ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢(短編版)   作:自動車好き/飛行機も好き

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ガレージ

アドルフ・ミュラーが死んでから二年が経っていた。

二〇〇八年の春は例年より暖かかったが、ミュンヘン郊外の空気にはまだ冬の名残があった。

ルーカス・ミュラーは古い住宅街を車で走りながら、アクセルを緩めた。

祖父母の家だった。

子供の頃は毎月のように来ていた。

芝生の庭。

手入れされた花壇。

古い木造のガレージ。

だが今はどれも少しずつ荒れ始めている。

祖母エリーザベトが亡くなり、その後を追うように祖父アドルフも逝ってしまった。

家は空き家になった。

相続の手続きは終わっている。

家具も整理された。

残るのは細かな遺品だけだった。

そしてその中に、誰も手を付けていない場所が一つあった。

ガレージだった。

「好きにしろ」

父ハンスはそう言った。

地方銀行の支店長らしい言葉だった。

必要なものは残し、不要なものは処分する。

感傷を挟まない。

実に合理的だ。

だがルーカスは少し違った。

職業柄かもしれない。

彼は自動車ジャーナリストだった。

古い車には自然と目が向く。

まして祖父はBMWの技師だった。

そこに何か残っている気がした。

根拠はない。

ただの勘だった。

しかしルーカスは昔からその勘に従う人間だった。

 

 

家の裏へ回る。

長年見慣れたガレージ。

錆びたシャッター。

壁のひび割れ。

祖父が最後まで手放さなかった場所。

ルーカスは鍵を差し込んだ。

金属音。

少しだけ力を入れる。

意外なほど簡単に回った。

鍵が開く。

シャッターを持ち上げる。

重い音が周囲へ響いた。

薄暗い空間が現れる。

油の匂い。

鉄の匂い。

そして時間そのものが閉じ込められたような静けさ。

ルーカスは一歩中へ入った。

工具棚。

古い部品箱。

タイヤ。

作業机。

そして中央。

一台の車。

灰色のボディカバーを被ったまま眠っている。

思ったより大きい。

BMW 02シリーズだろうか。

そんな気がした。

ルーカスは近付いた。

埃が積もっている。

長い間誰も触れていない。

カバーの端を掴む。

そして一気に引いた。

舞い上がる埃。

夕陽が差し込み、細かな粒子が空中で光る。

その中から現れた車を見て、ルーカスは思わず呟いた。

「……1602?」

確かにBMW 1602だった。

しかし何かがおかしい。

純正車ではない。

それだけはすぐに分かった。

ボンネットの隙間から覗く配管。

大型のオイルクーラー。

増設された計器類。

そしてエンジンルームから漂う独特の雰囲気。

何十台もの取材車を見てきたルーカスには分かる。

これは改造車だ。

それも相当な。

彼の脈拍が少し上がった。

記者としてというより、車好きとして。

訳の分からない車を見つけた時の興奮だった。

 

 

運転席のドアを開ける。

蝶番が小さく軋んだ。

シートへ腰を下ろす。

驚くほど状態が良い。

ステアリングは擦れている。

革は使い込まれている。

だが手入れはされている。

乗り捨てた車ではない。

長く愛された車だった。

メーターへ目を向ける。

オドメーター。

ルーカスはそこで思わず眉を上げた。

203,487km

二十万キロ超。

それ自体は珍しくない。

だがこの車は明らかに試験車だった。

そんな車で二十万キロ?

意味が分からない。

さらに視線を移す。

追加されたブースト計。

排気温度計。

油温計。

燃圧計。

まるで競技車両だ。

だが走行距離は生活車そのものだった。

矛盾している。

すべてが不思議だった。

 

 

そしてルーカスは気付いた。

ダッシュボードに文字がある。

白いペンキ。

定規も使わず手書きしたような乱暴な筆跡。

だが力強い。

ドイツ語だった。

彼はゆっくり読み上げた。

Das Experiment ist gelungen.Ich habe gewonnen.

しばらく意味が頭に入らなかった。

意味を理解した瞬間、背筋にぞくりとしたものが走る。

実験は成功した。

私は勝利した。

誰が。

何に。

何の実験だった。

祖父は何を作ったのだろう。

なぜそんな言葉を車へ直接書き残したのだろう。

その疑問だけで、ルーカスには十分だった。

この車には物語がある。

 

 

グローブボックスを開ける。

中には車検証。

給油記録。

地図。

そして一冊のノート。

黄ばんだ表紙。

角が擦り切れている。

ルーカスはそっと取り出した。

手書きのタイトル。

そこにはこう書かれていた。

Effizienzversuch 1602-3

効率試験車1602-3。

ルーカスはページをめくった。

最初の日付は一九七一年。

その下。

最初の文章。

1602-2喪失。計画継続。

彼は目を瞬かせた。

二号車?

喪失?

計画?

これは何だ。

一号車と二号車も存在したのか。

この1602は三号車なのか。

では何の三号車だ。

どれほどの計画だったのか。

ページをめくる手が自然と速くなる。

しかしすぐに止まった。

感情を抑えろ、と自分へ言い聞かせる。

取材対象にのめり込み過ぎるな。

それは記者としての鉄則だった。

だが今回は難しかった。

取材対象は祖父だった。

 

 

ガレージの外では夕暮れが始まっていた。

鳥の鳴き声が聞こえる。

住宅街は静かだった。

しかしルーカスの頭の中では無数の疑問が渦を巻いていた。

なぜBMW1602にターボが付いているのか。

なぜ二十万キロも走っているのか。

なぜ「勝利した」と書かれているのか。

そして何より、

なぜ祖父はその話を一度も家族へ語らなかったのか。

ルーカスはゆっくり車から降りた。

振り返る。

1602は薄暗いガレージの中央で静かに佇んでいる。

何十年もの時間を抱えたまま。

彼にはまだ分からなかった。

この車が、一台の奇妙なBMWから始まる話ではないことを。

ミニが二台。

イセッタが三台。

BMW700が四台。

そして1602が三台。

何十年にも及ぶ、一人の技師の執念の終着点であることを。

そして、その先にボンネビルの白い塩原が待っていることを。

ルーカスはノートを抱えた。

今夜は長くなりそうだった。

彼はまだ知らない。

この瞬間が、自分の人生で最も長い取材の始まりだったことを。

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