車が動き出すと、駅前の灯りが助手席の窓を横へ流れた。
由子は何も言わず、ゆっくりと車を車道へ戻した。後部座席には、さっきまでターニャが置いていた鞄も、窓に映っていた金色の髪もない。久住は前を向いたまま、シートへ背を預けた。
信号を一つ過ぎたところで、由子が車線を変えた。
「どこを外した」
由子はすぐには答えなかった。前方の車との間隔を見て、アクセルをわずかに戻した。
「彼女が、関係を切る側へ戻ると見ていました」
「いつだ」
「条件が生活そのものとぶつかった時点です。少年との関係は続けたい。けれど、それで日本での生活まで失う選択はしない、と」
久住は窓の外を見た。駅前の建物はもう後ろへ消え、道路の両側に暗い壁と途切れた灯りが続いていた。
「十二月三十一日までは?」
「予定より長く続いた、という範囲でした。少年が東京へ戻った時点で、私的な関係も終える判断に戻ると考えていました」
「戻らなかった」
「はい」
由子の声は変わらなかった。
年が変わっても、ターニャは少年との関係を終わらせなかった。帰郷を求め、条件を変えるよう久住に迫った。拒まれれば協力をやめる。
由子は、その一つ一つを知らなかったわけではない。ターニャが少年を好きになったことも、離れたくないと思っていることも見ていた。読み違えたのは、その先だった。
しばらくして、前方に赤信号が見えた。由子が減速し、車が止まる。エンジンの振動だけが足元から伝わってきた。
「一月、私が帰郷を許した。なぜだと思う」
由子は信号を見たまま答えた。
「許しても、管理上の危険が増えなかったからです」
「続けろ」
「本人は、機密情報を外へ出せばこちらを動かせると考えていました。ですが、実際には送信を止めることができる。必要なら本人を拘束して、行動そのものを止めることもできる」
「そうだ」
久住は短く答えた。
「機密情報の曝露をネタに我々を強請った。だが、あれに実効性はない。帰郷を許したのは、許しても管理できたからだ」
「はい」
「では、お前は何を外した」
「最後には、少年との関係を自分から制限する方を選ぶと見ていました」
「根拠は」
「日本での生活も、工藝館の仕事も失いたくない。それは変わっていませんでした。少年との関係を続けることで、それらを失う可能性が現実になれば、そちらを避けると判断していました」
「実際は違った」
「はい。失う可能性があっても、関係を続ける方を選びました」
信号が青に変わった。由子は車を発進させた。
「今はどう見る」
由子は前を走る車を追いながら、一度だけバックミラーを見た。後部座席には誰もいなかった。
「候補から外すべきです」
「能力が足りないからか」
「違います」
返事は短かった。
「対人工作に必要なことはできます。でも、出来た関係を最後まで仕事の側へ置いておけない。続ければ、同じことが起きます」
久住は腕を組んだ。
「少年との関係は?」
「切らせる必要はないと思います」
「理由は」
「本人が日本へ戻る理由の一つになっています。秘密を守る理由にもなっている。今の関係を壊す方が、管理上は不利です」
久住は目を閉じ、数秒だけそのままにした。
「よし、そのまま書面で報告しろ」
「了解しました」
それで車内の話は終わった。
由子の報告書が久住の机へ上がってきたのは、後日のことだった。
報告書の文章は車内で交わした言葉より、短かったが過不足なくまとまっていた。久住はページをめくり、十二月末までの記録から年明け以後の行動へ目を移した。以前の見込みがどこで外れたのかも、そこから判断をどう変えたのかも書かれている。見たことと、そこから考えたことが一緒くたにはなっていなかった。
久住はページを戻した。由子自身の見込み違いも、他の記録と同じ調子で書かれていた。そのまま、正式な記録として提出されていた。
その報告書を机の端へ置き、別の書類を手元へ寄せた。
ターニャを対人工作要員として運用できるかを見る計画は、長く続いた。日本で築いた仕事と生活を保ったまま、任務に使えるかを見てきた。夏の任務では、少年との関係を作るところまで進んだ。相手は警戒せず、ターニャへ近づき、彼女を信じた。
その結果を、成功とは書けなかった。
久住は報告の結論を、計画失敗とした。
夏の任務で必要な技術は使えていた。心臓の病気も、この結論を決める理由ではなかった。近づいた相手が、ターニャにとって本当に大切な人間になり、その関係を仕事として扱い続ける前提が崩れた。
候補から外し、対人工作要員としての育成を終える。以後は通常の生活へ戻し、必要な管理だけを続ける。
そこまで書いて、久住は手を止めた。
由子の書面をもう一度開き、最後のページまで目を通した。それから評価意見を付けた。夏から帰国後までの任務記録と照らし、必要な書類をまとめた。
ターニャの処遇案と由子の評価をまとめて上申すると、あとは久住の手を離れた。
承認が下りたのは、しばらくしてからだった。
久住の自室へ入ってきた由子は、机の前で足を止めた。
「座れ」
「はい」
由子が椅子へ腰を下ろす。久住は決裁を終えた書類を閉じたまま、机の上へ置いていた。
「去年の夏から、この前の帰国後まで。あれが、お前の最終総合実地評価だった」
由子の目が、机上の書類へ一度だけ動いた。
「聞いていませんでした」
「知らせていない」
「はい」
「問題なかった。今後は自分の判断で案件を処理しろ。それから昇進だ」
由子は少しだけ顎を引いた。
「了解しました」
「そこで、今後の担当だ。まず風祭の件。これは引き続きお前がやれ」
久住は薄いファイルを机の上へ出した。
「はい」
「それから、もう一つある」
二冊目をその横へ置いた。
「ターニャの平時管理もお前に回す。日常の判断は任せる。ただし、張り付く必要はない。通常の生活を崩すな」
「秘密漏洩に関わる動きが出た場合は、即時報告でいいですね」
「ああ。それ以外でも、処遇を変える必要が出たら先に上げろ」
「了解しました」
「風祭とは別件だ。混ぜるな」
「はい」
由子は二つのファイルを受け取った。
立ち上がり、扉へ向かう。久住は呼び止めなかった。由子も振り返らず、そのまま部屋を出ていった。
扉が閉まると、室内は静かになった。
久住は机の上の書類を重ねた。
由子、ターニャ、少年、風祭、里中。
誰もが自分の事情で動き、そのたびに別の誰かの位置が変わった。偶然の接触。予定になかった選択。こちらの思惑を外れた行動。それらを拾い直していくと、ばらばらだったものが、いつの間にか一つの形に収まっている。
そこに、赤いスズランがある。
なぜそう見えたのか、自分でも分からなかった。ただ、これが最初から誰かの組んだ作戦だったなら、ずいぶん手の込んだ配置だと思った。
なら、作戦名は――。
クリムゾン・ランディシー。
久住は書類を閉じ、引き出しへ収めた。
* * *
数日後、運河工藝館の工房で、バーナーの炎が細く伸びていた。
ターニャは赤いガラスの先を炎へ入れた。熱の入ったところが艶を帯び、ゆっくりと柔らかくなる。炎から外し、ピンセットで先をつまんで形を整えたところで、声をかけられた。
「ターニャさん、電話」
「はい」
ターニャは作りかけのガラスをいったん電気炉へ入れ、バーナーの火を消した。
工房を出て階段を使い、売場へ向かう。
受話器を取った。
「はい、ターニャです」
聞き慣れた声がした。
「今、仕事中?」
「はい。でも、ちょうど休んだところです」
「よかった。次に小樽へ行けそうなんだけど、いつなら会えるかなと思って」
ターニャは受話器を持ち直した。
「まだ分かりません。仕事の予定を見てからでもいいですか?」
「もちろん」
それから少し、ナホトカの話になった。母の料理や海のこと、セルゲイのこと。帰ってから思い出したことを、互いに少しずつ話した。電話の向こうで彼が笑った。
「そういえば、セルゲイさんのウォッカ、すごかったな。あれ、一口しか飲んでないのに、二度も咳き込んでさ」
ターニャの指が止まった。
一口。
二度。
受話器の向こうでは、彼がまだ何か話していた。
久住の声が、短く頭の中へ戻った。
「……どうした?」
「え?」
「急に黙ったから」
「なんでもありません」
そう答えてから、自分の声が少し遅れたことに気づいた。
「また、予定が分かったら電話しますね」
「うん。じゃあ、また」
「はい。また」