魔法先生ギルガメッシュ 作:長LAVA
キャラ崩壊に当たる可能性あり
2002年4月。
新年度が始まった麻帆良学園は、どこへ行っても妙に賑やかだった。
真新しい制服に身を包んだ新入生が、案内図と目の前の建物を交互に見比べている。その横を部活動の勧誘に励む上級生が通り過ぎ、少し離れた場所では、配りきれなかったらしい大量のビラを抱えた学生が途方に暮れていた。学校が変わらずとも、人が入れ替われば空気は変わるものらしい。
もっとも、1年A組から2年A組へ進級した連中については、大して変わった気がしない。
まき絵は相変わらず授業中にもよく動き、明日菜は眠気と戦い、夕映は教科書の陰に別の本を忍ばせている。学年が上がった途端に模範的な生徒へ生まれ変わられても、それはそれで不気味だが。
午後の授業を終えた俺は、職員室へ戻る前に大学側の工学部へ足を向けていた。
今日は茶々丸の定期メンテナンスを行うと、超から聞いている。以前なら研究の話を聞きながら見物するだけで終わっていたところだが、最近はその中身にも多少なりとも興味が湧くようになった。
研究棟の廊下には、機械油と温まった電気機器の匂いが薄く漂っている。壁際には台車に載せられた装置や用途の分からない金属枠が並び、扉の向こうからは工具を動かす音が聞こえた。
その中の1室を軽く叩いてから開ける。
「邪魔するぞ」
「お、先生。いらっしゃいネ」
奥の作業台から超が顔を上げた。
制服の上に白衣を羽織り、片手には細い工具を持っている。その隣では、同じく白衣姿の葉加瀬が、机に置かれた画面と茶々丸の腕を交互に見ていた。
部屋の中央に座る茶々丸は、右腕の外装を外した状態でこちらへ顔を向ける。
「こんにちは、ギルガメッシュ先生」
「うむ。調子はどうだ」
「通常の生活に支障はありません。現在は右腕の点検を受けています」
「その、支障がないうちに見ておくのが大事なんですよ」
葉加瀬が眼鏡を押し上げながら口を挟んだ。
作業台の上には外した部品が順番に並べられ、細かなネジは浅い容器へまとめられている。部屋全体を見渡せば本や資料の山がいくつもあるのに、手元だけは妙に整っていた。
研究に必要な場所と、それ以外の場所。本人の中では、はっきり線が引かれているらしい。
「先生、そこの椅子を使ってください。上の雑誌は適当に置いていいですから」
「適当に置ける場所が見当たらんのだが」
「あ、じゃあそっちの箱に」
「既に溢れておるぞ」
「……床なら大丈夫です」
「片付けろ、葉加瀬」
超が肩を揺らして笑っている。
結局、椅子の上に積まれた雑誌を一まとめにして空いた棚へ押し込み、作業台の脇へ腰を下ろした。
茶々丸の肘がゆっくりと曲がる。露出した内部機構が滑らかに動き、それに合わせて画面の線が変化していった。葉加瀬はその動きを眺めながら数値を書き留め、超は駆動部の様子を確かめている。
「もう1回。同じ角度まで動かしてみてください」
「はい」
茶々丸が腕を伸ばし、再び曲げる。
今度は途中で一度止めてから、手首まで動かした。傍目には先ほどと大した違いがないが、葉加瀬は画面の一部分を拡大して首を傾げる。
「やっぱり、温まってくると少しずれますね」
「大きくはないが、前の値より出ているネ。もう少し続けてみるヨ」
「駆動部だけを見てよいのか?」
口を挟むと、2人がこちらを向いた。
「測る側の温度はどうなっておる。前に、センサーの補正も見直したと言っていたであろう」
超が瞬きをしてから、画面の別の項目を開く。
「……ああ、そこも比較してみるカ」
「前回の記録はこっちです」
葉加瀬が机の端からファイルを引き寄せる。その上に載っていた紙束が崩れかけたので、片手で押さえてやった。
開かれた記録を覗き込みながら、超が現在の数値と照合していく。
「こちらも動いているネ。先に基準の取り方を揃えよう」
「それなら、いったん休ませてから同じ条件で取り直した方がよさそうですね」
葉加瀬はそう答えてから、改めて俺を見た。
「……先生、普通に話についてきますね」
「ついてきては悪いか?」
「いえ。てっきり今日も見学だと思っていたので」
「見ているうちに多少は覚える。それに、いつまでも同じ説明をさせるのも面倒であろう」
超が工具を置き、楽しそうにこちらを覗き込む。
「先生、最近は専門書も読んでいるからナ」
「えっ、そうなんですか?」
「お前たちの話を聞くたびに、分からぬ言葉を1つずつ尋ねていては進まんからな。必要なものは調べた」
始まりは、超との何気ない会話だった。
研究の話になると、こいつは途端に口数が増える。こちらが理解していようがいまいが構わず喋るわけではないが、途中で言葉を置き換えたり、説明のための説明を挟んだりすることは少なくなかった。
せっかく楽しげに語っているところへ、いちいち水を差すのもつまらない。
そこで基礎から順に本を読んでみれば、これがなかなか面白かった。機械、電気、材料、制御。1つ理解すると、それまで聞き流していた話が別のところで繋がる。超から借りた本だけでは足りなくなり、気づけば自分でも随分と買い込んでいた。
「超を手伝うにしても、金を出す以外に何も分からんのでは芸がなかろう」
何気なく付け加えると、超の手が一瞬止まった。
こちらを見たまま何か言いかけ、結局、僅かに口元を緩めるだけで画面へ向き直る。
「……そういうことなら、今度から説明を少し省いてもよさそうネ」
「必要な部分まで省くなよ」
「分かっているヨ」
その横で、葉加瀬が妙に嬉しそうな顔をしていた。
「では先生、次にこちらの資料も見てもらえますか? 英語の論文なんですが、訳だけじゃなくて内容についても少し相談したくて」
「構わん。持ってこい」
「ありがとうございます! 超さん、先生が研究室に来てくれると助かりますねえ」
「その通りネ」
「なぜお前が得意げなのだ」
超は答えず、笑って茶々丸の腕へ視線を戻した。
しばらくすると、測定をやり直すまでの待ち時間ができた。
葉加瀬は茶々丸の状態を確認しながら記録を整理し、超も作業台の端に置いた資料へ目を通し始める。その間、部屋の反対側から聞こえてきたのは、機械の作動音とは少々趣の異なる、やけに軽快な電子音だった。
「違う違う、今のはこっちが先だって」
「ランプが点いてないだろ。最初に押したところしか受け付けないんだから」
「これ、配線の長さで不利とかない?」
「そんな誤差で負けたことにするなよ」
大学生が数人、机を囲んで騒いでいる。
机の上には大きな押しボタンが並び、それぞれが小さな箱へ線で繋がれていた。手元のボタンを押すとランプが点き、他のボタンは反応しなくなる仕組みらしい。
「何をしておる」
「あ、先生。早押しクイズですよ」
眼鏡をかけた学生が、束になった問題用紙を持ち上げた。
「休憩用に作ったんですよ。せっかくなので問題も科学とか工学のものを集めて」
「装置を作る方に随分と時間を使っていたけどナ」
「そこが一番大事なんです、超さん」
実にこの部屋らしい理屈だ。
別の学生が空いているボタンをこちらへ寄せる。
「先生もどうですか?」
「我が相手では、休憩にならんかもしれんぞ」
「またまた。英語の先生ですよね?」
超が横で小さく吹き出した。
その反応を見て、誘った学生が怪訝そうな顔になる。
「……何ですか?」
「いや。やってみれば分かるヨ」
「何ですか、その言い方」
葉加瀬までこちらへ椅子を寄せてきた。
どうやら記録の整理より面白いものが始まりそうだと思ったらしい。茶々丸も作業台の向こうから、静かに顔を向けている。
俺は椅子を引き、ボタンの前へ腰を下ろした。
「よかろう。相手をしてやる」
「では、正解で1点。間違えたら次の1問は休みです。まずは簡単なところからいきますよ」
出題役の学生が用紙へ目を落とす。
「抵抗とコンデンサを用いた回路で、抵抗値Rと静電容量Cの積によって表される――」
ボタンを押した。
電子音とともに、手元のランプが点く。
「時定数」
「……正解です」
「早っ」
隣の学生は、まだボタンへ手を伸ばしたところだった。
「まあ、今のは分かりますよね。次いきます。制御において、偏差の現在値、時間積分、時間微分にそれぞれ対応する――」
「PID制御」
「正解」
再びこちらのランプが点く。
向かいに座る学生が少し姿勢を正した。
「先生、それも知ってるんですね」
「お前たちは休憩中に答える程度には知っているのであろう。我が知らねばならん勝負にもなるまい」
「そりゃそうですけど……」
「では次。鉄とニッケルを主成分とし、ニッケルを約36パーセント含む、熱膨張の小さい合金は――」
「インバー」
「正解です」
3問目で、隣の学生が自分のボタンを見下ろした。
試しに押すが、既に俺のランプが点いているため反応しない。
「……壊れてないよな、これ」
「さっきまで押せていただろう」
「先生、それ言わないでください」
超がとうとう声を出して笑った。
葉加瀬も机へ肘をつき、口元を手で隠している。
「用語問題だけだと、知っている人が強いですからね。計算も入れてみたらどうです?」
「分かりました。じゃあ少し変えます。材料と断面が同じ片持ち梁で、自由端に同じ横荷重を加えるものとします。線形弾性の範囲で、梁の長さだけを2倍にした時、先端のたわみは何倍になるでしょう」
「8倍」
計算用に紙を引き寄せた学生の手が、そのまま止まる。
出題役が答えの欄を見て、ゆっくり顔を上げた。
「……正解」
「ちょっと待った。今のは本当に英語の先生が答える問題じゃないでしょう」
「担当教科以外を学んではならぬ規則でもあったか?」
「ないですけど!」
それからは、露骨に空気が変わった。
椅子へ深く座っていた学生が前のめりになり、ボタンの上へ指を置く。出題役も簡単な問題を飛ばし始め、手元の用紙を何枚も捲った。
それでも、鳴るのはこちらのボタンばかりだった。
回路、材料、機械要素、信号処理。
分野が変わるたびに学生たちは一瞬だけ期待した顔をするが、答えを聞くと揃って口を閉じる。
こちらとしては、何も特別なことをしているつもりはない。
当然、千里眼で問題用紙を覗いているわけでも、先に出題される内容を見ているわけでもなかった。そんなことをしたところで、ボタンの耐久試験にしかなるまい。
聞こえた条件から問われている内容を絞り、知っている答えを返す。それだけだ。
「連続信号を標本化する際、標本化周波数が不十分なため、本来とは異なる低い周波数の成分として現れる――」
「エイリアシング」
「……正解です」
「先生、問題の最後まで聞きません?」
「最後まで聞いても答えは変わらんぞ」
「そういうことじゃなくて!」
部屋の奥からも笑い声が上がる。
いつの間にか、別の作業をしていた学生まで手を止めていた。
葉加瀬が得点を書き込んでいる紙には、俺の名前の下にばかり線が増えていく。隣の学生はそれを一瞥し、見なかったことにしてボタンへ向き直った。
「次は応用です。位置制御で大きな目標値を与えたところ、駆動出力が上限に達しました。その間も偏差の積分を続けた結果、目標付近に達してから大きく行き過ぎる現象が――」
「積分ワインドアップ。飽和している間の積分を制限するなり、実際の出力との差を戻すなりしろ」
電子音が止んだ後、少しだけ沈黙があった。
出題役が答えの欄と俺を見比べる。
「……対策まで正解です」
「もう解説役を交代した方がよくない?」
「その問題集、先生が作ったんじゃないですよね?」
言いたい放題だな。
隣で笑っていた超が、ふとこちらを見る。
「先生。それ、前に右腕の調整で話したやつネ?」
「そうだな。昨年の夏だったか」
「そうだけど……あの時、私は図まで描かなかったと思うヨ」
「説明はしたであろう。帰ってから調べた」
超の笑みが少しだけ薄れた。
驚いたというより、意外なものを見つけたような顔だ。
「……あの後、自分で?」
「話の途中で投げ出したわけでもないが、どうにも気になったのでな」
「ふうん」
短く答えた超は、それ以上何も言わず、俺の前に置かれた得点表へ目を落とした。
その口元が、先ほどとは少し違う形で緩んでいる。
葉加瀬はそれを横から眺めていたが、何も指摘せず、出題役へ手を振った。
「はい、続きですよ。そろそろ1問くらい取らないと」
「ハカセ、煽らないでください!」
「我はいつでも構わんぞ」
「先生もです!」
結局、用意されていた15問は全てこちらが取った。
最後の電子音が鳴った時には、隣の学生が両手を上げ、向かいの学生は机へ額をつけている。出題役だけが職務を全うした顔で問題用紙を揃えていた。
「……休憩のはずだったんですけどね」
「頭はよく動いたであろう」
「自信の方がダメになりました」
「情けないことを言うな。知らぬものを1つ知ったなら、それでよかろう」
立ち上がりかけたところで、学生の1人が顔を上げた。
「先生、さっきの梁の問題なんですけど」
「何だ」
「長さの3乗で利くところまでは覚えていたんですが、断面を変えた場合って――」
質問を聞き、空いていた紙を引き寄せる。
簡単な図を描いて説明すると、隣から別の学生も覗き込んできた。休憩が終わったはずなのに、今度はそれぞれが自分の分野の疑問を持ち出し始める。
これでは教室から移ってきただけだな。
そう思っていると、向こうの作業台から葉加瀬が声を上げた。
「先生、そろそろ茶々丸の方も再開できますよ」
「だそうだ。続きはまたにしろ」
「次は1問取りますからね」
「せめて勝つと言わんか」
超がまた吹き出した。
◆
茶々丸の再測定では、俺も記録の照合を手伝うことになった。
超が腕の動きを確かめ、葉加瀬が画面から数値を拾う。その横で前回の記録を開き、必要な箇所を読み上げる。
どこを調整するか決めるのは、茶々丸を造った2人だ。何を重視し、どの程度の差を許容しているのか。その判断まで含めた積み重ねは、部外者が本を読んだだけで手に入るものではない。
だが、何をしようとしているかが分かれば、手伝えることは随分と増える。
「その工具では届きにくいのではないか」
「少し角度が厳しいネ。そっちの細い方を取ってくれるカ?」
「これか」
「そう、それ」
手渡すと、超は受け取った工具を迷いなく差し入れた。
以前ならその動き自体を眺めているだけだったが、今はどこを触っているのかも分かる。葉加瀬が横で説明を付け足し、それを聞いた俺が気になった点を尋ねると、今度は2人とも話し始めた。
「片方ずつ喋れ」
「あ、すみません。つい」
「ハカセも先生に聞いてほしいことが多いネ」
「超さんだって人のことは言えませんよ」
茶々丸が、工具を受け渡す俺たちの手元を見ていた。
「ギルガメッシュ先生」
「何だ」
「お手伝いいただき、ありがとうございます」
「礼は直ってからにしておけ」
「故障していたわけではありませんので」
「そうであったな」
訂正されてしまった。
超が笑いながら外装を戻し、葉加瀬が最後の確認を始める。茶々丸が指を開き、握り、今度は小さな金属片をつまみ上げた。
動きに問題はないらしい。
それを確かめて満足そうに頷く2人を見ていると、こちらまで幾らか気分がよくなる。
ふと窓へ目を向ければ、外はもう夕方になっていた。
◆
【超鈴音side】
研究室を出る頃には、さすがにお腹が空いていた。
茶々丸はエヴァンジェリンのところへ帰り、ハカセは残った記録を整理してから帰ると言う。ギルガメッシュ先生に「帰るのであって、泊まるのではないぞ」と念を押された時の返事が少し怪しかったので、後で確認しておこうと思う。
もっとも、私も人のことは言えない。
「昼は何を食った」
研究棟を出て早々にそう聞かれ、私は少しだけ目を逸らした。
「パンを」
「それだけか?」
「牛乳も飲んだヨ」
「胸を張るところではない」
呆れた顔で言われ、そのまま食事へ連れ出されることになった。
入ったのは、学園内にある中華料理店だ。
先生は妙なところで店に詳しい。高そうな店ばかり知っているのかと思えば、学生がよく使う定食屋にも平気で入る。今日の店も、看板こそ小さいが料理は悪くないと聞いていた。
店の奥の席へ腰を下ろすと、厨房から鍋を振る音が聞こえてくる。炒めた葱と油の香りに、急に空腹がはっきりした。
向かいで献立を開いた先生が、こちらを見ずに言う。
「食いたいものを頼め。昼の分まで遠慮されても困る」
「遠慮しているわけではないヨ」
「では、何を迷っておる」
「先生が何を食べるか聞いてから決めようと思っただけネ」
「ならば幾つか頼んで分ければよかろう」
そういうことになった。
料理が来るまで、研究室でのクイズの話をする。
「あれは少し可哀想だったネ。最後には誰も点数を見なくなっていたヨ」
「見ても増えぬからな」
「容赦がない」
「手加減をされて喜ぶ連中でもあるまい」
それは確かにそうだ。
先生が帰った後、あの学生たちは問題用紙を囲んで何やら話し込んでいた。多分、次に来た時にはもっと難しい問題を用意しているのだろう。
それでも勝てるかは、少し怪しい。
「しかし、ハカセは面白いことを考えるな。帰り際に見せられた図面だが――」
先生が、手元の紙ナプキンへ指で簡単な形を描く。
何を指しているのか分かったので、私も身を乗り出した。
あれはまだ試作にも入っていない。ハカセが以前から気にしていた仕組みを、別の形で使えないか検討しているものだ。説明を始めると、先生は途中で何度か頷き、少し意外なところへ質問を挟んできた。
以前なら、まず説明しなければならなかった部分を飛ばせる。
こちらが言葉を探している間に、先生の方から「そこはこういうことか」と確かめてくることもある。それが合っていると、私は嬉しくなって、つい先まで話してしまった。
最初に食卓へ運ばれてきた料理にも、すぐには気づかなかったくらいだ。
「超」
「だから、その部分を別にすれば――」
「飯だ」
目の前へ箸を差し出され、ようやく口を閉じる。
先生は呆れた顔をしていた。
「話は逃げん。冷めるぞ」
「……分かっているヨ」
「今、皿が来たことにも気づいておらんかったであろうが」
図星なので返事はしない。
代わりに箸を受け取り、料理へ手を伸ばす。熱い湯気に顔を近づけてひと口食べると、思っていた以上に美味しかった。
向かいの先生はそれを見て満足したように頷き、自分も食べ始める。
しばらくしてから、今度は先生の方から先ほどの図面について話を戻してきた。
食べろと言われたからといって、話を聞いていなかったわけではないらしい。
「……先生、あの本の続きも読んだのカ?」
「読んだぞ。参考文献にあったものも何冊か取り寄せた」
「あれ、全部読むと結構あるネ」
「面白ければ大して苦にはならん」
私が勧めた本の名前を挙げると、先生は中身について普通に答えた。
研究室のクイズもそうだった。
私が1度話しただけのことを覚えていて、その後で自分でも調べている。話している時に楽しそうだったとか、何となく耳に残ったとか、そういう程度ではない。
こちらが何をやろうとしているのか、ちゃんと分かろうとしていた。
箸で料理を取り分けながら、先生が何でもないことのように言う。
「終わったら今日はこのまま帰れ」
「まだ少し確認したいことがあるネ」
「研究室へ戻るほどのことか?」
「……明日でもできるヨ」
「なら明日にしろ」
随分と簡単に決めてくれる。
けれど、不思議と腹は立たなかった。
研究が分からないから止めているわけでも、子供のすることだからと軽く扱っているわけでもない。その中身を聞き、面白がり、必要なら自分まで勉強してしまう人が、食事や帰る時間についてはこうして口を出してくる。
最初の頃なら、もう少し構えていただろう。
この人に何を頼み、どこまで話し、何を返せるのか。そういうことを考えながら席についていたはずだ。
今は、先生の近くにある小皿が欲しければ普通に「それを取って」と言うし、研究の話が長くなって食事を止められれば、不満を顔に出すこともある。
いつからこうなったのだろう。
先生は向かいで、春巻きの皿をこちらへ寄せていた。
「それも食え。さっきから同じ皿ばかり取っておる」
「好きなものから食べているだけヨ」
「最後に腹が膨れて残すところまで見えるようだな」
「残さないネ」
「ならばよい」
そこで話が終わる。
大げさな言葉もなければ、世話を焼いたことを恩に着せる様子もない。先生はもう別の料理をつまみ、今度はその味について何やら言っていた。
私はそれを聞きながら、ふと考えた。
父親がいたら、こんな感じなのかな。
父親の顔を、私は覚えていない。
声も、手の感触も、食事の時にどんなことを話す人だったのかも知らない。だから、先生が誰かに似ていると思ったわけではなかった。
ただ、研究の話を聞いてくれて、無茶をすれば叱られて、一緒に食事をしているこの時間を何と呼べばいいのか考えた時、そんな言葉が浮かんだだけだ。
父親がいたら。
何でもない日に向かい合って、こんなふうに食事をしたのだろうか。
「超」
不意に呼ばれ、顔を上げる。
先生は空になりかけた皿を見ていた。
「もう少し頼むか?」
先生も食べるなら。
そう答えるつもりで、口を開いた。
「父さんは……」
自分の声が、やけにはっきり聞こえた。
箸を持つ指が止まる。
向かいでも先生の手が止まっていた。
ごく短い沈黙の後、先生がゆっくりとこちらへ顔を向ける。その口元が、目に見えて吊り上がっていく。
「……ほぉ?」
「違うネ」
「この我を父と呼ぶか! 良い良い、今後もそう呼ぶとよかろう。うむうむ!」
「だから違うと言っているヨ!」
遅かった。
先生は椅子の背へ身体を預け、いかにも愉快そうに笑い始めた。
「ハッハッハッハッハ! そうかそうか、父か! それならば先ほどから素直に言うことを聞いていたのも頷けるな!」
「何も頷けないネ! ただの言い間違いヨ!」
「うむ、父はもう少し食うぞ。お前も遠慮せず頼むがよい」
「その言い方をやめるネ!」
近くの席から視線が飛んでくる。
先生は全く気にしていないが、こちらはそうもいかない。慌てて声を落とし、机の上から身を乗り出した。
「先生、笑いすぎヨ。今のは忘れるネ……!」
「断る。これほど愉快な話を忘れてなるものか」
「性格が悪い!」
「今頃気づいたのか?」
まるで効いていない。
それどころか、こちらが抗議するたびにますます楽しそうになる。普段は人のことを子供扱いするくせに、こういう時だけは誰より大人げない。
私は椅子へ座り直し、まだ残っていた春巻きへ箸を伸ばした。
もう食べてしまおう。
口を塞いでいれば、少なくともこれ以上余計なことを言わずに済む。
「おい、超。拗ねるな」
「拗ねていないヨ」
「ならばこちらを見ろ」
「食事中ネ。話は逃げないネ!」
先生が、また笑った。
自分の言葉をそのまま返されても、腹を立てるどころか嬉しそうにするのだから、本当に始末に負えない。
ひとしきり笑ってから、先生はようやく箸を持ち直した。
こちらをからかう言葉も止まり、食卓には食器の触れ合う音が戻ってくる。
そのまま終わればよかったのに、どうにも気になってしまった。
「……本当に、ただの言い間違いだからナ」
「分かっておる」
今度の返事はあっさりしていた。
念を押すまでもなかったのかと、少しだけ肩の力が抜ける。
ところが先生は、料理をひと口食べた後、こちらを見て付け加えた。
「だが、悪い気はせんかったぞ」
先ほどのような大笑いはない。
からかうためにわざと声を張ることもなく、ただ、そう思ったから言ったという調子だった。
私は返事を探して、一度口を開き、結局閉じる。
顔が熱いのは、料理の湯気のせいだけではなさそうだった。
「……そういうことを急に言うのは、ずるいネ」
「何がだ」
「何でもないヨ」
先生は追及しなかった。
代わりに追加の料理を頼み、届いた皿を2人の真ん中へ置く。こちらが落ち着く頃には、もう昼間の研究室で聞いた別の話を始めていた。
今度は言い間違えないように、呼びかける前に少しだけ気をつける。
それなのに、先生は私が「先生」と呼ぶたび、時折、思い出したように口元を緩めていた。
……本当に、しばらくは忘れてくれそうになかった。
◆
数日後、借りていた資料を返しに研究室へ顔を出すと、超がこちらを見た途端に嫌そうな顔をした。
「何だ、その顔は」
「別に。今日は静かにしていてほしいだけネ」
「我がいつ騒いだ」
「心当たりがないとは言わせないヨ」
大いにある。
だが、それを認めてやる義理もないので、笑いながら資料を机へ置いた。
今日は茶々丸も来ているが、外装を開いているわけではなかった。先日の調整後に問題が出ていないか確認したところらしく、葉加瀬の隣で普段通りに立っている。
こちらへ挨拶してから、茶々丸は僅かに首を傾げた。
「ギルガメッシュ先生。1つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「構わんぞ」
「超さんから、先日のお食事について伺いました」
超の肩が跳ねる。
葉加瀬は露骨に楽しそうな顔をしていた。
「ほう。お前から話したのか、超」
「先生がいつまでもからかうから、その話をしただけネ!」
「我はまだ何も言っておらんが」
「その顔がもう言っているヨ!」
なかなか察しがよくなったものだ。
茶々丸は俺と超を交互に見てから、真面目な声で続けた。
「超さんが先生を『父さん』とお呼びになったとのことでしたので」
「言い間違いだと説明したはずネ」
「はい。その点も伺っています」
きちんと頷く。
しかし、それで話は終わらなかった。
茶々丸は少しだけ考えるように間を置き、こちらを見上げる。
「……では私は、『お爺様』とお呼びすればよろしいのでしょうか?」
今度は俺の方が、すぐには返事をしなかった。
超も黙る。
葉加瀬だけが、耐えきれなかったように吹き出した。
「……お爺様、か」
「はい。超さんは私を造ったお1人ですので、先生が超さんのお父様に当たるのであれば、私はそのようにお呼びするのかと考えました」
「茶々丸、そこまで繋げなくていいネ」
「何か間違っていたでしょうか」
「間違いというか、その前提が――」
「筋は通っておるな」
超がこちらを向いた。
俺は茶々丸を眺めながら、もう一度その呼び方を頭の中で転がしてみる。
お爺様。
王でも、教師でも、スポンサーでもない。
随分と縁のなかった呼び名だ。
孫を持っていても不思議ではない年頃など、とうの昔に通り過ぎてきた。若い身体に戻っているからといって、積み重ねた年月まで消えたわけではない。
ただ、その間に子を持つことも、孫の顔を見ることもなかった。
それが今になって、茶々丸からこんな顔で尋ねられるとは。
何がそこまで可笑しいのかと聞かれても、上手く説明はできそうにない。だが、口元が緩むのを止める理由も見当たらなかった。
「……うむ。悪くない」
「先生?」
「茶々丸。お前がそう呼びたいなら、好きに呼ぶがよい」
「よろしいのですか?」
「我がよいと言っておる」
茶々丸が静かに頭を下げた。
「承知しました。お爺様」
実際に呼ばれると、思っていた以上によかった。
超から父と呼ばれた時も愉快だったが、あちらには言い間違いをからかう面白さがあった。今の茶々丸は、本人なりに考えて、こちらの返事を聞いた上でそう呼んでいる。
同じではない。
どちらも、悪くなかった。
「ハッハッハ! 良いではないか。娘の次は孫か。我も随分と忙しくなったものだな!」
「いつの間に私が娘で確定しているネ!?」
「お前が父と呼んだのであろう」
「だから、言い間違いだと何回言わせる気ヨ!」
葉加瀬が眼鏡を外し、笑いすぎた目元を指で拭っている。
超はそちらを睨んでから、改めて俺へ向き直った。
「……何でそんなに嬉しそうなんだヨ」
「嬉しがってはならんのか?」
そう返すと、超の口が止まる。
少しの間こちらを見ていたが、やがて肩を落とし、諦めたように息を吐いた。
「誰も、そこまでは言っていないネ……」
「ならばよい」
茶々丸が、俺の座ろうとしている椅子へ目を向ける。
今日は雑誌が載っていなかった。先日の注意が少しは役に立ったらしい。
「お爺様。お茶をお淹れしましょうか」
「うむ。頼む」
自然に答えると、超が片手で顔を覆った。
葉加瀬はその横で、まだ肩を揺らしている。
茶々丸だけはいつも通り、丁寧な手つきで茶器を用意し始めた。だが、湯を注ぐ彼女の横顔を眺めていると、その呼び方も、この部屋の中では案外すんなり収まるように思える。
差し出されたカップを受け取り、ひと口飲む。
超がその様子を横目で見ていたので、手招きした。
「お前も座れ。立ったまま睨んでいても茶は飲めんぞ」
「睨んでいないヨ」
そう言いながらも、超は隣の椅子を引いた。
茶々丸が彼女の前にもカップを置く。超は短く礼を言い、それから机の端へ置いてあった図面をこちらへ寄せてきた。
「……この間の話の続き、まだ時間はあるカ?」
「あるぞ。聞かせろ」
超が図面を広げる。
先ほどまでの不満そうな顔は、最初の説明を始める頃には、もういつものものへ戻っていた。
その横で茶々丸が静かに控え、葉加瀬も自分の椅子を寄せてくる。
カップを机へ戻しながら、俺は図面を覗き込んだ。
娘と孫ができたからといって、こちらが学ぶことまで減るわけではないらしい。