魔法先生ギルガメッシュ 作:長LAVA
2001年も終わりが見え始めると、日が落ちてからの麻帆良は随分と冷え込むようになった。
仕事帰りに寄ったログハウスでは、暖房の利いた室内に紅茶の香りが漂っている。窓の向こうで枝を揺らす風もここまでは届かず、向かいのソファに座る家主に至っては、すっかり寛いだ様子でクッションを抱えていた。
ただし、機嫌までよいわけではない。
「……貴様、そっちを動かすのか」
「何か不都合でもあったか?」
「白々しい。さっきから、私が動かしたいところばかり塞ぎおって」
エヴァの視線が盤上を行き来する。その指がビショップへ伸びかけ、触れる前に引っ込んだ。
こちらの手を見て予定を変える程度には慎重らしい。夏に散々やり合った甲斐もあってか、何かを仕掛けた時の反応は以前よりよくなっている。
もっとも、盤の上では反応の速さだけでどうにかなるものでもない。
次の手を待つ間にカップへ口をつけると、ちょうど扉が開き、茶々丸が新しいポットを載せた盆を運んできた。
「おかわりはいかがでしょうか」
「うむ、頼む」
差し出したカップを受け取る手つきに危なげはない。袖を食器に触れさせることもなく紅茶を注ぎ、取っ手をこちらへ向けて置くまでが、ごく自然な動作で繋がっている。
以前に訪れた時も不自由そうには見えなかったが、こうして改めて眺めると、随分と細かいところまで気が回るようになったものだ。
「よく馴染んだな」
「何がだ」
「茶々丸だ。貴様の好みも、大分覚えたようではないか」
「そりゃあ、毎日ここで暮らしているんだからな。いちいち言わなくても動いてくれるのは助かる」
そう言うエヴァの前には、既に新しい紅茶が置かれていた。こちらよりも少し濃く淹れてあるらしく、カップを持ち上げた本人も何も言わずに飲んでいる。
気に入らなければ遠慮なく文句をつける奴だ。そのまま飲んでいる時点で、出来については十分だろう。
「マスターの嗜好については、日々の記録を基に調整しております」
「だそうだ。お前より余程気が利く」
「客に世話を焼いてもらうつもりだったのか。ならば、訪ねる家を間違えたようだな」
「ほう。散々飲み食いしておいて、今更そんなことを言うか」
「出しているのは我の方だろうに」
ようやくエヴァが駒を動かす。
ひとまずこちらの攻めを受けることにしたらしい。悪くはないが、後に残る窮屈さまでは解消できていなかった。
その応手を考えながら、盆を抱えて控える茶々丸へ目を向ける。
エヴァならば、魔力で人形を動かすことなど造作もない。実際、この家にはその手で作り上げた人形が幾つもある。
だが、茶々丸はそれらとは造りが違う。
身体を動かし、周囲を認識し、与えられた情報を処理する仕組みは、あくまで科学技術によって組み上げられたものだ。魔法は動力やシステムの補助として組み込まれているが、何もかもを魔法で済ませているわけではない。
その境目を曖昧にせず、両方を使って1人の少女として成立させている。超と葉加瀬が費やした労力は、傍目に見える以上に大きい。
「完成してから動き出すまでにも、随分と手を入れたのであったな」
「1月3日に完成してから、4月1日の起動までずっと弄っていたぞ。その後も何かあるたびに研究室へ呼ばれている」
「機能の更新と、各部の調整を行っております」
「作った当人からすれば、まだ手を入れたい箇所が尽きぬか」
「完成した翌日には次の改良案を持ってくる連中だからな。終わりなどないだろう」
呆れたように言いつつも、エヴァの口調に不満はない。
茶々丸を動く道具として受け取って、それで済ませているわけではないのだろう。研究室へ送り出す時も、帰ってきた時も、何が変わったのかをそれなりに気にしているらしい。
こちらも、造った本人から話を聞いてみたくなってきた。
上着から携帯電話を取り出すと、エヴァが目を細める。
「今度は何だ」
「超を呼ぶ。今日はまだ研究室にいるはずだ」
「人の家に勝手に呼ぶな」
「ではエヴァ、貴様が呼ぶか?」
「……呼ぶなら、ついでに何か食べるものを持ってこさせろ」
了承は得られたらしい。
連絡を入れると、超はひと仕事片づけてから顔を出すと答えた。茶々丸のことを聞きたいと言った時点で声が明るくなったあたり、話す材料には困らなさそうだ。
電話をしまい、盤へ手を伸ばす。
「チェックだ」
「通話しながら指すな。腹が立つ」
「待っていてやったのだがな」
「そこが腹立たしいと言っているんだ!」
文句を言いながらも、エヴァは盤から目を離さなかった。
逃げ道を確保し、こちらの駒を追い払おうとする。その手に応じてルークを動かすと、今度はしばらく指が止まった。
何度か盤上を見直した末に、クッションが脇へ放り出される。
「……負けだ。次は私が勝つ」
「その台詞は、勝ってから聞くとしよう」
睨まれたので、紅茶を飲んで受け流す。
次の1局に入る前に、玄関の方から呼び鈴の音が聞こえてきた。
◆
超が来訪する。すると片手には温かい包みがあった。恐らく肉まんだろう。
広げられた中身を確かめたエヴァが、早速1つ手に取る。その隣へ腰を下ろした超は、片づけかけのチェス盤と、盤の脇に並べられた駒を見比べた。
「勝負はもうついたのカ?」
「今のはな」
「お前も食べるなら食べろ。余計なことを聞くな」
「その様子なら、聞かなくても分かるネ」
エヴァに睨まれても、超は楽しげな顔を崩さない。
ここへ現れた頃と比べれば、こういう顔をすることも増えた。研究のことになると食事まで後回しにする癖は相変わらずだが、今日は自分の分にも手を伸ばしている。
ひと口食べたところを見届けてから、話を切り出した。
「茶々丸のことを聞いていた。起動後も、かなり手を入れているそうだな」
「もちろん。動くようになったら、それで終わりというものではないヨ。実際に生活してもらって初めて分かることも多いからネ」
茶々丸の置いたカップを受け取りながら、超が続ける。
「たとえば、今みたいにお茶を運ぶだけでも、必要な処理は色々ある。歩く、盆を支える、人や家具を避ける、相手の動きを見る。それをいちいち分けて順番にやっていたら、いつまで経ってもお茶が出せないネ」
「それらを並行して処理しながら、相手の好みにまで合わせているわけか」
「そういうこと。決まった場所で同じ作業を繰り返すだけなら、もっと簡単なんだけど」
超の視線がエヴァへ向く。
「ここのマスターは、その日の気分でも要求が変わるからナ」
「悪かったな、気まぐれで」
「貴重な経験を積ませてもらっているヨ」
言い返したエヴァをさらりと受け流し、超は茶々丸へ手招きした。
「茶々丸、今の話について、何か付け加えることはあるカ?」
「マスターのご要望には、可能な限り対応できるよう努めております。ただし、ご要望を言葉にされない場合の判断には、まだ改善の余地があると考えています」
「……私が無茶を言っているみたいじゃないか」
「違うのか?」
「貴様まで乗るな」
どうやら、思い当たる節はあるらしい。
超は笑いながらも、茶々丸の返答そのものにはよく耳を傾けていた。自分が組み上げたものだからこそ、その働き方を当たり前で済ませずに見ているのだろう。
話が各部の制御から演算能力へ移ると、口調はますます熱を帯びていった。
身体を動かし続けるための処理。得た情報を照合するための処理。過去の記録から行動を選び、その結果をまた次へ反映していく仕組み。
こちらから問いを挟むたびに、超は身振りを交えて答えていく。途中でエヴァが空になった皿を茶々丸へ差し出し、それを見た超が「ああ、今の動きも」と話を付け足した。
実物が目の前で暮らしているのだから、説明にも困らないわけだ。
「それだけの処理ができるなら、こうした遊戯も得意そうだな」
盤へ目を落とすと、超もつられてそちらを見る。
「チェスか。茶々丸、指せるネ?」
「はい。対局は可能です」
「ならば、ちょうどよい。そなたたちも相手をせよ」
エヴァが顔を上げた。
「待て。次も私と指すんだろうが」
「無論貴様の相手もする。盤を増やせばよかろう」
使っていた盤をエヴァの方へ寄せ、その隣へもう1つ。残る1つは、背後にあった小卓へ置いた。
超が机の上と背後の盤を見比べる。
「同時に3局やるつもりか」
「そう言っておるが?」
「……その配置だと、茶々丸の盤が見えないヨ」
「見る必要はない。指し手を告げてもらえば事足りよう」
茶々丸が小卓の前へ移動し、駒を並べ始めた。
その様子を横目に見ながら、エヴァがこちらを指さす。
「妙な手を使うなよ。後ろを覗いたり、
「分かっておる。盤上遊戯くらい、記憶と思考だけで付き合ってやる」
今回ばかりは、千里眼に用はない。
目の前の2盤は普通に見て、背後の1盤だけを頭の中へ置いておく。それぞれの駒がどこへ動いたかを覚えていれば、あとはいつもと変わらない。
超はしばらくこちらを見ていたが、やがて自分の前へ黒い駒を並べ始めた。
「そこまで言うなら、遠慮はしないヨ」
「こちらこそ、手加減を期待されても困る」
「誰が期待するか。さっさと始めろ」
エヴァに急かされ、正面の2盤で白いポーンを進める。
続けて、背後へ声をかけた。
「茶々丸、e2からe4だ」
「承知しました。こちらはe7からe5へ動かします」
指し手を頭の中の盤へ反映したところで、エヴァのナイトが動いた。
その隣では、超がまだ最初の応手を考えている。
さて、どれから面白くなってくれるか。
◆
駒を動かす音に、茶々丸の声が重なる。
エヴァの盤へ手を伸ばし、その応手を待つ間に超の盤へ目を移す。背後から指し手が告げられれば、そちらには声で返す。
始めたばかりの頃は、2人とも茶々丸とのやり取りを気にしていた。だが、自分の盤が忙しくなってくると、後ろを覗いている余裕はなくなったらしい。
先に不満を漏らしたのはエヴァだった。
「またそこか……」
彼女のナイトを盤から取り除き、取った駒の列へ加える。
取り返そうとすれば、そのために動かす駒の後ろが空く。かといって放っておけば、次はこちらのルークが働き始める。
どちらを選んでも、エヴァの持ち駒は少しずつ減っていった。
これまでの対局で癖は大体分かっている。強気に出るところも、不利になってから無理をしてでも攻め返したくなるところも、実にこいつらしい。
勝ちを急ぐだけなら、もっと別の手がある。
今回はそれを選ばず、逃げ遅れた駒から丁寧に拾っていくことにした。
「先生、こちらも動かしたヨ」
超に呼ばれ、隣の盤へ視線を移す。
こちらはエヴァほど分かりやすくない。駒を取れるからと飛びつかず、その後に何が残るかを確かめてから動かしてくる。盤の端へ追いやられたように見えた駒も、いつの間にか働ける場所を与えられていた。
ただ、目につくところばかり整えていると、別の場所が手薄になる。
こちらのビショップを動かすと、超がわずかに眉を寄せた。
「そこへ引くカ……」
「不満か?」
「いや。少し、考えていた形と違っただけだヨ」
独り言に近い返答だった。
既に視線は盤へ戻っている。そのまま考え込むのを横目に、茶々丸の告げた指し手へ応じた。
こちらの対局には、奇をてらう必要がなかった。
中央を押さえ、駒を無理なく展開し、キングを安全な場所へ収める。茶々丸も危うい攻めには乗らず、こちらの狙いを一つずつ受け止めてきた。
ならば、受けるために生まれた小さな不自由を残しておく。
動きにくくなった駒。守り続けなければならないポーン。1手で届くこちらと、2手を要する向こう。
そうした差を崩さず積み重ねていけば、派手な仕掛けなどなくても、盤面は少しずつ傾いていく。
茶々丸の返答は相変わらず淀みない。それでも、選べる応手は確実に狭くなっていた。
「……おい」
エヴァに呼ばれ、正面へ戻る。
「何だ」
「貴様、さっきから私の駒ばかり取って何をしている」
「貴様の盤なのだから、取るのはそちらの駒に決まっておろう」
「そういう意味ではない! さっき、もっと直接攻められただろうが!」
気づいたか。
ただ、気づいたからといって、取られた駒が戻ってくるわけではないが。
残ったビショップを逃がそうとする手に合わせ、こちらのルークを横へ動かす。逃げ先を塞がれたエヴァが、嫌そうな顔で盤の脇を見た。
そこには、既に随分と黒い駒が並んでいる。
「まだ戦えるではないか。そう睨むな」
「その顔をやめろ……!」
どんな顔をしているかまでは分からないが、気に入ってもらえなかったことだけは確かだった。
超が小さく笑ったので、そちらの盤でも駒を動かす。
笑い声が止まった。
「……先生」
「今度はお前か」
「これ、取らせるつもりで置いているネ?」
「取れると思うなら、取ればよかろう」
「そう言われて素直に取れるほど、付き合いは浅くないヨ」
超は差し出された駒へ手を伸ばさず、自分のキングの周辺を確かめ始めた。
その警戒は正しい。
ただし、そこにある駒を取らなければ安全だというわけでもなかった。取った時と残した時では、通る道が少し変わるだけだ。
今は離れている駒同士が、数手の後には同じ場所へ利いてくる。その繋がりが見えるまでは、こちらの攻めは随分と頼りなく映るだろう。
超が守りの駒を動かしたところで、背後から声がかかった。
「ギルガメッシュ先生。こちらの手は――」
告げられた指し手を聞き、頭の中で黒い駒を動かす。
そちらも、そろそろ終わりが近い。
茶々丸は不利な交換を避けようとしたが、そのために守りへ残した駒が、他の場所を助けられなくなっていた。手順を急がず、逃げ道を潰す前にこちらの駒を揃えていく。
返す指し手を告げると、駒の触れ合う音が聞こえた。
その間に、エヴァが残ったポーンを進める。
「ほう。まだ攻めるか」
「黙れ。動かさなければ、それはそれで取るくせに」
「よく分かっておるではないか」
もっとも、動かしても取るのだが。
そのポーンを拾ってから、超の盤でナイトを進める。
超が口を開きかけ、何も言わずに閉じた。ビショップの利く斜線を目で辿り、次にルークを見る。
ようやく、先ほど引いた駒の意味が繋がったらしい。
「 厄介ネ」
姿勢を変え、盤へ近づく。
応手を考える時間が長くなったが、急かすつもりはない。その間にも茶々丸との指し手は進み、エヴァの盤からは、最後まで残っていた大駒が消えた。
「本気で全部取るつもりか、貴様」
「手駒はまだ残っているだろう?」
盤の端のポーンを示すと、エヴァの眉間に深い皺が寄った。
その隣で、超がようやくキングを動かす。
王手を受けるための手だった。こちらも駒を進めて王手を続けると、今度の返答は早い。選択肢が少なくなった分、最後まで見通せるようになったのだろう。
茶々丸の声を聞きながら、そのキングがもう一度逃げるのを待つ。
「茶々丸、ルークをe8へ。チェックメイトだ」
背後で駒が動く。
ほとんど同時に、正面の盤からエヴァの最後のポーンを取り除いた。
黒いキングだけが盤上に残る。まだ逃げる場所はあるが、助けに来られる駒はもう1つもない。
エヴァは盤とこちらを交互に見た末、深く息を吐いた。
「……もういい。私の負けだ」
「チェックメイトを確認しました。私も、敗北です」
茶々丸の報告を聞き、最後に超の盤へ手を伸ばす。
先ほどまで離れた場所にいた駒が、今は逃げ道を分け合って塞いでいる。その中へ最後の1枚を加えると、超はしばらく盤を見つめ、それから椅子の背へ身体を預けた。
「参った。これは、途中まで分からなかったヨ」
ようやく3盤とも静かになった。
カップを持ち上げると、紅茶はすっかり冷めている。対局中に飲むつもりだったのだが、思っていたより楽しんでいたらしい。
◆
「私の時だけ、やけに性格の悪い勝ち方をしていなかったか」
盤の脇に並んだ自分の駒を見ながら、エヴァが言う。
超はまだ自分の盤を崩さず、最後の数手を見直していた。茶々丸も席を離れず、そちらの様子を眺めている。
「気のせいではないな」
「少しは取り繕え!」
「いつも同じ勝ち方では飽きるだろうと思ってな」
「頼んでいない!」
クッションが飛んできたので受け止める。
横で超が肩を揺らしていたが、自分の盤へ目を戻すと、また難しい顔になった。
「私の方も大概だヨ。これ、途中で1手順でも違えていたら、攻めが続かなくなるネ」
「だから、その順に指した」
「簡単に言ってくれるナ……」
超は駒をいくつか戻し、別の応手を試す。
それでも逃げ切れないことを確かめると、小さく息を漏らした。
「駒を取るかどうかを考えていた時には、もうここまで見ていたのカ」
「その前からだ。お前がどちらを選ぶかは、指してみるまで分からぬがな」
今回は、その先を覗いたわけではない。
相手に選べる手を洗い出し、こちらがどう応じるかを考えておけばいい。超の選んだ道がどれであれ、最後に辿り着く場所が変わらないように。
もっとも、こうして盤を見直している時点で、同じ仕掛けが次も通るとは限らない。そこも含めて遊戯の面白いところだろう。
茶々丸が、自分の盤と超の盤を見比べている。
「私との対局では、同様の手順は用いられていませんでした」
「正面から指してみたかったのでな」
「正面を向いてはいなかったけどネ」
超の口出しに、エヴァが吹き出した。
余計なことを言うものだ。
「盤を見ていないのに、よくあんなふうに指せるものだヨ。話をしながら、他の2局まで進めていたのに」
「見失わなければよいだけだ。茶々丸の読み上げも正確であったしな」
目を向けると、茶々丸が静かに頭を下げた。
勝負の後も、表情が大きく変わったわけではない。それでも、その視線が自分の盤へ戻るまでに、わずかな間があった。
超がそれに気づき、何か言いかける。
だが、その前に茶々丸自身が口を開いた。
「ギルガメッシュ先生。もう1局、お願いしてもよろしいでしょうか」
「構わぬぞ」
返答を聞いた茶々丸は、すぐには駒を並べ直さなかった。一度エヴァへ顔を向ける。
エヴァはカップを持ったまま、その視線を受け止めた。
「私の許可が要ることでもないだろう。やりたければやれ」
「ありがとうございます、マスター」
今度こそ、茶々丸の手が駒へ伸びた。
超はそれを横から眺め、先ほどよりも少し柔らかい顔をしている。口を挟む代わりに、自分の前の盤を片づけ始めた。
茶々丸がこれから自我を育て、魂を得ていくことを、俺は知っている。
ただ、先を知っているからといって、本人より先に何もかも言葉にしてやる必要はない。この家で暮らし、研究室へ通い、時にはこうして遊んでみる。その中で彼女自身が見つけていくものまで、横から取り上げるつもりはなかった。
手が必要になれば、その時に貸せばいい。
今は、もう一度指したいと言っているのだから、相手をすればそれで十分だ。
「今度は盤をこちらへ持ってこい。そこでは話しにくかろう」
「はい」
茶々丸が立ち上がると、エヴァがソファの上で少し場所を空けた。
その隣へ盤が移され、白と黒の駒が並ぶ。向かいに座った茶々丸は、配置を確かめてからこちらを見た。
「次は、私が白を持ってもよろしいでしょうか」
「よかろう。好きに指せ」
茶々丸の指が、白いポーンをつまむ。
最初の1手が置かれるのを待ちながら、冷めた紅茶を飲み干した。