由子は久住の前に座っていた。
「状況を終了しました」
少年は由子と最後に会った二日後、東京へ帰った。久住はそれまでの報告で経過を把握していたが、少年の帰京をもって夏の案件を終えるため、最後の総括を受けるべく由子を呼び出していた。既報の経過を繰り返させるためではない。由子自身がこの任務をどう終えたのか、その判断を聞くためだった。
報告の声に迷いはなかった。久住は何も挟まず、続きを待った。
「目的は達成したと判断します」
結論だけで終わらせず、その根拠を続けた。促されるのを待つ様子もない。声の大きさも、語尾の置き方も一定で、何かを言いよどんでいるようには見えなかった。
久住はその顔を見た。そこにあるものを感情の名前に置き換えるつもりはなかった。最後の接触で本人に何が生じたかは、報告能力とは別の問題だった。今、確認できるのは、その出来事を自分の都合で膨らませず、任務の結果として整理して持ち帰っていることだった。
「これまでの電話への応答、待ち合わせへの来訪、接触の継続に加えて、最後に私から抱きつきました。離れようとはしませんでした」
一度、言葉を切る。
「ただし、交際の返答はありません。ほかの誰かより私を選ぶという意思も、交際するという意思も確認していません」
久住は黙って聞いていた。
個々の事実は、いずれもこれまでの報告の延長にある。少年は電話に応じ、約束した場所へ来て、由子との接触を続けた。最後に由子が自分から距離を詰めても、少年側から離れる行動はなかった。
そこから先を、由子は少年の気持ちとして埋めていない。
「以上から、関係は必要な段階まで形成できたと判断します。追加の接触は不要です」
由子はそこで追加の条件を求めなかった。もう一度会う必要があるとも、連絡を残す必要があるとも言わない。久住から次の指示を引き出そうとする質問もなかった。自分で関係を進めた結果を報告し、そのうえで、自分の側からはもう動かさないと結論していた。
それは感情が存在しないことの証明ではない。少なくとも久住には、そんな判断をする材料はなかった。ただ、任務の結果と自分の判断を切り分け、必要がなくなれば行動を止める。その処理が今も崩れていないことだけは、目の前の報告から確認できた。
「分かった」
由子はもう一つだけ判断を付け加えた。
「少年との交際は成立していません。次に会う予定もありません。東京と北海道で距離もあります。このまま接触がなければ、時間が経つにつれて関係は弱まる可能性が高いと考えます」
久住は頷いた。
その予測が正しいかどうかを、今ここで確かめることはできない。だが、予測の根拠は分かる。関係を続ける約束はなく、次に会う予定もなく、少年は東京へ戻る。由子はそこから先を確定した未来として語ってはいない。
久住が見るべきなのは、由子の私的な感情ではなかった。由子は自分から接触を進め、その結果を持ち帰り、確認できたことと確認できなかったことを分けている。さらに、必要な段階まで関係を作ったという自分の判断を示しながら、それ以上の接触は必要ないと結論していた。
その報告は、それだけで完結している。
口頭の総括が終わった。
「よし、その線で報告書をつくれ」
由子は小さくうなずいた。
「了解しました」
ここから先は、由子が目的を達成したと判断したこととは別に、案件を閉じられる条件がそろっているかどうかだった。
少年は既に東京へ戻っている。風祭昭一郎との既存の関係は最後まで確認されず、次に接触する予定も出ていない。夏のあいだ偶然重なった少年と風祭の線は、帰京によって離れた。由子の直接工作は終わり、総括も記録もそろった。
由子の判断だけで終了させるのではない。外から見ても、この夏に少年を動かし続ける条件はなくなっていた。
記録と連絡先は破棄しない。何かが変われば、過去の経過を確認できるように残す。だが、今は動かさない。
久住は少年に関する案件を休眠に移した。
「今日は以上だ」
「了解」
由子は短く答えた。
すぐに立ち上がることはせず、ほんの一瞬だけ久住を見ていた。それから椅子を引き、静かに立ち上がった。報告を始めたときと変わらない表情だった。
少年のことをもう一度口にすることも、これからどうするのかを尋ねることもなかった。久住から見れば、それで十分だった。何を感じているかではなく、それを抱えたまま、決められたところで自分の行動を止められる。そのことは、今日ここで確かめられた。
由子は身なりを軽く整えると、いつもの調子で久住に向き直った。
「失礼します」
久住がうなずくと、由子は扉を開けて部屋を出た。
扉が閉じたあと、廊下を遠ざかっていく足音がしばらく聞こえていた。
* * *
扉が閉じたあと、久住はもう一度、少年に残っている接触線を整理した。
少年と風祭の間には、何も出なかった。指示関係も、情報の受け渡しも、以前からの付き合いも確認されていない。少年は事情を知らない一般人のままだった。
それなら、そのまま外せばいい。
ただし、里中梢との線は残っている。
梢自身は風祭と里中財閥との関係、それらが関わっている犯罪の事情を知らない。少年との接触も自然に生じたものだ。だが、その交友の先には風祭との接点がある。少年をこちら側から再び北海道へ引き寄せれば、いったん離れた線をもう一度同じ場所へ近づけることになる。
そこで何かが起きると決まったわけではない。風祭が少年を介してこちらへ気づくとも限らない。逆に、何も起きないと保証する理由もない。
必要のない接触なら、残さない方がいい。
何も知らない一般人を、こちらの都合で案件の周囲へ戻す理由はなかった。
由子からの接触は止まった。
残るのは、もう一本だった。
久住はターニャへ電話をかけた。呼出音が切れると、予め決めてある名乗りを口にした。
「Это филиал Дальинторга в Находке.(ダリイントルグ、ナホトカ支店ですが)」
「Да, А……, Таня Липинский.(はい、ターニャ・リピンスキーです)」
返ってきた声がターニャ本人のものだと確かめ、久住は日本語に戻した。
「よし、久住だ」
「……はい」
前置きを挟まず、現在の状態だけを確かめる。
「銭函で別れてから、彼とは連絡を取ったか」
「いいえ。連絡していません」
「次に会う約束は?」
「ありません」
二つの返答で足りた。
ターニャが退院した日の接触を問題にするつもりはない。あの日の時点で、ターニャには会うなとは命じていなかった。少年に関する彼女の任務が終わったあと、自分の意思で会った。それは命令違反ではないし、後から違反に変えるつもりもない。
だが、今となっては条件が違っている。少年を案件の外へ出すと決めた以上、こちら側から接触の線を残しておく理由はなかった。
「夏の件はこれで終わりだ。これからは、お前から彼に連絡を取るな。電話も、手紙も、会いに行くことも、そのほかの方法でも同じだ」
受話器の向こうが静かになった。すぐには返事がなかった。
「なぜですか?」
短い間のあと、ターニャの声が続いた。
「前は、会うなとは言わないって……」
その言葉は正しかった。ターニャ個人に与えていた少年への任務だった。だから、その後に自然に顔を合わせることまでは禁じなかった。
だが、今は違う。
「あの時は、お前の任務を終えただけだ。今は違う。今度は少年をこちらの案件から外す。彼をこれ以上、こちらの事情に関わらせる必要はない」
久住はそれ以上説明しなかった。
梢のことも、風祭のことも、こちらの都合もターニャへ知らせる理由はない。
受話器の向こうが再び静かになった。
やがて声が返った。
「……分かりました」
久住は通話を終え、受話器を置いた。
北海道の短い夏が終わった。