耳に当てた携帯電話から、彼の声が聞こえていた。
「結論はすぐに出さなくていいよ。今晩11時半にテレビ塔の前にいるから……よかったら、来て欲しいんだ。」
ターニャはすぐに返事ができなかった。携帯電話を握る指に力が入り、いったん息を吸ってから、ようやく声を出した。
「……わかりました。私に……考える時間を下さい。」
電話が切れた。
部屋が急に静かになったように感じた。さっきまで耳のすぐそばにあった声はもう聞こえない。ターニャは携帯電話を手にしたまま、しばらく動かなかった。
午後十一時半にテレビ塔の前。
考える時間は十分にあるはずだった。
行きたいという気持ちだけなら、考える必要などなかった。三日前に空港で会ってから、札幌を歩き、函館まで行った。会えばもっと話したいと思い、別れれば次に会える時間を待ったのだから、今夜も、彼が待っているのならそこへ行きたかった。
けれど、その気持ちだけで決めることはできなかった。
時間が過ぎても、行きたいという思いは消えなかった。それなのに、行くと決めることもできないまま、朝にはまだ遠く感じられた午後十一時半が少しずつ近づき、気がつけば窓の外はもう暗くなっていた。
ターニャは時計を見た。いつまでも考えてはいられないところまで来ていた。
立ち上がって上着を手に取り、薬も持った。寒い夜に外へ出るのなら必要なものを揃えていくうちに、自分がもう出かけるつもりでいることに気づいた。
そのまま玄関まで進み、手を伸ばせば外へ出られるところまで来たところで、足が止まった。
この冬だけ。
そう言ったのは自分だった。この冬だけ会わせてほしい。彼が帰ったら、もう会わない。もう連絡もしない。そう自分から言って、久住に会うことを認めてもらった。
今夜も会うこと自体は、その中に入っている。だから、出かけることだけなら約束を破ることにはならない。
それでも、ターニャは扉を開けられなかった。
昨日、自分の気持ちはもう隠さなかった。彼がこれからも自分を好きでいてくれたらいい。そう思っている。その思いだけを受け取って、今夜は彼が待つ場所へ行き、年が変わったら何もなかったように電話に出ず、手紙にも答えない。
そんなことをすれば、彼を裏切ることになる。
ターニャは玄関から離れ、上着を置いて部屋へ戻った。
行かなければいい。そうすれば、自分から言ったことを守れる。今夜の誘いに応じなければ、その先を考えなくても済む。
けれど、そう考えた途端、胸の奥に鈍い重さが広がった。
会いたいと思っているのに、会いに行かない。彼が待っていると知っているのに、そのまま待たせる。それは、もう彼に会いたくないからではない。ただ、自分で久住に言った「この冬だけ」という言葉を守るためだった。
ターニャは時計を見た。
時間は少しずつ進んでいた。考えているあいだにも、午後十一時半は近づいてくる。決めないままでいることは、いつまでも何も選ばずにいることではなかった。このまま時間が過ぎれば、行かないという結果だけが先に決まってしまう。
久住に電話をすることは考えなかった。
今夜、彼に会っていいかどうかをもう一度聞く必要はない。それは認められている。問題は、明日からも彼に会うのか、それとも自分から彼の前を去るのかだった。誰かに答えを決めてもらうことではなかった。
ターニャはもう一度、上着へ手を伸ばした。
今度は玄関で止まらなかった。
外の冷たい空気に触れたとき、身体が少し強張った。ターニャは息を整え、そのまま歩き出した。
外へ出てからは、足を止めなかった。どこをどう歩いたかを一つずつ意識するより、前へ進むことだけで精一杯だった。気がつけば札幌行きの列車に乗っていた。
列車が動き出した。
窓の向こうで小樽の灯りがゆっくり後ろへ流れていった。見慣れた街はすぐには消えず、建物の明かりが途切れるたび、暗い窓に自分の顔が映った。
寮にいたときなら、玄関で引き返すこともできた。けれど、列車は札幌へ向かって進んでいる。
ターニャは座ったまま、流れていく窓の外を見ていた。
怖くないわけではなかった。
この冬だけと言ったことを、自分で変えようとしている。その先に何があるのかは分からない。久住がどう出るのかも分からない。それでも今は、そのことを先に決めようとは思わなかった。
彼のところへ行く。
まず、それを自分で選んだ。
札幌に着くと、ターニャは地下鉄へ乗り換えた。駅の中には年越し前らしい人出があったが、足を止めるほどではなかった。ターニャは足早にホームへ向かった。
地下鉄に乗ると、ほどなく大通駅に着いた。
大通駅で降りると、ホームにも年越し前の人の流れがあった。ターニャはその中を足早に進み、改札を抜けて地上へ向かった。
階段を上りきると、冷たい空気が頬に触れた。
白い息を吐きながら、ターニャは約束の場所へ急いだ。
* * *
テレビ塔前へ着いたのは、午後十一時五十五分ごろだった。
イルミネーションの光の下に、大勢の人が集まっていた。話し声が重なり、どこかで笑い声が上がる。年が変わる瞬間を待つ人たちの熱気の中で、吐く息だけが白かった。
ターニャは人の向こうへ目を凝らした。
十一時半にここにいると言った、その場所に彼の姿があった。
見つけた途端、足が速くなった。
彼の前まで来たときには呼吸が少し弾み、白い息が続けてこぼれた。
ターニャは一度だけ息を整えようとした。それでも胸の高鳴りまでは収まらないまま、彼を見上げた。
「……こんばんは。」
彼がターニャを見た。
「……ターニャ……。」
名前を呼ばれただけで、ここまで来たことが急に現実になった。
十一時半に待っていると言った彼の前に、自分は本当に立っている。寮の玄関で足を止めたときには、まだ二つの間で揺れていたはずなのに、今はもう、あのときと同じようには考えられなかった。
来てよかった、と最初に思った。昨日、自分の気持ちを伝えた相手が、約束した場所で待っていてくれた。その人に会いたくて、朝から何度も迷いながら、それでも自分でここまで来た。
周囲では人の声が重なり、イルミネーションの光が彼の横顔を照らしていた。ターニャはその顔を見ながら、明日から何もなかったように彼の前から消えることは、もうできないと思った。この冬だけでは終われない。
昨日、函館山で口にした「いつか」という言葉が浮かんだ。明日も、その先も、この人と一緒にいたいと願うのなら、自分の過去だけを「いつか」の向こうへ置いたままにはできない。
母は今もナホトカにいる。セルゲイもいる。何も知らせないまま日本で生きてきた時間は、どれだけ先へ進んでも消えるものではない。帰って、自分の言葉で向き合わなければならない。
ターニャは白い息を吐き、もう一度彼を見た。ナホトカへ帰ることも、いつかのままにはできない。
会場のざわめきが大きくなり、頭上から明るい声が響いた。
「さあ! いよいよ今年最後の大イベント! イルミネーション・カウントダウンが始まります。みなさん! 準備はいいですか?」
人々の視線が前方へ集まっていく。
「画面正面にあるディスプレイにご注目下さい。」
ターニャも彼のそばで顔を上げた。
周囲から数える声が重なった。
「10! 9! 8! 7! 6! 5! 4! 3! 2! 1!」
次の瞬間、二人の間にあった距離がなくなった。
ターニャは彼と抱き合った。上着越しに伝わる温度の中で、腕の中にいる彼のことが何より近く感じられた。
「ハッピー・ニューイヤー!」