ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢(短編版)   作:自動車好き/飛行機も好き

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狂気の卵

ルーカスはゆっくりページをめくった。

黒いインクで大きく書かれた文字。

Projekt I

その下には太い二重線。

これまでの日記には見られなかった書き方だった。

アドルフが本気になった時だけ使う記号なのだろう。

さらにその下。

BMW Isetta 300購入。

それだけだった。

だがルーカスには十分だった。

ここから先が伝説になる。

ボンネビル。

速度記録。

BMW社内で語り草になった変人技師。

すべてはここから始まる。

 

 

1958年。

当時のアドルフは三十七歳だった。

BMWの技師として働いている。

家庭もある。

仕事もある。

普通なら落ち着いた生活を送る年齢だった。

しかし彼はそうではなかった。

日記にはこんな記録がある。

本日、昼休みにイセッタの車重を調査。非常に興味深い。

さらに翌日。

イセッタの構造を確認。さらに興味深い。

その翌日。

おそらく正気ではない。

そして最後。

購入した。

ルーカスは吹き出した。

まるで病気だった。

 

 

当時のアドルフは明らかに重量へ取り憑かれていた。

ミニでは満足できなかった。

もっと軽い車。

もっと小さい車。

もっと少ない排気量。

そこへBBC製排気タービンを組み合わせる。

危険なほど単純な発想だった。

 

 

I-1。

最初のイセッタ。

BBC製試作タービン三号機搭載。

過給仕様。

出力向上。

ここまでは順調だった。

問題は車体だった。

 

 

ルーカスは日記に挟まれた写真を取り出した。

若いアドルフ。

白いイセッタ。

そして車体背面を這う巨大な配管。

見るからに危険だった。

まるで子供の工作だ。

BMWの技師が作ったとは思えない。

だがアドルフは真面目だった。

その証拠に記録は異常なほど細かい。

車重。

重心。

タイヤ空気圧。

燃料搭載量。

すべて数字で埋まっている。

 

 

しかし結果は数字では解決しなかった。

日記。

1958年7月。

高速試験。

翌ページ。

車体挙動不安定。

さらに。

横風。

そして最後。

横転。

終わりだった。

たった一行。

 

 

だがその下に追記がある。

後から書き足したらしい。

インクが違う。

エンジンは無傷。

ルーカスは頭を抱えた。

普通なら車の方を心配する。

アドルフはエンジンしか見ていない。

ある意味で一貫している。

 

 

数週間後。

次の見出しが現れる。

I-2

伝説の車だった。

 

 

ここから日記の熱量が急に上がる。

BMW社内での会話。

オットーとの手紙。

アメリカとのやり取り。

ボンネビル。

その言葉が何度も登場する。

 

 

そこには面白い記録が残っていた。

1959年春。

本社は反対。

翌日。

想定内。

さらに翌週。

再度反対。

その横に。

想定内。

ルーカスは笑った。

アドルフは最初から説得する気が無かったらしい。

 

 

そして例の社内文書。

BMWからの警告。

競技参加不許可。

社名利用禁止。

支援拒否。

それが日記に貼り付けられている。

その下に一言。

残念だ。

さらにその下。

行く。

それだけだった。

 

 

ボンネビルへの準備は一年近く続いた。

この期間の記録は圧倒的だった。

過給圧。

燃圧。

排気温度。

吸気温度。

点火時期。

あらゆるものが測定されている。

しかし不思議なことに、最高速度の記録だけは少ない。

これはルーカスを驚かせた。

アドルフは速度狂だと思っていたからだ。

だが違った。

彼は速度そのものに興味が無い。

その裏側で起きている現象に興味がある。

エンジンがどう動くか。

そこだけを見ている。

 

 

1960年。

ボンネビル。

伝説の日。

日記は急に短くなる。

天候。

気温。

気圧。

風向き。

それだけ。

感情はほとんど書かれていない。

 

 

やがて問題のページが現れる。

ルーカスはゆっくり読んだ。

走行開始。

次。

ブースト正常。

次。

後輪空転。

さらに。

速度計信頼できず。

そして最後。

エンジン破損。

終わりだった。

 

 

ルーカスはしばらく無言だった。

これが伝説の中心なのか。

これが世界最速イセッタの話なのか。

あまりにも素っ気ない。

あまりにも技術者だった。

 

 

だがページの余白に、小さな追記があった。

明らかに後年書かれたもの。

そこにはこうあった。

皆が速度を聞いた。

そして次の行。

誰も質問を理解していなかった。

ルーカスは息を止めた。

さらに続く。

私が知りたかったのは速度ではない。小さいエンジンに未来はあるのか。それだけだった。

 

 

そこでルーカスは初めて理解する。

ボンネビルは目的ではなかった。

証明だった。

アドルフは世界記録が欲しかったわけではない。

小排気量エンジンが未来になり得るか知りたかった。

そのために塩原へ行った。

そのためにイセッタを壊した。

そのために自分の人生を使った。

 

 

だが伝説の後にも一台残っている。

I-3

である。

ルーカスは次のページを開いた。

そこに書かれていた最初の一文で、彼は思わず背筋を伸ばした。

ボンネビルで分かった。問題はエンジンではない。

そして。

問題は車だ。

さらに最後。

出力は十分だった。

ルーカスはゆっくり息を吐いた。

その瞬間、物語の方向が変わる。

アドルフは速度の壁に敗れたのではない。

むしろ目標を達成してしまったのだ。

だから次の課題が見えた。

 

 

I-3は短命だった。

耐久試験中に終了。

だが、この車は重要だった。

なぜならアドルフの価値観を変えたからだ。

日記の最後のページには大きくこう書かれている。

イセッタは正しかった。私が間違っていた。

そして次のページ。

初めて見る新しい名前。

それまでのMでもIでもない。

大きな文字。

丁寧な筆跡。

まるで人生の転換点のように。

Effizienzversuch 700-1

効率試験車700-1。

ボンネビルの伝説はここで終わる。

そしてアドルフ・ミュラーという技術者の本当の物語が、ここから始まるのだった。

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