「Заходите внутрь.(中へ入れ)」
ロシア人の男がそう言うと、三人の女たちが小樽の埠頭の一角にある倉庫に入ってきた。
女たちは、手首を縛られてはいない。背中を押されてもいない。二十歳前後に見える二人は、倉庫の中と車を交互に見ながら、小声でロシア語を交わしていた。日本で働けるという話を、すべて信じているようには見えない。それでも逃げようとはしなかった。
いちばん年下に見える金髪の少女だけが、建物よりも自分の手を見ていた。指が荒れていて、とても水商売には使えそうもなかった。
由子はその意味を考えなかった。
由子の衣服の内側には、小型の送信機とマイクが固定されている。音声は隣の埠頭にある高い建物に設けられた監視地点へ送られる。監視班はそこから暗視カメラで出入口を見ている。久住の統制下にあるが、その地点を離れず、音声と出入口の監視に徹する。
倉庫の中までは見えない。異常が起きても、隣の埠頭にある監視地点からここへ来るには、いったん陸地を大きく回らなければならない。最短で三分。由子は確認済みだ。介入に備えた久住のチームは、監視班とは別の位置で待機している。
作戦実施が決まってから、由子が人身売買の現場に潜入するまで、二週間とかからなかった。まず久住は、家出した少女が拾われる可能性の高い場所を選び、あらかじめ由子を置いた。由子を嵐山で徘徊させて三日目には、チンピラに絡まれた。
薄暗がりで由子に三人の男が近づいてきたが、むろん由子が動じることもない。
「おい、ねぇちゃん」
そう言って若い男が肩をつかんだ。由子はその手を取り、身体を入れ替えて路面へ投げた。
「この、アマァ!」
長髪の男が由子に殴りかかろうとしたが、年上の男が制した。
「待て!」
それから由子へ訊いた。
「仕事する気はあるか」
男たちの由子に対する身元確認は短かった。家はどこか。警察に捜されていないか。誰かに話すつもりはあるか。由子が用意された範囲だけ答えると、彼らはそれ以上のことを調べなかった。
男たちがしているのは、ロシアから女を運び、札幌へ渡す。それだけだった。
由子は、女を扱える女として使われた。逃げようとする者を止め、移動へ同行する。必要なら男を倒せる。それで十分だった。今回の三人の管理も、由子に任されている。
倉庫の奥には、取引相手が三人いた。ロシア人だろう。中央に立つ大柄な男が取引を仕切り、口髭の男と痩せた男が左右に控えていた。服の上からでも銃の形が分かる。事前の情報どおり、単なるロシアマフィアで、プロではなさそうだった。
こちら側は、由子のほかに三人。ロシア語を話す年上の男、長髪の男、若い男。むろん全員が素人だが、三人とも銃を持っている。
「万が一のときは使ってよい」
そう言って久住から渡された由子の銃だけは小さかった。任務は観察と報告であり、救出、制圧、一般的な殺傷は権限に含まれない。銃は自己保全と離脱のために使う。潜入上の秘密を知られ、その秘密を保持させられないと判断した場合に限り、処分を検討する。むろん由子が銃を持っていることなど、ここにいる誰も知らない。
金髪の少女が心配そうに倉庫内を何度も見回していた。事務室。積まれた木箱。閉じた搬入口。男たち。二台の車。少女の視線は一か所に長く留まらなかった。何を理解したかは分からない。
「キョロキョロしてんじゃねーぞ!」
若い男の甲高い声が響いた。言われた意味も分からないのだろうが、その語勢に少女は動きを止めた。
年上の女の一人が、由子へ拙い日本語で訊いた。
「サッポロ、今日?」
「そうよ」
由子は短く答えた。嘘ではなかった。
女は笑った。口元だけを動かした笑いだった。
「店、きれい?」
「知らない」
女は肩をすくめた。どうやら由子を買い手の店の女だと思っているらしい。
金髪の少女は何も訊かなかった。
大柄な男が三人の女を確認し、年上の男へロシア語で言った。
「Все трое здесь.(三人ともいる)」
年上の男が短く返した。机の上に封筒が置かれた。中身を数える者と、三人の女を見る者は別だった。
由子は人数、立ち位置、出入口までの距離を記憶した。
過去に確保された女は、これと同じ経路を通って札幌の店へ入っていた。所持品から通信機と暗号票が見つかり、市ヶ谷は移送経路を逆にたどった。工作員は、売られる女と同じルートで運ばれていた。運ぶ側も、受け取る側も、その正体を知らなかった。
今日の三人の誰かが工作員なのか、誰でもないのか。由子にはまだ判断がつかなかった。
大柄な男が、外の二台の車を指した。
「Почему две машины?(なぜ車が二台ある)」
年上の男の返答が遅れた。
「Планы изменились.(予定が変わった)」
大柄な男が問い返した。
「Что изменилось?(何が変わった)」
「Одну повезём отдельно. В Саппоро встретимся.(一人だけ別だ。札幌で合流する)」
年上の男が答えた。
ロシア側の三人は動かなかった。
次の質問は短かった。由子にも単語の一部が聞き取れた。人数。金。約束。
「Это наше решение.(こっちで決めた)」
「Мы договорились передать всех троих вместе.(三人まとめて渡す話だった)」
「Скажем, что одна не доехала. Вам заплатят за троих. Какие проблемы?(途中で一人減ったことにする。あんたらには三人分払う。それで困らないだろ)」
「Что ты сказал?(なんだと)」
そう言うなり、大柄な男は腰の銃に手を当てた。
由子が三人の女から半歩離れたのと同時に、若い男が上着へ手を入れた。
管理役として期待される位置と、射線から外れやすい位置は一致しなかった。マイクは、ここで交わされる声を送っている。監視班は二台の車と出入口を映像で確認している。状況はすでに伝わっているはずだ。
金髪の少女が不安そうに由子の方を見た刹那、大柄な男が身体をひねった。
銃声が響いた。どちらが先に撃ったかは見えなかった。
由子は右へ動いた。木箱の陰へ身体を入れ、床へ膝をつく。二発目が壁を叩いた。三発目は別の方向から聞こえた。
女たちへ伏せろとは言わなかった。声を出せば位置が知られる。動けば射線へ入る。由子が守るべき対象は、自分と、まだ回収できていない情報だった。
年上の女の一人が叫び、搬入口へ向かって走り出した。閉じた扉の前には長髪の男がいた。長髪の男が横へ動いた直後、女の身体が前へ折れた。
誰が撃った弾かは分からない。
女は床へ倒れ、そのまま動かなかった。
もう一人の女は、壁際へ座り込んでいた。両手を頭へ置き、動かなかった。その近くで口髭の男が木箱から身体を出した。年上の男の側から銃声が鳴り、口髭の男は引っ込んだ。
壁際の女だけが横へ倒れた。
由子は弾の来た方向を確認した。女の生死は確認しない。そこへ近づけば、同じ射線へ入る。
金髪の少女の位置が見えなくなった。確認する必要はなかった。
銃声が続いた。
木箱の角が欠け、細い破片が由子の頬へ当たった。負傷ではない。呼吸を一定に保ち、次に移れる遮蔽物を探す。
由子の右側で大柄な男が倒れた。拳銃が床を滑った。どこまで滑ったかは見えなかった。
銃声の間隔が長くなった。
日本側の声が一つ消え、ロシア語の怒鳴り声も一つ減った。残弾数は分からない。生存者数も確認できない。
マイクには、発砲音と反響しか入っていないはずだった。
由子は脇口までの経路を確認した。今なら離脱できる。
だが、取引相手と受入れ側の結果を確認せずに出れば、任務情報が欠ける。
最後に、短い銃声が一発だけ鳴った。それまでの応酬とは違い、続く音がなかった。
由子は十数秒待った。
動く音はしない。
銃撃が終わったというのは推定だった。事実として確認する必要がある。
由子は腰の内側から銃を抜き、右手に保持した。銃口を床へ向けたまま木箱の陰から出る。床に落ちた破片を避け、倒れた男の手の届く範囲を通らない。照明は一部が割れ、残った灯りが不規則に明滅していた。
入口側に二人。壁際に一人。奥に一人。
どれも動かない。
火薬の臭いに、埃と血の臭いが混じっていた。
奥で何かが動いた。
床に座り込んだ金髪の少女がいた。両手で拳銃を握っている。銃口は下がり、手首が震えていた。少女の前には痩せた男が倒れ、胸元が赤く染まっている。
痩せた男の位置。銃の向き。少女の手。床の薬莢。
最後に撃ったのは、この少女だった。
少女は生存している。
武器を保持している。
少女は取引前から由子を見ている。女たちの管理役として認識していた可能性がある。
銃撃戦の間、由子は、嵐山で接触した三人――ロシア語を話す年上の男、長髪の男、若い男――と同じ動きをしなかった。戦闘へ加わらず、女たちを守らず、自分だけが射線を避けた。その差を少女が見ていたかは分からない。
いま由子は、男たちとは異なる小型の銃を持ち、倒れた者の位置と残存脅威を確認している。
単なる管理役ではないと推定される可能性がある。
一方で、照明は不安定だった。少女は銃撃直後で、手首が震えている。由子は影の側にいた。顔、年齢、服装、所属を正確に認識したと判断できる事実はない。
秘密が露見したとは確認できない。
露見していないとも確認できない。
条件付き処分命令の適用可能性が残った。
マイクは作動している。
由子は少女へ質問しなかった。武器を捨てろとも言わなかった。声を出せば、少女との接触が音声として残る。
少女が顔を上げた。
視線が合う。
少女の銃口がわずかに持ち上がった。
由子は一歩踏み出し、照準を合わせた。
距離は近い。
外す要因はない。
指が引き金に触れた。
条件は確定していない。
少女は動かなかった。
由子も撃たなかった。
一秒が過ぎた。
次の一秒も、結果は変わらなかった。
遠くで車両の扉が閉まる音がした。続いて、倉庫の外から複数の足音が近づいた。監視班とは別の位置で待機していた久住のチームが到着した。
少女の視線が入口へ動いた。
由子は銃口を下げなかった。
外から久住の声がした。
「銃声停止を確認。入口を確保しろ。二名、右から入れ」
少女が立ち上がろうとした。片膝をつき、壁へ手を伸ばす。銃はまだ右手に残っていた。
由子は止めなかった。救出する任務はない。逃走を助ける任務もない。
脇口へ移る。
少女は由子を見ていなかった。入口側の足音へ顔を向けている。
由子は倉庫を出た。
細い通路の先で、久住とすれ違った。
久住は一瞬だけ由子を見た。負傷の有無と、銃を持っていることを確認したように見えた。立ち止まらず、そのまま倉庫へ向かう。
由子も止まらなかった。
指定されたルートに従って札幌分室へ戻り、由子は報告書を作成した。案件が終了次第、報告書は直ちに提出しなければならない。取引の破綻、銃撃戦の発生、年上の女性二人が撃たれて倒れたこと、久住のチームが到着したこと、自分が所定経路から離脱したこと。確認した事実だけを記した。
金髪の少女を発見したこと。
少女が拳銃を持っていたこと。
少女へ銃口を向けたこと。
引き金へ指を触れたこと。
発砲しなかったこと。
その五項目は書かなかった。
由子は報告書を閉じた。