魔法先生ギルガメッシュ 作:長LAVA
もう少しです、もう少しで原作です
麻帆良の並木がすっかり青くなった頃、俺はどうにも気に入らないものを見かけるようになっていた。
ここしばらくの生活は、実に平穏だった。朝になれば学校へ行き、授業をして、放課後は職員室で仕事を片付ける。時間があれば超たちの研究室を訪ね、あるいはエヴァの家で茶を飲む。夜の見回りを頼まれることもあるが、そう毎回、厄介事へ出くわすわけでもない。
教師としての仕事にも慣れた。生徒たちの顔と名前どころか、授業中にどの辺りで気が散るかまで分かってきている。こちらが言う前から教科書を開く者が増えたのは結構だが、その程度で褒めてもらおうとする連中には、もう少し欲を持ってもらいたいところだ。
そんな日常の中へ、妙な男が混じり始めた。
最初に見たのは、出勤途中のことだった。
路面電車から降りた学生たちが、改札の先でいくつかの流れに分かれていく。その向こう側に、白い衣をまとった男が立っていた。人混みの中にいるというのに、その周囲だけが妙に静かに見える。
男はこちらを見て、薄く笑っていた。
アルビレオ・イマ。
見間違える余地もない。以前、図書館島の地下を見通した時にも確認した、あの男である。
もっとも、そこに本人が立っているわけではなかった。往来に置かれているのは、人の姿を写し取った幻影にすぎない。本体は相変わらず、麻帆良の地下深くに居座っている。
何のつもりかは、最初から分かっていた。
以前こちらが図書館島を調べた時、向こうも俺の存在には気づいていたのだろう。あの時はひとまず後回しにしたが、どうやら待ちくたびれたらしい。
だからといって、わざわざ相手をしてやる義理もない。
視線を戻して歩き出す。背後で幻が消えるのを感じたが、振り返りはしなかった。
翌日には、前日よりも近い場所にいた。
校舎へ向かう途中、道の反対側に立っていたのである。こちらが気づくと、男は昨日と同じ薄ら笑いを浮かべた。
その翌日は、中庭の向こう側。
さらに翌日は、校舎の廊下の端だった。
出現する時間も場所も違う。だが、距離だけは律儀に縮まってくる。こちらが視界へ入れたと分かると、しばらく笑ってから消えるところまで同じ。
腹立たしいのは、何も言わないことだ。
用があるなら口を開けばいい。訪ねてこいと言いたいなら、そう伝えれば済む話である。それをせず、こちらが面倒になって足を運ぶまで待とうとしている。
そのうえ、害意もなければ妨害らしい妨害もない。生徒へ接触するでも、仕事を邪魔するでもなく、ただ目に入る場所で笑っているだけだ。
こちらが無視することまで含めて、楽しんでいるのがよく分かる。
数日後の昼。
食堂で昼食を取り、食後の茶へ手を伸ばしたところで、ふと横を見た。
隣の空席に、アルビレオ・イマが座っていた。
いかにも「今日はよい天気ですね」とでも言いたげな顔だった。手を伸ばせば届く距離から、こちらを見ている。
思わず、茶を飲む手が止まった。
古い記憶の底から、別の男の顔が浮かび上がる。
花をまとい、涼しい顔で人を振り回し、挙句にはグランドお兄さんなどと名乗っていた白髪の夢魔。あの、人の反応を見て楽しんでいるとしか思えない笑顔。
目の前の幻へ視線を戻す。
顔も姿も違うというのに、どうしてこうも似た不快感を覚えるのか。
「……貴様らのような手合いは、どこにでも湧くものらしいな」
呟くと、幻が僅かに首を傾げた。
その仕草がまた気に入らない。俺はカップを置き、椅子へ背を預けた。
「よかろう。今日の仕事が済んだら行ってやる、アルビレオ・イマ」
男の笑みが深くなった。
言葉にしなくとも、ようやくですか、と聞こえてくるようだったので、こちらも笑ってやる。
「ただし、この手の催促はこれで最後だ。次に同じ真似をした時は、その幻を潰して終わりだと思うな。術の繋がりを辿って、本体までまとめて叩くぞ」
幻の目が、僅かに細くなる。
脅しではないと理解したらしい。
こちらへ軽く一礼すると、白い姿は音もなく消えた。空になった椅子をしばらく眺め、それから冷めかけた茶を飲む。
まだ会ってもいないというのに、既に随分と疲れる男だった。
「幻でも喋れる癖に一言も話さんか。見上げた度胸よ」
◆
放課後、仕事を片付けてから図書館島へ向かった。
水面を渡る風は、校舎の間を吹くものより幾らか涼しい。橋の向こうでは、巨大な建物が傾きかけた日を受けている。入口へ続く道には、本を抱えた生徒や大学生の姿が途切れず、扉が開くたびに内側の静けさが薄く漏れてきた。
地上部分だけでも、相当な規模の図書館だ。
だが、この島の面白さは上にあるものより、下にあるものにこそある。
館内へ入ると、紙と木と、長い時間をかけて染みついた埃の匂いが鼻をかすめた。閲覧席では何人もの学生が本へ顔を伏せ、通路では台車を押す職員が静かに行き交っている。
そこを抜け、地下へ続く階段へ向かった。
以前にも地下の構造は見ている。目当ての男がどこにいるかも分かっていたから、案内などは要らなかった。幸い、今度は曲がり角に薄ら笑いの男が立っていることもない。
少しは人の話を聞くらしい。
下へ降りるにつれて、館内の雰囲気が変わっていく。
明るく整えられた書架の間に、古い棚が混じる。床の仕上げも照明も統一されなくなり、使い込まれた木の階段を下りた先で、今度は石造りの通路へ出た。
増築を繰り返した施設にありがちな継ぎ目ではある。
ただ、それだけでは説明できない部分が、深く潜るほど増えていく。
扉を抜けた先にある広間の奥行きが、外から見た壁の位置と合わない。階段を下りたはずなのに、その先の回廊から見下ろせる書架は、先ほど通ったものより遥かに高い場所から始まっていた。
地下へ建物を延ばしたというより、別の広がりを持つ空間へ入り込んでいる。
普通の人間が地図だけを頼りに来れば、帰り道を失っても不思議ではないだろう。
途中の扉には、蔵書を守るための仕掛けもあった。術の織り込まれた鍵を眺め、扉ではなく、その先へ通じる別の通路を選ぶ。呼ばれて来た客が、わざわざ盗掘者用の罠に付き合う必要もあるまい。
そうして幾つもの書庫を通り抜けた先で、視界が大きく開けた。
欄干の向こうに、幾重もの回廊が重なっている。
その間を埋め尽くすのは、果ての見えない書架だった。
整然と背表紙を並べた棚があるかと思えば、巻物を収めた区画があり、鎖で繋がれた分厚い本や、箱ごと保管されている書物もある。古い革装の隣に比較的新しい装丁が並び、年代も土地も異なるものが、同じ静けさの中へ収まっていた。
奥の灯りは遠すぎて、小さな星のように見える。
地上の図書館から持ち込まれた本を、地下へ詰め込んでいっただけの場所ではない。
むしろ、人間が造った図書館の方が、この途方もない書庫へ繋がっている。そう捉えた方が、目の前の光景には合っていた。
「……ほう」
思わず足が止まる。
本の数に圧倒されたわけではない。俺の蔵に収まっている財も、数え上げれば際限のないものだ。
だが、収められたものの在り方が違う。
王の財宝は我が所有する財の蔵であり、以前使った世界図絵の原典は、知りたいものを調べるための書だった。こちらには、書物が書物として積み重なっている。
何を知りたいか決めてから答えを取り出すのではなく、背表紙を眺めているうちに、知らなかった問いそのものへ行き当たる場所だ。
実際、近くの棚へ目を向けただけで、何冊か気になるものがあった。
1冊を抜き取り、頁を捲る。古い紙は思ったより状態がよく、書き込まれた図も鮮明に残っている。ざっと目を通してから元へ戻したが、書かれていた内容は頭の片隅に残った。
あの男を訪ねる以外にも、来る理由はできたらしい。
もっとも、それを本人へ素直に言ってやるつもりはない。
回廊を進み、書架の列を抜ける。
しばらくすると、茶の香りが漂ってきた。
広い書庫の一角に、机と椅子が置かれている。卓上にはポットとカップが用意され、その向こうで、ここ数日嫌というほど見た男が寛いでいた。
こちらに気づくと、男が顔を上げる。
「ようこそ。随分と――」
最後まで聞く前に、肩越しへ黄金の波紋を開いた。
剣を1本、射出する。
空気を裂いた刃が机の脇を通り、男の顔へ迫った。
アルビレオ・イマは椅子に座ったまま身体を僅かに傾け、剣を避ける。白い衣の端が揺れ、その背後で硬い音が響いた。
刃が突き立ったのは、蔵書の置かれていない石柱だった。
アルビレオ・イマはそちらを一瞥し、それから持ち上げかけていたカップを静かに置いた。
「……随分と物騒なご挨拶ですね」
「気にするな。数日分の鬱憤だ。多少は気が晴れた」
「それは何よりです。できれば、もう少し穏やかな方法を選んでいただきたかったのですが」
「まだ口が回るようなら、もう1本要るか?」
「お茶が冷めますよ」
まるで動じていない。
予想はしていたが、実際にやられると腹立たしいものだ。
剣を蔵へ戻し、机の前へ進む。アルビレオ・イマは何事もなかったかのように空いた椅子を示した。
「改めまして。私はクウネル・サンダースと申します」
「待たせたな、アルビレオ・イマ」
「……今、ご挨拶をしたところなのですが」
「聞こえておるぞ、アルビレオ・イマ」
「そちらではない名前でお呼びいただけると、ありがたいのですがね」
「断る」
腰を下ろすと、男が困ったように笑った。
もちろん、本当に困っているわけではない。その程度の表情を作るのが上手いだけだ。
目の前にカップが置かれる。
茶の色も香りも悪くない。向こうも、こちらを招いて飲ませるものについては、それなりに気を遣ったらしい。
「気に入っていただけましたか。この場所は」
「書庫の方はな」
「では、主には?」
「わざわざ言わせるな、アルビレオ・イマ」
今度は声を出して笑った。
その姿を眺めながら、俺は改めて男の在り方へ目を向ける。
人の姿をしている。
話し、笑い、茶を飲んでいる。
だが、その中心にあるのは、人間の肉体ではなかった。
1冊の魔導書。
長い時間と膨大な知識を内に収め、人の形で世界を眺めている書物だ。目の前の身体だけを見ていては分からないが、こちらの目には隠せていない。
そこで、古い記憶がもう1つ浮かんだ。
かつてFate/EXTRAやFGOで見た、アリスとナーサリー・ライム。
物語と本、そして人の姿。その繋がりが、一瞬だけ目の前の存在と重なる。
だが、向こうで薄ら笑いを浮かべている顔を見た途端、その連想は引っ込んだ。
似ても似つかない。
あちらを思い出した直後に、こちらの性根を並べて考えること自体が間違っている。比較されるナーサリー・ライムに失礼というものだ。
「どうかしましたか?」
「少しばかり、昔のことを思い出した」
「それは興味深いですね。ぜひ伺いたいものですが」
「貴様とは似ても似つかぬ、可愛げのある本の話だ。聞かせてやる気にはならんな」
アルビレオ・イマの指が、カップの取っ手に触れたところで止まった。
そのまま、僅かに目を細める。
「……そこまでご存じでしたか」
「その姿でなければ分からぬと思っていたか?」
「いえ。ただ、普通はもう少し驚いていただけるものでして」
「喋る書物を見た程度で、いちいち茶を吹いてもおれんだろう」
「私の方が、あなたのお話に驚かされそうですね」
また笑みが戻った。
存在の性質からはナーサリー・ライムを連想するのに、喋らせてみれば、ますますあの夢魔に近い。
厄介なものを混ぜ合わせた本もあったものだ。
俺は茶を飲み、周囲の棚へ目を向けた。
「アカシャの図書迷宮、か。地上の図書館だけを見て帰っていたら、随分と損をするところだったな」
「そうでしょう。時と場所を隔てて記された書物が、ここには集まっています。読みたいものには困りませんよ」
「困るのは、選ぶ方であろうな」
「お分かりいただけて嬉しいですね」
その言葉に限っては、幾らか本音が混じっていた。
本が好きなのは確かなのだろう。棚の一角を示し、収められている書物について説明を始めた時の声音が、先ほどまでとは少し違う。
こちらも気になった本のことを尋ねた。
返ってきた説明は的確で、余分な言葉が少ない。どこまで話せばこちらが理解するかを、会話の中で測っている。
性格はともかく、話し相手として退屈しないことだけは認めてやってもよさそうだった。
◆
「エヴァンジェリンとは、随分と親しくされているようですね」
書物の話が一段落すると、アルビレオ・イマがそう切り出した。
「時折、茶を飲みに行く程度だ」
「それで家へ上げてもらえるのなら、十分でしょう。私が伺っても、あのようには歓迎されませんから」
「日頃の行いを省みろ」
「私は彼女のことを、とても気に入っているのですがね」
「相手も同じとは限らんぞ」
返すと、男は少しも傷ついた様子を見せずに笑った。
そこから始まったのは、エヴァをからかって怒らせた話だった。本人としては愉快な思い出なのだろうが、聞いているこちらからすれば、嫌われる理由を自分で並べているだけである。
あの男を見かけたら気をつけろと、以前エヴァが言っていた意味がよく分かった。
「よくもまあ、そこまで怒らせて無事に済んでおるな」
「無事ではない時もありましたよ。それも含めて、彼女は反応がよいものですから」
「懲りぬだけか」
「可愛らしいでしょう?」
俺はカップを置いた。
声を荒らげたわけではない。だが、陶器が受け皿へ触れた音の後で、会話が一度途切れた。
「エヴァ相手なら、本人と勝手にやっていろ。あれを外見通りの童だと思うほど、我も耄碌してはおらん」
「では、問題はありませんね」
「話は最後まで聞け、アルビレオ・イマ」
男の笑みを正面から見る。
こいつの幼児趣味まで、同じ調子で笑ってやる気はなかった。
「本当に年端もいかぬ子供へ、貴様の悪趣味を向けるな。エヴァなら嫌だと思えば貴様を殴り飛ばせる。だが、知恵も力も足りぬ童はそうではない。その違いを、分からぬふりで誤魔化すつもりなら容赦はせんぞ」
アルビレオ・イマは返事を挟まず、こちらの言葉を聞いていた。
先ほどまでの軽口が、ひとまず止まっている。
「随分と厳しいですね」
「厳しい? 長く生きた者が、拒み方も逃げ方も知らぬ子供を己の道楽に付き合わせるなと言っておる。これでも分からぬか?」
「……警告として、受け取っておきます」
「そうしろ。先ほどの剣は挨拶で済ませてやったが、次もそうなるとは思うな」
もう1度だけ目を合わせてから、カップへ手を伸ばした。
エヴァをからかって殴られた話なら、あの女も災難だと笑って聞ける。だが、その延長へ本物の子供まで並べるなら話は別だ。
ここだけは、曖昧にしておく気はない。
アルビレオ・イマは空になりかけたカップへ茶を注ぎ、少し間を置いてから話題を変えた。
「さて。お招きした私が、まだ肝心なことをお話ししていませんでしたね」
「ようやくか。あれだけしつこく呼んだのだ。さぞ立派な用件なのであろうな」
「一度、ゆっくりお話をしてみたかったのです」
ポットを置く手つきまで、実に落ち着いていた。
こちらもしばらく黙ってみたが、続きはない。
「……それだけか?」
「はい」
「人混みに立ち、校舎の前へ現れ、挙句に食事中の席へまで居座った理由が、それか」
「なかなか来ていただけませんでしたので」
「やはりもう1本撃っておくべきだったな」
「今のお顔も、なかなか興味深いですよ」
少しは反省しろ。
そう思って睨んだところで、男はますます楽しそうになるだけだった。
「もっとも、興味があるのは今のお姿だけではありません。あなたの歩んできた人生についても、ぜひ1冊――」
「断る」
「まだお願いを最後まで申し上げていませんが」
「最後まで聞かねば分からぬほど、鈍くはない。貴様の蒐集に付き合ってやるつもりはないぞ、アルビレオ・イマ」
他人の人生を記し、その姿や技まで再現する書。
こいつが欲しがる理由は分かるが、分かったところで応じる理由にはならない。
アルビレオ・イマは残念そうに息を吐いた。
「そう仰ると思っていました」
「ならば聞くでない」
「聞かなければ、断られる機会もありませんからね」
「断られることまで趣味にするな」
まったく、どこまで本気でどこから遊んでいるのか。分からないのではなく、どちらも同じ顔でやるから始末が悪い。
俺は椅子へ座り直した。
「そちらの用が済んだなら、今度は我の話だ。せっかくここまで来たのだから、多少は付き合ってもらうぞ」
「もちろん。何についてお聞きになりたいのでしょう」
「
アルビレオ・イマが、僅かに姿勢を変えた。
「なるほど。それでしたら、私からお話しできることも多いでしょう。かつて魔法世界の大戦で――」
「概要ならば要らん」
そこで止めると、男がこちらを見る。
「以前とある原典で一度調べた。ナギ・スプリングフィールドをはじめ、貴様らの名も、戦歴も、その後にどのような評価を受けたかも一通りは知っておる」
「……原典、ですか」
「そこへ食いつくな。今は貴様らの話をしておる」
「失礼しました。では、既にご存じのことも多そうですね」
「記録は読んだ。だから、今度は貴様の話を聞きに来た」
男の指が、カップの縁から離れた。
書に残された事実と、その場にいた者の言葉は同じではない。
どの戦いで誰が何をしたか。何を成し遂げ、何を救い、どのように称えられたか。それは調べれば分かる。
だが、後から整えられた英雄譚には、その日のくだらない口論や、出発前に誰が何を言ったかまでは残っていない。共に歩いた者が、どこで笑い、どこで呆れ、何を忘れられずにいるのかも。
「我が聞きたいのは、貴様が見ていた紅き翼だ。アルビレオ・イマ」
そう言うと、男は少しだけ目を伏せた。
次に顔を上げた時には、いつもの笑みへ、どこか違うものが混じっていた。
「それでしたら……まず、ナギがどれほど人の話を聞かない男だったか、というところからでしょうか」
「エヴァが聞いたら、喜んで相槌を打ちそうだな」
「彼女にも、随分と迷惑をかけましたからね」
そこから始まった話は、確かに歴史書へ載せるには向いていなかった。
詠春が順序立てて説明している横で、ナギがさも分かったように頷いていたこと。最後まで聞いたところで、結局どうすればいいのかと尋ね、周りを脱力させたこと。
では理解していなかったのかといえば、いざ動く段になれば、肝心なところだけは外さない。細かな段取りを飛び越えて厄介事へ首を突っ込み、こちらが辿り着く頃には話を別の方向へ転がしている。
「『つまり、あいつを殴ればいいんだろう』と。そこまでは合っていることも多いのですが、その途中を誰が片付けるのかという話には、あまり関心がなかったですね」
「よくも周りが付き合っておったな」
「文句は言いましたよ。聞いていたかは怪しいものですが」
「貴様も苦労したとでも?」
「いえ。私はかなり楽しんでいました」
「であろうな」
向こうが笑い、こちらも少し笑った。
今の詠春を見れば想像できる部分もあれば、意外な部分もある。高畑についての話は、現在の教師姿と比べると、さらに興味深かった。
アルビレオ・イマは、今の彼らをそのまま昔へ置いたようには語らない。
未熟だったところも、言い返せなかった場面も、背伸びをしていた姿も、覚えている。英雄の一員として名前を列挙するだけでは見えないものが、その話にはあった。
「高畑から聞けば、また違う話になるのであろうな」
「そうでしょうね。私の話を聞いたと知れば、まず訂正から始めるかもしれません」
「都合よく脚色しておるのか?」
「見ていた場所が違うだけですよ」
「便利な言葉だな、アルビレオ・イマ」
そう返すと、男は否定せずに茶を飲んだ。
事実を知らずに聞けば、そのまま信じてしまいそうな話し方だった。
だが、こちらは既に記録を読んでいる。食い違う部分も、言葉を選んでいる部分も、そのまま聞いてやることができる。正誤を1つずつ問い詰めるために来たのではない。
誰をどう語るかということ自体が、この男についての話でもあった。
◆
「そういえば、ジャック・ラカンについては、妙なものが出てきたな」
話がその男へ及んだところで、俺は口を挟んだ。
アルビレオ・イマが、続きを促すようにこちらを見る。
「経歴や戦歴に混じって、本人による情報提供の料金まで載っておった。己の話を聞かせるにも、いちいち銭を取るらしいではないか」
「ああ。彼なら、そうでしょうね」
実に納得した顔だった。
こちらの眉が寄る。
「本当に英雄か、あれは」
「元々傭兵ですから。金にがめついのは、仕方がないのではありませんか」
「傭兵だから、どうした」
声を落とすと、アルビレオ・イマがカップを机へ戻した。
「それで英雄としての振る舞いまで不問にしろというなら、随分と安い名になったものだな」
「無償で働くべきだと?」
「誰がそんなことを言った」
財を求めることを否定するつもりはない。
働きに報酬を求めるのも、己の武勇を語るのも、人の欲として何らおかしくはなかった。そもそも、欲深さと英雄であることは両立する。
酒を好み、欲を隠さず、己の夢のために世界さえ求める王もいる。その俗っぽさを削ぎ落とせば立派になるなどというものでもあるまい。
だが、それは何もかもを同じように許してやるという話ではない。
「銭を欲しければ求めるがよい。女好きでも、食い意地が張っていても、我はそれだけで英雄の名を取り上げん。だが、その名を掲げて己を売るのであれば、相応のものが要る」
「ラカンの実績は、ご覧になったのでしょう?」
「見た。だからこそ聞いておる」
アルビレオ・イマの目を正面から捉える。
「俗物が英雄の皮を被っておるのか。それとも、英雄が俗物の顔で笑っておるのか。貴様の言う傭兵という一言では、その答えにならんぞ」
しばらく、向こうは何も言わなかった。
やがて、その口元に小さな笑みが戻る。
「……強さについてなら、私が保証できますよ」
「強いだけなら獣にもできよう」
「厳しいですね」
「当然だ。英雄王たる我の前で英雄の名を出したのだからな」
世間が英雄と呼んでいる。
多くの者に慕われ、記録に残る偉業を成した。
それらを知ったことと、俺自身が認めたことは別だった。記された評価を読み上げるだけで済ませるなら、この男のところへ話を聞きに来る必要もない。
アルビレオ・イマは、今度は面白がるだけではない顔でこちらを見ていた。
「では、実際にラカンとお会いになったら、どうなさいます?」
「裁定する」
返答に迷いはなかった。
「まず、本人のお話を伺ってから?」
「要らん。顔を見た瞬間に始める」
「それはまた、突然ですね」
「記録は読んだ。貴様からも話を聞いた。あとは本人が、何を示すかだ」
訪ねてきた理由を丁寧に説明し、手合わせを願い出るつもりはない。
ジャック・ラカン。
その顔を見つけたなら、その場で我が財を抜く。
口で己を大きく語る暇など与えず、その身で答えさせればいい。英雄の名に値する男ならば、こちらが何を求めているかも、いずれ分かるだろう。
アルビレオ・イマが、深く息を吐いた。
心配しているのかと思えば、次に出たのは笑い声だった。
「ラカンは、さぞ驚くでしょうね」
「それで終わる程度なら、興味は湧かぬ」
「いえ。その後は、きっと喜びますよ」
「ならば結構」
向こうが嬉しそうなのは気に入らないが、その点については同意できた。
「そういえば、武器を数多く使うところは、お2人とも似ていますね」
アルビレオ・イマが、先ほど剣を撃った辺りへ目を向ける。
俺は鼻で笑った。
「見てくれだけであろう。【|千の顔を持つ英雄《ホ・へロース・メタ・キーリオーン・プロソーポーン》】についても調べてある。あれは、1つの財が幾つもの武装へ形を変えるものだ。我の蔵とは違う」
「お気には召しませんか?」
「そうは言っておらん。使い手に合わせて形を変えるなら、便利な財ではあろうな」
既存の宝を写し取っているわけでもない。
己の形を自在に変える武装に対し、真作だの贋作だのと騒ぐ理由はなかった。何を作り出し、それをどう使うか。そこに使い手の技量が出るなら、見る価値はある。
「ただ、ラカンの場合、武器を失ったからといって安心できるわけでもありませんが」
「ほう?」
「あの男自身が、一番厄介な武器ですからね」
アルビレオ・イマが、何かを思い出したように笑う。
「多少不利になったところで、理屈通りには諦めてくれませんよ。私たちも、何度それに助けられたか分かりません」
先ほどの「強さなら保証する」とは、少し違う言葉だった。
単に力が大きいという意味で言っていない。
こちらはそれを聞き、僅かに口角を上げる。
「よかろう。その程度でなければ、わざわざ量る甲斐もない」
「会う前から、そこまで期待していると?」
「期待と裁定は別だ。貴様が褒めた程度で、我が認めると思うなよ」
「ええ。ぜひ、その目でお確かめください」
まるで自分が楽しむ予定でも立てているような顔だった。
どうせそうなのだろう。
こちらがラカンと相対した時、あの男がどんな顔をするか。それを想像していることは、わざわざ眼を使うまでもなく分かった。
「先に余計なことを吹き込むなよ、アルビレオ・イマ」
「私が?」
「そういう顔をしておる」
「これは生まれつきです」
「尚更たちが悪いな」
男が笑い、俺も茶を飲んだ。
気がつけば、ポットの中身はほとんどなくなっている。
想定していたより、随分と長居をしたらしい。
◆
席を立つと、アルビレオ・イマが残念そうな顔を作った。
「もうお帰りですか?」
「地上で仕事をしている身なのでな。貴様のように、いつまでも地下で茶を飲んではおれん」
「私にも仕事はあるのですがね」
「ならば我の通勤路へ幻を並べず、それに励め」
そう返すと、男は素直に頷いた。
素直すぎて、信用する気にはならない。
俺は机へ置いていた上着を取り、袖を通した。帰りに先ほどの棚へ寄る時間くらいはあるだろうと考えていると、アルビレオ・イマがそれを見透かしたように言う。
「気になる本があれば、またいらしてください。今日だけでは、とても見切れないでしょう」
「それはそうだな」
「では、次もこちらからお呼びして――」
「幻越しに潰されたいのか、アルビレオ・イマ」
即座に返すと、向こうが両手を軽く上げた。
「冗談ですよ」
「我は冗談ではない。次は幻と本体を分けて扱わんぞ。ここまで歩いて来てやる手間も省く」
「肝に銘じておきましょう」
「用があるなら書簡でも寄越せ。読んでから決める」
男が、少しだけ嬉しそうに笑った。
「分かりました。それでは、また」
「気が向けばな」
背を向け、書架の間へ戻る。
しばらく歩いてから振り返ってみたが、回廊に白い幻が立っていることはなかった。ようやく、視界の端が静かになったらしい。
性格は好かない。
人をからかう手口も、悪趣味を涼しい顔で語るところも、できれば真似する者が増えないでほしい類いだ。
だが、語るものは持っていた。
《世界図絵》で知った紅き翼は、魔法世界を救った英雄たちだった。今日聞いたのは、その英雄たちが腹を立て、馬鹿をやり、互いに呆れながら歩いていた頃の話である。
記録を疑ったわけではない。
その記録の間に、人がいたことを面白く思った。
帰り道、先ほど目を留めた棚の前で足を止める。1冊を抜き取り、開きかけたところで、ふと別の名前が頭をよぎった。
ジャック・ラカン。
金にがめつく、品行も褒められず、仲間からさえ馬鹿と呼ばれる男。
それでもなお、英雄だと言い切られるのであれば。
「……せいぜい、我を失望させるなよ」
口元が自然と緩んだ。
本人に会う時の挨拶だけは、もう決まっている。