炉は冷えていた。
火が消えてから長い時間がたっているのに、工房にはまだ煤と古い灰の匂いが残っていた。壁際へ寄せられた道具には薄く埃が積もり、作業台の上では、窓から差す夕日の光だけがゆっくり動いている。
ターニャは窓辺の椅子に座り、小さな赤いグラスを両手で持っていた。父が見せてくれた色だった。グラスを少し傾けると、赤の奥に金色が浮かび、胸元のペンダントにも同じ色の光が小さく映った。
ウラジミールがいた頃、この工房はもっと狭かった。炉の熱で窓が曇り、道具の音が絶えず、床にはいつも細かな砂が落ちていた。仕事中のウラジミールは、ターニャが何を話しかけてもすぐには返事をしなかったが、それでも帰れとは言わなかった。
今は何の音もしない。
ウラジミールが使っていた長い吹き竿は壁から外され、炉の口には灰色の板が立てかけられていた。作業台の端には、日本から届いた手紙をまとめた箱があり、棚の写真立てでは、ウラジミールが工房の前で目を細めていた。
写真の横には、売り物にならなかった小さな作品が並んでいる。口の曲がった花瓶、片方の翼が短い鳥、底に気泡の残った青い小瓶。ウラジミールは失敗作だと言ったが、ターニャにはどれも失敗には見えなかった。形が少し違うだけで、光を通せばみんなきれいだった。
手紙の箱には、ウラジミールが日本で使った切符や、読めない文字の印刷された紙も入っていた。ターニャはその一つ一つが何なのか知らなかったが、捨ててはいけないものだと思っていた。遠い日本で過ごした時間の欠片だった。
背後で扉が開いた。
「また、ここにいたのか。夕食だ。少しは母さんを手伝ったらどうなんだ?」
継父のセルゲイだった。
「これをしまったら行きます……」
「ここは寒いだろ。上着ぐらい着たらどうだ」
「平気です」
「上着を着ろ」
「わかりました……」
ターニャはグラスを棚へ戻そうと立ち上がった。
そのとき、雲の切れ間から差した夕日が窓を抜け、グラスの中へ入った。
赤が燃えた。
くすんでいた小さな赤いグラスが内側から火を灯したように鮮やかになり、赤い光がターニャの指を透かして、作業台の上へ細長く落ちた。
セルゲイの手が伸びた。
何をするのかと思う前に、グラスを奪われた。
「返してください!」
セルゲイは答えずに腕を振り上げ、次の瞬間、グラスを床へ叩きつけた。乾いた音が工房いっぱいに響き、赤い破片が散った。
「ああ! なんてこと……」
ターニャは動けなかった。ほんの少し前まで両手の中にあった形が、もうどこにもなかった。縁も、底も、ウラジミールが指でなぞって見せた薄い線も、すべてばらばらになっている。
床の上では、一つの破片だけが夕日を受けて光っていた。父が最初に見せてくれた赤だった。
その赤が、セルゲイの靴の先で隠れた。
「どうして」
セルゲイは足で破片を踏み、細い音を立てて赤をさらに砕いた。
ターニャは思わず一歩前へ出た。せめて大きな欠片だけでも拾いたかった。二つか三つを合わせれば、元の丸い形を思い出せるかもしれない。けれど、セルゲイの靴がもう一度下り、赤は砂のように細かくなった。
「ああっ! やめて!」
セルゲイは棚へ腕を伸ばし、並んでいたグラスや小瓶をまとめてなぎ払った。
一つ、二つ、三つと床へ落ち、透明な皿が割れ、青い小瓶が作業台の脚にぶつかった。ウラジミールが失敗作だと言って笑った、縁の歪んだコップも落ちた。ターニャが水を飲むときだけ使わせてもらったものだった。
鳥の置物は床へ落ちてもすぐには割れず、片方の翼を下にして転がり、作業台の脚のそばで止まった。そこへセルゲイの靴が下り、短い音とともに鳥の胴が二つに割れた。
「何するの!」
返事はなかった。セルゲイは何も言わず次の棚へ手をかけ、皿も花瓶も、残っていた小さな置物も、何もかも床へ払い落とした。
棚の奥には、ウラジミールがターニャに触らせなかった細い脚のグラスが二つあった。セルゲイはそれもつかんで壁へ投げ、透明な破片が跳ねて、夕日の光を一瞬だけ散らした。
ウラジミールの作品だけを選んでいるように見え、空いた棚板が次々にむき出しになっていった。
ターニャは赤い破片を拾おうとしゃがんだが、頭のすぐ上でまた何かが割れた。
写真立てが床へ落ち、割れたガラスの一本の亀裂がウラジミールの顔を横切った。それでも写真の中では、まだ笑ったままだった。
「やめて!」
ターニャが手を伸ばすより先に、セルゲイは写真立てを蹴った。木の枠が壁に当たり、写真が床を滑った。
今度は手紙の箱が作業台から投げ落とされ、蓋が外れて紙が散った。ウラジミールの筆跡の上へ砕けたガラスが降り、開いた一枚が床を滑って炉の前で止まった。
セルゲイの足がその紙を踏み、ターニャには、ウラジミールの痕跡を全部なくそうとしているようにしか見えなかった。
「父さんのなのに!」
セルゲイが何か叫んだ。ターニャには、それが人間の言葉としては聞き取れなかった。
作業台が押され、脚が床を擦り、残っていたグラスが落ちてまた割れた。大きな破砕音が廊下まで響き、工房の壁に掛けてあった金属の道具まで震えて、互いに触れ合って鳴った。炉の中では灰が崩れ、乾いた粉が舞い、床には赤、青、透明の破片が重なって、どこへ足を置けばよいのか分からなくなっていた。
そのとき、ターニャの母、ナージャが工房へ飛び込んできた。
入口で一度立ち止まり、赤い破片、倒れた棚、散った手紙、割れた写真立てへ視線を走らせたあと、セルゲイを見た。
「あなた?」
セルゲイは振り返らず、棚の端をつかんで揺さぶった。
「あなた、やめて」
ナージャは割れたガラスを避けて近づきながら、低い声で呼びかけた。
「私を見て。あなた、こっちを見て」
セルゲイは答えず、棚を傾けて残っていた作品を落とした。
ナージャが腕をつかむと、セルゲイは初めて言葉を吐き出した。
「全部! 全部捨てろ! もう、こんなもの見たくないんだよぉぉ!」
「やめて、あなた!」
セルゲイが腕を振るたびにナージャの身体も引きずられ、割れたガラスが二人の靴の下で鳴った。それでもナージャは手を離さず、身体を押さえながらターニャを見た。
「ターニャ、離れて」
ターニャは胸元のペンダントを握った。硬い赤が掌に当たり、次はこれを壊されると思った。
壁に掛けてあった上着をつかみ、工房を飛び出した。
「ターニャ!」
ナージャの声が追ってきた。廊下を走り、玄関へ向かう。
「待って!」
足が一度だけ止まりかけた。けれど、ナージャはセルゲイを押さえていて、追ってこなかった。
また叫び声が聞こえたが、言葉はもう分からなかった。低い声が長く伸び、壁と扉にぶつかりながら形を変え、遠くの森でオオカミが鳴いているように聞こえた。
ターニャは玄関の扉を勢いよく開けた。途端に冷たい風が頬へ当たり、息が詰まった。上着を抱え直して胸元のペンダントを確かめたが、靴は室内履きのままで、替えの服も金も、何も持っていなかった。どこへ行けばよいのかも分からない。
「ターニャ!」
ナージャの声が家の奥からかすかに届き、ターニャは扉に手をかけたまま、ほんの一瞬だけ動かなかった。戻れば、母はいる。
けれど、床には赤いグラスが散り、ウラジミールの作品は砕け、写真は蹴られ、手紙は踏まれていた。割れた物は元には戻らない。拾い集めても、赤いグラスはもうウラジミールが作った形には戻らない。写真の亀裂も、踏まれた手紙も、なかったことにはならない。ウラジミールがいなくなってからも工房だけは残っていて、そこへ来ればまだ父の近くにいられたのに、その場所まで壊された。
戻れば、次には胸にある赤まで壊される。背後でまた遠吠えがした。ターニャは扉を閉め、家の中の音を厚い板一枚の向こうへ追いやった。
外はもう暗くなり始めていた。港の方から冷たい風が吹き、遠くで金属のぶつかる音がした。道の端には薄い雪が残り、夕日の赤だけが雲の下へ細く沈んでいる。家の窓には明かりがついていたが、もう自分の帰る場所には見えなかった。
行く場所はなかった。
それでも、家へ戻ることだけはできなかった。
*
玄関の扉が閉まる音を、ナージャは背中で聞いた。
「ターニャ!」
呼んでも返事はなかった。室内履きのまま外へ出たことも、上着しか持っていないことも分かっている。追わなければならなかったが、それでもセルゲイの腕を離すことはできなかった。
「あなた、もういいの。ここを見て。私を見て」
何度呼びかけても、セルゲイは工房の奥を見たままだった。もう壊す物の残っていない棚へ手を伸ばし、指先で空をつかむような動きを繰り返している。ナージャはその手を両腕で抱え込み、床へ座らせた。セルゲイの膝が赤い破片のそばへ落ちたため、身体を引いてガラスから遠ざける。
「怪我をするわ。動かないで」
セルゲイには聞こえていないようだった。荒い息だけが喉から漏れ、やがて全身から力が抜けると、壊れた作品の間へ崩れるように座り込んだ。ナージャは玄関の方を振り返った。今なら追えるかもしれない。
その瞬間、セルゲイが彼女の服をつかんだ。顔を押しつけ、震える息を何度も吸った。
「俺のせいだ……」
ナージャは何も言わず、セルゲイの肩へ手を置いた。
「俺なんだ……。俺が止めなかった」
セルゲイの指が、ナージャの服へ食い込んだ。
「ウインチを……止めなかったんだ。アレクセイが止めてくれって言ったのに……違う。俺が言ったんだ。……ゆっくりならいい、すぐ終わるって。俺が……やれって」
「もういいのよ」
「何も、よくない! 何も!」
セルゲイは顔を上げたが、ナージャを見てはいなかった。
「ワイヤーが跳ねたんだ。服に絡んで、あいつが引っ張られて……止まらなかった。俺はレバーを引いたんだ。力いっぱい……。止まれ! 止まれって……でも、止まらなかった」
両手で頭を抱え、身体を折るようにしてうずくまった。
「血が、血が流れてきた。床じゅうだ。俺の靴まで来た。赤くて……床の上を、ずっと……、血が……真っ赤な血が、俺を追いかけてくるんだ」
「ここには何もないのよ。私がいるわ。私を見て」
「いや、いるんだ。毎晩いる。目を閉じると、あいつがいる。俺を見てる。血が……、洗っても……洗っても、消えないんだ。何年たっても……」
ナージャはセルゲイの肩を抱いた。彼は一度それを振り払おうとしたが、すぐに力を失い、彼女の胸元へ額を押しつけた。
「俺だ! 俺が殺したんだよ……」
声が潰れた。
「俺がやらせた。なのに、あいつのせいにした。上の連中が……党の連中がそうしろって……。あいつが勝手にやったって……俺がやらせたのに」
ナージャは何も答えなかった。ただ、セルゲイの身体を抱きしめた。
「もう嫌なんだ」
セルゲイはそれだけを何度も繰り返し、声を立てて泣いた。床には、割れた赤いグラスが散らばっていた。夕日はすでに消え、破片はただ暗い色をしている。
ナージャはセルゲイを抱えたまま、玄関の方を見た。
「ターニャ」
もう一度呼んだが、返事はなかった。