ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢(短編版)   作:自動車好き/飛行機も好き

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ボンネビル

その夜、ルーカスはほとんど眠れなかった。

祖父のガレージから持ち帰ったノートは、今も机の上に置かれている。

効率試験車1602-3。

たったそれだけの表紙。

だが中身は不可解だった。

試験記録。

燃費。

油温。

巡航速度。

そして何より、「3」という番号。

それはつまり、一号車と二号車が存在したことを意味する。

祖父が家族にも話さなかった何かが、そこにある。

ルーカスはノートパソコンを開いた。

時計を見る。

午前一時四十三分。

普通なら寝る時間だ。

だが記者という仕事に就いて以来、興味を持った話から途中で離れられなくなっていた。

検索欄へ入力する。

BMW Isetta Bonneville

検索結果は驚くほど少なかった。

当然だ。

イセッタは歴史に残るレーシングカーではない。

ポルシェでもフェラーリでもない。

戦後のドイツを支えた、小さな大衆車だ。

その名前をボンネビルと組み合わせて検索する人間などほとんどいない。

ルーカスは検索条件を変えた。

年代を絞る。

アメリカのアーカイブを探す。

個人が保管しているレース記録を探す。

モータースポーツ史のフォーラムも片っ端から開く。

二時間が過ぎた。

三時間が過ぎた。

窓の外はまだ暗い。

そして午前四時過ぎ。

ようやく一つの名前へ辿り着いた。

ロバート・ヘイズ。

ユタ州在住。

速度記録競技の歴史資料を収集している個人研究家。

彼のウェブサイトは二十年前のまま取り残されたようなデザインだった。

画像は粗い。

リンク切れも多い。

だが資料だけは異常だった。

誰も見向きもしないような古いエントリーリスト。

競技結果。

参加車両の写真。

その中にあった。

一枚のPDF。

「Foreign Entrants, 1959-1962」

外国人参加者一覧。

ルーカスはスクロールした。

フランス人。

イタリア人。

イギリス人。

そして途中で指が止まった。

そこには確かに書かれていた。

Adolf Müller

ドイツ。

車両。

BMW Isetta Special

ルーカスはしばらく画面を見つめた。

祖父だった。

本当に祖父だった。

家族の与太話ではなかった。

アルバムの写真の裏書きでもなかった。

公式資料の中に存在していた。

アドルフ・ミュラーは、実際にボンネビルへ行っていた。

 

 

翌朝。

ルーカスは会社を休んだ。

病欠ではない。

有給休暇だった。

理由を説明するのが面倒だったからだ。

「祖父の幻の速度記録車を調べるためです」

などと言っても誰も納得しない。

パソコンの前に座る。

ロバート・ヘイズへメールを書く。

件名。

Inquiry Regarding Adolf Müller

送信。

そして待つ。

返事が来たのは三日後だった。

驚くほど短いメールだった。

文章は三行しか無い。

だが添付ファイルが三つあった。

一枚目。

参加者リストの高解像度版。

二枚目。

車検記録。

三枚目。

モノクロ写真。

ルーカスは最初、写真の意味が分からなかった。

白い平原。

遠くの山。

小さな点のような車。

そして人影。

拡大する。

さらに拡大。

そこで初めて見えた。

BMWイセッタだった。

後部が異様に膨らんでいる。

太い排気管。

奇妙な配管。

そして車の横に立つ若い男。

アドルフだった。

三十代後半。

痩せている。

作業着姿。

帽子を被り、腕を組んでいる。

不思議なことに笑っていない。

勝利を確信した顔でもない。

挑戦者の顔でもない。

何かを観察している技術者の顔だった。

ルーカスは思わず呟いた。

「レーサーじゃないな……」

本当にそうだった。

写真のアドルフはドライバーに見えない。

研究者に見える。

 

 

その週末。

ルーカスは父ハンスを訪ねた。

銀行は休みだった。

ハンスは庭の草刈りをしていた。

「父さん」

「どうした」

ルーカスは写真を差し出した。

ハンスは草刈り機を止める。

老眼鏡を掛ける。

写真を見る。

そして、少しだけ笑った。

「懐かしいな」

ルーカスは意外に思った。

「知ってるの?」

「見たことはある」

「本当にボンネビルへ行ったんだ」

「らしいな」

あまりにも淡々としていた。

ルーカスは思わず聞き返す。

「らしい、って」

「父本人はそう言っていた」

「信じてなかったの?」

ハンスは肩をすくめた。

「普通信じるか?」

確かにそうだった。

昼食の席で突然、

『イセッタでボンネビルへ行った』

と言う男がいたら、たいていの人は冗談だと思う。

「俺も母さんも、半分くらい作り話だと思ってた」

ルーカスは苦笑した。

「でも本当だった」

「みたいだな」

 

 

しばらく二人で写真を見ていた。

やがてルーカスが尋ねる。

「祖父さんはどんな人だった?」

ハンスは少し考えた。

長い沈黙。

そして言う。

「車好きではなかった」

「え?」

それは予想外だった。

BMW技師。

改造車。

ボンネビル。

そう聞けば誰だって車好きだと思う。

しかしハンスは首を振った。

「違う」

「じゃあ何だったの?」

「エンジン好きだった」

即答だった。

「それも普通じゃない」

ハンスは遠くを見る。

「父はよく言ってた」

『エンジンは大きければ良いわけじゃない』

『小さいエンジンを速くする方が面白い』

「子供の頃は意味が分からなかった」

ルーカスも頷いた。

今なら少し分かる。

 

 

その日の帰り。

祖父の家へ立ち寄った。

夕暮れのガレージ。

1602-3は静かに眠っている。

ルーカスは運転席へ座った。

ダッシュボードを見る。

白い文字。

実験は成功した。

私は勝利した。

なぜだろう。

初めて見た時よりも重く感じた。

ボンネビル。

BMW。

ターボ。

それらが少しずつ繋がり始めている。

だが、まだ決定的なピースが足りない。

どこから始まったのか。

アドルフ・ミュラーはなぜそこまで小排気量へ執着したのか。

その答えは、まだ見つかっていなかった。

グローブボックスを開く。

前回は気付かなかった古い封筒が一つあった。

黄ばんだ紙。

BMW社内便。

宛名は祖父。

日付は1959年。

ルーカスは慎重に封を切った。

中には一枚の文書。

そして、それを読んだ瞬間。

彼は思わず背筋を伸ばした。

そこにはこう書かれていた。

当社は貴殿が計画する改造イセッタによる速度競技への参加を認めない。

BMW本社の文書だった。

どうやら祖父は、本当に会社と衝突していたらしい。

そしてルーカスはまだ知らない。

ターボイセッタは祖父の最初の作品ですらなかったことを。

もっと古い記録。

もっと古い写真。

そして一台のトラック用エンジンへ辿り着くことを。

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