ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢(短編版) 作:自動車好き/飛行機も好き
ルーカスは自宅の書斎で封筒を机の上へ置いた。
窓の外では雨が降っている。
細かな雨粒が街灯の光に照らされていた。
BMW本社からアドルフへ送られた警告文。
何度読み返しても奇妙だった。
内容は簡潔だった。
改造イセッタによる速度競技への参加を認めない。
BMWの名称を使用するな。
会社は関与しない。
それだけだった。
しかし裏を返せば、それだけの文書を出さなければならないほど、アドルフが本気だったということでもある。
ルーカスは椅子へ深く腰掛けた。
そして祖父の古い木箱から発見した資料を改めて整理し始めた。
そこには年代も順番もばらばらの写真が詰め込まれていた。
最初に目についたのは、ボンネビルの写真だった。
塩の大地。
白い地平線。
その中央に立つ改造イセッタ。
後部には異様な配管が伸びている。
車体横には塗装されたゼッケン。
そして車の横に立つ若いアドルフ。
彼は笑っていない。
ガッツポーズもしていない。
勝者の顔ではない。
壊れかけた機械を見守る整備士の顔だった。
ルーカスは何度もその写真を拡大した。
しかし決定的な情報はない。
速度も。
順位も。
記録も。
何一つ分からない。
伝説だけが残っていた。
不意に、木箱の底から一冊のアルバムが滑り落ちた。
これまで見覚えがないアルバムだった。
祖母のものではない。
装丁も違う。
黒い表紙。
角は擦り切れている。
まるで手帳のようだった。
ルーカスはそっと開いた。
最初のページを見て息を止める。
そこに写っていたのはイセッタではなかった。
BMWですらなかった。
巨大なトラック用エンジン。
鋼鉄の架台の上に載せられている。
エンジン横には奇妙な円筒状の装置。
遠心式過給機だった。
そしてその隣に若い男が立っている。
アドルフだった。
信じられないほど若い。
まだ少年の面影が残っている。
二十二歳か、そのくらい。
写真の裏返しを見る。
鉛筆で短い文章が残されていた。
Das Experiment ist gelungen.Ich habe verloren.
ルーカスはゆっくり読み上げた。
「実験は成功した。私は敗北した」
心臓が少し早くなる。
ガレージの1602に書かれていた言葉が頭へ浮かんだ。
実験は成功した。私は勝利した。
偶然ではなかった。
祖父は意図的に同じ言葉を使っている。
六十年以上離れた二つの文章。
一方は敗北。
もう一方は勝利。
何があったのか。
その日から調査の方向が変わった。
ルーカスはボンネビルを追うことを一度やめた。
もっと古い時代を調べ始めた。
アドルフ・ミュラーという人間そのものを。
BMWの社内記録。
古い社員名簿。
技術者の履歴。
可能な限り集めた。
すると断片的な事実が見えてくる。
1943年。
若きアドルフは小型エンジンの研究に関与している。
当時の主流は大型だった。
航空機。
戦車。
大出力ディーゼル。
そうした巨大な動力源が重視されていた時代。
しかしアドルフだけは違った。
彼は小さなエンジンに執着していた。
その記録が至るところに残っている。
ルーカスは改めて写真を見た。
過給機付きトラックエンジン。
それはただの実験ではなかった。
後にイセッタへ至る思想の原点だった。
小さいエンジンを強くする。
その思想が、既にそこにある。
ボンネビルの伝説よりも前に。
BMWよりも前に。
戦後よりも前に。
アルバムをさらにめくる。
何枚かの写真が続く。
試験設備。
計測器。
エンジン。
配管。
そして1940年代の終わりごろから写真が途切れる。
代わりに数枚の家族写真が現れる。
結婚式。
新婚時代のエリーザベト。
戦後の小さな住宅。
質素な暮らし。
その中に一枚だけ奇妙な写真があった。
古びたフォルクスワーゲン・タイプ1。
いわゆるビートルだ。
エンジンフードが開いている。
そこから異様な配管が飛び出していた。
ルーカスは思わず身を乗り出した。
写真裏。
走り書き。
V-0
たったそれだけ。
V-0。
聞いたことのない番号だった。
Mシリーズでもない。
Iシリーズでもない。
700でも1602でもない。
完全に未知の試験車だった。
だが今なら分かる。
これは始まりだ。
イセッタより前。
ミニより前。
すべての起点。
アドルフが最初にターボ化した自家用車。
そしてBBC製排気タービンを初めて搭載した車。
その夜。
ルーカスは父へ電話を掛けた。
ハンスは相変わらず落ち着いた声だった。
「どうした」
「祖父さんの古い写真を見つけた」
「またか」
「戦時中の写真だ」
電話の向こうで少し沈黙があった。
珍しい反応だった。
「何が写ってた」
「過給機付きのトラックエンジン」
さらに沈黙。
そして意外な言葉が返ってきた。
「それなら聞いたことがある」
ルーカスは椅子から起き上がりそうになった。
「本当に?」
「子供の頃に一度だけ」
「何て?」
ハンスは少し考える。
そしてゆっくり答えた。
「父はこう言ってた」
みんな戦車を速くしたかった。私はトラックを強くしたかった。
ルーカスは言葉を失った。
それはどこまでも祖父らしい発想だった。
誰も見向きもしないところへ興味を向ける。
大きなエンジンではなく、小さなエンジンを見る。
主役ではなく脇役を見る。
電話を切った後、ルーカスはしばらく動けなかった。
アルバム。
V-0。
トラックエンジン。
ボンネビル。
全てが繋がり始めている。
彼はようやく理解した。
ターボイセッタは伝説の始まりではない。
もっと前から物語は始まっていた。
二十二歳のアドルフ・ミュラーが、「実験は成功した。私は敗北した」と書いたその瞬間から。
そして、その敗北がどれほど長い執念へ変わっていくのかを。
その答えは次の資料に待っていた。
一冊の日記。
表紙には短く書かれていた。
M-1
ローバー・ミニ。
最初の実験車両。
そして、アドルフ・ミュラーが本格的な実験を始めた最初の記録だった。