『隣人GV ―もしもスパイディの影響を受けたGVなら―』   作:幸田市

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第十四話「エリーゼ」

 フェザーの保護区画には、昨日と同じように静かな時間が流れていた。

 

 白い壁。

 

 簡素なベッド。

 

 小さな机。

 

 その上には、空になったプリンの容器が一つ残っている。

 

 エリーゼはベッドの端に腰掛け、膝の上で両手を重ねていた。

 

「……」

 

 向かいにはGVとシアン。

 

 そして、その少し離れたところにアシモフが立っている。

 

「体調については問題ない」

 

 アシモフが言った。

 

「少なくとも、現時点で皇神の処置による急激な異常は確認されていない」

 

「……そうですか」

 

 エリーゼが小さく答える。

 

「ただし」

 

 アシモフは続けた。

 

「今後については決めなければならない」

 

 エリーゼの肩が僅かに強張った。

 

「今後……」

 

「ああ」

 

 アシモフは腕を組む。

 

「皇神へ戻すという選択肢はない」

 

「……」

 

「少なくとも、現在の状況で君を彼らの管理下へ戻すことを、我々は認めるつもりはない」

 

 エリーゼは俯いた。

 

 皇神。

 

 その言葉だけで。

 

 研究施設の白い部屋が脳裏を掠めたのかもしれない。

 

「そこで」

 

 アシモフが机へ視線を向ける。

 

「フェザーとして、君を保護する用意がある」

 

「……フェザーで?」

 

「専用の保護区画を用意する。生活に必要な物はこちらで用意しよう。身の安全についても保証する」

 

「……」

 

「もちろん、必要であれば治療や経過観察も行う」

 

 エリーゼは静かに聞いていた。

 

 それは。

 

 おそらく。

 

 一番合理的な選択だった。

 

 設備がある。

 

 人がいる。

 

 皇神から守る力もある。

 

「それと」

 

 アシモフがGVを見る。

 

「もう一つ」

 

「?」

 

 エリーゼが顔を上げる。

 

「GV」

 

「うん」

 

「お前たちの住居で、一時的に預かることも可能だ」

 

「……え?」

 

 エリーゼが目を丸くした。

 

 GVも少し困ったように頬を掻く。

 

「まあ」

 

「部屋はそんな広くないけどね」

 

「ちょっと狭いくらいだよ」

 

 シアンが横から言う。

 

「それ、フォローになってる?」

 

「なってるよ」

 

「そうかなぁ」

 

 エリーゼは二人を交互に見る。

 

「わ、わたしが……?」

 

「うん」

 

 GVが答える。

 

「もし、そっちがいいなら」

 

「でも……」

 

 エリーゼはすぐに俯く。

 

「ご迷惑では……」

 

「それを今決めるのは僕らだから」

 

「……」

 

「少なくとも」

 

 GVは肩をすくめた。

 

「僕は別に嫌じゃないよ」

 

「私も」

 

 シアンも頷く。

 

「でも」

 

 GVがすぐに続ける。

 

「だからって、うちに来なきゃいけないわけじゃないからね」

 

「え……」

 

「フェザーにいるのもいいと思う」

 

「設備もあるし、安全だし」

 

「……」

 

「僕らの家に来るのもあり」

 

「フェザーに残るのもあり」

 

「他にやりたいことが見つかったら、その時また考えてもいい」

 

 エリーゼは黙る。

 

「だから」

 

 GVが言った。

 

「エリーゼが決めて」

 

「……わたしが?」

 

「うん」

 

 その言葉に。

 

 エリーゼは困った顔をした。

 

 何をするか。

 

 どこへ行くか。

 

 誰と暮らすか。

 

 そんなことを。

 

 自分で決めた経験が。

 

 どれだけあったのだろう。

 

「……」

 

 エリーゼは俯いたまま。

 

 なかなか答えなかった。

 

「今すぐじゃなくてもいいよ」

 

 シアンが言う。

 

「ゆっくり決めればいいから」

 

「……」

 

「私も」

 

 少し笑う。

 

「最初、何していいか全然分からなかったし」

 

「シアンさんも……?」

 

「うん」

 

「だから」

 

 シアンは自分の胸へ手を置いた。

 

「考えていいんだよ」

 

「……」

 

 長い沈黙。

 

 やがて。

 

 エリーゼが小さく口を開いた。

 

「……フェザーにいれば」

 

「?」

 

「安全、なんですよね」

 

 アシモフが頷く。

 

「ああ」

 

「……必要なものも」

 

「用意される」

 

「……」

 

 それを聞いて。

 

 エリーゼはまた黙った。

 

 安全。

 

 必要な物が与えられる。

 

 管理された場所。

 

 研究施設とは違う。

 

 ここは敵ではない。

 

 それでも。

 

 何故か。

 

 その言葉が。

 

 少しだけ。

 

 昔を思い出させた。

 

「……」

 

 その時。

 

 エリーゼの姿勢が変わった。

 

 顔を上げる。

 

「……3?」

 

 GVが呟く。

 

「何よ」

 

 エリーゼ3は不機嫌そうに答えた。

 

「いや、変わったから」

 

「いちいち言わなくても分かるでしょ」

 

「まだ慣れてないんだって」

 

「……ったく」

 

 3はアシモフを見る。

 

「で?」

 

「何だ」

 

「フェザーにいれば、ずっとここ?」

 

「当面はそうなる」

 

「監視は?」

 

「安全上、最低限は必要だ」

 

「ほら」

 

 3が鼻を鳴らす。

 

「嫌」

 

「え」

 

 GVが目を瞬く。

 

「即答だね」

 

「当たり前でしょ」

 

「アタシ、また白い部屋に閉じ込められるの御免なんだけど」

 

「閉じ込めるつもりはない」

 

「同じようなものじゃない」

 

「3……」

 

 声が小さくなる。

 

 1へ戻った。

 

「……」

 

 エリーゼは少し困ったような顔で。

 

 それでも。

 

 今度はすぐに俯かなかった。

 

「……わたしも」

 

「うん?」

 

 GVが待つ。

 

「……もし」

 

 一度。

 

 息を吸う。

 

「本当に、迷惑じゃないなら」

 

「……」

 

「GVさんと」

 

 シアンを見る。

 

「シアンさんのところに」

 

 少し震えながら。

 

「……行ってみたいです」

 

 シアンの表情が明るくなる。

 

「うん」

 

 GVも。

 

 ただ頷いた。

 

「分かった」

 

「……いいんですか?」

 

「エリーゼが決めたんでしょ?」

 

「……はい」

 

「じゃあ、それでいいよ」

 

 アシモフも異論は挟まなかった。

 

「では、そのように手配しよう」

 

「……ありがとうございます」

 

 エリーゼは頭を下げる。

 

 そして。

 

 少ししてから。

 

 もう一度。

 

 GVとシアンを見た。

 

「……よろしくお願いします」

 

 GVは軽く手を上げる。

 

「こちらこそ」

 

 シアンも笑う。

 

「よろしくね、エリーゼ」

 

     ◇

 

 翌日。

 

 玄関の前に置かれた荷物を見て、GVはしばらく何も言わなかった。

 

 大きめの鞄が一つ。

 

 それだけだった。

 

「……これで全部?」

 

「は、はい……」

 

 エリーゼは小さく頷いた。

 

「すみません……その、今日から……」

 

「昨日決めたんだから、もう謝らなくていいよ」

 

「す、すみ――」

 

 エリーゼが途中で止まる。

 

 GVが笑った。

 

「うん。まずそこからだね」

 

 家の中から。

 

「GV、まだー?」

 

 シアンの声。

 

「今入るところ!」

 

 GVは鞄を持ち上げた。

 

 軽い。

 

 本当に。

 

 驚くほど軽かった。

 

「じゃ」

 

 玄関を開く。

 

「入ろっか」

 

「……はい」

 

 エリーゼは。

 

 自分で選んだ場所へ。

 

 初めて。

 

 一歩を踏み入れた。

 

     ◇

 

「……少なくない?」

 

 朝食の席。

 

 先ほどまで小さな声で「いただきます」と言っていたエリーゼは、いつの間にか椅子の背にもたれかかり、目の前の皿を見下ろしていた。

 

 声の調子も違う。

 

 姿勢も違う。

 

 GVは箸を止める。

 

「……3?」

 

「他に誰がいるのよ」

 

「いや、確認」

 

「毎回確認されるの、結構腹立つんだけど」

 

「僕も毎回突然変わられると結構びっくりするんだよ」

 

「慣れなさいよ」

 

「努力はする」

 

 エリーゼ――3は、パンを一口食べる。

 

「で、これだけ?」

 

「朝食としては普通だと思うけど」

 

「アタシ、もっと食べるわよ」

 

「さっき1が『十分です』って言ってたんだけど」

 

「あの子、遠慮してただけでしょ」

 

 GVの手が止まった。

 

「……そうなの?」

 

「見れば分かるでしょ」

 

 3は呆れたように鼻を鳴らす。

 

「お腹空いてても『大丈夫です』って言うに決まってるじゃない」

 

 シアンがちらりとGVを見る。

 

 GVも何とも言えない顔で皿を見る。

 

「……なるほど」

 

「今さら?」

 

「いや、ちょっと心当たりがあるなって」

 

「誰の?」

 

「いろんな人の」

 

 3はもう一枚パンを取った。

 

「とにかく追加」

 

「はいはい」

 

「あとジャム」

 

「そこ」

 

「何?」

 

「居候初日の朝から注文多くない?」

 

「食事に妥協する方がおかしいでしょ」

 

「すごいなぁ」

 

 シアンが感心したように言った。

 

「同じエリーゼなのに、全然違う」

 

「同じに決まってるでしょ」

 

 3が即答する。

 

 シアンは少しだけ目を丸くした。

 

「……そうなんだ」

 

「何よ」

 

「ううん。なんでもない」

 

 GVは立ち上がってパンを追加しながら、二人の会話を聞いていた。

 

 エリーゼ1。

 

 エリーゼ3。

 

 性格は確かにまるで違う。

 

 けれど。

 

 別人なのかと聞かれれば、GVにもまだよく分からなかった。

 

 ただ一つ分かるのは。

 

 どちらかだけを「本物」として扱うのは違う気がする。

 

「はい」

 

 追加のパンを置く。

 

「ジャムも」

 

「遅い」

 

「文句言うなら自分で取って」

 

「じゃあ明日からそうする」

 

「それなら助かる」

 

「……アンタ、もうちょっと居候を大事に扱いなさいよ」

 

「居候だから普通に扱ってるんだけど」

 

「普通?」

 

「うん」

 

 GVは自分の席へ戻る。

 

「住むなら、住んでる人として扱うよ」

 

 3は少しだけ黙った。

 

「……ふん」

 

 そして。

 

 パンへジャムを塗った。

 

     ◇

 

 朝食が終わると、GVは紙を一枚テーブルへ置いた。

 

「じゃあ、家のルール」

 

「ルール……ですか?」

 

 今度は1だった。

 

 どうやら食後に戻ったらしい。

 

「そんな大げさなものじゃないよ。洗濯とか掃除とか、そういうの」

 

「わ、分かりました……! なんでもします!」

 

「却下」

 

「えっ」

 

 GVの返事は速かった。

 

「なんでもはダメ」

 

「で、でも……置いていただくんですから、それくらい……」

 

「僕もなんでもやってないし」

 

「私も」

 

 シアンが手を挙げる。

 

「え……?」

 

「シアンは料理の時に味見って言いながら結構食べる」

 

「それは必要な工程だよ!」

 

「あと洗濯物畳む時、たまに途中で本読んでる」

 

「GVだって掃除途中でテレビ見てるじゃん!」

 

「だから」

 

 GVはエリーゼを見る。

 

「みんな適当なの」

 

「……」

 

「エリーゼだけ『全部やります』ってなったら逆に困る」

 

「でも……わたしは」

 

「じゃあ」

 

 紙を指で叩く。

 

「できそうなの、どれ?」

 

「え?」

 

「掃除。洗濯。食器。買い物。料理は……まあ、できるなら」

 

「……選ぶんですか?」

 

「そうだけど」

 

「わたしが?」

 

「他に誰が選ぶの」

 

 エリーゼは黙った。

 

 紙に書かれた文字を見ている。

 

 たったそれだけなのに、難しい問題を出されたような顔をしていた。

 

「……分かりません」

 

「じゃあやったことあるのは?」

 

「洗濯物を……畳むくらいなら」

 

「じゃあそれからやってみる?」

 

「いいんですか?」

 

「ダメな理由ある?」

 

「……」

 

 少しして。

 

 エリーゼは小さく頷いた。

 

「……やります」

 

「うん。じゃ、お願い」

 

「はい」

 

「失敗しても怒らないから」

 

「っ」

 

 エリーゼの肩が僅かに跳ねた。

 

「……どうしたの?」

 

「いえ……」

 

 俯いたまま。

 

「……ありがとうございます」

 

 今度の言葉に。

 

 謝罪は入っていなかった。

 

     ◇

 

 昼過ぎ。

 

 GVが飲み物を取ろうと台所へ向かうと、冷蔵庫の前にエリーゼがいた。

 

「……?」

 

 何かが違う。

 

 1ではない。

 

 3でもない。

 

 姿勢が低い。

 

 目つきが鋭い。

 

 こちらを見た時。

 

 ほんの一瞬。

 

 空気が変わった。

 

 GVの身体が反射的に強張る。

 

「……エリーゼ?」

 

「……」

 

 返事はない。

 

 ただ。

 

 視線だけがGVから逸れ。

 

 棚の上へ向く。

 

「……?」

 

 そこには。

 

 昨日シアンが買ってきた菓子。

 

 GVが視線の先を見る。

 

 エリーゼを見る。

 

 もう一度菓子を見る。

 

「……これ?」

 

 袋を持ち上げる。

 

 エリーゼの目が動く。

 

「……ソレ」

 

 低い声。

 

「欲しいの?」

 

「クレ」

 

「……」

 

 GVは少し考えた。

 

 研究施設で最も危険だとされた人格。

 

 制御できず。

 

 深く封じ込められていた存在。

 

 目の前にいるだけで、身体のどこかがまだ警戒している。

 

 それでも。

 

 今要求されているのは。

 

 菓子だった。

 

「いいよ」

 

「……!」

 

「一個ね」

 

「……」

 

 エリーゼの顔が露骨に不満そうになる。

 

「一個」

 

 GVが指を立てる。

 

「……二」

 

「ダメ」

 

「二」

 

「一個」

 

「……」

 

「睨んでも増えないよ」

 

 エリーゼが袋へ手を伸ばす。

 

 二つ取る。

 

「はい、一個戻して」

 

「……」

 

「戻して」

 

 無言。

 

 睨み合い。

 

 GVも引かない。

 

 やがて。

 

 エリーゼは非常に不満そうに、一つを袋へ戻した。

 

「よし」

 

「……チッ」

 

「今舌打ちした?」

 

 エリーゼは答えず、菓子を持って去っていく。

 

 その途中。

 

 居間からシアンが顔を覗かせた。

 

「……今の」

 

「うん」

 

「2?」

 

「たぶん」

 

「大丈夫だった?」

 

「何が?」

 

「だって、一番危ない人格なんでしょ?」

 

「まあ、そう聞いてる」

 

「普通にお菓子一個までって注意してたけど……」

 

「だって二個取ったから」

 

「……」

 

「一緒に暮らすなら、お菓子のルールくらい守ってもらわないと」

 

 シアンは数秒GVを見つめた後。

 

 ふっと笑った。

 

「GVらしい」

 

「何が?」

 

「ううん」

 

     ◇

 

 午後。

 

 三人は街へ出た。

 

 目的は、エリーゼの生活用品。

 

 まず歯ブラシ。

 

 次にタオル。

 

 寝具。

 

 服。

 

 そして。

 

「これとこれ、どっちが好き?」

 

 シアンが二つのマグカップを持っている。

 

 一つは淡い色。

 

 もう一つは少し濃い色。

 

 エリーゼ1は困ったように交互を見る。

 

「……どちらでも」

 

「どっちでも?」

 

「はい……安い方で」

 

「値段一緒だよ」

 

「じゃ、じゃあ……本当にどちらでも」

 

「好きな方でいいんだよ?」

 

「……分からないんです」

 

 シアンの笑顔が少し止まった。

 

「分からない?」

 

「何が好きとか……あまり」

 

 エリーゼは俯く。

 

「選んだことがないので」

 

 GVは少し離れたところで、その言葉を聞いていた。

 

 何が欲しいのか。

 

 何が好きなのか。

 

 そんなことすら。

 

 考える必要がなかったのかもしれない。

 

 必要な物は与えられる。

 

 不要な物は与えられない。

 

 そこに自分の意思を挟む場所はない。

 

「じゃあさ」

 

 GVが横から口を挟む。

 

「今日全部決めなくてもいいんじゃない?」

 

「え?」

 

「歯ブラシとか絶対必要な物は買うとして」

 

 マグカップを指す。

 

「こういうのは、欲しいと思った時でいいよ」

 

「でも……」

 

「欲しくない物まで買う必要ないし」

 

「……」

 

「それに」

 

 シアンが笑う。

 

「私も最初、何が好きかよく分かんなかったよ」

 

「シアンさんも?」

 

「うん」

 

「だから色々見て、食べて、やってみて」

 

 少し得意そうに。

 

「今は結構ある」

 

「お菓子とか」

 

「それGVもでしょ!」

 

「そうだけど」

 

 エリーゼが。

 

 ほんの少し笑った。

 

 その瞬間。

 

「でも、それはダサい」

 

「え?」

 

 声が変わった。

 

 3。

 

 シアンが持っていたマグカップを見て、眉をひそめている。

 

「え、ダサい?」

 

「ダサい」

 

「こっちは?」

 

「まだマシ」

 

「じゃあどれがいいの?」

 

「これ」

 

 3は棚の奥から一つを取った。

 

 少し落ち着いた色。

 

 装飾は控えめだが、形が綺麗だった。

 

「これがいい」

 

「即決だね」

 

「当たり前でしょ」

 

 GVが口を挟む。

 

「じゃあそれ買う?」

 

「アタシはね」

 

「1は?」

 

「……知らない」

 

 3の表情が少し変わる。

 

「自分で決めればいいでしょ」

 

 数秒後。

 

 目つきが柔らかくなる。

 

「……あ」

 

 1。

 

 手の中には、3が選んだマグカップ。

 

「……これ」

 

 戸惑う。

 

 シアンが尋ねる。

 

「どう?」

 

「……綺麗だと思います」

 

「じゃあ、これにする?」

 

「でも、3が選んだ物ですし……」

 

 GVは首を傾げた。

 

「エリーゼも綺麗だと思ったんでしょ?」

 

「……はい」

 

「ならいいんじゃない?」

 

「……」

 

「嫌なら別のにすればいい」

 

 エリーゼはもう一度カップを見る。

 

 指先でそっと縁をなぞった。

 

「……これが、いいです」

 

 小さな声。

 

 それでも。

 

 はっきりと。

 

「うん」

 

 シアンが嬉しそうに笑った。

 

「じゃあ決まり」

 

 それは。

 

 ただのマグカップだった。

 

 けれど。

 

 エリーゼにとっては。

 

 初めて自分で「これがいい」と言って選んだ物だった。

 

     ◇

 

 夕食作りは。

 

 想像以上に大変だった。

 

「エリーゼ、それ切りすぎ」

 

「す、すみません!」

 

「謝る前に止めて!」

 

「はい!」

 

 1は慎重すぎるあまり、一つの野菜を切るのに異様な時間がかかる。

 

 交代した3は。

 

「こんなの適当でいいでしょ」

 

「適当すぎ!」

 

 逆に豪快だった。

 

「大きさバラバラじゃん!」

 

「食べれば同じでしょ」

 

「火の通りが違う!」

 

「細かい男ね!」

 

「料理だから!」

 

 そして。

 

 2は。

 

「……」

 

「待って」

 

 無言で皿から一つ取る。

 

「つまみ食い禁止」

 

「……」

 

「戻して」

 

「……」

 

「エリーゼ」

 

 食べる。

 

「あっ!」

 

 シアンが横で笑っている。

 

「笑ってないで止めてよ!」

 

「だって面白くて」

 

「このままだと夕食なくなるんだけど!」

 

 2がもう一つ狙う。

 

「ダメ!」

 

 GVが皿を遠ざける。

 

 2が睨む。

 

「食べるなら座ってから!」

 

「……」

 

「あと少しだから」

 

「……」

 

「待てる?」

 

 沈黙。

 

 やがて2は椅子へ座った。

 

「……待つ」

 

「よし」

 

 シアンが感心した顔をする。

 

「GV、もう慣れてない?」

 

「慣れないと今日の晩ご飯が消えるからね」

 

「誰が消すっていうのよ」

 

 3になった。

 

「今の流れで分かるでしょ」

 

「アタシじゃないわよ」

 

「身体は同じなんだから食べた分は一緒だよ」

 

「知らないわよ、そんなの」

 

「知らないって」

 

 シアンが笑う。

 

 笑い声の中。

 

 エリーゼ3が一瞬だけ黙った。

 

 そして。

 

「……まあ」

 

 少しだけ。

 

 居心地悪そうに椅子へ座り直す。

 

「悪くはないわね」

 

「何が?」

 

「夕飯」

 

「まだ食べてないけど」

 

「匂いよ!」

 

     ◇

 

 夜。

 

 GVが風呂へ入っている間。

 

 居間には、シアンとエリーゼだけが残っていた。

 

 買ってきたマグカップ。

 

 エリーゼはそれを両手で持っている。

 

 中身は温かい飲み物。

 

「気に入った?」

 

 シアンが訊く。

 

「……はい」

 

「よかった」

 

「でも……」

 

「ん?」

 

 エリーゼは俯く。

 

「わたし」

 

 小さな声。

 

「本当にここにいて、いいんでしょうか」

 

 シアンはすぐには答えなかった。

 

「GVさんも、シアンさんも……優しくしてくれますけど」

 

「うん」

 

「わたしは……たくさん迷惑をかけると思います」

 

「うん」

 

「3も……あんな性格ですし」

 

「うん」

 

「2だって……何をするか……」

 

「うん」

 

「だから……」

 

 エリーゼはマグカップを強く握る。

 

「いつか」

 

 言葉が詰まる。

 

「やっぱり、いない方がいいって……思われるんじゃないかって」

 

 シアンは。

 

 昔の自分を思い出した。

 

 何も知らなかった頃。

 

 外の世界が怖かった頃。

 

 GVに助けられて。

 

 普通の家に連れてこられて。

 

 それでも。

 

 自分が本当にそこにいていいのか。

 

 何度も考えた。

 

「私ね」

 

「……?」

 

「最初ここに来た時」

 

 シアンは笑う。

 

「結構怖かったよ」

 

「シアンさんが?」

 

「うん」

 

「だって、普通の生活なんて知らなかったし」

 

「……」

 

「GVも変な人だし」

 

 風呂場の方から。

 

「聞こえてるよ!」

 

 声。

 

 シアンが吹き出す。

 

「ほら」

 

「……ふふ」

 

 エリーゼも小さく笑った。

 

「でも」

 

 シアンは続ける。

 

「私は」

 

 一度、言葉を選ぶ。

 

「ここにいさせてもらってるからいるんじゃないよ」

 

「……」

 

「いたかったから、いる」

 

「……いたかったから」

 

「うん」

 

 シアンはエリーゼを見る。

 

「エリーゼは?」

 

「え?」

 

「ここにいたい?」

 

 エリーゼが固まった。

 

「……」

 

「嫌なら、嫌でもいいんだよ」

 

「……」

 

「まだ分からないでもいい」

 

「……」

 

「でも」

 

 シアンは微笑んだ。

 

「私たちがどう思うかじゃなくて」

 

「エリーゼはどうしたい?」

 

 長い沈黙。

 

 時計の音。

 

 風呂場から聞こえる水音。

 

 窓の外を通る車。

 

 普通の夜。

 

 普通の家。

 

 エリーゼは。

 

 マグカップを見る。

 

 今日。

 

 自分で選んだ物。

 

 朝。

 

 ここへ入って。

 

 洗濯物を畳むと決めた。

 

 昼。

 

 欲しい物を一つ選んだ。

 

 夕方。

 

 料理をして。

 

 失敗して。

 

 笑われて。

 

 怒鳴られなかった。

 

「……」

 

 唇が震える。

 

「……いたい」

 

 シアンは何も言わない。

 

「わたし」

 

 もう一度。

 

「……ここに、いたいです」

 

 シアンが。

 

 ゆっくり笑った。

 

「そっか」

 

「……はい」

 

「じゃあ、それでいいんじゃない?」

 

「……そんな簡単に」

 

「簡単じゃないよ」

 

 シアンは自分のカップを持つ。

 

「たぶん、これから色々あるし」

 

「3とも喧嘩するかもしれないし」

 

「2がお菓子全部食べるかもしれないし」

 

「……」

 

「GV、絶対怒るし」

 

「そこは怒るよ!」

 

 また風呂場から声。

 

「やっぱり聞いてるじゃん」

 

「声大きいんだよ!」

 

 エリーゼは。

 

 ついに声を出して笑った。

 

 それは小さな笑いだった。

 

 けれど。

 

 研究施設で。

 

 戦場で。

 

 何かから逃げるためではなく。

 

 ただ。

 

 面白かったから。

 

 笑った。

 

     ◇

 

「布団薄い」

 

 夜。

 

「さっき1は十分って言ってたよ」

 

「アタシは薄いって言ってるの」

 

「同じ身体なのに注文三倍なんだけど」

 

「知らないわよ!」

 

「こっちも知らないよ!」

 

「GV、もう少し静かにして」

 

「僕!?」

 

 シアンが布団の中から笑っている。

 

「エリーゼ3の方が声大きいでしょ!」

 

「アタシに押し付けないでよ!」

 

「いや今実際――」

 

「……菓子」

 

 GVが止まる。

 

 エリーゼの雰囲気がまた変わっている。

 

「……2」

 

「菓子」

 

「もう歯磨いたでしょ」

 

「……一」

 

「ダメ」

 

「……半分」

 

「交渉覚えた!?」

 

 シアンが布団の中で笑いを堪えている。

 

「GV、半分くらいならいいんじゃない?」

 

「シアンまで!」

 

「……半分」

 

「分かったよ!」

 

 GVは諦めたように立ち上がる。

 

「ほんとに半分だからね」

 

「……」

 

「あと食べたらもう一回歯磨き」

 

「……」

 

「聞いてる?」

 

「聞いてる」

 

「ちゃんと喋れるじゃん!」

 

 シアンの笑い声がついに漏れる。

 

「ふふっ……!」

 

「笑い事じゃないんだけど!」

 

 騒がしい。

 

 昨日まで。

 

 この家には二人しかいなかった。

 

 今は。

 

 一人増えただけなのに。

 

 随分と。

 

 騒がしい。

 

 しばらくして。

 

 ようやく明かりが消える。

 

「じゃ」

 

 GVが自分の布団へ入る。

 

「もう寝よう」

 

「……」

 

「明日もあるし」

 

 その言葉に。

 

 エリーゼの目が少し動いた。

 

 明日。

 

 当たり前のように。

 

 明日もここにいる。

 

 追い出されるわけでも。

 

 研究へ連れていかれるわけでも。

 

 戦う予定があるわけでもない。

 

 ただ。

 

 朝になれば起きる。

 

 朝食を食べる。

 

 洗濯物を畳む。

 

 もしかしたら買い物へ行く。

 

 その程度。

 

 でも。

 

 エリーゼは。

 

 そんな明日を。

 

 今まで知らなかった。

 

「おやすみ、シアン」

 

「おやすみ、GV」

 

 GVは少し間を置いて。

 

「おやすみ、エリーゼ」

 

 番号は付けなかった。

 

 誰が今そこにいるのか。

 

 確認もしなかった。

 

「……」

 

 布団の中。

 

 静かな声が返ってくる。

 

「……おやすみなさい」

 

 1だったのか。

 

 あるいは。

 

 他の誰かだったのか。

 

 GVには分からない。

 

 でも。

 

 それでいいと思った。

 

 エリーゼは。

 

 エリーゼだ。

 

 少なくとも。

 

 今は。

 

 それでいい。

 

 やがて。

 

 家の中が静かになる。

 

 小さなマグカップが。

 

 食器棚に一つ増えていた。

 

 洗面所には。

 

 新しい歯ブラシが一本。

 

 玄関には。

 

 新しい靴が一足。

 

 ただ。

 

 それだけ。

 

 けれど。

 

 その全部が。

 

 エリーゼが。

 

 これからここで生きていくためのものだった。

 

 戦うためでも。

 

 研究されるためでも。

 

 誰かに管理されるためでもなく。

 

 明日の朝。

 

 目を覚ますために。

 

 そして。

 

 その次の日も。

 

 また。

 

 生きるために。

 




次回――

休日。

久しぶりにゆっくりとした時間を過ごすGVたち。

だが、その帰り道で出会ったのは――

「……蒼き雷霆」

以前、パンテーラを巡って刃を交えた少年。

能力者狩り――アキュラ。

「次にオレの邪魔をすれば、今度は貴様ごと排除する」

「同じことするなら、また止めるよ」

相容れない二人。

譲れないものを抱えたまま、再びぶつかる蒼き雷霆と白き能力者狩り。

しかし――

「……じゃあさ」

「何だ」

「別ので決めない?」

「……何?」

戦いの果てにGVが持ち出した、まさかの“決着方法”とは――?

次回、

第十五話「宿敵」

敵か。

ライバルか。

それとも――

次回も、グッドラック。
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