電話が鳴った。
ターニャは電話を取り、耳に当てた。聞こえてきた声が誰のものか分かった瞬間、指に力が入った。
「クリスマスカード、ありがとう。昨日届いたよ」
「……届いたんですね」
出してから三日しか経っていないのに、もっと長い時間が過ぎたような気がしていた。ポストへ入れたあとも、届くのか、読んでもらえるのか、考えないようにしていた。けれど、いま電話の向こうから届いたと聞くと、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどけた。
「うん。読んで、嬉しかった」
「……うれしいです」
言葉にしたときには、もう口元が緩んでいた。カードを送ってよかった、と考えかけて、ターニャはそこから先は考えなかった。少年が喜んでくれたことは嬉しい。それでも、久住に禁じられたことを自分から破った事実まで軽くなるわけではなかった。
「それでさ。二十八日に北海道へ行くんだ」
一拍、返事が遅れた。
三日前に聞いた言葉が、先に浮かんだ。それを押し込めるようにして、ターニャは息を呑んだ。そして、ターニャは初めて聞いたときの言葉を探した。
「えっ……本当ですか?」
自分の声が少し不自然に聞こえた。それでも、少年本人の声で聞くと胸は大きく動いた。久住から聞いたときには、まだ予定という言葉の向こうにあったことが、少年本人の声で急に近くなった。
「うん。飛行機で行くよ」
飛行機。その一言で、空港へ向かう道と、そこで少年を待つ自分の姿が、考えるより先に浮かんだ。
「……あ、……私、空港まで迎えに行きます」
口にしてから、自分が何を言ったのか分かった。
そう言ってしまうと、急に二十八日が近く感じられた。少年に会える。それが嬉しかった。夏の最後に別れてから、自分から連絡することを禁じられ、ずっと何もしないでいた。それでも彼が北海道へ来て、会いに行けるのなら、行きたかった。
通話が終わっても、ターニャはしばらく電話を置けなかった。
最初に浮かんだのは、来ることを知っていたのに、知らないふりをしたことだった。少年に言えないことが、また一つ増えた。久住から先に聞かされていたなど、説明できるはずがない。そう分かっていても、自分の声に混じったぎこちなさを思い返すと、胸が落ち着かなかった。
それでも、彼自身から聞けたことは嬉しかった。あのクリスマスカードを読んで嬉しかったと言ってくれたことも、北海道へ来ると言ってくれたことも、どちらも本物だった。そして自分は、その嬉しさのあまり、空港まで迎えに行くと言った。
そこまで考えて、ターニャはようやく電話を置いた。
クリスマスカードを送ったことを、久住にはまだ話していない。今日、彼から電話があったことも知らない。まして、自分から迎えに行くと言ったことなど、知るはずがなかった。
けれど、もう言わないわけにはいかなかった。
久住に言われたことを破ってカードを送った。そのうえ、彼と会う約束まで、自分から口にしてしまった。それを久住に黙ったまま空港へ行くことはできない。黙っていても久住にはそのうち気付かれる。何をされるか分からなかった。空港へ行くことを止められるかもしれない。少年と会えないようにされるかもしれない。自分には、それを拒む手立てがなかった。
そう考えると電話をかけることが怖かったが、彼と会わないことを選べはしなかった。ターニャはもう一度、電話を取った。
久住につながるまでの短い時間が、ひどく長く感じられた。声が聞こえると、ターニャは息を整えた。
「久住さん……話しておかなくちゃいけないことがあります」
言い出した以上、もう、途中で止めることはできなかった。
「二十二日に……クリスマスカードを出しました。今日、電話があって……カード、昨日届いたって。二十八日に北海道へ来るって。私、空港まで迎えに行くって言いました」
電話の向こうが静かになった。
「自分から連絡するなと言ったはずだ」
「……はい」
「それで、お前は会いたいと書いたのか」
「いいえ。そうは書いてません」
ターニャはそこで言葉を切った。
会いたい気持ちは確かにあった。ただ、それを「会いたい」と書くことはできなかっただけだった。
「何もしないままにはしたくなかったんです」
それ以上は言えなかった。久住から返事はなかった。怒っているのか、考えているのか、電話越しには分からない。沈黙が続くほど、会うことまで止められるような気がした。
ターニャは電話を握り直した。
「お願いがあります」
声に出すと、もう後へは戻れなかった。
「この冬だけ、会わせてください」
言葉を続けようとして、喉が詰まった。
この冬だけ。それを言ったのは自分だった。少年が東京へ帰ったら、そこで終わりにする。それなら、今回だけは会ってもいいと、自分にも言える気がした。
「帰ったら……もう会いません。彼とは、もう二度と連絡しません……。だから、お願いします……」
最後まで言うと、胸の内側が痛んだ。嘘を言ったつもりはなかった。夏から四か月あまり、自分から何もしないでいられた。今回会って、少年が東京へ帰ったら、今度こそ終わりにする。それならできる、そうすると決めればいいのだと思った。
「今回だけだな」
久住の声は変わらなかった。
「終わらせるつもりなら、会って終わらせろ」
一瞬、意味を確かめるのが遅れた。
会っていいのだ。
嬉しいはずだった。けれど、その許可は、少年との時間を続けるためのものではなかった。終わらせるために会う。
「……はい。あの……ありがとうございます。……ほんとうに……」
通話が切れたあとも、ターニャはしばらく電話を手にしていた。
頬が濡れていた。
* * *
久住は通話を終え、机の上へ視線を落とした。
ターニャがクリスマスカードを送ったことは、命令に反した行動だった。八月、久住は彼女に、少年へ自分から連絡を取るなと明確に命じている。電話も手紙も、会いに行くことも同じだった。その意味を理解したうえで、ターニャは二十二日にカードを出した。
そこは曖昧にする必要がない。しかし、その違反と少年が再び北海道に来ることは分けて考えなければならなかった。
少年が二十八日に北海道へ来る予定だという情報を、久住が陽子から得たのは二十二日だった。カードが東京へ届いたのは二十四日である。少なくとも、ターニャのカードを読んだから北海道行きを決めた、という順序ではない。つまり、今回の来道はターニャが招いたものではなかった。
問題は、そのあとだった。少年は今日、ターニャ本人へ予定を伝え、ターニャは空港まで迎えに行くと答えた。
いまからそれを撤回させることはできる。ターニャへ命じれば、それ自体は難しくない。だが、少年の側には、その理由を説明できない。
夏まで普通に会っていた相手からクリスマスカードが届き、その礼と旅行の予定を伝えた電話で、空港まで迎えに行くと言われた。それが数日もしないうちに、理由もなく取り消される。事情を知らない少年から見れば、不自然な反転だった。
少年はただの一般人である。だからこそ、不自然なことが起これば、自分なりに理由を考える。工藝館へ行って、ターニャに直接確かめようとするかもしれない。なぜ会えなくなったのかを知ろうとするかもしれない。
秘密を守るために接触を切った結果、理由を探させることになれば本末転倒だった。
選択肢は二つだった。ここで強制的に切るか、あるいは今回に限って接触を認め、管理できる範囲で会わせたうえで、その関係を終わらせるか。
久住は後者を選んだ。
ターニャがクリスマスカードを送った事実まで消えるわけではない。夏の終わりに言い渡した「自分から連絡を取るな」という命令を、彼女自身の意思で破ったことも変わらない。それでも、違反への対応と、秘密保全のために何をするべきかは同じ問題ではなかった。
それに、今回は監視を置ける。少年が北海道に来るという陽子からの報告の時点で、由子には新千歳空港から少年を追う準備を既にさせてある。こちらから接触も誘導もさせない。二人が自然に会うなら、そのまま行動を見ればいい。秘密保全や安全に関わる異常があれば、そのとき判断すればいい。
監視できるから会わせるのではない。強引に遮断するより、会わせた方が不自然さを増やさずに済む。由子に追わせておけば、その間に何が起きるかも把握できる。
同時に、由子が何を事実として見て、そこから何を推定するかを見る材料にもなる。ただし、それは今回の接触を認める理由ではなかった。
久住は由子へ電話をかけた。
「ターニャが迎えに出る。少年が東京へ帰るまで、二人の接触を認めた。予定どおり追え。介入はするな」
「了解」
それだけで通話を終えた。久住の準備は終わった。あとは、二十八日に少年が北海道へ来てからの動きを見ればいい。
三日後、少年は千歳に到着した。