ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢(短編版) 作:自動車好き/飛行機も好き
日記は予想より分厚かった。
黒い表紙。
油染み。
焼けた紙の匂い。
表紙にはただ短く、
M-Series
とだけ書かれている。
ルーカスは眉を上げた。
以前見た資料ではM-1だけだと思っていた。
しかし違う。
これはシリーズ全体の記録だった。
ページを開く。
最初に現れたのは見慣れた写真だった。
フォルクスワーゲン・タイプ1。
戦中からアドルフが乗り続けていたビートル。
エンジンフードを開けた写真。
そこには見慣れない配管とタービン。
そして写真の裏に書かれた言葉。
実験は成功した。私は敗北した。
ルーカスはその写真を手元に置いた。
これが全ての始まりだった。
1956年。
日記にはオットーの名前が現れる。
ドイツ国鉄勤務。
補機システム担当技術者。
アドルフの旧友。
そして後の運命を変える男。
記録にはこうある。
オットーより連絡あり。BBC製試作排気タービンの処分予定。
翌週。
現物確認。
さらにその次。
十基引き取る。
横に小さく。
妻は理解できないと言った。
その下。
私も理解できない。
ルーカスは笑った。
祖父らしい。
理解できないならやめるのではない。
理解できないから試すのだ。
BBC製の試作品は本来鉄道用だった。
高地向け車両の補助エンジン。
発電機。
ブレーキ用コンプレッサー。
そういった用途を想定した排気タービン。
乗用車用ではない。
ましてや一般販売品でもない。
オットーの部署で死蔵されていた試験部品だった。
アドルフには宝物だった。
まず最初に生贄になったのは自分のビートルだった。
V-0。
正式な実験車ですらない。
単なる確認。
理論の検証。
それだけ。
だがアドルフはその試験で人生を変えられる。
坂道で加速した。
重いギアのまま登った。
排気量は変わらない。
なのに車の性格が変わった。
その日の記録。
動いた。
翌日。
本当に動いた。
そして数週間後。
ピストン破損。
ビートル終了。
問題は通勤だった。
BMWへ通わなければならない。
車が無い。
そこでアドルフは即納できる車を探した。
その結果がローバー・ミニだった。
1957年。
Mini M-1開始。
納車された当日の記録が残っている。
希望色ではない。どうせ分解する。
ルーカスはしばらく声を出して笑った。
新車への感想がそれだった。
M-1はV-0で得た経験をそのまま投入した車だった。
BBC製タービン2号機。
加圧キャブレター。
電動燃料ポンプ。
自作配管。
夜な夜なガレージへ籠って改造が続く。
その頃のアドルフは三十代半ば。
家庭もある。
仕事もある。
それなのに週末の大半を車へ費やしている。
M-1は成功した。
少なくともアドルフはそう考えた。
良好。非常に良好。
翌週。
加速良好。
さらに。
高回転域で異常な伸び。
そして。
驚異的。
その横に太い丸。
珍しく上機嫌な文字。
まるで少年だ。
しかし成功は長続きしなかった。
M-1は全開試験中に壊れた。
エンジンだった。
ピストン。
リング。
シリンダー。
ほぼ全部。
日記には短く。
エンジン破損。
その下。
理論健在。
それだけ。
普通ならここで諦める。
だがアドルフは違った。
次のページには既にタイトルがあった。
Mini M-2
である。
M-2はM-1の改良型だった。
新しいミニを購入。
周囲からは理解されない。
日記には職場での会話まで記録されている。
なぜ同じ車を買うのかと聞かれる。同じ車ではない。
アドルフらしい回答だった。
彼にとって車は車種ではない。
試験機だった。
M-2でアドルフはさらに攻める。
ブースト圧を上げる。
燃料供給を増やす。
配管も改良する。
そして出力は大きく伸びた。
少なくとも本人の記録によれば、
当時としては異常なほど俊足だったらしい。
しかし今度はエンジンが壊れなかった。
代わりに別のものが壊れた。
変速機だった。
まず一速。
次に二速。
最後に最終減速機。
日記にはこうある。
エンジンは生存。変速機死亡。
そして。
喜ばしい。
ルーカスは頭を抱えた。
普通なら最悪の結果だ。
アドルフには進歩だった。
M-2終盤。
アドルフは重要な結論へ辿り着く。
そのページには赤鉛筆で大きく囲まれた文章があった。
問題はタービンではない。問題は車両である。
さらに下。
小型車の可能性は想像以上に大きい。
そして最後。
より軽い車で試す。
ルーカスはページをめくる前に深呼吸した。
分かっていた。
次に来る名前を。
次ページ。
新しいタイトル。
太い文字。
二重線。
まるで決意表明だった。
Projekt I
その下。
BMW Isetta 300購入。
さらに。
正気ではないと言われた。私もそう思う。
ルーカスはゆっくりと膝に手を置いた。
ミニ二台。
ビートル一台。
ここまでですら十分異常だ。
だが祖父自身も分かっていたのだろう。
本当の狂気はここから始まる。
ボンネビルへ向かうターボイセッタ。
伝説の中心にある車。
そしてアドルフ・ミュラーという男を、BMW社内でも有名な変人へ変えてしまう三台のイセッタ。
その最初の一台が、次のページで彼を待っていた。