久住と向かい合ってから、ターニャは何度か息を整えた。自分から会いたいと伝えたのに、いざ顔を見ると、胸の奥に固いものが戻ってくる。年が変わる前、自分は久住にこの冬だけだと言った。その約束を守るつもりでいたのに、もう同じようには考えられなかった。
少年に会った。自分の気持ちも伝えた。年が変わる瞬間には、あの人の腕の中にいた。次の日になったからといって、何もなかったように別れ、その先は二度と会わないなど、自分にはできない。母のことも、いつか帰ると言ったまま先へ延ばしたくなかった。
そのことを久住に話すために来た。面会を求めてからも何度も考えた。話し終えたあと、自分がいつものように寮へ帰れるのか。少年にもう一度会えるのか。答えは出なかった。それでも、ここまで来た。もう、引き返すつもりはなかった。
先に口を開いたのは久住だった。
「あの少年とはどうなった?」
やはり、そのことだった。ターニャは久住の顔をまっすぐ見た。
「どうせ、見ていたんじゃないんですか?」
今までなら、ここで自分があの人に何を話し、あの人が何を話したのかを順に答えていた。いつ会ったのか、どこへ行ったのか、何を話したのか。それが当たり前になっていた。
けれど、今日は、そんなことのために来たのではなかった。
「私は見ていない」
短い返事だった。久住は顔色ひとつ変えなかった。
「……そうですか。でも、もういいです。あなたの言うことは聞きません」
言葉にした瞬間、口の中が乾いた。一度言えば、冗談にはできない。それでも、ターニャは久住から目をそらさなかった。
「それで、どうすると言うのだ?」
ターニャは息を吸った。
「あの人とナホトカに帰ります」
「そんなことができると思うか?」
久住の声はいつもと変わらなかったが、その一言で、これまで何度も感じてきたものが胸へ戻ってきた。自分が何かを望んでも、最後には久住の返事を待つ。断られれば、それで終わる。工藝館で働くようになってからも、あの人へ自分から連絡するなと言われたときも、そうだった。
けれど、今日はそこで引き下がるために来たのではない。
「あなたに何をされてきたのか、あなたたちのことを話します」
久住は僅かに目を細めたが、ターニャを見たまま動かなかった。
「そんなことをすれば、あのときお前が何をしたかも表に出るぞ」
何のことを言っているのかは分かった。
胸の奥が重くなった。あのとき自分がしたことを、なかったことにできるとは思っていない。それでも、それを人に知られることを考えると、今でも顔を上げていられなくなるような気持ちになる。
それだけではなかった。もし、すべてが表に出れば、今までどおり日本にいられるのかも分からない。工藝館でガラスの仕事を続けることも、あの寮へ帰ることも、できなくなるかもしれない。
失いたくないものは、もうたくさんあった。
それでも、それを守るために久住の言うとおりにし続けるのなら、結局は今までと同じだった。
「構いません」
ターニャはそう言い切った。声に出すと、胸の奥が強く鳴った。久住は何も言わなかった。
「もう、準備してあります」
「何をだ」
「メールに全て書きました。私が止めなければ、送られるようにしてあります」
言い終わってから、指先が冷たくなっていることに気づいた。
メールを書き終えた夜も、これで大丈夫だとは一度も思えなかった。久住が本気になれば、きっと自分よりずっと多くのことができる。ここから帰さないことだってできるだろうし、メールが送信されるまえに止める方法もあるのかもしれない。すべてが表に出れば、あの人まで巻き込むことになるかもしれない。
あの人の顔が浮かんだ。
あの人にまで迷惑をかけたいわけではなかった。まして、自分の代わりに危ない目に遭わせたいわけでもない。
それでも、何もせずに久住の前へ来るわけにはいかなかった。
自分一人で「帰りたい」と言ったところで、できないと言われれば、それまでだろう。今までは何を言っても従うしかなかった。
だから、今回は久住に言い返すだけではなく、こちらにもできることを一つだけ用意した。
それが自分を守ってくれるとは思っていない。ただ、今までのように、久住の一言だけで自分が従うしかなくなることはないはずだった。
「誰に送るんだ?」
「……新聞社とか、テレビ局とか、いろんなところです。全部に信じてもらえなくても、誰かは信じてくれると思いますよ。試してみますか?」
久住はそれ以上、尋ねなかった。
ターニャは返事を待った。何を考えているのか分からない久住の顔を見ていると、さっきより息が浅くなった。
しばらくして、久住が口を開いた。
「……要求を聞こう。ナホトカへ帰りたいのだな」
「母に会って自分で話したいんです」
母の顔を思い浮かべると、それだけで胸の奥が少し苦しくなった。今、会わなければならない。会って、ちゃんと話さなければならない。あの人のことも。
「日本には戻ります。今の生活も続けたいです」
工藝館でガラスに触れる時間も、自分で考えたものが形になって売場へ並ぶことも、仕事を終えて寮へ戻る道も、エンゼルで過ごした時間も、自分がここで生きてきた時間だった。母に会いに帰るために、それを捨てたいわけではない。
ターニャは一度だけ息を吸った。
「もう、私を自由にしてください」
久住は答えなかった。さっきまでターニャを見ていた視線が、ゆっくり外れた。そのまま何も言わない時間が続いた。
ターニャは息を詰めたまま待った。言うべきことはもうなかった。口を開けば、さっきまでの言葉まで弱くなってしまうような気がした。
長く感じた沈黙のあと、久住の視線が戻ってきた。
「……Понятно. Хорошо. Я разрешаю тебе съездить домой.(わかった。いいだろう。帰郷は認める)」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。久住の返事が胸へ落ちてくるまで、少し時間がかかった。ターニャはそのまま待った。まだ何か続くと思っていた。けれど、久住は何も言わなかった。
肩に入っていた力が、ほんの少し抜けた。
「……ありがとうございます」
雪解けのころ、ターニャは少年とともにナホトカへ旅立った。