夕焼けの赤
「ターニャ!」
仕事場の奥から、ウラジミールの声が飛んできた。
炉の音に負けないよう張り上げただけではない。声の端が弾み、最後の音にまで笑いが混じっていた。
ターニャは窓辺から顔を上げた。港の向こうでは、一日がゆっくり傾き始めている。空は淡い橙色に染まり、その下で海が細く光っていた。
「早く来てみろ!」
「いま行く!」
椅子から飛び降り、床の箱や道具を避けて奥へ走った。炉の近くまで来たところで、いつも言われていることを思い出し、慌てて足を止める。
そこから先へは、勝手に入ってはいけない。
「そこにいろ。今、見せてやる」
ウラジミールの大きな手の中に、小さな赤いベネチアン・グラスがあった。
「ターニャ、ついに出せたぞ」
赤いグラスが目の高さまで下りてくる。
「これが夕焼けの赤だ!」
何が「ついに」なのか、ターニャには分からなかった。
ここしばらく、ウラジミールが何度も赤いガラスを窓へ向け、首を傾げていたことは知っている。棚に新しい赤が増えても、うれしそうな顔はしなかった。ターニャがきれいだと言っても、返ってくるのは「まだ違う」という言葉だけだった。
明るすぎる。暗すぎる。暖かさが足りない。
その違いは、ターニャにはよく分からなかった。どれも赤く、きれいに見えた。だから、ウラジミールが探している色は、赤の中のずっと奥に隠れていて、大人にしか見えないのかもしれないと思っていた。
けれど、目の前のグラスが今までのものとは違うことだけは、すぐに分かった。
小さな器の中に、光がたまっていた。
手の中で少し傾くたび、赤の奥に金色が浮かぶ。濃く見えた次の瞬間には澄み、向こう側の指まで柔らかな赤に染めていた。炉の炎のようにぎらつかず、暗く濁ってもいない。
ターニャは窓の外を見た。
港の上に広がる夕焼けと、目の前のグラスを見比べる。
「同じ色」
思わず声が出た。
「そうだろう」
返ってきた声が、また笑った。
ターニャはもう一度、港の向こうの夕焼けへ目を向けた。雲の間では赤が淡くほどけ、海に近いところでは紫へ変わり始めている。けれど、目の前のグラスには、その夕焼けのいちばん暖かなところだけが残っているように見えた。
「夕焼けが入ってる」
ウラジミールの口元が大きく緩んだ。
「そう見えるか」
「うん。同じ色だよ」
赤いグラスがもう一度、夕日の方へ掲げられた。さっきから何度も同じ赤を眺めているのに、その顔から笑みは消えなかった。
夕日の光が赤いガラスを通り、手の甲へ細く落ちた。頬にも淡い赤が映っている。
ターニャはもっと近くで見たくなった。足が一歩前へ出る。
「持ってみるか」
「いいの?」
差し出されたグラスを、両手でそっと受け取った。
グラスは、思っていたよりずっと軽かった。薄い縁が壊れそうで、指へ力を入れるのが怖い。胸の高さで持ったまま動けずにいると、下からウラジミールの手が添えられた。
支えられているのを確かめ、ターニャは少しだけグラスを傾けた。赤の明るさが変わる。窓の外の夕焼けを閉じ込めたようにも、グラスの中から夕焼けが生まれているようにも見えた。
「どうやって作ったの?」
「何度も失敗して、やっとこの色になった」
「何回?」
「数えきれないくらいだ」
「そんなに?」
ウラジミールは声を立てて笑った。いつもよりずっと大きく口を開け、目尻には深い皺が寄っていた。頬まで赤く見える。
こんなふうに笑うところを、ターニャは初めて見た。
笑い声につられて、ターニャの口元もゆるんだ。
「そんなにすごいの?」
「ああ。すごいぞ」
「どのくらい?」
「そうだな……」
一度だけ天井へ目が向き、すぐにターニャへ戻ってくる。
「今すぐ、お前に見せたくなるくらいだ」
胸の奥がふいに暖かくなった。
赤いグラスがすごいから呼ばれたのだと思っていた。けれど、出来上がるとすぐに、自分を呼んでくれた。
そのことの方が、ターニャにはずっとよく分かった。
「わたしが最初?」
「最初だ」
「誰よりも?」
「誰よりも先だ」
その答えを聞いた途端、手の中のグラスがさっきより大切なものに見えた。ウラジミールがずっと探していた色を、誰より先に自分が見ている。
「わたし、今日のことは忘れないよ」
ウラジミールは一瞬だけ目を丸くした。
「そうか」
それから、さっきよりもっと大きな笑い声が響いた。
ターニャも笑った。
何がどれほど難しく、ウラジミールがどれほど長くこの赤を探していたのかは分からない。出来上がったグラスが、ほかの職人にとってどれほど見事なものなのかも分からない。
けれど、きれいだった。
そして、父がうれしそうだった。
それだけで、ターニャもうれしかった。
「もう一回、窓に向けて」
「こうか」
「もっと上」
「注文が多いな」
「だって、そこが一番きれい」
添えられた手と一緒に、グラスを少し高く掲げた。
窓の外では夕焼けが海の上へ広がっていた。小さなグラスの赤が、その光を受けて明るくなる。透き通った赤の向こうに、ウラジミールの笑顔が重なった。
炉の低い音も、仕事場にこもる熱も、服に染みついた煤の匂いも、その瞬間だけは遠くなった。
見えているのは、手の中の赤と、その向こうの笑顔だけだった。
うれしさが胸の奥から喉まで上がり、何か言いたいのに、笑い声しか出てこない。
グラスを見ると、父が笑っていた。
父を見ると、その頬に夕焼けの赤があった。
どちらが先だったのか、ターニャにはもう分からなかった。
ただ、その赤を見ると胸の奥まで暖かくなり、笑わずにはいられなかった。
この日から、ターニャにとって夕焼けの赤は、父の笑顔の色になったのだった。