魔法先生ギルガメッシュ 作:長LAVA
【長谷川千雨side】
選定の剣に浮かんでいた光が、ゆっくりと薄れていく。
「もう離して良い、なにかはわかった」
先生に言われて柄から手を離すと、刃に沿って走っていた輝きも消えた。代わりに、その背後に開かれた金色の波紋が、先ほどよりはっきりと揺れる。
先生は剣を蔵へ戻し、そのまま別のものを取り出した。
両手で受け止めるような武器でも、分厚い本でもない。片手に収まる小さなそれを見て、私はしばらく黙っていた。
「……眼鏡?」
「そうだな」
「いや、それは見れば分かるんだけどさ」
細い縁と、落ち着いた色のつる。卓上へ置かれたものは、私が普段使っている眼鏡と並べても、それほど目立たない外見だった。
伝説の剣まで収まっている宝物庫から、適性を調べて選ばれた結果がこれか。
別に、巨大な武器を渡してほしかったわけじゃない。ただ、もう少し身構えたことへの見返りがあってもいいんじゃないかと思っただけだ。
先生は、こちらの顔を見て少し笑った。
「何が出てくると思っておった」
「知らねえよ。だから緊張してたんだろ」
「なら、持ち歩きに困らぬものが出たことを喜べ。学校で使うたびに背丈ほどの杖を出すより、余程よかろう」
それは確かにそうだった。
先生の隣から、マクダウェルも眼鏡を覗き込んでいる。彼女は形よりも、別の何かを確かめているらしかった。
「見たものを調べるアーティファクトか?」
「観測と解析、それから得られた情報を基にした予測だな。まずは表示を絞る。何も知らぬうちから全てを見せても、情報に埋もれるだけだ」
先生は眼鏡を指で軽く支え、こちらへ差し出した。
「掛けてみろ。視力には勝手に合わさる」
自分の眼鏡を外し、渡されたものへ替える。
鼻に乗る重さは、ほとんど変わらなかった。つるが耳の後ろへ収まる感触も自然で、正面を見ても景色が歪んだりはしない。
変わったのは、先生が指を動かした後だった。
卓上のカップの周りに、淡い線が浮かぶ。
その横には小さな文字が並んでいたが、何を示しているのか、まだ分からない。私が目を向けると、今度は机の端に置かれた木片の周囲にも輪郭が現れた。
「……何か出た」
「先ほど術を使った跡だ。今は、魔力が働いた場所だけ見えるようにしてある」
私はカップへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
先生が、すぐに頷く。
「触ってよい。危険なものは置いておらん」
「全部、今みたいに分かるのか?」
「観測できたものについてはな。何でも無条件に見抜く眼ではない。見えるようになったからといって、何が起きているか理解したことにもならんぞ」
「そういや、これ、名前とかあんの?」
眼鏡を指で押し上げながら聞くと、先生は当然のように頷いた。
「《万象測るは慧眼の星》――ナクパ・イルムという。我が保有する《
「……名前だけ聞くと、機能を絞ったって感じが全然しねえな」
「元が元だからな。もっとも、我のように未来を見通し、答えそのものを知る眼ではない。ナクパ・イルムが示すのは、あくまで今そこにある情報と、そこから導ける可能性だ」
先生は眼鏡の縁を軽く指で叩く。
「何を見るか。何を信じるか。そして、その情報をどう使うか。そこから先はお前が決めろ、千雨」
「……つまり、眼鏡が勝手に何とかしてくれるわけじゃねえ、と」
「当然だ。財に頭まで預けるな」
言われて、もう1度カップを見る。
確かに何かは表示されているが、それ以上のことは分からない。術が残っているのか、既に終わった跡なのか、どういう効果だったのか。今の私には判断できなかった。
それでも、今まで何も見えなかった場所に、確かめるための手掛かりがある。
それだけで、目を離しがたかった。
「詳しい使い方は、基礎と一緒に教える。普段は表示を消しておけ。常に全てを調べようとすれば、疲れるだけだ」
教えられた通りに意識を向けると、線も文字も消えた。
普通の景色へ戻る。
眼鏡を少し直してから、私は先生を見た。
「……これなら、学校で掛けてても変じゃねえな」
「それも含めて、お前には都合がよかろう」
卓上へ残した元の眼鏡を、ケースへしまう。
新しい方を返そうという気には、もうなっていなかった。
◆
そこまで済んだところで、私はようやく帰る時間が気になった。
説明を聞き、魔法を見せられ、弟子になると決め、今度は宝具まで貰った。外でどれくらい経ったのか分からないが、随分長くここにいる気がする。
「先生。今日は、あとどれくらいやるんだ?」
「最初の基礎をまとめて教えるなら、ここへ入ってから5日ほどは使いたいところだな」
「……は?」
聞き間違いかと思った。
先生は平然としているし、マクダウェルも驚いた顔をしていない。絡繰に至っては、必要な部屋数でも考えているような様子だった。
「5日って、泊まり込みかよ。私、何も持ってきてねえぞ」
「外では5時間だ。入ったのが16時頃だから、戻るのは21時前後になる」
「時間の話だけじゃなくて、着替えとか――いや、その前に、一度戻るんじゃ駄目なのか?」
「こちらで24時間過ごすまでは出られん」
今度はマクダウェルが答えた。
私は彼女を見てから、ゆっくり先生へ顔を戻した。
「聞いてねえ」
「……そこは先に言うべきであったな。我の手落ちだ」
「大事なことだろ、それ!」
「うむ。すまん」
即座に謝られ、続けかけた文句が一度止まる。
謝れば何でも済むわけじゃない。だが、誤魔化されたり、そんなことも知らないのかと返されたりするよりは、ずっとましだった。
先生は私の前へ時計を置く。
「最低24時間という制限はある。だが、5日残るかどうかは別だ。今日のうちに基礎へ手をつけるなら、まとまった時間を使える。帰宅が遅くなる分は、我が寮まで送る」
「外では5時間、だったな」
「そうだ。中の24時間が、外の1時間に当たる」
私は時計と、見晴らしのいいテラスの向こうを見比べた。
学校を5日休むわけではない。
ただし、私自身は5日間ここで暮らすことになる。
分かったようで、どうにも実感の湧かない話だ。今夜の予定を考えていたはずなのに、急に何日分もの生活が目の前へ置かれた。
「……服は?」
「私の物を貸してやる。寸法くらい直せる」
マクダウェルが言い、こちらの体格を一度見た。
「動きやすいものと、寝る時のものがあれば足りるだろう。洗面用具も予備がある」
「部屋も準備できます。必要なものが足りなければ、お申し付けください」
絡繰までそう続ける。
どうやら、本当にこの中だけで済ませられるらしい。
私は少し考えた末、鞄を膝の上へ戻した。
「分かった。21時頃に外へ戻れるなら、やる。ただ、そういう制限は今度から先に言ってくれ」
「そうしよう」
「あと、5日ずっと訓練とか言うなよ」
「飯も食わせるし、寝かせもする。疲れ切って話を聞けぬ者へ教えても、時間の無駄だ」
そこは、きっぱりしていた。
先生が立ち上がると、マクダウェルも剣を抱えて席を離れる。
「なら、先に服を選べ。制服のまま何日も過ごされても困る」
案内された屋敷の中には、泊まるための部屋も、着替えを選べる場所も、本当に揃っていた。
衣装棚を開けたマクダウェルが、何着か取り出して私へ見せる。装飾の多い服も混じっていたので、そちらを避けて、落ち着いた普段着と運動に使えそうなものを選んだ。
サイズが合わないと言う前に、彼女が布を広げる。
短い言葉とともに、袖や裾が少しずつ形を変えた。縫い目が不自然に裂けることもなく、私の体格へ合うように整えられていく。
見ているうちに、肩の位置まで変わった。
「……そういう使い方もするんだな」
「着られない服を眺めているよりいいだろう」
「そりゃそうだけどさ」
外で見れば、また頭を抱えていたに違いない。
だが、ここでは何をしたのか聞ける。
着替えを抱えて部屋へ向かいながら、魔法という言葉の中には、思っていた以上に生活の細かな部分まで入っているのだと思った。
初日の残りは、驚くほど地味だった。
先生から渡されたのは、細い腕輪だった。
色も形も控えめで、制服の袖に隠れてしまえば、そう目立つものではない。眼鏡と同じく、あれだけの宝物庫から出てきたとは思えない外見だった。
「これを主な発動体にする。左腕へ着けろ」
「杖じゃなくていいのか?」
「小型の発動体もある。普通なら補助用に回す程度の品も多いが、これは違う。主杖として使うものと比べても、不足はない」
マクダウェルが一度手に取り、内側を見てから私へ返した。
「不足がない、で済ませるな。随分と制御を助ける機能が入っているじゃないか」
「最初から扱いにくいものを渡してどうする。本人の失敗と、道具の不具合が混ざれば、何を直すべきかも分かりにくくなる」
先生の説明に、私は少し納得した。
パソコンだって、使い方を知らない段階で機械まで壊れていたら、何を疑えばいいのか分からなくなる。
「いい道具を使ったせいで、覚えなくなるとかは?」
「道具が助けている部分も教える。使わなくてよい力を、余計に使わせることが修行ではない」
腕輪を着けると、留め具を探す前に大きさが変わった。
手首へ自然に収まり、動かしてもずれない。締めつけられている感じもしなかった。
そこから、先生の手を借りて魔力の感覚を確かめる。
目を閉じたまま、何度も首を傾げた。
暖かいような、力を入れているような、どちらとも違う感覚がある。分かったと思った次の瞬間には、何を感じていたのか曖昧になる。
「今のか?」
「途中までは合っていた。最後に腕へ力を入れただろう。そちらではない」
「分けろって言われても、分かんねえんだよ」
「なら、もう一度だ。分からんまま覚えたことにするより、今ここで間違えておけ」
光を作るどころではなかった。
感じる。少し動かす。止める。
それだけを繰り返しているうちに、腕を振っているわけでもないのに疲れてきた。先生は私が文句を言うより先に休憩を入れ、何を感じたか言葉にするよう求める。
うまく説明できないところでは、実際の感覚と合う表現が見つかるまで待っていた。
最初から正しい言葉を知っている必要はないらしい。
その日の最後に、腕輪を通して少しだけ力を流し、自分の意思で止められた。
たったそれだけだったが、さっきまでとは明確に違った。
先生が頷く。
「今のはよい。今日は、止められた感覚を覚えて寝ろ」
派手な光も音もなかった。
それでも私は、部屋へ戻ってからもう1度、左手首の腕輪を眺めた。
◆
2日目には、眼鏡の使い方を少しずつ覚え始めた。
表示を増やせば、それだけ分かるようになるわけではない。最初に魔力の動きを広く見せられた時は、机も床も、人の周りまで淡い線と濃淡で埋まり、かえって見づらくなった。
「多すぎる。今、どれを見ればいいんだよ」
「だから絞れと言ったであろう。まずは自分の腕輪だけだ」
対象を限定すると、ようやく目で追えるようになる。
力を流した時に、表示が変わる。一定にしているつもりでも、途中で強くなったり弱くなったりしていた。
何となく失敗したのではなく、どこで乱れたのか見える。
それだけで、やり直しやすくなった。
先生は机の端へ小さな球を置き、指で押した。
球が転がる。
眼鏡の中に、その先をなぞる薄い線が現れた。
ところが、先生が横から軽く触れると、線はすぐに描き直される。球の進む方向が変わったためだ。
「予測はこういうものだ。今、分かっている条件から先を見積もる。条件が変われば、結果も変わる」
「未来が見えてるわけじゃないんだな」
「そうだ。観測できなかったものや、途中で加わった力まで、初めから知っているわけではない」
私が球を押し返すと、また線が伸びた。
今度は先生が手を出す前に、私はその手元を見ていた。線が示した先だけを眺めていれば、また同じように外されていただろう。
「これ、どこへ動けばいいとか、そういうことまで言うわけじゃねえんだな」
「何をするか決めるのはお前だ。賢しい声が横から指図してくる財ではない」
「それは助かる」
見ているものの横から、いちいち何か言われたら、たぶん気が散る。
数字や線が示されるだけなら、自分で必要なところを見ればいい。何を調べるかも、どこまで表示するかも、こちらで変えられる。
この辺りは、触っていて面白かった。
先生から休憩を言い渡されても、表示の切り替えを試していたところ、マクダウェルが横から眼鏡のつるを指さした。
「休めと言われているだろう。見えるものが増えれば、それだけ頭も使うんだぞ」
「分かってる。これだけ確かめたら」
「その台詞、超と葉加瀬からも聞いたことがあるな」
先生が笑う。
同じ扱いをされるのは少し不本意だったが、言い返せるほど早くやめてはいなかった。
魔法そのものは、眼鏡ほど簡単には扱えなかった。
最初の灯りは、点いたと思った瞬間に消えた。
次は明るくなりすぎて、驚いた私が集中を切った。3度目には少し長く保てたが、先生に話しかけられた途端、やはり消える。
「喋らせるなよ!」
「実際に使う時、誰も話しかけてこないと思うのか」
「今は練習だろ!」
「だから練習しておる」
腹が立つほど正しい。
力を強くすれば長く点くわけでもないらしく、腕輪が余分な流れを抑えた時には、その感覚も教えられた。
助けられたことまで、自分でできたと思うな。
そう言われて、眼鏡に残る記録を確かめる。
光を安定させるために、出しすぎないことを覚える。消す時も、慌てて全部投げ出すのではなく、自分で終わらせる。
小さな木片を動かす練習でも同じだった。
持ち上げることばかり考えると、今度は下ろすところが雑になる。先生は机の上へ落ちた木片を拾い、何も言わずに元へ戻した。
「……着地まで、ってことか」
「よく分かったな」
数時間前の自分なら、宙へ浮いた時点で成功したと思っていただろう。
今は、浮いた後の方が難しいと知っている。
薄い防御を作る練習にも手をつけたが、こちらはまだ、何度やっても安定しなかった。目の前に形が見えたからといって、それで身を守れるわけではないらしい。
先生は無理に先へ進ませず、その日は、作りかけたものを安全に解くところまでにした。
できたことと、まだ任せられないこと。
それを毎回分けて言われるので、変に自信だけが膨らむ余地はなかった。
◆
3日目、机の上へ資料を積まれた時には、さすがに顔が引きつった。
「……魔法を習いに来たんだよな、私」
「だから、使うために必要なことを教える」
先生は一番上の冊子を開き、私の前へ寄せた。
そこに並んでいたのは、呪文ではなく、魔法を使う側の決まりや、麻帆良での行動についてだった。
誰にでも見せてよいものではないこと。
他人の魔法具を、仕組みが分からないまま使わないこと。
結界や封印を見つけても、面白半分に触らないこと。
おかしなものを見つけた時、何を確かめ、どこまでなら手を出さずに離れられるか。困った時には誰へ伝えればよいか。
思っていたより、学校生活に近い話が多かった。
「術が見えるようになったからといって、他人の持ち物を片端から調べるな。見えることと、調べてよいことは別だ」
「私がそんなことするように見えるか?」
「しなさそうだから説明を省く、というわけにもいかん。知った上で、しないならそれでよい」
先生は、資料を読み上げるだけでは済ませなかった。
こういうものを見たらどうするか。
誰かに術を頼まれたら、まず何を確認するか。
友人が危険そうな場所へ近づいていたら、どこまで自分で動くか。
私が答えると、足りないところを指摘される。
知らないから触らないと答えた時にも、それで終わりではなかった。触らずに離れれば済むのか、他の誰かが近づかないよう知らせる必要があるのか。自分が無事ならそれだけでいい、とは限らないらしい。
逆に、何でも自分で確かめようとすれば、それも止められた。
「分からぬものを報告する時は、分からぬまま報告しろ。確かめるために被害を受けては、本末転倒だ」
「半端な話でもいいのか?」
「半端だと分かるように伝えればよい。見たことと、推測したことを混ぜるな。それだけでも受け取る側は随分と助かる」
その辺りは、納得しやすかった。
自分の目で見たことを書き残していた時も、できるだけそうしようとしていたからだ。
魔法界の法や決まりについても、いくつか注意を受ける。
場所や立場によって扱いが異なることもあるから、1つ覚えた規則をどこでも同じに使うな、とまで言われた。何でもありだと思っていた魔法の方が、聞けば聞くほど面倒だった。
特に、他人の意識や認識へ関わる話では、何度も質問した。
「相手に分からないから、勝手に使っていいわけじゃないんだよな」
「当然だ。分からぬように使えることと、使ってよいことは別だ」
「……じゃあ、私に掛かってたやつは?」
先生の指が、資料の上で止まった。
向こうの机で本を開いていたマクダウェルも、こちらへ顔を向ける。
「それについては、近右衛門らにも直接説明させる」
「先生が知らない話なのか?」
「何が働いていたかは、昨日話した通りだ。だが、それを使い、生徒を預かっている側が、どう管理し、問題が起きた時に何をしていたかは、本人たちから聞くべきことであろう」
声は落ち着いていた。
それでも、ただの座学の続きではないことは分かった。
先生は私を見てから、資料へ目を戻す。
「今日は、何が起きていたのかを自分で説明できるようにしておけ。訳も分からぬまま、事情があると言われて頷く必要はない」
私は手帳へ書き留めた。
習っているのは、黙って守るための決まりだけではないらしい。
その夜、食事の後も資料を見直していると、先生に本を閉じられた。
「もう寝ろ。目が同じ行を往復しておる」
「あと少しだって」
「その少しで、今覚えたことまで曖昧にする気か。続きは明日だ」
顔を上げると、マクダウェルが向かいで笑っていた。
彼女の手元には、メロダックを調べているらしい書き込みと、別の本がある。
「人のこと笑ってるけど、お前もずっとそれ見てるだろ」
「私は慣れている」
「便利な言い訳だな」
「長く生きると、使える言い訳も増えるのだろう」
先生が横から口を挟み、マクダウェルに睨まれた。
私は資料を片付けながら、つい笑ってしまった。
学校では、こんなふうに話す相手だとは思っていなかった。
分からないことだらけなのは変わらないが、少なくとも、ずっと身構えている必要はなくなっていた。
◆
4日目には、机から離れる時間が増えた。
魔法を使うにしても、足がもつれて転んでいては話にならない。そう言われ、借りた運動着に着替えて、先生の前へ立つ。
最初にやったのは、立ち方と歩き方だった。
それだけならできると思っていたが、前へ注意を向けたまま動くと、足元が怪しくなる。逆に地面を見ると、先生が少し動いただけで反応が遅れた。
「両方見ろって言われても、目はそんなにねえよ」
「だから、どこまで見れば足りるか覚える。常に足先を睨んで歩いておったら、正面の壁にもぶつかるぞ」
柔らかな敷物の上で、転んだ時の身の守り方も教わった。
頭では分かっていても、体はすぐにはついてこない。先生が急に手を伸ばすと、私は肩をすくめて固まり、そこから動こうとして足が絡んだ。
何度もやり直す。
先生は速く動かない。こちらが間に合う速度まで落として、それでもできなかった部分を一つずつ直していく。
派手に投げられたり、殴り倒されたりするような訓練ではない。
それなのに、休憩の頃には随分と息が上がっていた。
「……地味な方が疲れるな」
「派手なことをすれば疲れぬとでも思ったか?」
「そういう意味じゃねえよ」
返す声まで少し息切れしていて、自分でも情けなくなった。
短い休憩を挟んでから、逃げ方の話になる。
ただ背中を向けて走ればいいわけではない。どこへ向かえば誰かに知らせられるか。自分の位置を説明できるか。追われているのに、行き止まりへ飛び込んでいないか。
魔法を使う前に考えることが、いくつもあった。
「逃げる途中で、追いつかれたら?」
「その時のために、止める手段も覚える。防ぐ、妨げる、必要なら打ち返す。逃げるという目的と、一度も反撃しないことを混同するな」
先生は軽く掌を上げる。
そこへ、教えられた通りに腕を伸ばしてみた。届くと思っていた距離なのに、先生が僅かに身を引いただけで届かなくなる。
逆に、こちらは足を止めてしまっていた。
「相手をどうにかすることへ夢中になれば、最初の目的を忘れる。何のために動いたのか、そこを手放すな」
私は腕を下ろし、息を整えた。
戦うための練習なのに、ずっと、何をしたいのか聞かれている。
勝てばいいという話ではないらしい。
その後、防御の術を保ったまま動く練習もしたが、数歩で崩れた。立っている時にはできていたことが、歩くだけで怪しくなる。
先生はそれを見て、予定していた先の内容を減らした。
「今日はここまででよい。まだ、動きながら確実に守れるとは思うなよ」
「思えって言われても無理だろ。自分で消えたの見てんだから」
「ならばよい」
できないことを把握しただけで、その日の練習が終わることもある。
それが、思っていたより大事なのだと分かってきた。
午後には、マクダウェルから別の術も見せてもらった。
先生の使い方だけでは分かりにくい、一般的な魔法の組み立て方。それから、幻を見せる術と、注意の向きを変える術の違い。
呪いについては、名前を聞けば何でも同じ対処ができるものではないと、まず釘を刺された。
正体の分からないものへ触れない。
分からないまま、勝手に解こうとしない。
ここでも、最初に教えられたのはそれだった。
「マクダウェル、そこ、もう1回。今の説明だと途中が分かんねえ」
「どこからだ?」
「力を込めた後。何を変えた?」
彼女は少し考え、今度は手順を分けて見せた。
文句は言うが、分からないと言ったところを無視はしない。速度を落とし、私が見ているところに合わせて繰り返してくれる。
終わる頃には、聞き返す時の遠慮もかなり減っていた。
「……説明、ちゃんとすれば分かりやすいんだな」
「褒めているのか、それは」
「褒めてる」
「なら、ちゃんとすれば、は余計だな」
そのやり取りを横で聞いていた先生が笑い、こちらまで少し笑ってしまった。
◆
5日目には、最初に灯した光を、前より安定させられるようになっていた。
話しかけられても、すぐには消えない。自分で消そうと思えば消せるし、腕輪が働きを補った時の感覚も、少しずつ分かる。
動かせるのは、まだ軽いものだけだ。
防御も、落ち着いて準備した時に、薄く形を作れる程度だった。昨日の足運びを思い出しながらやれば、相変わらずどちらかが疎かになる。
それでも、初日に自分の腕へ力を入れて、これが魔力かと聞いていたことを思えば、進んではいる。
先生はその確認を終えると、道具を片付けた。
「今日は試験をするつもりはない。覚え始めたばかりのものを並べて、実戦ができるか計っても仕方あるまい」
「……何かやらされると思ってた」
「今からやるのは、我らの方だ」
先生の横へ、マクダウェルが歩いてきた。
彼女の手には杖がある。
それを見て、私は少し姿勢を正した。
「その前に、魔法使いと魔法剣士の話をしておく。これから何を重点的に伸ばすか考えるための、大まかな分け方だ」
「剣を持つかどうかか?」
「それだけではない。術を中心に戦うか、強化した身体と武術を中心に戦うか。その違いだと思っておけ」
先生は手近な小石を2つ拾い、卓上へ少し離して置いた。
片方へ指を添える。その周りに魔法使いらしき絵を魔力で描いていく。
「魔法使いは、距離や時間を使い、大きな術や複数の術を働かせる。前へ出る者に守らせることもあれば、結界や妨害で近づかせぬこともある。攻撃だけでなく、味方を助ける術を主にする者もいる」
次に、もう片方の小石を近づけた。こちらへは剣を構えた者の絵が描かれていく。
「魔法剣士は、身体を強化し、自ら間合いへ入る。剣に限らず、槍でも拳でも構わん。術を使うために距離を取るより、術の力で近づき、武術を通すわけだ」
「両方できる奴もいるんだろ」
「当然だ。これは、片方しかしてはならぬという規則ではない」
マクダウェルが、先生の説明を引き取る。
「私だって近接戦はできる。だが、それを主にする魔法剣士かと言えば違う。600年以上の時間と、吸血鬼の身体があるから、普通の魔法使いなら不得意なところにも手を伸ばせているだけだ」
この数日で、彼女が見た目通りの年齢ではないことも、吸血鬼だということも聞かされていた。
最初は、それぞれの言葉だけで質問が止まらなくなった。
今はひとまず、常識の範囲でこの同級生を比べても仕方がない、というところへ落ち着いている。
「では、今日は分かりやすくしてやる。私は動かん。術と防御だけで、こいつを近づけさせない」
杖の先が、先生へ向けられた。
先生は少し笑ってから、金色の波紋へ両手を入れる。
取り出したのは、左右1振りずつの剣だった。
長さも重さも扱いやすそうに揃った双剣で、刀身に余計な飾りはない。ただ、先生が握った途端、手にしたものと腕の動きが自然に繋がって見えた。
「我はこの2振りだけだ。蔵から剣を飛ばすこともしない。身体強化と剣、歩法であれのところへ行く」
「普段は、もっといろいろ使えるんだよな?」
「使える。だが、それを全部混ぜれば、今何を見せたか分からなくなるであろう」
それは本当にそうだった。
先生は、この数日でも何度か、説明とは関係のない便利なものを平然と取り出している。あれまで入れば、魔法の勉強なのか、宝物庫の見学なのか分からなくなってしまう。
「見て、すぐ真似をしろとは言わん。今まで教えた基礎が、先でどう使われるのか、その一端を見ておけ」
先生の言葉に、私は頷いた。
連れていかれたのは、屋敷から離れた広い訓練場だった。
私と絡繰は、その端に用意された高い見学場所へ上がる。ここには防護が重ねられているらしく、眼鏡で見ると、外側へ幾重もの線が走っていた。
「こちらから出なければ、攻撃が長谷川さんへ届くことはありません。見失った時は、無理に追い続けず、一度全体を見てください」
絡繰に言われ、私は眼鏡の表示を少なめにした。
先生たちを中心に、魔力の働いている場所と、動いた跡だけ見えるようにする。
訓練場の向こう側で、マクダウェルが立ち止まった。
先生はそこから大きく距離を取り、双剣を軽く下げている。
先に変わったのは、先生の方だった。
短く呪文を口にすると、体の周囲に見えていた魔力の流れが整っていく。この数日、自分の腕の中でどうにか動かそうとしていたものが、全身へ巡っているように見えた。
「《戦いの歌》だ。魔力による身体強化の1つだな」
先生の声が届く。
その説明の直後、もう1つ、違う輝きが重なった。
眼鏡に表示されていた線が、少し様子を変える。何が起きたのか分からず眺めていると、マクダウェルが眉を上げた。
「……咸卦法まで使うのか。いつの間に身につけた」
「調べて、試した。なかなか面白い技だ」
「元からその身体で、さらに重ねるか。厄介な……」
私が絡繰を見ると、彼女は先生たちへ目を向けたまま答えた。
「気と魔力を合わせる、高度な技法です。今の長谷川さんが真似をするものではありません」
「それくらいは、今の会話で分かった」
先生が、その場で足を動かした。
軽く向きを変えただけに見えたのに、靴底の下で砂が鋭く散った。
いつもの授業で教卓の前に立っている姿とは、何かが違う。体が大きくなったわけでも、武器を振り上げたわけでもないのに、次に動いた時のことを、目が追いたがる。
マクダウェルは杖を持ち直し、その前方へ幾つもの光を並べた。
「では、始めるぞ」
「ああ。遠慮はするなよ、エヴァ」
「後で文句を言うな」
最初に飛んだのは、数本の氷槍だった。
私が見たことのある小さな欠片とは、太さも速さも違う。真っ直ぐ飛んでくるものに加え、少し遅れて左右から回り込むものがある。
先生は走り出した。
正面から来た1本を右の剣で逸らし、続く槍を左の刃で切る。その間も足は止まらず、横から迫ったものは体のすぐ後ろを抜けて地面へ突き立った。
硬い音が、見学場所まで届く。
マクダウェルは動いていない。
その周りで、新しい光が次々と生まれた。
先生が避けた先の地面へ、白い筋が走る。そこから氷が盛り上がるより早く、先生は進む向きを変えていた。
「……本人を狙ってないのか?」
思わず呟いたが、すぐに続く攻撃で、それどころではなくなる。
正面から光が押し寄せた。
先生が一度だけ、強く踏み込む。
姿が消えた。
そう見えた次の瞬間には、ずっと前方で双剣が光っていた。
「今の何だよ!」
「瞬動術です。瞬間移動ではなく、高速での移動になります」
「移動って……途中が見えなかったぞ」
眼鏡には、短い軌跡が残っている。
だが、それを目で辿った時には、先生はもう別の場所へ動いていた。予測の線も、マクダウェルの新しい術が生まれるたびに引き直される。
線の先を見て待っていれば、そこへ来るとは限らない。
2日目の球より、遥かに目が忙しくなっていく。
マクダウェルの足元から、複数の魔法陣が開いた。
その前を先生が抜けようとしたところで、氷柱が順にせり上がる。最初から全部生やすのではなく、進もうとする道を追いかけるように塞いでいく。
先生は右へ曲がりかけ、途中で左へ踏み直した。
その先にも光がある。
双剣が交差した。
迫った術の中央に細い切れ目ができ、そこを先生の体が抜ける。切られた光は両側へ流れ、背後の地面を抉った。
私は思わず欄干へ手を置いた。
魔法を切った。
確かに、そう見えた。
だが、すぐ次の氷塊へは、同じことをしなかった。先生は大きく横へ飛び、その氷が地面へ触れた瞬間、内側から弾けるように破片が広がる。
細かな氷が、空中で向きを変えた。
先生が避けたはずの場所へ、もう1度降り注ぐ。
「うわ……」
声が漏れた。
大きいものを避ければ終わりではないのだ。
先生は足を止めず、2振りの剣で近くの破片だけを払い、低く身を沈めて抜けた。全部を砕いているわけではない。そこを通る邪魔になるものだけ、刃が届いている。
他の破片は、誰もいない地面へ突き刺さった。
マクダウェルが笑っている。
先生も、今までに見たことがないくらい凶悪な顔になっている。
その余裕が、私には一番分からない。
攻撃が増えるにつれ、見えるものは少なくなった。
正確には、見えてはいる。
光も、氷も、地面へ描かれる術も、眼鏡には映っている。ただ、それらを1つずつ理解しようとしている間に、次の出来事が始まってしまうのだ。
先生の剣が何に当たったのか分からないまま音が届き、振り向いた時には、もう次の場所へいる。
追いかけるのをやめ、私は一度、訓練場全体へ視線を広げた。
マクダウェルは、最初に立った位置からほとんど動いていない。
その前にあった開けた地面は、いつの間にか幾つもの白い塊で区切られていた。先生が進もうとするたびに、新しい攻撃がその先へ置かれる。
その中で、一度だけ、右寄りの地面が大きく空いた。
そこなら通れそうだと思った。
先生も同じ方へ向かう。
だが、私がその動きを見つけた直後、空いていた場所の奥で、まだ放たれていなかった光が強くなった。
「……そこ、待ってたのか?」
答えを聞く前に、先生が動いた。
進んでいた向きから、わずかに体が沈む。次の瞬間、右側へ放たれた魔法と交差するように、先生の姿が内側へ折れた。
眼鏡に短い線が2本、続けて残る。
魔法の光が地面を走る中を、先生は斜めに抜けていた。
マクダウェルの前方で、重なった障壁が輝いた。
左の剣が、その表面へ触れる。
一度弾かれたように見えた刃が、すぐ別の角度から入った。右の剣が続き、光の壁にできた狭い隙間へ、先生が踏み込む。
何かが鋭く鳴った。
その後は、ほとんど見えなかった。
次に2人の姿をはっきり捉えた時、先生はマクダウェルのすぐ前にいた。
片方の剣が、彼女の首元へ届く寸前で止まっている。
同時に、マクダウェルの杖の先には、まだ放たれていない光が集まっていた。その向きは、先生の体から外れていない。
訓練場のあちこちで輝いていたものが、動きを止めた。
「この辺りか」
「そうだな」
それだけ言い合うと、先生が剣を下げた。
マクダウェルも杖を引き、光を消す。
張りつめていたものが、ようやく緩んだ。
私は欄干から手を離した。
緊張と興奮により強く握りしめた手が痛みを放っていた。
◆
戻ってきた2人は、息も乱していなかった。
服へ付いた細かな氷を先生が払い、マクダウェルは絡繰から受け取ったカップへ口をつける。
つい先ほどまで、あれだけのことをしていた人間の様子には見えない。
「……私、あれを目標にしろって言われるのか?」
「どこへ届く可能性があるか見せたのであって、明日から同じことをしろとは言っておらん」
「普通は、簡単にここまで来ない。できたら私も苦労せんわ」
2人の返事を聞き、私は椅子へ座り込んだ。
疲れたのは見ていた方だ。
先生は双剣を蔵へ戻してから、私の向かいへ座る。
「それで、何が見えた?」
「全部は見えなかった」
「それはそうであろうな。見えたところでよい。眼鏡の記録も使え」
私は視界の端へ残された軌跡を呼び出した。
見ながら、その場で思ったことを話す。
「マクダウェルが撃ってたやつ、先生に当てるだけじゃなかっただろ。こっちへ来るなって感じで、地面とか、先に塞いでた」
「うむ」
「だから、遠いのに先生がずっと忙しかった。近づこうとしてたら、また別のところを塞がれて……途中から、走れる場所の方が少なくなってた」
マクダウェルが、少し満足そうに頷いた。
ただ、そこで全部分かったように言う気にはなれない。
「最後の右側は、空いてたように見えた。でも、あそこを抜けた先に、まだ撃ってないのがあったよな。あれ、わざとだったのか?」
「そうだ。通れそうな場所を残しておけば、そこへ足を向けさせやすい」
「先生は、分かってて行ったのか?」
「全てを避けて遠回りし続ければ、いつまで経っても届かんからな。放たせてから抜けられると判断した」
そう簡単に言われても、私には真似できない。
見えていたところだけでも、判断するまでに時間が掛かっている。その間に先生は、次の足をどこへ置くか決めていたのだろう。
眼鏡へ目を戻す。
残っているのは、動きと魔法の跡だ。
なぜそちらを選んだのかまでは、書いていない。今みたいに聞いて初めて、何を狙っていたのか分かる。
「あと、切った魔法と、避けたやつがあった。あれは?」
「斬って道を作れるものと、斬ってもそこを通れぬものがある。途中で弾けた氷を見たであろう」
「見た」
「割れば安全になるとは限らん。刃が通ることと、攻撃を終わらせられることは違う」
マクダウェルが横から付け加える。
「だから私も、同じものばかり飛ばさない。剣で払えると思って同じように対処すれば、別の結果になるものを混ぜる」
「性格悪いな……」
「今頃気づいたか」
先生が笑い、マクダウェルに睨まれた。
私は記録を消し、訓練場を見る。
あの中へ立って、自分で剣を振るう姿は、まだ全く想像できなかった。では、同じ場所に立ち続けて大量の魔法を撃つ方ならどうかと言われても、それも違う気がする。
私が気になっていたのは、2人の間にあったものだった。
どこが塞がれたか。
何がまだ残っているか。
次に動くなら、どこを気にする必要があるか。
「……私、どっちかと同じことをするより、少し離れて見ていたいかもしれない」
口にすると、先生がこちらを見た。
「怖いから、というだけか?」
「怖くないとは言わねえよ。でも、それだけじゃない。自分があの中で動いてたら、たぶん目の前のことしか分からなくなる」
うまく言葉にできず、私は少し考えた。
「例えば、今の先生のほかに、もう1人前へ出てる奴がいたらさ。あそこが空いたとか、まだ別の魔法が残ってるとか、そっちにも知らせた方がいいだろ。自分で全部壊すより、その方が通れるかもしれない」
「そうだな」
「それで、自分に何かできるなら、邪魔なところを少し止めるとか。何もないところへ大きな魔法を撃つより、今ここが動いたら困るってところへ使う方が、私には分かりやすい」
先生は、すぐに何かへ決めつけたりはしなかった。
私の言葉を聞いてから、眼鏡へ目を向ける。
「戦場を把握し、どこへ手を入れるかを考える方か。今のところ、お前が気にしているのは、確かにそちらだな」
「……軍師をやれ、とか言うなよ」
「5日で人を率いろと言うほど、我も無茶は言わん。まだ、自分が何を見落としているかも知らぬ段階だ」
「それは分かってる」
「ならば、今の興味を覚えておけ。術を組み立てる方が性に合うのか、人の動きを見る方が得意なのか。その先は、実際に学びながら確かめればよい」
マクダウェルも、こちらへ顔を向けた。
「今日の私みたいに動かず撃つことだけが、魔法使いの仕事ではない。誰かを通すために術を使うのも、相手の術を邪魔するのも同じだ。火力だけで選ぶ必要はないぞ」
私は頷いた。
まだ、何になりたいとまで言えるわけではない。
ただ、覚えた魔法をどこへ使うか考えることなら、少し面白そうだと思えた。
先生が、その様子を見て口元を緩める。
「眼鏡が示すのは、あくまで観測と予測だ。今の攻防の意味まで分かるわけではない。そこを考えるのがお前の仕事になる」
「間違えることもあるだろ」
「ある。だから、間違えたと分かった時に考え直せ。表示された線を守るために、自分の判断まで曲げるなよ」
球の進路が変わった時のことを思い出す。
予測は、外れれば書き直される。
私もそうできればいいのだろう。
最初から、何でも分かるふりをする必要はない。
◆
最後の復習と片付けを終える頃には、ここへ来た時に着ていた制服が、少し懐かしくなっていた。
借りた服を畳み、マクダウェルへ返す。寸法は元へ戻せるから気にするなと言われたが、何もかも任せきりでは落ち着かず、自分でできることだけは済ませた。
絡繰に部屋の礼を言い、鞄へ手帳を入れる。
数日前までの頁には、見たものがおかしいのか、自分がおかしいのか分からずに書いた記録が残っていた。
その後ろには、魔力の扱い方や、使ってはいけない場面、分からない時に聞く相手が書き込まれている。
ずいぶんと違う内容になった。
「次に来るまで、勝手に先へ進めようとするなよ」
マクダウェルが言う。
「教わっていない術を、面白そうだからと試すな。眼鏡に何か表示されても、分からなければ触らず聞け」
「分かった。……5日間、ありがとな」
一度、彼女と絡繰へ頭を下げる。
マクダウェルは少しだけ目を瞬かせ、それからいつもの顔へ戻った。
「明日から教室で頭を下げるなよ。変に注目される」
「誰が毎回やるか」
「では、また学校でお会いしましょう」
絡繰の言葉が、妙に不思議に聞こえた。
この5日間、同じ建物で食事をし、寝て、教わっていた2人と、明日にはまた同じ教室へ座る。
向こうにとっては当たり前なのだろうが、私の中では、まだうまく繋がっていなかった。
魔法球から戻ると、ログハウスの窓は暗くなっていた。
入る前には、まだ外が明るかった。
携帯電話を開き、待受画面を見る。
21時を少し回っている。
日付は変わっていなかった。
「……本当に、今日なのかよ」
朝、教室で授業を受けた。
放課後、先生を訪ねた。
その続きに、あの5日間が全部入っている。
頭では分かっていても、感覚がついてこなかった。
先生が上着を整え、玄関を開ける。
「帰るぞ。寮まで送る」
「……ああ」
外へ出ると、秋の夜の冷たさが頬へ触れた。
魔法球の中とは違う空気だ。
道の向こうには街灯が並び、遠くを走る電車の音が聞こえる。夕方まで大勢が歩いていた道も、今は人通りが少なかった。
先生と並んで歩きながら、私は一度だけ眼鏡の表示を出した。
景色に、見慣れない情報が重なる。
数日前の自分なら、それだけで足を止めていたと思う。だが、今は何でも確かめる時ではない。
表示を消すと、夜道は普通の見え方へ戻った。
先生が横からこちらを見る。
「全部見て回るつもりかと思ったが」
「帰り道まで勉強する気はねえよ」
「それでよい」
少し歩いてから、先生が続けた。
「明日の放課後は、学園長のところへ行くぞ」
私は横を向いた。
「……もう決まってるのか」
「お前へ事情を明かし、弟子にしたことは伝える。それから、これまでお前に起きていたことについて、学園側の説明を聞く」
「習ったことを、全部答えさせられるとかじゃねえよな」
「試験ではない。分からぬことを、分かったふりで答える必要もないぞ」
それを聞いて、少し安心する。
だが、先生の言葉には、もう1つ引っ掛かる部分があった。
「学園側の説明、っていうと」
「昨日まで、お前が1人で抱えていたことだ。術の専門家でなかったから気づけなかった、という話だけでは済まん。あれらは教師であり、生徒を預かっているのだからな」
声は穏やかだった。
それでも、ただ報告を済ませに行く気ではないことは分かる。
私は歩きながら、少し考えた。
高畑先生も、学園長も、私を苦しめるつもりで何かしていたとは思わない。
だが、誰にも気づかれないまま、自分の感覚まで疑っていたことも、なかったことにはしたくなかった。
「……私も、聞いていいんだよな」
「当然だ。お前自身のことだぞ」
「なら、私にも話させてくれ。全部先生だけで決めるなよ」
先生はすぐに頷いた。
「よかろう。言いたいことを、今夜のうちに整理しておけ。無理に格好のよい言葉へ直す必要はない」
「そういうのは、得意じゃねえしな」
「知っておる」
「そこは少し否定しろよ」
先生が笑った。
私も、少しだけ笑う。
寮の入口へ着くと、見慣れた灯りがついていた。
ここへ戻るまで、外では5時間ほどしか経っていない。
それなのに、鞄の中の手帳は何頁も増え、眼鏡も変わり、左腕には魔法を使うための腕輪がある。
まだできることは少ない。
灯りを保つことや、軽いものを少し動かすこと。魔力を出しすぎたと分かること。分からないものへ、勝手に触らずにいられること。
それから、聞いていい相手がいると知っていること。
「今日はもう休め。明日は普通に授業がある」
「分かってる。……5日もやった後に、また普通の学校か」
「英語を忘れていたら、そちらの補習も増えるぞ」
「忘れてねえよ!」
即座に返すと、先生は満足そうに頷いた。
寮の扉へ手を掛けてから、一度振り返る。
「送ってくれて、ありがと。先生」
「うむ。また明日な、千雨」
先生は、私が中へ入るまでその場にいた。
廊下を歩きながら、左の袖を少し持ち上げる。
細い腕輪が、そこにある。
何もかも夢だったと思う余地は、もうなかった。
明日は、知っていた側の大人たちへ話を聞く。
その前に、今夜は自分の部屋で、ちゃんと眠ろうと思った。
なんか想定していたより千雨パートが長くなってる……次回終わったらついにネギくん……が出るかも?