再開
運河沿いの建物の屋根も、歩道の端も、白く覆われていた。人の通るところでは雪が硬く踏み固められ、その上にいくつもの靴跡が重なっている。運河工藝館では、冬の光を受けたガラスが並び、工房には夏とは違う忙しさが続いていた。
クリスマスが近づくと、作るものも増えた。ツリーに飾るオーナメント、小さな贈り物に選ばれるガラス細工。ターニャは決められた仕事を一つずつ終え、使った道具を戻し、次の品へ移った。色と形を自分で考える仕事も少しずつ任されるようになっていたが、手を止めて眺めている時間はない。作ったものは売場へ運ばれ、誰かに買われ、工藝館の外へ出て行く。
仕事が一区切りすると、ターニャは書き終えたまま送れずにいるクリスマスカードのことを思い出した。あの少年へ送るために書いたものだった。ターニャはカードを手に取った。指先に力が入ったまま、しばらく動けなかった。
夏が終わってから、一度も自分から連絡していない。久住に言われたことは覚えていた。あのときは意味も分かって返事をした。分からないまま従ったわけではない。夏からずっと、それを守ってきた。けれど、このカードを送れば、自分から破ることになる。
今なら、まだやめることができた。書いたからといって、必ず出さなければならないわけではない。今日送らなくてもいいし、このまましまっておくこともできる。送ること自体をやめることだってできた。
何度考えても、久住に言われたことが変わるわけではなかった。クリスマスだから特別だとも、カードくらいなら連絡のうちには入らないとも言われているわけではない。そう考えれば簡単になるのかもしれなかったが、自分でそう決めてしまうことはできなかった。
久住が知ったら、どうなるのだろう。
ターニャはカードへ目を落とした。指が縁をなぞりかけて、止まった。
日本に残り、必要な勉強を続け、工藝館で働くようになった。工藝館のオーナーは自分の仕事を見て雇ってくれた。先輩職人たちから教わったことも、店で働いた時間も、エンゼルに立ち寄る日々も、本当に自分が生きてきた時間だった。
けれど、久住はその暮らしと無関係な人間ではない。
以前、久住の頼みを断ったらどうなるのかと尋ねたことがある。そのとき言われたのは、今と同じ生活が続くとは約束できない、ということだった。何を失うとも、何を変えるとも言われなかった。ただ、自分の知らないところで、自分の暮らしに関わることが決められるかもしれない。そのことだけは分かった。
だから、怖かった。
今回も同じことが起きるとは限らない。カードを一枚送っただけで、何かが変わると決まっているわけでもない。けれど、何も起きないと言い切ることもできなかった。
それなら、送らない方がいい。そうすれば、少なくとも久住に言われたことを自分から破ることはない。
夏に別れたまま、自分からは何も届けない。それが一番確かなことだった。
彼が今どこで何をしているのか、ターニャには分からなかった。夏に一緒にいた時間を思い出せば、あのときの顔や声が次々によみがえってくる。それを追い始めれば、きっと決められなくなる。ターニャはそこで考えるのを止めた。カードを持ち直し、一度、ゆっくり息を吐いた。
会いたいからではない。返事がほしいからでもない。何かを始め直したいと決めたわけでもなかった。
自分が彼のことを忘れていないということを、何か形のあるものにして届けたかった。彼が受け取って、手に持つことのできるものを送りたかった。
だから、クリスマスカードを書いた。
それでも送るかどうかは、ずっと決められなかった。
ただ、何もしないままにはしたくなかった。その思いだけは、迷っても変わらなかった。
ターニャはクリスマスカードをポストに入れた。
決めるまでには長くかかったのに、決めたあとは短かった。
もう、戻れなかった。
* * *
「久住さん」
春野陽子は、少し間を置いてから続けた。
「……東京のあの子が、また来ることになったよ」
「いつですか?」
「二十八日だよ」
「いつまで?」
「二日まで。うちに泊まるよ」
それ以上は、陽子の方から何も付け加えなかった。
夏にこちらから手を引いた少年が、また北海道へ入ってくる。理由が何であれ、それだけは放っておけなかった。少なくとも、いつ、どこから入ってくるのかは押さえておく必要がある。
「飛行機ですか?」
陽子はすぐには答えなかった。
「やけに詳しく聞くじゃないか?」
「春野さん。答えてください」
しばらく黙ったあと、陽子は便と到着予定を告げた。
「誰かに会うとは言っていましたか?」
「そこまでは聞いてないよ」
「そうですか」
久住はそれ以上、陽子には尋ねなかった。あの少年が二十八日に北海道へ来ることは分かった。だが、こちらで何をするつもりなのかは、陽子も知らないらしい。
それなら、まず確かめるべき相手がいた。
夏、由子は任務の中で少年と電話番号を交換している。任務が終わってからは連絡を取っていないはずだったが、番号を知っている以上、少年の側から連絡することはできる。本人が北海道へ来る理由を考えるより、その後に何も起きていないことを確かめる方が先だった。
久住は由子へ電話をかけた。
「あのあと、例の少年から連絡はあったか?」
「ありません」
由子からも連絡していないことを確かめた。返事は短かった。
「二十八日に、その少年がまた北海道へ来る。知っていたか?」
「いいえ。知りませんでした」
由子の答えは明確だった。由子自身が今回の来道に関与しておらず、事前にも知らなかったことは確認できた。だが、それで少年の側の意図まで分かるわけではない。由子に会うつもりがあるのかどうかは、この答えからは判断できなかった。
次に久住はターニャへ電話した。呼出音のあと、決めてあるロシア語の名乗りで本人を確かめ、日本語へ戻した。いつもの手順だった。
「二十八日に、あの少年が北海道へ来る。知っていたか」
「えっ、本当ですか?」
返事ではなかった。驚きがそのまま声になっていた。
「知っていたのか? と聞いているのだが……。知らなかったな」
受話器の向こうに、短い間があった。最初に返ってきた声より、次の声は少し低かった。
「……はい、知りませんでした」
久住はそれ以上尋ねなかった。ターニャも、少年が来ることを事前には知らなかった。
由子は今回の来道に関わっていない。ターニャも、少年が来ることを事前には知らなかった。それでも、少年が二十八日に北海道へ入ることだけは確かだった。
夏の時点で、少年は事情を知らない一般人だった。だから、こちらから手を出すのはやめた。由子の任務は終わらせ、ターニャには自分から少年へ近づかないよう言い渡した。その判断を今になって変える理由はない。少年を再び何かに使う必要も、こちらから接触する必要もなかった。
夏、少年は由子やターニャと関わることになった。その少年が、理由の分からないまま再び北海道へ来る。誰に会うのかも、どこへ行くのかも分からない。少年を疑う必要はないが、今回も誰とも会わないと決めてかかるわけにはいかなかった。少なくとも、到着してからの動きだけは見ておく必要がある。
久住はもう一度、由子へ電話した。陽子から確認した到着予定を伝える。
「二十八日は新千歳空港で張れ。少年の到着を確認したら、そのまま追え」
少し言葉を切った。
「ターニャと接触した場合も、二人の行動を追え。こちらからは接触するな。誘導もするな」
「了解」