「疲れているだろう、小樽まで車で送ろう」
手荷物を受取り到着ロビーに出たターニャは不意に声を掛けられた。
聞き覚えのある声に、ターニャは足を止めた。
振り向くと久住が立っていた。こちらへ歩いてくるでもなく、ターニャが顔を向けるのを待っていたようだった。新潟で別れた彼の姿を、ついさっきまで思い出していた。そこへ久住の顔が入ってきて、何を言われたのか、すぐには分からなかった。
「なんで、ここにいるんですか?」
「話は乗ってからだ」
久住は出口へ向かった。ターニャは鞄を持ち直し、数歩遅れてついていった。
自動扉の向こうは暗かった。建物の灯りが届くところを離れると、足元に落ちた自分の影が薄くなった。冷たい空気を吸い、上着の前を寄せたが、久住はこちらを振り返らなかった。
久住は一台の車の前で足を止めた。
後部座席を示され、ターニャは乗り込んで足元に鞄を置いた。久住は助手席へ座った。
シートベルトを引き出したところで、運転席に髪の短い女性がいることに気づいた。知らない人だった。女性はバックミラー越しに一度ターニャを見て、すぐに前へ視線を戻した。久住は何も説明しなかった。
ドアにロックがかかり、車が動き出した。窓の外を空港の灯りが流れていく。久住はしばらく前を向いていたが、建物が後ろへ遠ざかると口を開いた。
「あの少年とは新潟で別れたのか」
「……はい」
「母親には会えたか」
「会えました。お義父さんにも」
ターニャは助手席へ目を向けた。聞かれたままに答えてしまったが、誰と会って何を話したか、もう久住に報告する必要などないはずだった。
「待って下さい。そんな話、なんで聞くんですか? もう、私には――」
「未成年に、ウォッカはなかなかきついだろうな」
「え?……」
「あの少年は、一口飲んで、二度咳き込んだ」
食卓の前で目を丸くした彼の顔が浮かんだ。ターニャが笑い、母が口元を押さえた、あのときのことだった。久住はそこにいなかった。
「な! なんで、そんなことまで、知ってるんですか?」
「まあ、そういうことだ。だいたい分るだろう」
久住は声を落とすこともなく言った。窓に流れる光が、助手席の久住を照らしては通り過ぎた。
「久住……さん?」
「ウラジオストクでは、一緒の部屋だったが、大人しかったな」
「Нет!(嫌!)」
声が思ったより大きく出た。ターニャは膝の上で両手を握った。
「桜町、お前も、あの少年と一晩一緒だったな。どうだった?」
「はい。酔って眠ったように見せ、無防備な姿を晒しましたけど、対象は何もしませんでした」
運転席から返事があった。女は前を向いたまま、滑らかにハンドルを戻した。ターニャはその横顔を見つめた。
彼と、一晩。
さっきまで自分たちの部屋のことを言われていたのに、今はこの人が、彼といた夜の話をしていた。眠っていたように見せたという。何もしなかったという返事を聞いても、握った手はほどけなかった。
「そうだな。その後、どうしたか、ターニャも聞かせてやれ」
「積丹に連れて行きました。『またさ……札幌に来てよ。』」
最後の言葉だけ、誰かへ呼びかけるように聞こえた。ターニャは運転席へ少し身を寄せた。
「……何を、言ってるの?」
「私が、そういって“彼”の腕に抱きついたら、喜んでたわよ」
ターニャは口を開きかけた。新潟で手を振った彼の顔に、知らない女の人へ笑う顔が重なりそうになった。そんな顔は見ていないのに、腕に抱きつくという言葉だけで、その隣にいる姿を思い浮かべてしまった。
「それじゃ、彼が札幌に来たのは……?」
「知らないわ。私の任務じゃないもの」
聞かれたことはそれで終わりだというように、女性は口を閉じた。車がゆるく曲がった。
「彼女も、こちらの仕事をしている。桜町由子だ」
「……仕事って……?」
「夏にあの少年に近づいたのは、君だけじゃない」
「……それじゃ、彼は……」
「話したことも、会ったことも、必要があってやった」
由子の手がハンドルに添えられていた。彼の腕にも、その手を回したのだろうか。ターニャは自分の手を見下ろした。海の前で彼の背に腕を回したとき、何かのためにそうしたのではなかった。離れたくなくて、身体を寄せたのだった。
「……あの人と一緒だったことも、その……抱きしめたことも、全部、仕事だったんですか?」
「任務よ」
ターニャは口を閉じた。
由子はターニャを見ず、前を向いたまま運転を続けていた。
車の速度が上がり、タイヤの音が一定になった。前を走る車の赤い灯りが遠くに並んでいる。ターニャは窓へ顔を向けたが、暗いガラスには自分の顔が映っていた。
彼が何を思ったのか、この人に聞いても分からない。それでも、喜んでいたという声が耳から離れなかった。冬に彼が北海道へ来たとき、この人に会いたかったのだろうか。彼に聞けば、分かるかもしれない。けれど、そんなことをしたら、どうして自分がそんなことを知っているのかも話さなければならない。
「あの少年に話すか?」
「……話せるわけ……ないじゃないですか……」
ターニャは顔を上げ、運転席の女を見た。
この女が彼に近づいたのも仕事だったと知れば、彼はきっと、自分のことまで疑う。
夏に会ったことも、好きだと言ったことも、抱きしめたことも、全部そうだったのではないかと。
それだけではない。信じていたことまで、あとから嘘だったと知らされることになる。
そんなことを、彼に言えるはずがなかった。
「そうだろうな。ターニャ、君が話さなくても、由子は話せるぞ」
ターニャは由子の後ろ姿を見た。
そこでようやく分かった。
久住は、自分の秘密だけを握っているのではない。
「……また、私を脅すんですか。今度は彼まで使って」
「そう聞こえるなら、それでもいい」
「……彼は、何も関係ありません」
「今はな」
ターニャは唇を結んだ。
「だから、今のままにしておけ」
久住は返事を待たなかった。
「それが一番いい」
「……ずるいです」
「そうだな」
「そんな言い方されたら……私、何も言えないじゃないですか」
久住は返事をしなかった。ターニャは窓へ向き直った。
低い建物の明かりが遠くなるとあたりは暗くなった。車は速度を変えずに走っていた。ときどき遠くの灯りを追っているうちに、窓に映った由子の手元へ目が戻った。
ターニャには、あんな話をした後でも平然と車を運転し続ける由子のことが分からなかった。車内は静かなままだった。窓の向こうの明かりが増え、道が大きく曲がった。その先でも走行音は続いた。
「……私も、なれますか」
声がかすれた。久住が顔を向けた。
「何にだ」
「由子……さんみたいに」
名前を呼ぶと、あの声まで自分の口へ近づく気がした。彼に抱きついたことを話して、そのまま前を向いていられる。自分もそうできたら、こんなふうに心を削られずに済むのだろうか。
「その身体で、か?」
ターニャは答えられなかった。
「ゴーストだけ残して、義体化するのか」
ターニャは顔を伏せた。身体のことを言われるとは思っていなかった。由子と同じ仕事をどうやってするのかなど、考えていない。ただ、平気な顔で言える側へ行ってしまいたかった。
「君は、ガラスを作っていろ」
膝の上で指を開いた。工房へ戻れば、またこの手で竿を持つ。そう思って帰ってきたのに、今はそれさえ久住に言いつけられたことのように聞こえた。
「……あの赤いスズラン、なかなかいいじゃないか」
「……見たんですか?」
「ああ。いつか、夕方のニュースでな」
ターニャは助手席へ目を向けた。
あの赤まで、この人は知っていた。父が見せてくれた夕焼けの赤を、炉の前で何度も思い出した。色を確かめながら手を動かしたとき、この人のことだけは考えたくなかった。
「あの赤は――」
ターニャは次の言葉を待った。
「君のものだ」
目の奥が熱くなった。慌てて窓へ向き直ったが、頬を伝ったものを止められなかった。手の甲で拭くと、もう片方からも涙が落ちた。
膝へ下ろした指が濡れていた。ターニャは鞄からハンカチを出し、目元へ押し当てた。久住は何も言わず、由子も運転を続けていた。
しばらくは窓の外がよく見えなかった。流れる灯りを追うのをやめ、ハンカチを握ったまま座っていた。
彼と海の前に立ったときの温かさを思い出した。あのとき抱きしめられたのは自分だった。母の家で一緒に笑ったのも、自分だった。思い出した彼の顔を、しばらくそのまま見ていたかった。
ターニャはハンカチを畳み直した。まだ湿っているところを内側へ折り、鞄へしまった。
車は走り続けた。大きな車を追い越したあと、その灯りが窓の端から遠ざかった。誰も話さないまま、また暗い道が続いた。ターニャは背を座席へ預け、目を閉じずに前を見ていた。
やがて車が速度を落とし、走行音の高さが変わった。広い道を離れると、信号で止まるようになった。窓の外に建物が近づき、ターニャにも分かる街並みになった。小樽へ帰ってきたのだった。
車は駅前へ入り、ゆっくりと止まった。
「着いたぞ」
「……はい」
駅の灯りを見てから、シートベルトを外した。
「荷物、忘れるなよ」
「子供じゃありません」
「そうだったな」
ターニャは鞄の持ち手を握り、助手席へ目を向けた。
「……久住さん、あなた酷い人ですね」
「そうだな」
同じ返事だった。久住はそれ以上、何も言わなかった。
「……さようなら、久住さん」
「ああ」
そう言って、久住は小さく頷いた。
「由子さんも……さようなら」
「……ええ」
ターニャはドアへ手を伸ばした。
「ターニャ」
「はい?」
「もう、お前には仕事をさせられないな」
ドアの取っ手に掛けた手が止まった。
「……え?」
「聞こえただろ」
「……それって……」
ターニャは、助手席に座る久住の後ろ姿をしばらく見つめた。
「行け」
ドアを開けると、外の冷たい空気が頬に触れた。ターニャはドアを閉めると鞄を持ち直し、駅前の灯りへ向かって歩き出した。もう、振り返ることはなかった。