机の上には、写真が三枚並べられていた。一枚目には、駅の改札口に立つ男が写っていた。二枚目は、同じ男が売店の前で新聞を広げている。三枚目では、男の姿は人の流れに半分隠れていた。
「何が分かる」
教官が訊いた。
6号の少女は、写真を左から順に見た。
「三枚とも同じ男です。二枚目で新聞を読んでいます。三枚目では、右手に鞄を持っています」
「それは事実か」
6号の少女は三枚目を見直した。男の右手は人影に隠れている。鞄の持ち手だけが見えていた。
「右手で持っているように見えます。事実ではありません。右手で持っているという推定です」
「男は何をしている」
「駅で誰かを待っています」
「事実か」
「違います」
教官は何も言わなかった。
6号の少女は答えを組み直した。
「改札口に立ち、売店の前へ移動し、新聞を広げています。誰かを待っている可能性があります。列車を待っている可能性もあります」
「私が最初に欲しがった答えは何だ」
「誰かを待っている、です」
「なぜそう思う」
「質問の仕方と、三枚の写真を並べた順番です。行動に目的があると答えることを期待していました」
教官は写真を裏返した。
「今の三つを混ぜるな。確認したこと。そこから考えたこと。相手が言わせようとしていること」
「はい」
「返事が早いのは評価しない。分けて返せ」
「はい」
その日の課題は、それで終わった。夕方には施設へ戻った。食事の前に手を洗い、決められた席に座った。翌日は学校へ行き、授業を受け、係の仕事をした。
学校でも施設でも、行政上の最初の戸籍に記された名前で呼ばれた。その名前で返事をし、その名前で答案へ署名した。外へ出るときだけ、名前は記録の外へ置かれた。
訓練は週ごとに同じ内容ではなかった。
ある日は、廊下ですれ違った三人について報告した。服装、歩く速さ、持ち物、会話の有無。次の週には、同じ三人のうち誰が責任者に見えたかを訊かれた。
「一番年上に見えた人です」
「理由は」
「ほかの二人が、その人が止まってから止まりました」
「年齢は根拠か」
「補助的な推定です。行動の順序の方が強いです」
別の日には、教官が怒っているように見える態度で質問した。声は大きく、机を指で叩いた。正しい答えを急いで返すよう求めているように見えた。
6号の少女は、教官の口調と質問の内容を分けた。質問は前回の報告に含まれる曖昧な箇所の確認であり、叱責ではない。大きな声に合わせて縮こまる必要も、平然としてみせる必要もなかった。
「分からなかったので、推定として記録しました」
教官の指が止まった。
「怖くないのか」
質問の目的が変わった。
「怖がることを期待していますか」
「そう聞こえたか」
「はい」
教官は一度だけ頷いた。
「今はそれでいい」
評価されるのは、相手の表情を読むことではなかった。読んだ結果を、目的に合わせて使い分けることだった。
施設では、年下の子が失敗を隠しているとき、職員が何を訊けば話しやすくなるかが分かった。学校では、教員が授業を進めたいのか、理解しているかを確かめたいのかで、求められる返事が変わった。以前からしていたことだった。
訓練では、それに名前がついた。観察。推定。期待分析。自己開示の管理。指示と目的の確認。名前がつくと、誤りの場所を切り分けられた。
観察が足りなかったのか。推定を事実として扱ったのか。相手の期待を任務の目的と取り違えたのか。選んだ反応が結果に合わなかったのか。合っていれば記録され、違っていれば修正を求められた。
体力測定も増えた。走る距離、姿勢を保つ時間、息が整うまでの時間。だが、格闘も武器も教えられなかった。義務教育を終えるまでは行わないと説明された。
理由を訊くと、教官は答えた。
「いま必要なのは、見たものを正しく扱うことだ」
「いつ、必要になるのですか」
「進めば分かる」
知る必要のないことは、それ以上訊かなかった。
模倣の課題では、教官の歩き方や座り方をそのまま写すだけでは不十分だった。相手が疲れているのか、急いでいるのか、周囲へ威圧を示しているのかを分け、そのうち指定された要素だけを再現する。
最初の頃、6号の少女は外形を正確に写しすぎた。教官は、似ていることと役割に適していることは別だと告げた。
「同じ人間になる必要はない。相手にそう見えればいい」
次の課題で、6号の少女は動作を減らした。視線を合わせる回数と、返事までの間だけを変えた。教官は前回より高い点を記録した。
完全な模倣ではなく、必要な印象を作ることが目的だった。
年月が過ぎるにつれ、課題は一つの答えで終わらなくなった。教官から渡された人物像に合わせ、短い会話を組み立てる。明るい生徒、無口な生徒、年下を気遣う生徒。話し方と姿勢を変え、相手がどの段階で警戒を解いたかを記録する。
自分のことを話す課題では、事実を全部話す必要はなかった。話してよい範囲を先に決め、質問がその外へ出れば、嘘を増やさず話題を戻す。
「隠したことは何だ」
教官に訊かれた。
「施設で暮らしていることです」
「なぜ隠した」
「課題の相手に必要のない情報だからです」
「恥じているからではないのか」
「そのように受け取られる可能性はあります」
「お前自身はどうだ」
6号の少女は質問の意図を考えた。正解を求めているのではない。自己開示を管理するとき、自分の反応を把握しているかを見ている。
「話しても結果は変わりません。話さない方が設定を維持しやすいです」
教官は記録用紙へ何かを書き込んだ。
その回答が高い評価なのか低い評価なのかは分からなかった。次の課題では、施設で暮らすという事実を意図的に開示するよう指示された。相手が同情を示したとき、どこまで受け入れれば会話が続き、どこから拒めば不自然になるかを試された。
日常生活は続いていた。学校では定期試験があり、施設では掃除の当番があり、熱を出せば診察を受けた。外部の訓練で何をしているかは話さない。それも秘密保全の課題だったが、施設での生活自体は作られたものではなかった。
やがて、義務教育が終わった。
学校へ通う朝も、施設の決まりに合わせて暮らす夜も、そこで区切られた。中学校卒業後、6号の少女はほかの訓練生がいる場所へ移された。
そこで最初に渡されたのは、新しい名前ではなく番号だった。
「今日からお前は18番だ」
訓練所の教官はそう告げた。
訓練生はみな番号で呼ばれた。人数も出自も知らされなかった。知る必要はなかった。
富士の訓練所で、最初に行われたのはサバイバル訓練だった。
決められた装備と食料だけで行動し、指定された時間までに戻る。地図上の位置、残りの水、体温、疲労、天候の変化を継続して判断する。速さだけでは評価されなかった。無理をして戻れなくなる者より、条件を読み、経路を変え、記録を残す者が先へ進んだ。
18番は通過した。
その後に座学があり、秘密保全、身分の運用、監視、報告が続いた。さらに身体訓練、格闘、武器、射撃が加わった。
銃は、目標へ弾を当てる道具として教えられた。同時に、撃ってよい条件を満たさない限り、引き金を引かない道具としても教えられた。
命中したか。安全を確認したか。指示を理解したか。条件を満たしたか。評価項目は分かれていた。
潜入の課題では、与えられた役割を崩さず、必要な情報だけを得て離脱した。相手の期待へ合わせることは、施設で暮らしていた頃からしていた。ただし今は、合わせること自体ではなく、その先に定められた目的があった。
訓練期間の途中から、訓練生には子犬が配られた。
「各自、その犬に名前をつけて、訓練期間中は片時も目を離すな」
教官はそう言った。唯一無二のパートナーであり、警護対象でもあると心得て、命と良心にかけてしっかり守り抜け。そういう命令だった。
餌を与え、身体を洗い、体調を確認し、移動の際は常に一緒に行動した。子犬の状態も、装備や自分の身体と同じように報告項目へ含まれた。
イヌ。それ以外に名前のつけようがなかった。
「イヌ」は18番の足音を聞き分け、戻れば立ち上がった。歩く速度を変えれば追いつき、止まれば隣で止まった。
最終試験では、その子犬を殺して食べることが合格条件だと告げられた。目的の説明はなかった。必要な行為と、完了の判定だけが示された。
「全部ですか」
「好きにしろ」
18番は子犬を殺した。途中で手を止めることも、教官の顔を見ることもなかった。そのまま、喰えるところを全部喰った。
その最終試験によって何が変わったのか、18番には判断できなかった。試験前にできたことは試験後にもできた。できなかったことが、できるようになったわけでもない。しなかっただけだ。
ただ、合格という記録が追加された。
1994年、18番は原隊復帰、つまり久住のところへ戻された。
机の向こうには、久住ともう一人の男がいた。机上には一冊の薄いファイルが置かれていた。
「警補官としての採用が決定した」
男はそう言うとファイルを開いた。
「これに伴い、新たに法的身分を構築した。今まで使用していた名前は使うな」
一枚目に、自分の顔写真、全身写真、それと名前が記されていた。
桜町由子。
18番は、そこに書かれた文字列を確認した。生年月日、年齢、出生地に関する欄は、今まで自分が使っていたものとは異なっていた。
「桜町、由子」
18番は、その文字列をなぞるように言った。
「そうだ。新しい君の名前だ。いや、名前だけではない。出身地、生年月日、今までの人生の全てが、そこに書いてあるものになる」
久住は由子にそう言った。