どこをどう歩いたのか、ターニャにはもう分からなかった。
工房を飛び出したときには、ただ遠くへ行かなければならないと思っていた。背後では母が何か叫んでいたはずだが、振り返らなかった。振り返れば、床に散った赤い破片も、踏みつけられた写真も、もう一度見えてしまう気がした。
怒りは歩くうちに薄れていった。その代わり、上着の隙間から冷気が入り、内履きに染みた水の冷たさが、少しずつ身体の内側まで上がってきた。足の指は感覚が鈍くなり、爪先を地面につくたびに痛んだ。
何度か、母が追ってくるのではないかと思って立ち止まった。けれど、聞こえるのは車の音と、遠くで閉まる扉の音ばかりだった。胸元の赤いペンダントを服の上から押さえると、それだけはまだここにあると分かった。
バスターミナルの近くまで来たころには、人通りも少なくなっていた。明るい窓の向こうには暖かそうな待合場所が見えたが、ターニャは入口のそばで足を止めた。バスに乗る金はなく、行き先も決めていない。中へ入っても、どこにも行けなかった。
壁際で濡れた足を隠すように立っていると、若い女が少し離れたところからこちらを見ていた。暗い色のコートを着て、毛糸の帽子をかぶっている。派手なところはなく、どこにでもいそうな人に見えた。
女は近づくと、濡れた内履きから上着の袖へ、最後にターニャの顔へと視線を移し、手の届かないところで立ち止まった。
「寒いでしょう」
ターニャは答えず、内履きの爪先をもう片方の足の後ろへ隠した。
「誰かを待っているの?」
首を横に振ると、女はわずかに息をついた。
「うちへ来ない?」
「でも……。」
「その格好じゃ朝まで持たないわよ」
「……。」
女はそれ以上問い詰めず、手を差し出した。ターニャはその手を見た。少しためらってから、自分の手を重ねた。冷えきった指に触れた手が思ったより温かく、そのことだけで、身体から少し力が抜けた。
歩き出してから、女は自分をアリサと名乗った。
「私はターニャと言います」
それだけを答えた。道中、アリサは家のことも、どうして一人でいるのかも聞かなかった。ターニャも話さなかった。手を引かれているうちに、どの道を曲がったのか覚えられなくなった。
着いたのは、古いアパートだった。外から見れば、どこにでもある建物だった。階段を上がり、いくつか扉の前を通り過ぎる。アリサが開けた部屋は暖かかったが、誰かが暮らしている匂いがほとんどしなかった。家具は少なく、壁にも棚にも飾りはなかった。
「まず、これを飲んで。温まるわ」
ターニャが紅茶を飲んでいる間、アリサは廊下の奥と居間を何度か行き来していた。やがて、水の流れる音が聞こえ始め、しばらくすると湿った温かい空気が廊下から漂ってきた。
「お湯がたまったわ。身体を温めておいで」
アリサに促され、ターニャは廊下の奥へ向かった。開けられた扉の向こうには小さな浴室があり、浴槽から白い湯気が立ちのぼっていた。
知らない家で服を脱ぐことにはためらいがあった。それでも、濡れた服は身体に張りつき、内履きから染み込んだ冷たさも消えていなかった。
「それは洗っておくわ。風邪をひく前に入った方がいいわよ」
ターニャは胸元のペンダントだけを自分で外し、浴室の棚へ置いた。湯に浸かっても、湯気の向こうに見える場所だった。服はアリサへ渡したが、ペンダントまで預ける気にはなれなかった。
湯へ身体を沈めると、冷え切っていた手足が急に痛み始めた。工房の煤や、走ってきた道の汚れが湯へ溶けていく。何度も棚の上を見た。赤いガラスは同じ場所にあった。
風呂から出ると、椅子の上に乾いた服が畳んであった。少し大きかったが、清潔で暖かかった。ターニャはそれを着るより先にペンダントを首へ戻した。
居間へ戻ると、アリサの視線が胸元で止まった。赤いガラスを見定めるように目を細め、指先を伸ばしかけたが、すぐに手を引いた。
「大事なものなの?」
「はい。父の形見です」
アリサはそれ以上触れず、パンとチーズを皿へ載せた。料理らしいものはなかったが、パンの匂いを感じた途端、空腹が急に輪郭を持った。手が止まらなくなりそうで、ターニャは慌ててゆっくり噛んだ。
「それじゃ、お父さんは?」
「はい、もう、いません」
「そう。悪いことを聞いたわね」
アリサは短く答えたが、話を遮らなかった。
「いえ、いいんです。父は、ガラス職人でした。私も作りたいんです」
「ガラスを?」
「はい。父みたいに」
そう答えた途端、床へ落ちた赤い破片が浮かんだ。ターニャはパンを持ったまま、しばらく口を開けなかった。
「でも、今日、父の作品を壊されたんです。写真も、手紙も……全部です」
「誰に?」
「母と暮らしている男です」
アリサはすぐには何も言わなかった。その沈黙が、ターニャには急かされていないように思えた。
「それで、家を出てきたのね」
「はい」
「戻るつもりはないの?」
「戻れません」
言い切ったあとで、母の顔が浮かんだ。けれど、そのことまでは話さなかった。
「父は、日本へ行ったことがあります」
アリサの目が、今度はペンダントではなくターニャの顔へ向いた。
「日本?」
「はい。向こうのことを話してくれました。私も、いつか行きたいと思っていました」
アリサは少し考えるようにカップを持ち上げた。
「日本まで案内できる知り合いならいるわよ」
ターニャは顔を上げた。
「本当ですか」
「その人なら、向こうで仕事を探せる人も知っているはずよ。ガラスをやりたいなら、話してみたらいいと思うわ」
「ガラスを作れるんですか」
「それは向こうで聞けばいいんじゃないかしら。日本まで行けば、何か道はあるでしょう」
日本まで行けば。その言葉だけが、ターニャの中に残った。父が行った国なら、自分にもガラスを作る道が見つかるかもしれない。
「私は、お金を持っていません」
「今は要らないわ。向こうで働けばいいのよ」
「いつ行けるんですか」
「準備ができれば、すぐにでも」
すぐにでも行ける。そう思うと、胸の奥で固まっていたものが少しほどけた。暖かい部屋も、乾いた服も、食べ物も、すべてが日本へ向かうために用意されたもののように見えた。
アリサは新しい紅茶を注ぎながら、それ以上は話さなかった。
ターニャは胸元の赤いガラスへ触れた。父の作ったものは壊された。それでも、日本へ行けば、父と同じ道を歩めるのかもしれなかった。
「今日はもう休んだ方がいいわ」
アリサは居間の隅にある細い寝台へ毛布を広げた。枕元には、洗った服が畳んで置かれていた。
「私はまだ起きているから。何かあったら呼んで」
「ありがとうございます」
ターニャは寝台へ横になった。身体は温まっていたが、知らない天井を見ていると、家を飛び出してからのことが次々に浮かんだ。床へ散った赤い破片、母の声、暗い道、アリサの手の温かさ。
隣の部屋から食器を重ねる音が聞こえた。誰かが起きていると分かると、目を閉じてもよいような気がした。ターニャは服の上からペンダントを握り、毛布を顎の下まで引き上げた。
いつ眠ったのかは分からなかった。
翌朝、目を覚ましたときも、アリサは部屋にいた。
窓の外は白く曇り、暖房の音だけが一定に続いていた。アリサはパンを切り、ターニャの前へ置いた。昨夜の話が夢ではなかったことを確かめるように、ターニャは尋ねた。
「いつ日本へ行くのですか」
「あと少しだけ待って。迎えが来るから」
「それじゃ、今日ですか」
「まだ分からないわ。でも、もう話はしてあるのよ」
それ以上聞いても、アリサは船のことも、日本のどこへ行くのかも答えなかった。案内してくれる人が来れば分かると言うだけだった。
けれど、昼には新しい下着と靴下が用意され、夕方には小さな鞄と洗面用品が増えていた。内履きの代わりに、ずっと暖かそうな中古の靴も置かれていた。どれも上等なものではなく、色も形も選べなかったが、ターニャには日本へ行くための準備に見えた。
その日の残りは、窓の外が暗くなるのを見ているうちに過ぎた。アリサは必要なことだけをし、同じ部屋にいても黙っている時間が多かった。ターニャが父のことを話せば聞いたが、自分のことはほとんど話さなかった。その距離が、かえって気楽だった。家へ戻れとも、母のことを忘れろとも言われなかった。
日本について尋ねるたび、アリサの答えは同じだった。
「案内してくれる人に聞けばいいわ」
アリサも、日本のことを詳しく知っているわけではないらしい。それでも、案内してくれる人が来れば分かると言われると、ターニャは頷いた。少なくとも、迎えに来る人はいるのだと思った。
その翌日の昼下がりにアリサは食べ物を買ってくると言って部屋を出た。
一人になると、部屋の静けさが急に広く感じられた。机の上には、昨日もらった鞄が置いてある。中には替えの下着と靴下、洗面用品だけが入っていた。家から持ち出したものは胸元のペンダントしかなかったのに、鞄の中だけが少しずつ埋まっていく。それが、日本へ行く準備なのだと思うと、落ち着かなかった。
母はいま、何をしているだろう。
朝食を作る手が浮かんだ。工房から戻った父の肩についた煤を払っていた指も、ターニャを呼び止めた声も思い出した。最後に見た母は、セルゲイのそばに残っていた。
家を出たのは、母から逃げるためではなかった。
そう思った瞬間、帰ったほうがいいのではないかという考えが、急に現実味を持った。母は探しているかもしれない。怒っているかもしれないし、泣いているかもしれない。何も言わずに出てきたのは、自分も悪かった。
ターニャは上着を手に取り、扉の前まで行った。
けれど、取っ手へ触れる前に、床一面へ散った赤い破片が目の前によみがえった。踏まれた写真、折れた手紙、壊されていく父の作品。母は追ってこなかった。あの家へ戻れば、またセルゲイと同じ屋根の下で暮らすことになる。
日本へ行ける機会を逃せば、次はないかもしれない。
日本へ着いてから、母へ知らせればいい。ガラスを学び、父のように作れるようになってから帰れば、きっと分かってもらえる。これは永遠の別れではないのだと、自分へ言い聞かせた。
上着を元の場所へ戻し、胸元のペンダントを握り直した。アリサが戻るまで、ターニャは部屋で待った。
「もうすぐだわ」
帰ってきたアリサは、食料を棚へ入れながらそう言った。
待つだけの時間が終わったのは、アリサのところに来て四日目の昼前だった。
玄関の方で、扉を叩く音がした。アリサはすぐに立ち上がり、廊下へ出ていった。扉が開き、低い声で短い言葉が交わされたあと、暗いコートを着た痩せた男が部屋へ入ってきた。頬は少しこけ、口髭はなく、体格も大きくなかった。
男はターニャの顔を見たあと、足元の靴と机の上の鞄へ視線を移した。
「この子よ」
アリサが言うと、男は小さく頷いた。
「この人が、日本まで案内してくれる人よ」
男はもう一度ターニャを見た。
「待たせたな。今日、出る」
声は穏やかだった。けれど、笑いかけることも、手を差し出すこともなかった。
「本当に、日本へ行けるんですか」
「ああ。俺についてくればいい」
「向こうで、ガラスの仕事を探せますか」
「着いてから聞けばいい。話を聞けるヤツがいる」
男も、船のことや、日本のどこへ行くのかは話さなかった。それでも、今日出ると言われると、ターニャは胸元のペンダントを握った。ようやく日本へ向かう日が来たのだと思った。
アリサは小さな鞄をターニャへ渡した。
「これを持って」
ターニャは鞄を受け取り、胸元のペンダントへ手を触れた。持っていくものは、それだけだった。
「ありがとうございました」
「この人の言うことを聞いていればいいわ」
「はい」
アリサはそれ以上何も言わなかった。
男が玄関の扉を開けた。廊下の冷たい空気が部屋へ入り込み、ターニャの頬へ触れた。数日前、アリサに手を引かれてこの部屋へ入ったときとは違い、今度は自分から歩き出した。
父が行った日本へ向かうのだと思いながら、ターニャは男の後を追い、アパートの玄関を出た。