魔法先生ギルガメッシュ   作:長LAVA

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第4話

 

 

 

 

 翌朝、王の財宝から昨日と同じ背広を取り出し、白いシャツと暗色のスラックスに合わせる。鏡の前で肩へ掛けた上着を軽く整えたものの、やはり袖へ腕を通す気にはならなかった。

 

 昨日の入学式で一応顔は知られたらしく、宿舎を出てから女子中等部へ辿り着くまで、何度も名前を呼ばれた。

 

「ウヌグ先生、おはようございます!」

 

「うむ。おはよう」

 

 挨拶を返すだけで、数人固まって歩いていた生徒たちが揃って顔を見合わせる。そのまま小さな歓声を上げて駆けていく背中を眺めながら、昨日から抱いていた疑問が改めて浮かんだ。

 

 何がそこまで嬉しいのか、やはりよく分からない。

 

「あ、ギル先生だ!」

 

「今日、うちのクラス授業あるよ!」

 

「英語の授業サイコー!」

 

 少し先から聞こえてきた声に、思わずそちらへ視線を向ける。

 

 目が合った途端、生徒たちは慌てて頭を下げ、そのまま互いの肩を叩きながら騒ぎ始めた。

 

「まだ受けてもおらんだろうに」

 

 今からそれだけ期待されても、やるのは簡単な自己紹介くらいである。顔を見ただけで授業の評価まで決められては堪らない。

 

 もっとも、期待されないよりは幾分ましだろう。

 

 職員室へ入ると、昨日よりも多くの教師が既に席へ着き、授業の準備を進めていた。自分の机にも今日使う教材と時間割が置かれている。

 

 最初の担当は女子中等部の一年生。

 

 資料には小学校までに扱った内容も簡単にまとめられており、基礎的な挨拶や単語、短い文章には一通り触れているらしい。全くの初心者を相手にするわけではないが、本格的に文法を学び始めるのはこれからになる。

 

 昨日のうちに、教科書の内容は全て確認してある。

 

 その気になれば初日から先へ進められるものの、まだ互いの名前すら知らない。まずは生徒を知り、同時にどの程度の英語を扱えるのか確かめる方が先だろう。

 

 教科書と出席簿を手に取って立ち上がると、近くの席にいたタカミチが顔を上げた。

 

「最初の授業ですね」

 

「そうらしいな」

 

「一年生は昨日入学したばかりですし、まだ緊張している子も多いと思います。あまり驚かせないであげてください」

 

「我を何だと思っておる」

 

「入学式で何百人もの女子生徒を騒がせた先生ですね」

 

「あれは向こうが勝手に騒いだだけだ」

 

 昨日から何度目になるか分からない返答に、タカミチは苦笑しながら肩を竦めた。

 

「まあ、授業が始まれば少し落ち着くでしょう。いってらっしゃい」

 

「うむ」

 

 教室へ向かう廊下でも、擦れ違う生徒から視線が集まった。

 

 立ち止まってまで見ている者は少ないが、擦れ違った後で振り返る気配はいくらでもある。こちらを見つけた友人へ声を掛け、その反応からさらに別の者が振り向く様子も、昨日から変わらなかった。

 

 これが暫く続くのだろう。

 

 早く慣れてもらいたいところである。

 

 

 

     ◆

 

 

 

 教室へ近付くにつれて、中から聞こえる声が大きくなっていった。

 

「本当に一時間目ウヌグ先生なの!?」

 

「時間割に書いてあるって!」

 

「近くで見たら絶対ヤバいよ!」

 

 同じ言葉を今朝も聞いた気がする。

 

 授業を楽しみにすること自体は悪くないが、理由が英語ではないことくらいは分かっていた。

 

 開始時刻を告げる鐘が鳴る。

 

 扉を開けて中へ入った瞬間、それまでの騒ぎが一度途切れ、次いで入学式にも劣らない歓声が教室へ響いた。

 

「キャーッ!」

 

「ウヌグ先生!」

 

「本当に来た!」

 

「近い近い!」

 

 教壇まで数歩しかないにもかかわらず、随分と騒がしい。

 

 慌てて席へ戻る者もいれば、座ったまま友人の肩を叩いている者もいる。中には両手で顔を覆い、その指の隙間からこちらを見ている生徒までいた。

 

 教卓へ出席簿を置き、教室全体へ目を向ける。

 

 声を荒らげる必要はなかった。

 

 これから話す。

 

 ただそれだけの意思を込めて順に顔を見渡していくと、先ほどまで響いていた声が少しずつ小さくなり、やがて全員の視線が正面へ揃った。

 

「満足したか?」

 

 何人かが気まずそうに笑う。

 

「元気なのは結構だが、授業を始めるぞ。まだ立っている者は座れ」

 

 言われて初めて自分が立ったままだったことに気付いたらしく、数人が慌てて椅子へ腰を下ろした。

 

 黒板へ向き直り、チョークを取る。

 

 まず大きく、

 

 Gilgamesh Unug

 

 と書いた。

 

「昨日も名乗ったが、改めて。ギルガメッシュ・ウヌグだ。今年度、お前たちの英語を受け持つ」

 

「本当にギルガメッシュって名前なんだ……」

 

「長いよね」

 

「外国の名前って感じ」

 

 今度のざわめきは先ほどよりずっと小さい。

 

「長ければウヌグで構わん。ギルでも構わんが、我を呼んでいると分かるようにしろ」

 

「ギル先生でもいいんですか?」

 

 早速、前方の生徒が手を挙げた。

 

「好きにしろ」

 

「やった!」

 

 何が嬉しいのかは分からないが、本人が呼びやすいならそれでよい。

 

 名前の下へ、今度は幾つかの文章を書き加えていく。

 

 My name is ______.

 

 I like ______.

 

 My favorite ______ is ______.

 

 Nice to meet you.

 

 一通り書き終えて振り返ると、大半の生徒は既に意味を理解している顔をしていた。三つ目だけは単語を追いながら考えている者が何人かいるものの、最初の二つなら説明するまでもなさそうだ。

 

「今日は教科書を進める前に、これを使って全員に自己紹介をしてもらう。最低限、自分の名と好きなものを一つ。余裕がある者は、三つ目を使うなり、好きに文章を増やすなりすればよい」

 

 早くも何を入れるか考え始めた者がいる。

 

「言いたいことはあるが、英語でどう言えばいいか分からん。その場合は黙って諦めず、我に聞け。では先に見本を見せておく」

 

 黒板へ軽く視線を向け、そのまま英語へ切り替える。

 

「My name is Gilgamesh Unug. I like beer. Nice to meet you.」

 

 短い自己紹介を終えると、教室のあちこちで笑いが漏れた。

 

「先生、ビール好きなの?」

 

「初めての自己紹介でビールって言う先生、初めて見た」

 

「食い物ではないが、好みと言うならば麦酒だ」

 

「……ばくしゅ?」

 

「何それ?」

 

 揃って首を傾げられ、こちらも一瞬黙ってしまう。

 

 今の時代では、この呼び方を日常的に使う者の方が少ないらしい。

 

「……ああ。今はビールと言う方が通じるか」

 

「麦酒ってビールのことなんだ!」

 

「先生、言い方が古い!」

 

「今後通じるなら構わんだろうよ」

 

 教室へまた笑いが広がった。

 

 先ほどまで容姿だけを見て騒いでいた時とは違い、少しずつ空気が軽くなっている。初対面の教師を前にして固くなるよりは、これくらいの方が進めやすい。

 

「時間をやる。自分が何を言うか考えろ。書けた者から一度声に出して確かめておけ」

 

 生徒たちが一斉にノートへ向かう。

 

 簡単な内容を選んだ者はすぐに書き終えたが、自分の趣味を具体的に伝えようとする者ほど筆が止まり、間もなく教室の各所から手が挙がり始めた。

 

「先生、天体観測って何て言うんですか?」

 

「stargazingだ。星を見ること全般ならそれでよい」

 

「吹奏楽は?」

 

「学校の部活動を指すなら、brass bandが分かりやすい。楽器を演奏することが好きなら、使っている楽器を入れた方が自然だな」

 

「お菓子作り!」

 

「bakingで大体は通じる。菓子を作ることだと明確にしたければ、baking sweetsでもよい」

 

「推理小説は何て言うんですか?」

 

「mystery novels。探偵ものへ絞るならdetective novelsだ。貴様が好むのはどちらだ?」

 

「えっと、事件を解決するやつです」

 

「ならdetective novelsでよい」

 

 質問へ答えながら教室の間を歩く。

 

 分からない単語を聞くだけでなく、知っている言葉を組み合わせ、自分なりに文章を増やそうとしている者もいる。最初から黒板の文を丸写しして満足している者もいたが、今日はそれでも構わない。

 

 一度で全員へ同じものを求める必要はない。

 

 机の横を通り過ぎようとしたところで、ノートを隠すように腕を置いた生徒がいた。

 

「見られて困るものでも書いたか?」

 

「ち、違います。まだ全然できてなくて……」

 

 声も小さく、周囲へ聞かれることを気にしている。

 

 ノートへ目を向けると、名前までは書けているものの、その後で迷っているらしい。

 

「好きなものはないのか」

 

「ありますけど、英語が分からなくて」

 

「だから聞けと言った。何が好きだ」

 

「……ぬいぐるみを集めることです」

 

「collecting stuffed animalsだな。長ければ、今日はstuffed animalsだけでもよい」

 

 横へ英語を書いてやると、生徒は何度か口の中で繰り返した。

 

「言えそうか」

 

「はい」

 

「なら十分だ。最初から完璧な文を作る必要はない」

 

 頷いたのを確認して、次の机へ向かう。

 

 全員が一通り書き終えた頃を見計らい、教壇へ戻った。

 

「では始める。こちらの端から順に立て。黒板を見ながらで構わん」

 

 

 

     ◆

 

 

 

 一人目は随分と緊張していた。

 

 立ち上がったものの、教室中の視線が集まった途端に声が小さくなり、最初の一文で詰まってしまう。

 

「急ぐ必要はない。黒板を見ろ」

 

 こちらの声へ促されるように顔を上げ、もう一度最初から口にする。

 

「My name is……Mika. I like cats. Nice to meet you.」

 

 最後まで言い終えたところで、大きく息を吐いた。

 

「うむ。よく言えた。次は最初から今くらい声を出せば、後ろまで届く」

 

「はい!」

 

 先ほどより明るい声が返り、そのまま席へ座る。

 

 次の生徒はほとんど詰まらずに終え、その次は好きな食べ物を二つ並べた。黒板の文章へ一文加える者も少しずつ現れ、同じ形から始めても、話す内容には本人の性格が自然と出てくる。

 

 声の大きさ、単語の選び方、黒板へ視線を戻す回数。質問を聞いた時の反応まで見ていけば、現時点でどこまで理解しているかは大体掴めた。

 

 差がないわけではない。

 

 多少語彙を知っている者もいれば、覚えた文をそのまま口へ出すので精一杯の者もいる。ただ、まだ入学したばかりということもあり、授業そのものを分けるほど大きな差ではなかった。

 

 当面は同じ内容で進めればいいだろう。

 

「My name is Yuki. I like play tennis. Nice to meet you.」

 

 一人の生徒が言い終えたところで、近くの席から軽い笑い声が起こった。

 

 本人も間違えたことには気付いたらしく、顔を赤くしている。

 

 文法としては正しくない。

 

 ただ、何を伝えたいかは十分に分かる。

 

「笑っておる貴様らも、今のところ似たり寄ったりだがな」

 

 笑っていた生徒たちへ目を向けると、今度は教室全体から笑いが上がった。発表した本人も少し遅れて笑い、俯きかけていた顔を上げる。

 

「言いたいことは伝わっておる。よく言えた」

 

「……はい」

 

「間違えること自体は構わん。初めから何でも出来る人間などおらんし、口に出せば後で直せる。黙っておれば、我にも教えようがないからな」

 

 それ以上は引っ張らず、次の生徒へ視線を向ける。

 

 初回から口を開く度に文法を止めていては、英語より間違えないことばかり考えるようになる。細かな違いは、授業を進める中で直せばいい。

 

 暫くすると、黒板の文を使わず、自分で文章を増やした生徒が現れた。

 

「My name is Ayaka. I like reading mystery novels, because I enjoy thinking about the culprit.」

 

 多少ぎこちない部分はあるが、言いたいことを自分で組み立てている。

 

「ほう。理由まで付けたか。よい」

 

 褒められると思っていなかったのか、少し驚いた顔をした後、嬉しそうに座った。

 

 だからといって、続く生徒へ同じものを求めるつもりはない。

 

 出来る者は先へ進めばよく、今は黒板の文を言うだけで精一杯なら、まずそこを終えればいい。全員が同じ速度で進まないことなど、人間を見ていれば嫌でも分かる。

 

 次の生徒が発表している最中、後ろの席で二人が小声で話し始めた。

 

「そこの二人」

 

 名前を呼ぶまでもなく、声を掛けられた側が身体を強張らせた。

 

「話すなら後にしろ。今はあやつが話している」

 

「すみません」

 

 それだけで会話は止まった。

 

 間違いを笑う程度なら、こちらから茶化して終わらせればいい。だが、人が話している時に聞く気すらないのは別の話である。

 

 最後の一人まで終える頃には、予定していた時間を少し余らせていた。

 

 全員の顔と名前は覚えた。

 

 英語の理解度も、今必要な範囲なら十分に掴めている。

 

「よし。全員終わったな」

 

 教卓へ戻り、出席簿を閉じる。

 

「時間が少し余った。何か聞きたいことがあれば答えてやる。ただし、我の気が変わるまでだ」

 

 待っていたとばかりに幾つもの手が挙がった。

 

「先生、英語以外も話せるんですか?」

 

「幾つかな」

 

「何語ですか?」

 

「それを全て説明している間に鐘が鳴る。次」

 

「昨日、何食べたんですか?」

 

「昼にカレー、夜に麺だ。どちらも悪くなかった」

 

「好きな日本の食べ物は?」

 

「まだ二つしか食っておらんのに決められるか。これから探す」

 

 質問が続くにつれ、英語の授業という名目はどこかへ消えていった。

 

「先生、彼女いるんですか?」

 

 その一言で教室の空気が変わり、手を挙げていなかった者まで身を乗り出す。

 

「英語と何の関係がある」

 

「質問なら答えてくれるって言ったじゃないですか!」

 

「我の気が変わるまで、とも言ったがな」

 

「じゃあもう変わったんですか?」

 

 期待に満ちた視線が一斉に集まる。

 

 別に隠すようなことでもなかった。

 

「おらん」

 

 一瞬の沈黙の後、教室中から歓声が上がった。

 

「やった!」

 

「何がだ」

 

「先生、好きなタイプは!?」

 

「今ので終わりだ」

 

「えーっ!」

 

 不満の声と同時に、授業終了を告げる鐘が鳴る。

 

 都合のいいところで鳴ったものだ。

 

「今日はここまで。次からは教科書も使う。今日口にした文の意味くらいは忘れるな」

 

「はーい!」

 

「起立!」

 

 学級委員らしい生徒の声に合わせ、全員が立ち上がる。

 

「ありがとうございました!」

 

「うむ。また次にな」

 

 教室を出ようとしたところで、後ろから何人かの声が飛んできた。

 

「ギル先生、次の授業も楽しみにしてます!」

 

「次もビールの話してください!」

 

「英語をやれ、貴様ら」

 

 振り返らずに返すと、また笑い声が広がった。

 

 

 

     ◆

 

 

 

 扉を閉めても、暫くは教室内の声が廊下まで漏れていた。

 

 騒がしいことに変わりはないが、想像していたより素直な生徒たちだった。

 

 大半の英語力は似たり寄ったりで、現時点では一律の授業で問題ない。多少得意な者も苦手な者もいるものの、まず同じ基礎を積ませ、その後で差が広がるようなら考えればいいだろう。

 

 学校教師として初めての授業なのだ。

 

 初日から自分にしか出来ない何かを始める必要もない。

 

「思っていたより、面白いな」

 

 一人へ教えるのとは違う。

 

 同じ言葉を伝えても、すぐ理解する者、頭の中で何度も繰り返す者、間違えることを恐れて口を閉ざす者がいる。全員へ届かせようとするなら、内容だけでなく教室の空気まで見なければならない。

 

 王として大勢を動かしていた時とも、また違う仕事だった。

 

 続くクラスでも、基本的には同じ自己紹介をさせた。

 

 一つ目の授業で必要な時間配分は分かったため、次からは考える時間を少し短くし、その分だけ質問へ答える時間を増やす。三つ目のクラスになる頃には、生徒を全員回しながら余裕を持って鐘を迎えられるようになっていた。

 

 内容そのものは変えていない。

 

 まだその必要がないからだ。

 

 

 

     ◆

 

 

 

 午前の授業を終えて職員室へ戻ると、机へ教科書を置くより先に、タカミチから声を掛けられた。

 

「初日から随分と賑やかだったみたいですね。廊下まで声が聞こえていましたよ」

 

「騒がしかったが、思っていたより素直な連中だった。少なくとも、話を聞く気はある」

 

「それなら十分ですよ。最初のうちに先生を怖がられると、質問もしづらくなりますから」

 

「我を怖がる理由があるか?」

 

 タカミチがこちらの姿を上から下まで一度眺める。

 

 肩へ掛けた黒い背広、開いた襟元、金の装飾。

 

「見た目だけなら、少しくらいは」

 

「入学式ではあれほど騒いでいたではないか」

 

「格好いいのと怖いのは、両立するらしいですよ」

 

「面倒な感覚だな」

 

 近くで聞いていた女性教師が笑いながら会話へ加わった。

 

「もう生徒の間では、ギル先生で定着し始めているみたいですよ」

 

「早いな」

 

「本人が好きに呼べと言ったそうじゃないですか」

 

「言ったが、まさか一日も掛からんとは思わなかった」

 

「気に入られている証拠ですよ」

 

 嫌われるよりはましだろう。

 

 そう思いながら席へ着き、午後に使う教材を確認する。

 

 最初の授業で見た生徒たちの顔と名前、口にした文章、迷った単語は全て残っている。ただ、それを今すぐ細かく分類し、別々の課題へ落とし込む必要はなかった。

 

 まだ始まったばかりだ。

 

 今のところ、全員へ同じものを教えて十分に届く。

 

 教師としての経験もないうちから、能力に任せて妙なことを始めるより、まずは普通に授業を重ねた方がいいだろう。

 

 

 

     ◆

 

 

 

 その日の仕事を終え、宿舎へ戻った頃には日も傾いていた。

 

 肩へ掛けていた背広を王の財宝へ戻し、昨日までの白い上衣へ着替える。夕食を済ませてテレビをつけ、冷蔵庫に入っていた缶を一本取り出した。

 

 蓋を開けると、軽い音と共に泡が立つ。

 

 一口飲んでみれば、ウルクで飲んでいたものとは味も口当たりも随分違った。よく冷えていて、苦味も一定に整えられている。

 

「これはこれでよいな」

 

 ソファへ身体を預け、テレビへ視線を向ける。

 

 今日は宿題を出していない。

 

 採点するものもなければ、明日の授業も教科書に沿って進めればいい。生徒ごとの細かな課題を考えるには、まだ材料も必要性も足りなかった。

 

 だから今夜は、無理に仕事を探す必要もない。

 

 画面の中では、聞き慣れない芸人たちが騒いでいる。前世に覚えのない者ばかりだったが、何をして笑わせようとしているのかは大体分かり、眺めているうちに何度か笑いが漏れた。

 

 教壇へ立つ前は、教師という仕事をどこか小さく見ていた部分があったのかもしれない。

 

 実際にやったことも、簡単な自己紹介をさせただけだ。

 

 それでも、一つの教室にいる全員へ口を開かせ、間違えても次に続ける空気を作り、相手が何を知っているのか確かめていく。思っていたより見るものは多く、工夫する余地もあった。

 

 明日考えるべきことは、国の行く末でも戦線の維持でもない。

 

 あの生徒たちへ、どう英語を覚えさせるか。

 

 今はその程度でいい。

 

 缶を傾け、もう一口飲む。

 

「教師というのも、悪くないな」

 

 静かな部屋で口にすると、その言葉は思っていた以上に素直に馴染んだ。






ギルガメッシュ・ウヌグ

原典よりかなり穏やかで、他人への評価も甘い。

元々が普通の人間だったことに加え、エルキドゥをどれだけ足掻いても救えなかった経験、不死を手にした末に自ら捨てた旅、そして滅亡寸前のウルクで未熟ながらも踏ん張る人々を長年見続けた結果、失敗や弱さそのものを否定しなくなった。

出来ないことは構わない。間違えるのも当然。失敗したなら次に直せばいい。

その代わり、最初からやろうとしない怠慢や、他人が前へ進もうとするのを故意に潰す行為には厳しい。

ウルクの王としての責務も既に果たし終えているため、現在は肩の荷が完全に下りている。 王としての自負と傲岸さはそのままだが、今はそれを他人へ押し付ける理由もない。
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