し出したとき、少年がそこから離れるかどうか。そして、由子自身が距離を縮めたとき、少年がその距離を拒むかどうか。
そこまで見れば、この一連の接触で由子が見るべきものは足りる。
由子は海へ視線を戻した。
少年には、また札幌へ来てほしかった。
その願いは、少年の反応を見るためだけに選んだものではなかった。東京へ帰ったあとも、もう一度北海道へ来て、また会えたらいい。桜町由子としての自分はそう思っていた。
けれど、その再会を何と呼びたいのかは、まだ自分でも言葉にしていなかった。
女郎子岩の前では、次に進むなら自分から動けばいいと思った。ウニ丼を食べながら、もう一度恋愛を始めることもできると思った。島武意海岸ではどうか。
由子は少年の方へ向き直った。
「ねえ、またさ……札幌に来てよ。もう一度、始めてみたいんだ。」
「……え? 何を?」
少年が聞き返した。
由子は一歩、少年との間を詰めた。
少年は身を引かなかった。
電話に応じたこと。朝、約束の場所へ来たこと。一日を由子と過ごしたこと。そしていま、由子が近づいても離れなかったこと。
そこまでが、由子に確かめられることだった。
少年の気持ちそのものを、由子が代わりに決める必要はない。
そして、少年の問いは、そのまま由子自身へ返ってきた。
何を、もう一度始めたいのか。
さっきまで、そこには名前をつけていなかった。けれど今は、答えがはっきりしていた。
由子は少年を見上げた。
「恋愛。」
由子は笑顔で少年の腕に抱きついた。
その二日後、少年は東京へ帰った。
由子は状況を終了した。