列車の窓の向こうを、見慣れた屋根と雪の残る道が後ろへ流れていった。小樽を出てから、ターニャは何度も窓の外を見ていた。道路脇には除雪された雪がまだ白く固まり、屋根の軒先から落ちる雫が、ところどころに春の気配を作っている。やがて家並みの向こうに海が見えた。曇った朝の光の下で、水面だけが鈍く明るかった。
海はいつの間にか見えなくなった。札幌へ近づくにつれて建物は増え、線路の両側を埋めるように街が続いた。それもやがて遠ざかると、窓の外にはまた木立が続き、そのあいだに残雪が見えた。
膝の前には旅行鞄があった。大きすぎない鞄なのに、今日はいつもより重く感じる。着替えや身の回りのものを入れ、取り出しやすいところには薬を入れてある。発作のときの薬がそこにあることを指先で確かめてから、ターニャはファスナーから手を離した。
急がない。疲れたら休む。水分も忘れない。
そういうことは、旅に出るから急に始めるものではなかった。いつものようにしていればいい。そう思って水を一口飲むと、車内の暖かさで少し乾いていた喉が楽になった。窓の外では、見覚えのある景色が一つずつ遠ざかっていた。
新千歳空港へ着いてからは、時間が細かく区切られていった。搭乗口と出発時刻を確かめ、椅子に座って待つ。朝から動き続けているのに、待っている時間の方が長いようにも感じた。
新潟までの機内では、窓の外を眺めていた時間より眠っていた時間の方が長かった。目を覚ますと、窓の下にはもう海しか見えなかった。
新潟空港へ着き、荷物を受け取ってから、ターニャは人の流れの向こうを探した。すぐには見つからなかった。旅行鞄を引く人、迎えに来た人、立ち止まって表示を見る人。その間を目で追っていると、少し離れたところでこちらへ手を上げる姿があった。
ターニャの足が速くなった。
「お待たせしました」
「僕もさっき着いたところ。ここまで疲れなかった?」
「はい。少し眠りました」
彼のそばまで来たところで、ターニャはようやく息をついた。朝からずっと自分一人で持っていた鞄が、彼の旅行鞄と並んでいる。それだけで、さっきまでとは空港の見え方が少し変わった。
「荷物、持とうか?」
「大丈夫です。そんなに重くありません」
答えてから、ターニャは少し笑った。
「でも、ありがとうございます」
彼も笑った。それから二人で搭乗の案内を確かめた。十五時四十分の出発時刻までは十分に時間がある。
二人で搭乗手続きを済ませ、預ける荷物を渡した。
「何か食べませんか?」
「そうしよう。朝からちゃんと食べた?」
「もちろん、ちゃんと食べましたよ」
「それならよかった」
「もう、子供じゃありませんよ」
言い返すと、彼は困ったように笑った。その顔を見て、ターニャも可笑しくなった。
空港の中で軽い食事をしても、まだ時間には余裕があった。二人で出発便の案内を確かめ、それから保安検査へ向かった。
日本を出る手続は、思っていたより静かに進んだ。列に並び、順番が来れば前へ進む。パスポートを出し、返されれば受け取る。鞄を持ち直して、また彼の隣へ戻る。
出国審査を終えると、あとは搭乗を待つだけだった。二人でベンチに座り、手荷物を足元に置いて、明日の移動について短く話した。話が途切れれば、周囲の人を眺めた。彼が飲み物を買いに立てば、ターニャは二人分の荷物のそばで待った。
戻ってきた彼から紙コップを受け取り、ターニャはパスポートを鞄へしまう前に一度だけ開いた。そこにある自分の姓を見た。Липинский。見慣れた文字だった。指で触れることはせず、そのままパスポートを閉じた。
「どうしたの?」
「いいえ。何でもありません」
ターニャはパスポートをしまい、代わりに搭乗券を持った。
そんなふうに過ごしているうちに、搭乗の案内が始まった。
飛行機が滑走路を離れると、新潟の地面が窓の下へ遠ざかった。雲の切れ間から見えていた海も、しばらくすると白い雲に隠れた。
隣には彼がいた。ターニャは何か話そうとして、やめた。彼も窓の方を見ていた。エンジンの音が続く中で、言葉がなくても気まずくはなかった。
しばらくして、彼が小さな声で言った。
「緊張してる?」
ターニャは少し考えた。
「……少しだけ」
「そっか」
「でも、あなたがいるから大丈夫です」
言ってから、急に恥ずかしくなった。窓へ顔を向けると、雲の上は明るかった。
彼は何もからかわなかった。
そのことが余計に恥ずかしくて、ターニャはしばらく窓の外を見続けた。
到着が近づくにつれ、客室の空気がまた少し忙しくなった。座席を戻す音がし、荷物を確かめる人が増える。ターニャも鞄の位置を確かめ、ベルトを締め直した。
機体が地面へ降り、空港の建物が窓の外を流れた。ウラジオストクのクネヴィッチ空港に着いた。機内から出ると、周囲から聞こえる言葉が変わった。
前を歩く男が連れに何か言った。後ろでは子供を呼ぶ女の声がした。係員の案内も、そのまま意味が耳に入ってくる。壁に並ぶ文字も、目を向ければすぐに読めた。
ターニャは歩く速度を少し落とし、彼が隣まで来るのを待ってから進む方を指した。
「こっちです」
「うん」
人の流れに従って進むと、審査の列が分かれた。ターニャがロシア国民の列へ入ると、彼は別の列へ進んだ。
「向こうで待っています」
「わかった」
ほんの少し前まで隣にいたのに、間へ柵と人の列が入った。ターニャは何度か振り返りそうになりながら、自分の順番を待った。
係員へパスポートを渡す。ページをめくる音がした。短い確認を一つ受け、ターニャはロシア語で答えた。
パスポートが戻ってきた。受け取って先へ進むと、今度は彼を待つ側になった。
人が一人ずつ出てくる。旅行鞄を持つ人、上着を直す人、迎えを探す人。その中に彼の姿が見えたとき、ターニャは思わず手を上げた。
彼もこちらを見つけ、歩く方向を変えた。
「早かったね」
「はい。ずっと待っていました」
「そんなに待たせた?」
「少しだけです」
ターニャは笑って、彼の横へ並んだ。
空港を出たあと、市内へ向かうあいだも、周囲の会話はずっとロシア語だった。何かを確かめるときはターニャが先に聞き、返ってきた言葉を必要なところだけ彼へ伝えた。彼はそのたびに頷き、自分の荷物は自分で持ったまま歩いた。
ウラジオストクの市内に着くころには、朝から続いた移動の疲れが肩へ重く乗っていた。遅い食事を済ませると、もう外を歩き回る気にはならなかった。
予約してあったホテルのフロントで、ターニャはチェックインを済ませた。フロントから渡された鍵は一つだった。
彼がそれを見て、一拍遅れてターニャを見た。
「部屋、一つなの?」
「はい。ツインルームですから、ベッドは別々ですよ」
「……そういうことじゃないんだけどな……」
彼は少し困ったように笑った。
その顔を見ているうちに、今度はターニャの方が急に意識してしまった。予約したときには、二人で泊まるならツインでいいと、それだけしか考えていなかった。
部屋に入って実際に二つのベッドを目の前にすると、さっきフロントで交わした会話まで思い出して、急に落ち着かなくなった。
彼は先に荷物を自分のベッドのそばへ置いた。ターニャも反対側へ鞄を運び、上着を脱いだ。何か話した方がいい気がしたが、うまく言葉が出てこない。
「疲れた?」
「少し。でも、大丈夫です」
「先にシャワー使う?」
ターニャは一瞬、彼を見た。
「……いえ」
返事が少し大きくなった。
「あなたが先に使ってください」
「僕が?」
「はい。その方が……いいです」
「どうして?」
訊かれて、困った。理由を言わなければならないほどのことではないと思っていたのに、黙っていると余計に変に思われそうだった。ターニャは目をそらした。
「だって、同じ部屋ですから。私が先に入って、そのあとあなたが待っていると思うと……少し恥ずかしいんです」
言い終わるころには、顔が熱くなっていた。
「……あ、うん、そうだね。じゃあ、先に使わせてもらうよ」
「お願いします」
浴室の扉が閉まると、ターニャはようやく息を吐いた。
自分の鞄を開き、明日の支度を少しだけ整えた。そうしているうちに、さっきの会話を思い出して手が止まった。
同じ部屋に泊まると分かっていたのに、シャワーの順番だけでこんなに慌てるのは変かもしれない。それでも、恥ずかしいものは恥ずかしかった。
やがて彼が戻り、今度はターニャが浴室へ入った。長くは入らず、身体を温めてから髪を乾かした。
部屋へ戻ると、灯りはついたままだった。彼は自分のベッドで眠っていた。ターニャは入口の近くで立ち止まり、それから小さく笑った。起こしてしまわないように静かに歩き、自分のベッドへ腰を下ろす。
朝から北海道を離れ、新潟で会い、同じ飛行機に乗り、国境を越えた。いろいろ話すつもりだったのに、彼はもう眠っている。
ターニャは横になり、掛け布団を胸まで引き上げた。二つあるベッドの向こうから、規則正しい寝息が聞こえた。目を閉じるまで、その音はずっと近くにあった。
* * *
目を覚ましたとき、部屋の中はまだ静かだった。カーテンの隙間から曇った朝の光が差し込んでいた。ターニャはしばらく天井を見てから、隣のベッドへ目を向けた。
彼はまだ眠っている。昨夜と同じだった。ただ、部屋の中が明るくなり、床に置いた二人分の鞄がよく見えるようになっていた。
ターニャは音を立てないように起きた。長く移動したあとの重さは少し残っていたが、よく眠ったせいか身体は楽だった。
顔を洗って戻ると、彼が目を開けていた。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
「そうでもないですよ。あなたがまだ寝ていただけです」
「昨日、気づいたら寝てた」
「知っています。シャワーを浴びて戻ってきたら、もう寝ていましたから」
「ごめん」
「どうして謝るんですか?」
ターニャは笑った。
「私も、そのあとすぐ寝ましたよ」
荷物をまとめ、忘れ物がないか確かめる。彼が上着を着るあいだに、ターニャも鞄の口を閉めた。二人で部屋を出た。
ホテルを出ると、空は低い雲に覆われていた。道路は濡れているところが多く、歩道の端や建物の影には崩れた雪が残っていた。白いところより、黒い舗装や茶色い土の方が目につく。風景の色は北海道と似ているのに、聞こえてくる言葉も、店先の文字も違っていた。
ナホトカへ向かう長距離バスの乗り場へ向かうあいだ、ターニャは必要な方向をそのつど確かめた。ロシア語で尋ねれば返事が返ってくる。その内容を彼へ伝えると、彼は頷いてついてきた。
六年近く離れていたし、ウラジオストクで暮らしたこともない。分からないところでは人に尋ね、返事を確かめてから進んだ。彼が少し遅れてくると、ターニャは先の扉のところで立ち止まって待った。
バスへ乗ると、ターニャは窓側へ座った。彼は鞄を収めると、通路側の席へ腰を下ろした。
「窓側でよかった?」
「はい。ありがとうございます」
「やっぱり景色、見たい?」
ターニャは窓の外を見た。
「……見たいです」
それ以上は言わなかった。
バスが動き出すと、ウラジオストクの市街が少しずつ後ろへ流れていった。建物が途切れ、道路が広くなり、郊外へ出る。濡れた舗装の脇には黒く