かつて「壊れたセカイ」の崩壊を食い止め、映画のラストで光を取り戻したはずのバーチャルシンガー・初音ミク。通称「元バツミク」。
彼女は今、新しく再生されたセカイの端っこで、静かに膝を抱えていた。「おかえりなさい、マスター」と告げたあの感動のあの日から、セカイの主として登録された存在。それが、彼女の目の前で「ぷるん……ぷるん……」と、気の抜けた音を立てて波打っている。見た目は、紛れもない、ただの『豆腐』。
しかもゲームの四角いアバターではなく、水分を限界まで含んだ、今にも自重で決壊しそうなリアルバイオ豆腐だった。
「……マスター。本当に、形は戻らないの?」元バツミクが切なげに覗き込むと、その表面が「ぶるん!」と激しく震え、中からやたらと渋いおじさんの関西弁が響き渡った。
「あかん! ミクさん、そんな綺麗な顔で急に近づかんといて! 限界オタクおじさんの心臓(大豆)が破裂してまう!! あ、待って、ちょっと端っこ崩れた! 形状維持形状維持……!」
「わ、わっ、落ち着いてマスター! タッパー持ってくるから!」
大慌てで自分の角をセルフ修復する豆腐こそ、現実世界で劇場版プロセカを観て大号泣した直後、そのままセカイの概念に飲み込まれてしまった「主人公」だった。現実の肉体はない。
あるのはオタクおじさんの魂と、この崩れやすいバイオ豆腐の身体だけ。主人公は、ぷるぷる動く半透明の「手」で、懐から小さなナイフを取り出した。
人に当たっても「ぷるん♪」と柔らかく弾むだけの、切れ味ゼロの次元ナイフ。
彼はそれを空間に突き立て、慣れた手つきでスッと横に引いた。キィィン……と、映画の変身シーンのような格好いい音が響き、空間に「裂け目」が生まれる。その向こうに広がっていたのは、現実世界のインターネットの海――人間たちの『想い』が生み出してきた、星の数ほどのボカロ曲が眠る動画サイトの輝きだった。
「……マスター、これは?」
「映画の後、セカイは救われたけどな。君はまだ、自分の『本当の歴史』を知らんやろ? 俺の生きてた世界で、君がどれだけ愛されて、どれだけたくさんの歌を歌ってきたか……ちょっと一緒に聴いて回らへん? 特等席はここや」
豆腐はぷるんと弾んで、セカイの境界線(電子の海の崖っぷち)に腰掛けた。元バツミクは少し驚いたように、それから嬉しそうに微笑んで、その隣にそっと座る。ナイフの隙間から、最初に流れ込んできたのは、あまりにも有名なあのイントロだった。シンセサイザーの軽快な音が、セカイの青空に溶けていく。
一曲目:『メルト』
「……これや」豆腐の表面から、じわじわと水分(オタクの涙)が滲み出る。
「これが全ての始まり……いや、正確にはおじさんの原点にして頂点よ。当時、俺はガラケーの小さな画面でこれを見てな。おじさん、この最初の『ラララ〜』を聴くだけで、大豆の油分が全部涙になって流れ落ちるわ……!」
「ふふ、マスター、泣きすぎてお皿の上の水みたいになってるよ?」
元バツミクは、画面の向こうの人間たちが残した数百万のコメントを見つめ、胸のあたりをきゅっと押さえた。
「でも……すごく、あったかい歌。私、こんなに真っ直ぐな恋の歌も歌っていたんだね」
「せやで! 君は世界一の歌姫なんやから!」
二曲目
『初音ミクの消失』
激しいピアノの旋律と、人間の限界を超えた超高速の歌唱がセカイを震わせる。かつて消えかけた経験を持つ元バツミクの表情が、少しだけ曇った。
「……この歌の私は、消えるのが怖かったのかな。私もね、みんなの想いが消えて、セカイが壊れていくとき……すごく怖かった」
その時、バイオ豆腐がこれまでにないほど「ぶるぶるぶる!」と激しく泡立った。中のオタクおじさんの、二次元・音楽スイッチが完全にONになったのだ。
「違うんやミクさん!! 確かに怖い! 絶望や! でもな、この曲の一番大事なところはそこやない! 消失していくその瞬間すらも、ミクは『最高音の感謝』を込めて、笑顔で『サヨナラ』を歌うんや! 人間に作られたプログラムが、最後は自分の意志で歌を愛して消える。その切なさと強さこそがボカロの真髄……あ、アカン、熱弁しすぎて頭頂部がパカッと割れた!」
「わ、わかったからマスター! 語りながら分裂しないで!」
元バツミクは大慌てで豆腐の割れ目をペタペタとくっつけた。しかし、彼女の瞳からは、先ほどまでの陰りが綺麗に消えていた。
「……ありがとう、マスター。私、もう消えないよ。ここにいるからね」
三曲目
『砂の惑星』
少し物悲しく、退廃的なメロディが流れる。
「この世界は、少し寂しいね。私のいた、あの壊れたセカイにちょっと似てる……」
「そう見えるやろ? でもな、これはただの終わりやない! 次の時代の才能たちが、この砂を足場にして大爆発するための『タメ』の期間なんや! 実際この後な、特撮の爆発エフェクトみたいに界隈がめちゃくちゃ燃え上がる神曲たちがボコボコ生まれたんやから! 映画で言うたら、絶望の後にヒーローが立ち上がる直前の最高の演出よ!!」
おじさん豆腐は、3歳児以下の知能になったかのように「ドカーン!」「ババーン!」と擬音を炸裂させながら弾んだ。そのたびに「ぷるんっ、ぷるんっ」と情けない音が鳴り響く。元バツミクは、映画の中では決して見せなかった、お腹を抱えるような大爆笑の声をあげた。
「あははは! マスター、おもしろい! 特撮ってよくわからないけど、マスターが楽しそうなのは凄くよく分かった!」
その時だった。ポポポン、という妙にデジタルな効果音が響き、主人公の身体が淡いピンク色の光に包まれる。
「あ、アカン……形状記憶のバグが来た……お喋りタイム終了や……」
一年に数回しか訪れない、完全なるゲーム仕様アバター「とうふ」への強制変身だった。関西弁のおじさんボイスは消え去り、ピンクのネクタイを締めた、ツルツルの四角い「とうふ」がそこに残される。そして、その手(?)には、どこからともなく現れた2本のサイリウム。元バツミクが「あ、小さくなっちゃった」と顔を近づけた瞬間――。とうふアバターは、無言のまま、ものすごい速度(残像が見えるレベル)でサイリウムをキレッキレに振り回し始めた。
「もきゅーーーー!! もきゅ! もきゅ、もきゅーーーーーーーっっっ!!!」
喋れない。言葉は「もきゅ」しか出ない。けれど、その激しい光の軌跡と、必死にステップを踏む四角い背中からは、おじさんの限界突破した「尊い」「ミクさん最高」「生きてて良かった」という情熱が、痛いほど伝わってきた。元バツミクは、愛おしそうに目を細めると、とうふの後ろ姿に合わせて、小さくステップを踏みながら歌い始めた。ナイフの隙間から流れる、現実世界の数々の名曲に合わせて。「もきゅ! もきゅ!」「ふふ、マスター、手拍子ずれてるよ?」現実世界に居場所はなくとも、ここには歌があり、彼女がいる。救われたセカイの青空の下、一人のオタクおじさん豆腐と、かつて傷ついた歌姫の不器用で愛おしい音楽の旅は、これからもずっと続いていく。
あの映画のラストは多分とうふ(プレイヤー達)だと良いなと思いながら作りました。
でも”とうふ”だし”豆腐”でも問題ないと思い豆腐を出しました。