バスを降りてしばらく歩くと、さっきまで窓越しに見ていた街が、今度は自分の足の下にあった。
帰ることは、母にも知らせていなかった。知らせれば帰れなくなるような気がして、最後まで電話をかけられなかった。
濡れた道路の端には崩れた雪が残り、風は海の方から冷たく吹いていた。斜面へ続く道の幅も、建物の間からのぞく空も、記憶の中より小さく感じるのに、知らない場所には見えなかった。
ターニャは立ち止まり、少し遅れて隣へ来た彼を見た。
「ここがナホトカ……私の生まれた街です。」
「いい街だね。」
「ありがとうございます。こうしてまた……ここに戻って来るなんて、私、思ってもいませんでした。」
「不思議だね。こうして二人で歩いてるなんて……僕も考えてもいなかったよ。」
ターニャは小さく笑った。笑ったあとで、胸の奥がまた落ち着かなくなった。
このまま道を進めば、父がいた家へ着く。母がいる。セルゲイもいる。
彼は何も急かさなかった。ターニャが歩き出すと、その隣を同じ速さで歩いた。
見覚えのある道が増えるにつれて、足はかえって重くなった。ここを曲がったことがある。あのあたりから走って帰ったことがある。景色が目に入るたび、そんな断片が浮かんだ。あのころの自分はもっと背が低く、歩幅も小さかったはずなのに、家へ近づく道だけは身体の方が覚えているようだった。
やがて、もう間違えようのないところまで来た。
ターニャは足を止めた。
家はそこにあった。
息を一度吸った。彼が少し後ろで止まる気配がした。
声をかけるより先に、玄関の扉が開き聞き覚えのある声がした。
「……ターニャ! ……ターニャ!!」
顔を上げると、母がいた。
「……お母さん……」
呼びかけるだけで喉が狭くなった。母はターニャの顔を見つめたまま、すぐそばまで歩み寄った。
「身体は大丈夫? お金には困ってない? ……ずっと……心配だったんだよ……」
返事をしようとしたのに、声が出なかった。
母の向こう、部屋の奥にセルゲイがいた。
テーブルの前の椅子に座り、こちらへ背を向けたままだった。ターニャが帰ってきたというのに、振り向こうともしない。
「バカ娘が! ……心配かけやがって……紅茶を飲んだら帰れ! いいな?」
強い声だけが、背中越しに飛んできた。
ターニャは母のそばから、その背中を見つめた。セルゲイは顔を上げなかった。横顔さえほとんど見えない。
叱る声も、帰れという言葉も昔と同じように強かった。それなのに、セルゲイはターニャの方を見ようとはしなかった。
「……お義父さん……」
セルゲイは乱暴に鼻をすすった。
「……腹が減ってるなら……飯を食ってから……帰れ!」
ターニャの唇が震えた。
「……疲れてるなら……一晩泊まってから……帰れ!」
帰れと言うたび、帰る時間が遠くなっていく。
セルゲイは椅子に座ったまま、こちらを見ない。
「それから、その隣にいる男に……ウォッカが好きかどうか聞け!」
ターニャは隣の彼を見た。彼は何を言われているのか分からないまま、こちらを見返していた。
もう堪えられなかった。
「……お義父さん!!」
視界が一度に滲んだ。声を出した途端、涙が次々にこぼれた。母がすぐにターニャを抱きしめた。肩へ回された腕は思っていたより強く、頬が母の髪に触れた。
ターニャは母に抱かれたまま、しばらく動けなかった。
やがて母の腕がゆるみ、涙が少し落ち着いたところで、彼には家族と少し話したいとだけ日本語で伝えた。彼は湯気の立つ紅茶のカップを前に、ターニャたちと少し離れて腰を下ろした。
母は言葉を選びながら、少しずつ話した。
「ターニャ、よく聞いてちょうだい。この人はね、昔、とても辛いことがあったの」
セルゲイは俯いたまま動かなかった。
「昔、働いていたところで事故があったの。人が死んだ事故だった。この人にも責任があった。でもね、亡くなった人のせいにしたのよ。上の人たちから、本当のことは話すなと言われたの」
ターニャは黙って聞いた。
「事故のときの血の色が、ずっと頭から離れなかったんだって。赤いものを見ると、あのときの事故のことを思い出すの。もちろん、思い出したくないんだけど、記憶が蘇ってしまうそうなの。あなたが家を出てから、ちゃんと治療を受けるようになったわ。時間はかかったけれど、事故のことも、自分がしたことも、少しずつ話せるようになったの」
ターニャは膝の上で指を重ねた。床へ散った赤いガラスの破片の音は、今でも耳に残っていた。父の写真が倒れたことも、手紙が踏まれたことも、母が追ってこなかったことも、消えてはいなかった。
母がターニャの手元を見た。
「でも、母さん、あのとき、あなたを追いかけなかった。あなたのお父さんのものも守れなかった。この人に言われて、捨てたものもあるわ。……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
ナージャはそう言うと、両手で顔を覆った。嗚咽が漏れた。
ターニャは何も言えなかった。
セルゲイの手が一度だけ強く握られた。それから、ゆっくりと開いた。
「俺が壊したんだ」
低い声だった。
「ウラジミールのものを壊したのは俺だ。母さんに捨てさせたのも俺だ。あのとき俺に何が見えていたとしても、お前にしたことは俺の責任だ」
セルゲイはそこで一度、息を止めた。
「……すまなかった」
ターニャは顔を上げた。
あの夜、工房で見たセルゲイの顔が一瞬だけ浮かんだ。目の前では、さっき何度も帰れと言った男が、テーブルの上に開いた手を置いたまま俯いていた。
ナージャは顔を覆ったまま泣いていた。やがて片手を下ろすと、ターニャはその手に自分の手を重ねた。何かを言おうとして、声にはならなかった。母の手を握ったまま、しばらくそこに座っていた。
やがて母が立ち上がり、食事の支度を始めた。ターニャも立ち、運ぶものを受け取った。セルゲイは彼に席を示し、卓上へ一本の瓶を置いた。
「お義父さんが、ウォッカを飲んでみろと言っています」
彼はセルゲイを見てから頷いた。
セルゲイが注いだものを、彼は慎重に一口だけ飲んだ。
「ごほっ、ごほっ」
二度続けて咳き込み、目を丸くした。
ターニャは思わず笑った。母も笑いをこらえるように口元を押さえ、セルゲイもわずかに表情を緩めた。彼は咳をこらえながら困ったように笑い、ターニャもまた笑った。
食卓では、母が何度もターニャに話しかけた。ターニャも答え、ときどき彼の方を向いて、二、三言だけ日本語に直して伝えた。彼はそのたびに頷いた。セルゲイは黙って食べていることが多かったが、ときどきターニャの方を見た。
夜も遅くなると、母が寝る場所を整えてくれた。
灯りを消したあと、ターニャはしばらく暗い天井を見ていた。家の奥で小さな物音がして、やがて静かになった。上着は椅子の背に掛け、靴は玄関に置いたままだった。
玄関まで行こうと思えば、すぐに行ける。
けれど、ターニャは掛け物を胸まで引き上げ、目を閉じた。
翌日は、母やセルゲイと家で過ごした。夕方になって、二人は海を見に出た。
風は冷たかったが、前の日ほど空は暗くなかった。水平線の上にはまだ明るさがあり、傾いた光が水面へ細く伸びていた。ターニャは波の音を聞きながら、しばらく黙って海を見た。
背中の方にはナホトカの街がある。母とセルゲイのいる家があり、今夜もそこへ戻る。
海の向こう、日本の小樽には、火の入った炉があり、寮の小さな部屋があり、エンゼルの灯りがある。父から受け継いだ夕焼けの赤を、自分の色にした場所も、隣にいる彼と出会った場所も、そこにあった。
ターニャは水平線へ目を向けた。
「……海の向こうは、日本です」
彼も同じ方を見た。
夕日が低くなるにつれて、水面の色が変わった。灰色だった海に赤みが差し、波の一つ一つが短く光った。ターニャはその色を見つめた。
「国は違っても……夕焼けの色は同じですね。」
言葉が終わると、波の音だけになった。
彼が少し近づき、ターニャの肩へ腕を回した。ターニャはそのまま身体を預けた。胸元へ頬を寄せると、彼の温かさが伝わってきた。
ターニャも彼の背へ腕を回した。
昨日は母に抱かれた肩を、今は彼の腕が包んでいた。ターニャは目を閉じ、波の音を聞いた。
しばらく二人とも何も言わなかった。
日が落ちる前に、二人は海を離れた。薄く暗くなり始めた道を並んで歩き、家へ戻った。
* * *
翌朝、出発の支度を終えると、母はターニャをもう一度抱きしめた。背を何度か撫で、今度は長く抱きしめたままにはせず腕をほどいた。
「また来なさいね」
「はい」
セルゲイは少し離れたところから二人を見ていた。ターニャが旅行鞄の取っ手を持つと、眉を寄せた。
「今度は、先に知らせろ」
ターニャは笑った。
「はい。お義父さん」
セルゲイは返事の代わりに彼の手を強く握った。
彼と二人で歩き出してから、ターニャは一度だけ振り返った。母はまだ手を振っていた。セルゲイもその隣にいた。ターニャも手を上げ、しばらくしてから前を向いた。足取りは急がなかった。
ウラジオストクへ戻り、飛行機に乗るまでの時間は早く過ぎた。待つことも、荷物を持って移動することも、来るときには一つ一つ長く感じたのに、帰りは気がつくと次の場所へ進んでいた。
機内では、彼が隣にいた。ターニャは窓の外を見たり、目を閉じたりして過ごした。目を閉じると、母の腕の感触と、こちらを見ようとしなかったセルゲイの背中が浮かんだ。次に来るときは先に知らせなければならない。セルゲイの言葉を思い出すと、少し可笑しかった。
新潟へ着き、入国の手続きを終えて荷物を受け取ると、二人は空港の中を一緒に歩いた。ここから先は行き先が違う。彼は東京へ戻り、ターニャは新千歳へ向かう。
別れるところまで来ると、二人とも足を止めた。
「電話するよ」
「はい。また会いましょう」
それだけだった。
彼が手を上げた。ターニャも手を上げた。何歩か離れてからもう一度振り返ると、彼もまだこちらを見ていた。
ターニャは小さく手を振り、今度は前を向いた。
国内線へ乗り継ぎ、新千歳行きの便に乗った。席に座ると、隣に彼はいなかった。ターニャは鞄を足元に収め、シートベルトを締めた。
飛行機が新潟を離れたあと、ターニャはしばらく窓の外を見ていた。雲の切れ間から海が見えると、視界から消えるまでそれを追った。
やがて機体が高度を下げ、窓の下に北海道の地面が近づいてきた。
新千歳空港へ着いた。
機内を出ると、日本語の案内が続いた。人の流れに従って進み、預けた旅行鞄を受け取る。取っ手を引き上げると、車輪が床の上で軽く鳴った。
前方に到着口の表示が見えた。
ターニャは旅行鞄を引き、その方へ歩いていった。