ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢(短編版)   作:自動車好き/飛行機も好き

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最後の試験車

2011年 春

BMW Museum Archive

ミュンヘン

 

 

「つまり、そのイセッタは失われたんですね」

年配の学芸員がそう尋ねた。

ルーカスは頷いた。

目の前の机には資料が並んでいる。

アドルフの日記。

オットーとの書簡。

ボンネビルの参加証。

BMW本社からの警告文。

そして大量の写真。

二年以上かけて集めた資料だった。

 

 

「残念ですが」

ルーカスは苦笑した。

「ボンネビル仕様のI-2は現存しません」

「I-3も?」

「ありません」

「700シリーズは?」

「残っていません」

学芸員はゆっくりメモを取る。

 

 

すると不意に言った。

「では何が残ったんです?」

ルーカスは少し考えた。

そして笑った。

 

 

「1602-3です」

 

 

学芸員も笑った。

誰もが期待するのはイセッタだ。

伝説がある。

話題性もある。

ボンネビル記録もある。

展示効果もある。

だが残ったのは違った。

 

 

一台の古い1602。

地味な銀色のボディ。

改造ターボ。

20万キロ超。

それだけ。

 

 

「展示しませんか?」

学芸員は言った。

「歴史的価値は十分あると思います」

 

 

ルーカスは窓の外を見た。

駐車場に1602-3が停まっている。

相変わらず地味な車だった。

学生も。

観光客も。

誰も見向きもしない。

 

 

「まだ無理です」

ルーカスは答えた。

「なぜです?」

 

 

少しだけ考えた。

そして本当の理由を言う。

 

 

「まだ走るので」

 

 

学芸員はしばらく黙った後で笑った。

「なるほど」

 

 

打ち合わせはそこで終わった。

資料だけ寄贈することになった。

現物は渡さない。

車は手元へ残す。

 

 

夕方。

ルーカスは1602-3へ戻った。

ドアを開ける。

乗り込む。

いつもの匂い。

いつもの景色。

 

 

キーを捻る。

エンジン始動。

アイドリング。

安定している。

相変わらずだった。

 

 

ダッシュボードへ目を向ける。

白い文字。

 

 

実験は成功した。

私は勝利した。

 

 

ルーカスは笑う。

 

「いや」

 

誰もいない車内で呟いた。

 

「まだ終わってないでしょう」

 

 

ギアを入れる。

クラッチを繋ぐ。

1602-3がゆっくり動き出す。

 

 

ガレージ。

ビートル。

ミニ。

イセッタ。

700。

1602。

すべては終わった。

だが車だけは走り続ける。

 

 

アウトバーンへ続く道路へ出る。

夕陽が差し込む。

周囲を走る車は全て小排気量ターボ車だった。

誰も気付かない。

その流れのどこかに、一人のBMW技師の六十年越しの実験が含まれていることを。

 

 

1602-3は静かに加速する。

タービンが小さく鳴く。

かつてボンネビルへ向かったイセッタほど速くはない。

だが十分だった。

 

 

アドルフ・ミュラーは既に勝利した。

それは事実だ。

しかし彼が残した最後の試験車は、今も走っている。

だからこの物語にも、本当の意味での終わりはないのかもしれなかった。

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