時計の針が時を刻む音が、静かなリビングに響いていた。
部屋の明かりは炬燵とテレビの周囲だけをぼんやりと照らし、少し離れたダイニングやキッチンには薄暗い影が落ちている。
窓には遮光カーテンがぴったりと閉じられている。
その向こうから、時折、雪が窓ガラスを叩く微かな音が聞こえてきた。
今年は珍しく、年末だというのに雪が降っているらしい。
テレビでは毎年恒例の年末特番が流れ、芸能人たちが楽しそうに今年一年を振り返っていた。
内容は、正直あまり頭に入っていない。
それでも何となく眺めてしまうのは、これも年越しという行事の一部になっているからだろうか。
適当にテレビを眺めて、時々みかんを摘まむ。
毎年変わらない、俺の年越し風景だった。
「ふう……」
食べかけのみかんを置き、炬燵の中へと身体を潜り込ませる。
ちなみに暖房はつけていない。
別に節約しているわけじゃない。
寒い部屋の中、炬燵だけで暖を取るこの感じが好きなのだ。
首元まで炬燵布団を引き上げ、背中を丸める。
傍から見れば、甲羅に引き籠もった亀みたいな格好だろう。
「ああ~……」
思わず気の抜けた声が漏れた。
温もりが身体の芯まで染み込んでくる。
このまま寝てしまうのも悪くない。
瞼が徐々に重くなり、意識がゆっくりと夢の中へ沈んでいく。
――はずだった。
「何で暖房つけてないのよ……」
「炬燵を楽しむためだ」
突然聞こえてきた声に、沈みかけていた意識が現実へ引き戻された。
リビングと玄関を繋ぐドアが開き、寒そうに身体を震わせる少女が姿を現す。
春日井麻那。
俺の幼馴染だ。
肩まで伸びた栗色の髪には、まだ外気の冷たさが残っている。
首元にはマフラーを巻き、両手を擦り合わせながらこちらを睨んでいた。
「寒いんだけど」
「外は雪だしな」
「そうじゃなくて、この部屋よ」
「炬燵は暖かいぞ」
「アンタだけでしょうが」
「それはそう」
「……馬鹿」
一人で炬燵を満喫する時間は、どうやらここまでらしい。
仕方なく手だけを伸ばしてリモコンを掴み、暖房のスイッチを入れる。
「おかえり」
「……ただいま」
短い挨拶。
それだけ済ませると、麻那は鞄とマフラーを置き、当然のように俺の向かいへ腰を下ろした。
炬燵布団を持ち上げ、足を中へ入れる。
「はぁ……暖かい」
「だろ?」
「だからって暖房を消していい理由にはならないから」
「炬燵の良さが分からない奴だな」
「分かりたくもないわよ」
そんなことを言いながらも、麻那は炬燵から出ようとはしなかった。
しばらく二人でテレビを眺める。
別段、会話をするわけでもない。
テレビから流れる笑い声と、暖房が動き始めた低い音。
それから、時計の針の音。
誰かと一緒にいるのに静かで。
けれど、不思議と気まずくはない。
「今年も、もう終わりね」
ぽつりと麻那が言った。
「代わり映えのない一年だったな」
「高校生になったでしょ?」
「……そういえばそうだった」
「それ、ボケてるの?」
麻那が呆れたように俺を見る。
「いや、割と本気で忘れてた」
「大丈夫?」
「高校に行ってもやること変わらないしな」
学校へ行って。
授業を受けて。
帰ってくる。
そんな毎日の繰り返しだ。
別に不満はない。
むしろ何事もなく、平和に過ぎていくのなら、それに越したことはないと思っている。
「今年はどうするんだ?」
「何を?」
「年明け。こっちで過ごすのか?」
麻那の視線がテレビからこちらへ向いた。
「あんたが良いならね」
「おいおい、今さら気を遣う必要ないだろ」
毎朝顔を突き合わせて飯を食っている仲だ。
家の鍵だって、もうずっと前から渡してある。
年越しを一緒にする程度で遠慮されるような関係でもない。
「……そっか」
一瞬だけ、麻那の視線が下がる。
けれどすぐに、いつもの顔に戻った。
「そうね。今年はこっちで過ごさせてもらう」
「了解」
それ以上は何も聞かなかった。
麻那の家には少し複雑な事情がある。
仲の良かった両親が離婚し、父親が再婚した。
今では義母と、その連れ子と一緒に暮らしている。
高校受験も重なり、ここ数年で麻那を取り巻く環境は随分と変わった。
その頃からだろうか。
麻那が以前にも増して、俺の家で過ごすようになったのは。
何があったのか、詳しく聞いたことはない。
麻那が話さないから、俺も聞かない。
ただ、ここに来たいというのなら拒む理由もなかった。
俺自身、幼い頃に両親を亡くしている。
だからといって麻那の気持ちが分かるなんて言うつもりはない。
失った俺と、壊れていくものを見てきた麻那では、きっと抱えているものも違う。
だったら、分かったようなことを言うより。
いつも通り「おかえり」と言うくらいでいい。
「……そろそろお腹減ったでしょ?」
「ん? ああ」
言われて時計を見る。
針は既に七時を回っていた。
そういえば、昼から何も食べていない。
意識した途端、腹が小さく鳴った。
「ほら」
「聞こえた?」
「ばっちり」
「忘れてくれ」
「無理」
麻那は小さく笑って立ち上がる。
「それじゃあ、作るから待ってなさい」
「いつも悪いな」
「あたしが好きでやってるんだからいいの」
そう言ってキッチンへ向かい――途中で足を止めた。
「それに」
「ん?」
「……あんたが美味しそうに食べてくれるの、結構好きだから」
それだけ言うと、今度こそキッチンへ行ってしまった。
「…………」
残された俺は、しばらくその背中を眺めていた。
そういうことを。
何でもない顔で言うのは、本当にやめてほしい。
「……ずるいだろ」
聞こえない程度の声で呟き、再び炬燵へ潜る。
少しだけ顔が熱い。
炬燵のせいということにしておこう。
やがてキッチンから、包丁がまな板を叩く規則正しい音が聞こえ始めた。
テレビの音。
時計の音。
料理をする麻那の音。
俺にとっては、どれも聞き慣れたものだった。
変わることのない日常。
麻那と俺の、変わらない距離。
俺はそれが好きだった。
不満なんてない。
朝になれば顔を合わせ、一緒に飯を食う。
学校へ行けば隣にいる。
帰ってくれば、こうして同じ家で飯を食う。
きっと麻那も、この関係を大切にしている。
むしろ、俺以上に大切にしているのかもしれない。
あいつは昔から、俺たちの関係を聞かれると決まって同じ言葉を使う。
――幼馴染だから。
便利な言葉だと思う。
毎朝一緒に飯を食っていても。
弁当を作ってもらっていても。
家の鍵を渡していても。
二人で年を越していても。
幼馴染だから。
その一言で全部説明できてしまう。
そして俺も、その言葉に甘えている。
麻那が何を思っているのか。
まったく分からないわけじゃない。
たぶん、麻那だって同じだ。
俺たちは、お互いに気付いている。
幼馴染という言葉だけでは、少し収まりが悪くなってしまった何かに。
けれど、どちらもそこには触れない。
名前をつけてしまえば、今までと同じではいられなくなるから。
特に麻那は、それを怖がっているように思えた。
仲の良かった両親が離婚して。
父親が再婚して。
家族だった人が他人になり、他人だった人が家族になった。
そんなものを間近で見てきた麻那にとって、関係が変わるということは、俺が思っているよりずっと怖いことなのかもしれない。
だから俺は何も言わない。
麻那が幼馴染でいたいのなら、今はそれでいい。
だけど。
いつまでも、このままでいられるとも思っていなかった。
高校を卒業して。
大学へ行って。
社会に出て。
いつか俺たちは大人になる。
その時にも「幼馴染だから」と言って、今と同じように隣にいられるのだろうか。
分からない。
分からないからこそ、時々怖くなる。
いつか。
麻那が幼馴染という言葉の外側へ踏み出してもいいと思える日が来たなら。
その時、その隣にいるのが俺だったらいい。
恋人なのか。
夫婦なのか。
それとも、まだ俺の知らない何かなのか。
今はまだ分からない。
「悠二ー」
キッチンから麻那の声が飛んできた。
「寝るなら、ご飯できてからにしなさいよ」
「……起きてる」
「今、完全に寝てたでしょ」
「瞑想してた」
「じゃあ永遠に瞑想してなさい」
「それ死んでない?」
「知らない」
素っ気ない返事。
その直後、包丁の音がまた聞こえてくる。
俺は炬燵の中で小さく笑った。
まあ、いいか。
答えなんて、今すぐ出す必要はない。
今年もこうして一緒に年を越せる。
来年もきっと、麻那は俺の隣にいる。
今はまだ。
それだけで十分だった。