到着ロビーへ人の流れが広がっていく。ターニャはその向こうを見つめたまま、何度も同じ顔を探した。自動扉が開くたびに冷たい空気が足元へ入り込み、待っている人たちの声が重なった。
やがて、人の間に見覚えのある姿を見つけた。
考えるより先に一歩、前へ出ていた。彼もこちらに気づいた。夏に別れたときと同じ面影だった。けれど、あの頃より少し逞しくなったように見えた。それでも、そこに本当にいることが不思議に思えた。
「おひさしぶりです」
声にすると、胸の奥に張りつめていたものが少しゆるんだ。
会えることは分かっていた。自分で迎えに行くと言い、久住にも許可を求めた。それでも、予定として知っていることと、目の前に彼が立っていることは違った。
空港の駅から札幌へ向かう列車に乗ると、言葉は思っていたより自然に続いた。列車が動き始め、窓の外へ雪の景色が流れていくころには、ターニャは夏からあとの仕事のことを話していた。
赤いスズランは今も順調に売れている。工藝館では以前よりデザインを任されるようになり、クリスマスが近づいてからはオーナメントやアクセサリーを作る仕事も増えた。一つ作り終えるたびに次の仕事が待っていて、それが嫌ではなかった。自分で考えた形が品物になり、誰かの手へ渡っていくことが嬉しかった。
体調も最近は良いと伝えると、彼の表情が少し和らいだように見えた。
話してみると、会わなかった時間にも自分の生活がちゃんと動いていたことが、急に近く感じられた。工房で考えた色のことも、うまく形にならなかった日のことも、売場へ並んだ品を見たときのことも、本当はもっと話せる気がした。
けれど、列車は待ってくれなかった。
「もっとお話ししたかったけど……そろそろ駅に着きますね。日本の鉄道は優秀です」
言ってから、ターニャは窓の外へ目を向けた。自分でも可笑しく思えて、口元が緩んだ。
札幌駅に着くと、人の流れが二人の間にも入り込んだ。
明日も会いたい。そう言ってしまえば簡単だった。けれど、自分は久住に、この冬だけだと言った。彼が東京へ帰ったら、もう会わないと、自分から約束した。その自分が、明日の予定まで当然のように求めることにはためらいがあった。
ターニャは少年を見た。
「またお会いできるといいですね。もしよかったら……電話して下さい」
それだけ言って、別れた。
駅を離れてからも、最後の言葉が何度も頭へ戻ってきた。この冬で終わりにするつもりなのに、自分はまた会えたらと言った。約束を破ったわけではない。今回の滞在中は会っていいと言われている。それでも、今日会えたことで満足してはいなかった。
夜になっても、そのことが気になった。
電話が来なければ、それでいい。彼には彼の都合がある。今日、空港から札幌まで一緒にいられただけでもよかった。そう考えて別のことへ意識を向けても、物音がすると顔が上がった。少し時間が過ぎると、また時計を見ていた。
自分から電話をかけることはしなかった。彼が決めることだと思った。
電話が鳴った。
手を伸ばしたとき、自分でも驚くほど早く取っていた。
彼は、明日、札幌の街を一緒に歩かないかと誘った。
「はい。行きます。……ほんとはずっと、電話、待ってたんです」
言ってしまってから、頬が熱くなった。
けれど、もう言い直そうとは思わなかった。
翌朝、札幌駅で会うことになった。電話を置いたあとも、さっきまでとは違って、時計を見る必要はなかった。
* * *
札幌駅で彼を見つけると、昨日の空港ほど緊張しなかった。約束して、もう一度会えた。その事実だけで、昨日より近いところから一日が始まったように思えた。
街には雪が積もり、歩道を行く人たちの足元で白い表面が踏み固められていた。北海道庁旧本庁舎の前まで来ると、ターニャは池の方へ目を向けた。水辺ではカルガモが何羽か、同じ方向へゆっくり進んでいた。
カルガモには国境がない。そんな当たり前のことを、ターニャはそのとき、妙にはっきりと意識した。
ロシアに生まれたこと、日本にいること、外国人であること。以前は、それぞれが自分のまわりに線を引いているように感じていた。けれど、目の前の鳥を見ていると、その線が初めから世界に刻まれていたものではないように思えた。
「私は今まで、気にしすぎていたのかもしれません。……国境のこととか、肌の色のこととか……。そうですよね。国境だって昔の人たちが決めた、単なる約束事に過ぎませんよね」
口に出すと、自分の言葉が少しずつ自分の中へ戻ってきた。
どこで生まれたかは変えられない。日本で暮らしてきた時間も変わらない。そのどちらかだけを本当の自分にしなくてもいいのかもしれなかった。
アッサムという喫茶店へ入ったころには、話題はもっと近いところへ移っていた。エンゼルのマスターのこと、父が言っていた「オープン・ユア・ハート」という言葉のこと。自分のことを隠さずに話すのは、今でも簡単ではない。それでも彼は、昨日も今日も、自分の話を聞いていた。そんな彼はターニャのことをもっと知りたいと言った。
ターニャはカップから顔を上げた。
「はい!……私も、あなたのこと、もっとたくさん知りたいです」
昨日は、もっと話したかった。今日は、それだけではなかった。彼が何を考え、何を見て、何を好きなのかを、自分も知りたいと思っていた。
北海道の冬は長いけれど、春になれば花は一度に咲く。その話をしている自分が、以前より長い時間の先を考えていることに気づいた。
ママ・サブロッソというイタリア料理店では、料理にも土地の気候や人の暮らしが表れるという話になった。そこから日本語のことへ話が移った。日本語を覚えたから、今こうして彼と話せる。エンゼルでも工藝館でも、言葉が通じるようになるまでには時間がかかったが、その時間を自分は途中で捨てなかった。
逃げてばかりだったと思っていた自分にも、逃げないで越えてきたものがある。そのことを、以前より素直に認められた。
夕方、二人は札幌市時計台を見上げた。百年を越えて時を刻み続ける建物を眺めているうちに、ターニャはふと、自分の作るガラスのことを思った。作り手の手を離れたあとも、誰かの暮らしの中で大切にされ、長い時間を生きていく作品。そんなものを、いつか自分も作れたらと思う。
「私の作品……私が死んだ後も、こんな風に残っているといいですね」
彼はすぐに首を振った。死んだ後のことなんて考えちゃダメだ、と言った。
ターニャは一瞬きょとんとして、それから、ようやく彼が何を気にしたのかに気づいた。
「ただ、限られた私の寿命よりも、もっと長く愛される、そんな作品を作りたいって、そう思っただけなんです」
そう言って、もう一度時計台を見上げた。
作りたいものがある。そのためには、まだ覚えたいことがたくさんあった。
夜、彼から電話が来た。明日は函館へ行こうという誘いだった。ターニャは応じ、朝、札幌駅で会うことになった。
電話を置いてからも、なかなか眠れなかった。国境のこと、父の言葉、自分の仕事のことが、順番を変えながら何度も浮かんだ。どれか一つを考えると、別の一つにつながった。
答えはまだなかった。ただ、今まで別々だと思っていたものが、少しずつ同じ場所へ集まり始めていた。
* * *
翌朝、札幌駅へ向かったとき、眠った時間が短かったことを身体が教えていた。それでも彼の姿を見つけると、足取りは自然に速くなった。
函館で過ごす時間は、札幌とは違う空気を持っていた。朝市を見て午前を過ごしたあと、ロシア料理店のカチューシャへ入ると、ターニャは湯気の上がる紅茶を前に、しばらくカップを見つめた。
ロシアで母が淹れてくれた紅茶を思い出した。続いて浮かんだのは、エンゼルで飲んだ紅茶だった。来日したばかりで言葉も十分に分からなかった自分へ、マスターが辞書を使いながら話しかけてくれたことも一緒に浮かんだ。
二つの紅茶は同じ味ではなかった。けれど、どちらか一方だけが本当の自分の居場所を示しているとも思えなかった。
母のいるロシアを思い出すことと、エンゼルを懐かしく思うことは、どちらかを選ぶようなものではなかった。
店を出て港町を歩くと、古い建物と海の気配が近くにあった。ターニャは足を止め、周囲を見た。
「古い港街ですね。小樽の街に、少し似ています。私の育ったナホトカの街も……同じ匂いがしました」
言葉にした瞬間、小樽とナホトカが、自分の中で初めて遠く離れた二つの場所ではなくなった。
少し先にグラススタジオを見つけると、ターニャは立ち止まった。中を見たいと彼に伝え、二人で入った。
並んでいる作品を見ると、さっきまでの考えは一度遠のいた。色、厚み、形、光の通り方。職人として見るべきものが次々に目へ入ってきた。その中の一つの花瓶の前で、ターニャは足を止めた。
「素敵な作品がたくさんありますね。特にこの花瓶……素晴らしいです。すごく繊細で……それでいて力強さを持った花瓶……私もいつか……こんな作品を作りたいです。でも……あと何年かかるでしょうね……」
口にしたあとも、その花瓶からすぐには目を離せなかった。
何年かかるのかは分からない。それでも、作りたいものがある。そのことは、今の自分の仕事がまだ途中にあるということでもあった。
工房へ戻り、またガラスに触れ、次の作品を作る自分の姿は簡単に想像できた。
ほかの作品にも目を移しながら、ターニャは少年と並んでスタジオの中を歩いた。昨日も、その前の日も、一緒に過ごした。会えなかった時間の方がずっと長かったはずなのに、今は彼がすぐそばにいることが自然に感じられた。
「あなたといると、暖かい気持ちになります。……ずっと昔に……感じていた気持ち……今ではもう……忘れかけていた気持ち……」
言ってから、胸の内側が少し騒がしくなった。
昔という言葉の向こうに、父や母と一緒にいたころの時間が浮かんだ。それとは違うはずなのに、どこか同じように、自分が一人ではないと思える暖かさだった。
ふと窓の外へ目をやると、冬の短い日はもう傾き、外の明るさが薄れ始めていた。
「そろそろ……日が暮れてきましたね……。函館山の夜景……見に行きませんか?」
* * *
山の上へ着いたころには、街の灯りがすっかり夜の中へ浮かんでいた。
ターニャはしばらく何も言えなかった。
眼下の街は、一つ一つの建物より先に光の広がりとして見えた。道路をたどる明かりも、湾の近くに集まる光も、離れて見ると大きな一つの景色になっていた。昼間、その中を歩いていたときには見えなかった形だった。
冷たい風が頬に当たった。ターニャは首元を少し押さえ、それでも目をそらさなかった。
「……こんな綺麗な夜景……。私、初めて見ました……。これが函館の夜景なんですね。離れてから、初めて見えてくるものってあるんですね。この夜景の美しさも……祖国の思い出も……父と母の思いやりも……」
言葉が終わると、風の音だけが近くなった。
ナホトカから離れたからこそ、思い出せることがあった。父のことだけではない。母が自分へしてくれたことも、以前は思い出そうとしなかった。母のすべてを理解したわけではない。あの日のことがなくなったわけでもない。それでも、遠くから見れば、自分を思ってくれていた時間までなかったことにはできなかった。
今日、紅茶を飲んだときに浮かんだ母の手と、エンゼルのマスターの顔は、どちらも消えなかった。
ターニャは一度息を吸った。
「……私、いつかロシアに戻ろうと思います。両親に会って、きちんと事情を話して……それでもう一度、日本に帰ってきます」
言い切ると、不思議なくらい静かだった。
ロシアへ戻る。それは、日本で作ったものを捨てることではなかった。両親に会うことも、工藝館へ帰ることも、同じ自分がすることだった。
彼は何も遮らずに聞いていた。
「いつまでも過去を引きずっていたら、未来は切り開いてはいけませんから……」
未来という言葉を自分で口にした。そこにはまだ、いつ帰るのかも、どうしたら帰るのかもなかった。両親が何と言うのかも分からない。それでも、自分から会いに行き、自分の言葉で話したいと思った。
視線をもう一度、街の光へ向けた。離れなければ見えなかったものがある。その考えが、今度は別の方向へ動いた。
「離れてから、初めて見えてくるもの……。もう一つは、私の心でした」
指先に少し力が入った。夏に別れてから、会えない時間の方が長かった。それでも、思い出さないようにすることはできなかった。昨日、札幌駅で言えなかったことも、夜の電話を待っていたことも、今なら同じところにつながっていると分かった。
ターニャは少年の方を見た。
「……会いたくて……でも会えなくて……苦しくて……切ない気持ち……」
彼の顔を見たまま、今度は目をそらさなかった。
昨日まで言葉にならなかったものが、ようやく一つの形を持った。
ターニャは小さく息を吸った。
「…………………………私は……あなたが好きです」