ある自動車技師の記録、或いはダウンサイジングターボの夢(短編版) 作:自動車好き/飛行機も好き
ルーカスはしばらくページをめくれなかった。
ボンネビル。
ターボイセッタ。
BMWとの対立。
若きアドルフの狂気。
それらが物語の頂点だと思っていた。
だが違った。
祖父自身はそう思っていなかった。
むしろ終わりだった。
伝説は終わった。
実験だけが残った。
そして目の前のページには、それを示すように新しい題名が記されている。
Effizienzversuch 700-1
効率試験車700-1。
そこには速度という言葉すらなかった。
ページの最初には長い文章が残されていた。
これまでの日記では珍しい。
アドルフは基本的に数字で語る人間だった。
だがこのページだけは違う。
まるで自分自身に宛てた手紙だった。
ボンネビルで多くのことを学んだ。速度は問題ではなかった。出力も問題ではなかった。問題は、自動車が自動車として成立しているかどうかだった。
その下には大きく赤線が引かれている。
イセッタは正しかった。私が間違っていた。
ルーカスは机に肘をついた。
今なら意味が分かる。
イセッタは軽かった。
十分速かった。
小さいエンジンに過給機を付けるという理論は証明された。
だが車としては成立していなかった。
あまりにも短命で。
あまりにも危険で。
あまりにも実験的だった。
だからアドルフは方向を変えた。
BMW700。
新しい実験車。
新しい思想。
そして新しい失敗。
700-1の目標は単純だった。
イセッタより速くなくてよい。イセッタより扱いやすくする。
それだけ。
ボンネビルの英雄譚を期待していたルーカスには少し意外だった。
だがページを読み進めるにつれ、祖父の考えが理解できてくる。
最初の700は恐ろしく速かった。
推定出力。
100馬力超。
日記には簡潔に。
十分以上。
さらに次のページ。
不必要。
ルーカスは笑った。
祖父らしい。
何かを手に入れると、すぐに別の問題を探し始める。
700-1の評価は厳しかった。
高速時に軽すぎる。燃料を浪費する。常用に適さない。
そして最後。
技術的には成功。目的には失敗。
この辺りからアドルフの日記に新しい言葉が増え始める。
燃費。
効率。
巡航速度。
熱損失。
ボンネビルの頃にはほとんど出てこなかった単語だった。
700-2。
出力低下。
過給圧低下。
その代わり燃費向上。
長距離試験開始。
ここで初めて家族の話が出てくる。
写真が挟まっていた。
若いハンス。
まだ十歳にもなっていない。
湖畔で笑っている。
その後ろにBMW700。
ルーカスはじっと見つめた。
今までの試験車と写真の雰囲気が違う。
ボンネビルのイセッタは戦闘機だった。
だが700は家族写真に溶け込んでいる。
つまり使われていたのだ。
実際に。
生活の中で。
その証拠に日記も変化している。
通勤。問題なし。
翌日。
買い物。問題なし。
さらに。
ハンブルク往復。問題なし。
ひどく退屈な記録だった。
しかしアドルフは喜んでいた。
その喜びが行間から見える。
ルーカスはあるページで思わず手を止めた。
そこにはこうあった。
故障しないことは退屈である。しかしそれが正しい。
若い頃なら絶対に書かなかった文章だ。
V-0の頃のアドルフは破壊を恐れなかった。
Mシリーズの頃は故障を進歩だと思っていた。
だが今は違う。
ようやく、自動車という機械そのものを見始めている。
700-3。
出力80馬力。
700-4。
出力70馬力。
数字だけ見ると後退だった。
しかし日記は逆だった。
評価は過去最高。
始動良好。燃費良好。故障なし。長距離走行良好。
その下。
大きな文字。
初めてまともな車になった。
ルーカスは声を出して笑った。
祖父はミニ二台。
イセッタ三台。
そして700を三台潰した後で、ようやく「まともな車」という表現を使っている。
基準がおかしい。
そして700-4の終盤。
日記には重要な記述が残されていた。
アドルフが初めて未来について語ったページだった。
皆が大排気量を求めている。理解できる。それが簡単だからだ。
次の行。
過給は難しい。だから価値がある。
さらに。
BMWはいつかターボ車を作る。
その下に二重線。
さらに最後。
すべてのメーカーがそうなる。
ルーカスは思わず苦笑した。
今では当たり前の話だ。
だが1965年頃なら空想に近い。
少なくとも一般人はそう思っただろう。
しかしアドルフは本気だった。
信じていた。
疑っていない。
700-4の最後のページ。
そこには次の計画が書かれていた。
たった数行。
しかし不思議と重みがあった。
BMW700は限界へ到達した。出力は十分。効率も十分。さらに先へ進む。
そして。
02シリーズを用いる。
ページの下。
新しい見出し。
アドルフらしい几帳面な文字。
Effizienzversuch 1602-1
ルーカスはノートを閉じた。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
ガレージに眠る1602-3。
今の彼には分かる。
あの車は突然現れたわけではない。
ビートルから始まり。
ミニを経て。
イセッタで狂い。
700で学んだ。
そのすべてが1602へ続いている。
そして次の章から始まるのは、おそらく祖父の人生で最も重要な実験だった。
BMWが2002ターボを世に送り出すよりも前に。
一人の技師が辿り着こうとした答え。
その最終段階だった。