『隣人GV ―もしもスパイディの影響を受けたGVなら―』 作:幸田市
フェザーの保護区画には、昨日と同じように静かな時間が流れていた。
白い壁。
簡素なベッド。
小さな机。
その上には、空になったプリンの容器が一つ残っている。
エリーゼはベッドの端に腰掛け、膝の上で両手を重ねていた。
「……」
向かいにはGVとシアン。
そして、その少し離れたところにアシモフが立っている。
「体調については問題ない」
アシモフが言った。
「少なくとも、現時点で皇神の処置による急激な異常は確認されていない」
「……そうですか」
エリーゼが小さく答える。
「ただし」
アシモフは続けた。
「今後については決めなければならない」
エリーゼの肩が僅かに強張った。
「今後……」
「ああ」
アシモフは腕を組む。
「皇神へ戻すという選択肢はない」
「……」
「少なくとも、現在の状況で君を彼らの管理下へ戻すことを、我々は認めるつもりはない」
エリーゼは俯いた。
皇神。
その言葉だけで。
研究施設の白い部屋が脳裏を掠めたのかもしれない。
「そこで」
アシモフが机へ視線を向ける。
「フェザーとして、君を保護する用意がある」
「……フェザーで?」
「専用の保護区画を用意する。生活に必要な物はこちらで用意しよう。身の安全についても保証する」
「……」
「もちろん、必要であれば治療や経過観察も行う」
エリーゼは静かに聞いていた。
それは。
おそらく。
一番合理的な選択だった。
設備がある。
人がいる。
皇神から守る力もある。
「それと」
アシモフがGVを見る。
「もう一つ」
「?」
エリーゼが顔を上げる。
「GV」
「うん」
「お前たちの住居で、一時的に預かることも可能だ」
「……え?」
エリーゼが目を丸くした。
GVも少し困ったように頬を掻く。
「まあ」
「部屋はそんな広くないけどね」
「ちょっと狭いくらいだよ」
シアンが横から言う。
「それ、フォローになってる?」
「なってるよ」
「そうかなぁ」
エリーゼは二人を交互に見る。
「わ、わたしが……?」
「うん」
GVが答える。
「もし、そっちがいいなら」
「でも……」
エリーゼはすぐに俯く。
「ご迷惑では……」
「それを今決めるのは僕らだから」
「……」
「少なくとも」
GVは肩をすくめた。
「僕は別に嫌じゃないよ」
「私も」
シアンも頷く。
「でも」
GVがすぐに続ける。
「だからって、うちに来なきゃいけないわけじゃないからね」
「え……」
「フェザーにいるのもいいと思う」
「設備もあるし、安全だし」
「……」
「僕らの家に来るのもあり」
「フェザーに残るのもあり」
「他にやりたいことが見つかったら、その時また考えてもいい」
エリーゼは黙る。
「だから」
GVが言った。
「エリーゼが決めて」
「……わたしが?」
「うん」
その言葉に。
エリーゼは困った顔をした。
何をするか。
どこへ行くか。
誰と暮らすか。
そんなことを。
自分で決めた経験が。
どれだけあったのだろう。
「……」
エリーゼは俯いたまま。
なかなか答えなかった。
「今すぐじゃなくてもいいよ」
シアンが言う。
「ゆっくり決めればいいから」
「……」
「私も」
少し笑う。
「最初、何していいか全然分からなかったし」
「シアンさんも……?」
「うん」
「だから」
シアンは自分の胸へ手を置いた。
「考えていいんだよ」
「……」
長い沈黙。
やがて。
エリーゼが小さく口を開いた。
「……フェザーにいれば」
「?」
「安全、なんですよね」
アシモフが頷く。
「ああ」
「……必要なものも」
「用意される」
「……」
それを聞いて。
エリーゼはまた黙った。
安全。
必要な物が与えられる。
管理された場所。
研究施設とは違う。
ここは敵ではない。
それでも。
何故か。
その言葉が。
少しだけ。
昔を思い出させた。
「……」
その時。
エリーゼの姿勢が変わった。
顔を上げる。
「……3?」
GVが呟く。
「何よ」
エリーゼ3は不機嫌そうに答えた。
「いや、変わったから」
「いちいち言わなくても分かるでしょ」
「まだ慣れてないんだって」
「……ったく」
3はアシモフを見る。
「で?」
「何だ」
「フェザーにいれば、ずっとここ?」
「当面はそうなる」
「監視は?」
「安全上、最低限は必要だ」
「ほら」
3が鼻を鳴らす。
「嫌」
「え」
GVが目を瞬く。
「即答だね」
「当たり前でしょ」
「アタシ、また白い部屋に閉じ込められるの御免なんだけど」
「閉じ込めるつもりはない」
「同じようなものじゃない」
「3……」
声が小さくなる。
1へ戻った。
「……」
エリーゼは少し困ったような顔で。
それでも。
今度はすぐに俯かなかった。
「……わたしも」
「うん?」
GVが待つ。
「……もし」
一度。
息を吸う。
「本当に、迷惑じゃないなら」
「……」
「GVさんと」
シアンを見る。
「シアンさんのところに」
少し震えながら。
「……行ってみたいです」
シアンの表情が明るくなる。
「うん」
GVも。
ただ頷いた。
「分かった」
「……いいんですか?」
「エリーゼが決めたんでしょ?」
「……はい」
「じゃあ、それでいいよ」
アシモフも異論は挟まなかった。
「では、そのように手配しよう」
「……ありがとうございます」
エリーゼは頭を下げる。
そして。
少ししてから。
もう一度。
GVとシアンを見た。
「……よろしくお願いします」
GVは軽く手を上げる。
「こちらこそ」
シアンも笑う。
「よろしくね、エリーゼ」
◇
翌日。
玄関の前に置かれた荷物を見て、GVはしばらく何も言わなかった。
大きめの鞄が一つ。
それだけだった。
「……これで全部?」
「は、はい……」
エリーゼは小さく頷いた。
「すみません……その、今日から……」
「昨日決めたんだから、もう謝らなくていいよ」
「す、すみ――」
エリーゼが途中で止まる。
GVが笑った。
「うん。まずそこからだね」
家の中から。
「GV、まだー?」
シアンの声。
「今入るところ!」
GVは鞄を持ち上げた。
軽い。
本当に。
驚くほど軽かった。
「じゃ」
玄関を開く。
「入ろっか」
「……はい」
エリーゼは。
自分で選んだ場所へ。
初めて。
一歩を踏み入れた。
◇
「……少なくない?」
朝食の席。
先ほどまで小さな声で「いただきます」と言っていたエリーゼは、いつの間にか椅子の背にもたれかかり、目の前の皿を見下ろしていた。
声の調子も違う。
姿勢も違う。
GVは箸を止める。
「……3?」
「他に誰がいるのよ」
「いや、確認」
「毎回確認されるの、結構腹立つんだけど」
「僕も毎回突然変わられると結構びっくりするんだよ」
「慣れなさいよ」
「努力はする」
エリーゼ――3は、パンを一口食べる。
「で、これだけ?」
「朝食としては普通だと思うけど」
「アタシ、もっと食べるわよ」
「さっき1が『十分です』って言ってたんだけど」
「あの子、遠慮してただけでしょ」
GVの手が止まった。
「……そうなの?」
「見れば分かるでしょ」
3は呆れたように鼻を鳴らす。
「お腹空いてても『大丈夫です』って言うに決まってるじゃない」
シアンがちらりとGVを見る。
GVも何とも言えない顔で皿を見る。
「……なるほど」
「今さら?」
「いや、ちょっと心当たりがあるなって」
「誰の?」
「いろんな人の」
3はもう一枚パンを取った。
「とにかく追加」
「はいはい」
「あとジャム」
「そこ」
「何?」
「居候初日の朝から注文多くない?」
「食事に妥協する方がおかしいでしょ」
「すごいなぁ」
シアンが感心したように言った。
「同じエリーゼなのに、全然違う」
「同じに決まってるでしょ」
3が即答する。
シアンは少しだけ目を丸くした。
「……そうなんだ」
「何よ」
「ううん。なんでもない」
GVは立ち上がってパンを追加しながら、二人の会話を聞いていた。
エリーゼ1。
エリーゼ3。
性格は確かにまるで違う。
けれど。
別人なのかと聞かれれば、GVにもまだよく分からなかった。
ただ一つ分かるのは。
どちらかだけを「本物」として扱うのは違う気がする。
「はい」
追加のパンを置く。
「ジャムも」
「遅い」
「文句言うなら自分で取って」
「じゃあ明日からそうする」
「それなら助かる」
「……アンタ、もうちょっと居候を大事に扱いなさいよ」
「居候だから普通に扱ってるんだけど」
「普通?」
「うん」
GVは自分の席へ戻る。
「住むなら、住んでる人として扱うよ」
3は少しだけ黙った。
「……ふん」
そして。
パンへジャムを塗った。
◇
朝食が終わると、GVは紙を一枚テーブルへ置いた。
「じゃあ、家のルール」
「ルール……ですか?」
今度は1だった。
どうやら食後に戻ったらしい。
「そんな大げさなものじゃないよ。洗濯とか掃除とか、そういうの」
「わ、分かりました……! なんでもします!」
「却下」
「えっ」
GVの返事は速かった。
「なんでもはダメ」
「で、でも……置いていただくんですから、それくらい……」
「僕もなんでもやってないし」
「私も」
シアンが手を挙げる。
「え……?」
「シアンは料理の時に味見って言いながら結構食べる」
「それは必要な工程だよ!」
「あと洗濯物畳む時、たまに途中で本読んでる」
「GVだって掃除途中でテレビ見てるじゃん!」
「だから」
GVはエリーゼを見る。
「みんな適当なの」
「……」
「エリーゼだけ『全部やります』ってなったら逆に困る」
「でも……わたしは」
「じゃあ」
紙を指で叩く。
「できそうなの、どれ?」
「え?」
「掃除。洗濯。食器。買い物。料理は……まあ、できるなら」
「……選ぶんですか?」
「そうだけど」
「わたしが?」
「他に誰が選ぶの」
エリーゼは黙った。
紙に書かれた文字を見ている。
たったそれだけなのに、難しい問題を出されたような顔をしていた。
「……分かりません」
「じゃあやったことあるのは?」
「洗濯物を……畳むくらいなら」
「じゃあそれからやってみる?」
「いいんですか?」
「ダメな理由ある?」
「……」
少しして。
エリーゼは小さく頷いた。
「……やります」
「うん。じゃ、お願い」
「はい」
「失敗しても怒らないから」
「っ」
エリーゼの肩が僅かに跳ねた。
「……どうしたの?」
「いえ……」
俯いたまま。
「……ありがとうございます」
今度の言葉に。
謝罪は入っていなかった。
◇
昼過ぎ。
GVが飲み物を取ろうと台所へ向かうと、冷蔵庫の前にエリーゼがいた。
「……?」
何かが違う。
1ではない。
3でもない。
姿勢が低い。
目つきが鋭い。
こちらを見た時。
ほんの一瞬。
空気が変わった。
GVの身体が反射的に強張る。
「……エリーゼ?」
「……」
返事はない。
ただ。
視線だけがGVから逸れ。
棚の上へ向く。
「……?」
そこには。
昨日シアンが買ってきた菓子。
GVが視線の先を見る。
エリーゼを見る。
もう一度菓子を見る。
「……これ?」
袋を持ち上げる。
エリーゼの目が動く。
「……ソレ」
低い声。
「欲しいの?」
「クレ」
「……」
GVは少し考えた。
研究施設で最も危険だとされた人格。
制御できず。
深く封じ込められていた存在。
目の前にいるだけで、身体のどこかがまだ警戒している。
それでも。
今要求されているのは。
菓子だった。
「いいよ」
「……!」
「一個ね」
「……」
エリーゼの顔が露骨に不満そうになる。
「一個」
GVが指を立てる。
「……二」
「ダメ」
「二」
「一個」
「……」
「睨んでも増えないよ」
エリーゼが袋へ手を伸ばす。
二つ取る。
「はい、一個戻して」
「……」
「戻して」
無言。
睨み合い。
GVも引かない。
やがて。
エリーゼは非常に不満そうに、一つを袋へ戻した。
「よし」
「……チッ」
「今舌打ちした?」
エリーゼは答えず、菓子を持って去っていく。
その途中。
居間からシアンが顔を覗かせた。
「……今の」
「うん」
「2?」
「たぶん」
「大丈夫だった?」
「何が?」
「だって、一番危ない人格なんでしょ?」
「まあ、そう聞いてる」
「普通にお菓子一個までって注意してたけど……」
「だって二個取ったから」
「……」
「一緒に暮らすなら、お菓子のルールくらい守ってもらわないと」
シアンは数秒GVを見つめた後。
ふっと笑った。
「GVらしい」
「何が?」
「ううん」
◇
午後。
三人は街へ出た。
目的は、エリーゼの生活用品。
まず歯ブラシ。
次にタオル。
寝具。
服。
そして。
「これとこれ、どっちが好き?」
シアンが二つのマグカップを持っている。
一つは淡い色。
もう一つは少し濃い色。
エリーゼ1は困ったように交互を見る。
「……どちらでも」
「どっちでも?」
「はい……安い方で」
「値段一緒だよ」
「じゃ、じゃあ……本当にどちらでも」
「好きな方でいいんだよ?」
「……分からないんです」
シアンの笑顔が少し止まった。
「分からない?」
「何が好きとか……あまり」
エリーゼは俯く。
「選んだことがないので」
GVは少し離れたところで、その言葉を聞いていた。
何が欲しいのか。
何が好きなのか。
そんなことすら。
考える必要がなかったのかもしれない。
必要な物は与えられる。
不要な物は与えられない。
そこに自分の意思を挟む場所はない。
「じゃあさ」
GVが横から口を挟む。
「今日全部決めなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「歯ブラシとか絶対必要な物は買うとして」
マグカップを指す。
「こういうのは、欲しいと思った時でいいよ」
「でも……」
「欲しくない物まで買う必要ないし」
「……」
「それに」
シアンが笑う。
「私も最初、何が好きかよく分かんなかったよ」
「シアンさんも?」
「うん」
「だから色々見て、食べて、やってみて」
少し得意そうに。
「今は結構ある」
「お菓子とか」
「それGVもでしょ!」
「そうだけど」
エリーゼが。
ほんの少し笑った。
その瞬間。
「でも、それはダサい」
「え?」
声が変わった。
3。
シアンが持っていたマグカップを見て、眉をひそめている。
「え、ダサい?」
「ダサい」
「こっちは?」
「まだマシ」
「じゃあどれがいいの?」
「これ」
3は棚の奥から一つを取った。
少し落ち着いた色。
装飾は控えめだが、形が綺麗だった。
「これがいい」
「即決だね」
「当たり前でしょ」
GVが口を挟む。
「じゃあそれ買う?」
「アタシはね」
「1は?」
「……知らない」
3の表情が少し変わる。
「自分で決めればいいでしょ」
数秒後。
目つきが柔らかくなる。
「……あ」
1。
手の中には、3が選んだマグカップ。
「……これ」
戸惑う。
シアンが尋ねる。
「どう?」
「……綺麗だと思います」
「じゃあ、これにする?」
「でも、3が選んだ物ですし……」
GVは首を傾げた。
「エリーゼも綺麗だと思ったんでしょ?」
「……はい」
「ならいいんじゃない?」
「……」
「嫌なら別のにすればいい」
エリーゼはもう一度カップを見る。
指先でそっと縁をなぞった。
「……これが、いいです」
小さな声。
それでも。
はっきりと。
「うん」
シアンが嬉しそうに笑った。
「じゃあ決まり」
それは。
ただのマグカップだった。
けれど。
エリーゼにとっては。
初めて自分で「これがいい」と言って選んだ物だった。
◇
夕食作りは。
想像以上に大変だった。
「エリーゼ、それ切りすぎ」
「す、すみません!」
「謝る前に止めて!」
「はい!」
1は慎重すぎるあまり、一つの野菜を切るのに異様な時間がかかる。
交代した3は。
「こんなの適当でいいでしょ」
「適当すぎ!」
逆に豪快だった。
「大きさバラバラじゃん!」
「食べれば同じでしょ」
「火の通りが違う!」
「細かい男ね!」
「料理だから!」
そして。
2は。
「……」
「待って」
無言で皿から一つ取る。
「つまみ食い禁止」
「……」
「戻して」
「……」
「エリーゼ」
食べる。
「あっ!」
シアンが横で笑っている。
「笑ってないで止めてよ!」
「だって面白くて」
「このままだと夕食なくなるんだけど!」
2がもう一つ狙う。
「ダメ!」
GVが皿を遠ざける。
2が睨む。
「食べるなら座ってから!」
「……」
「あと少しだから」
「……」
「待てる?」
沈黙。
やがて2は椅子へ座った。
「……待つ」
「よし」
シアンが感心した顔をする。
「GV、もう慣れてない?」
「慣れないと今日の晩ご飯が消えるからね」
「誰が消すっていうのよ」
3になった。
「今の流れで分かるでしょ」
「アタシじゃないわよ」
「身体は同じなんだから食べた分は一緒だよ」
「知らないわよ、そんなの」
「知らないって」
シアンが笑う。
笑い声の中。
エリーゼ3が一瞬だけ黙った。
そして。
「……まあ」
少しだけ。
居心地悪そうに椅子へ座り直す。
「悪くはないわね」
「何が?」
「夕飯」
「まだ食べてないけど」
「匂いよ!」
◇
夜。
GVが風呂へ入っている間。
居間には、シアンとエリーゼだけが残っていた。
買ってきたマグカップ。
エリーゼはそれを両手で持っている。
中身は温かい飲み物。
「気に入った?」
シアンが訊く。
「……はい」
「よかった」
「でも……」
「ん?」
エリーゼは俯く。
「わたし」
小さな声。
「本当にここにいて、いいんでしょうか」
シアンはすぐには答えなかった。
「GVさんも、シアンさんも……優しくしてくれますけど」
「うん」
「わたしは……たくさん迷惑をかけると思います」
「うん」
「3も……あんな性格ですし」
「うん」
「2だって……何をするか……」
「うん」
「だから……」
エリーゼはマグカップを強く握る。
「いつか」
言葉が詰まる。
「やっぱり、いない方がいいって……思われるんじゃないかって」
シアンは。
昔の自分を思い出した。
何も知らなかった頃。
外の世界が怖かった頃。
GVに助けられて。
普通の家に連れてこられて。
それでも。
自分が本当にそこにいていいのか。
何度も考えた。
「私ね」
「……?」
「最初ここに来た時」
シアンは笑う。
「結構怖かったよ」
「シアンさんが?」
「うん」
「だって、普通の生活なんて知らなかったし」
「……」
「GVも変な人だし」
風呂場の方から。
「聞こえてるよ!」
声。
シアンが吹き出す。
「ほら」
「……ふふ」
エリーゼも小さく笑った。
「でも」
シアンは続ける。
「私は」
一度、言葉を選ぶ。
「ここにいさせてもらってるからいるんじゃないよ」
「……」
「いたかったから、いる」
「……いたかったから」
「うん」
シアンはエリーゼを見る。
「エリーゼは?」
「え?」
「ここにいたい?」
エリーゼが固まった。
「……」
「嫌なら、嫌でもいいんだよ」
「……」
「まだ分からないでもいい」
「……」
「でも」
シアンは微笑んだ。
「私たちがどう思うかじゃなくて」
「エリーゼはどうしたい?」
長い沈黙。
時計の音。
風呂場から聞こえる水音。
窓の外を通る車。
普通の夜。
普通の家。
エリーゼは。
マグカップを見る。
今日。
自分で選んだ物。
朝。
ここへ入って。
洗濯物を畳むと決めた。
昼。
欲しい物を一つ選んだ。
夕方。
料理をして。
失敗して。
笑われて。
怒鳴られなかった。
「……」
唇が震える。
「……いたい」
シアンは何も言わない。
「わたし」
もう一度。
「……ここに、いたいです」
シアンが。
ゆっくり笑った。
「そっか」
「……はい」
「じゃあ、それでいいんじゃない?」
「……そんな簡単に」
「簡単じゃないよ」
シアンは自分のカップを持つ。
「たぶん、これから色々あるし」
「3とも喧嘩するかもしれないし」
「2がお菓子全部食べるかもしれないし」
「……」
「GV、絶対怒るし」
「そこは怒るよ!」
また風呂場から声。
「やっぱり聞いてるじゃん」
「声大きいんだよ!」
エリーゼは。
ついに声を出して笑った。
それは小さな笑いだった。
けれど。
研究施設で。
戦場で。
何かから逃げるためではなく。
ただ。
面白かったから。
笑った。
◇
「布団薄い」
夜。
「さっき1は十分って言ってたよ」
「アタシは薄いって言ってるの」
「同じ身体なのに注文三倍なんだけど」
「知らないわよ!」
「こっちも知らないよ!」
「GV、もう少し静かにして」
「僕!?」
シアンが布団の中から笑っている。
「エリーゼ3の方が声大きいでしょ!」
「アタシに押し付けないでよ!」
「いや今実際――」
「……菓子」
GVが止まる。
エリーゼの雰囲気がまた変わっている。
「……2」
「菓子」
「もう歯磨いたでしょ」
「……一」
「ダメ」
「……半分」
「交渉覚えた!?」
シアンが布団の中で笑いを堪えている。
「GV、半分くらいならいいんじゃない?」
「シアンまで!」
「……半分」
「分かったよ!」
GVは諦めたように立ち上がる。
「ほんとに半分だからね」
「……」
「あと食べたらもう一回歯磨き」
「……」
「聞いてる?」
「聞いてる」
「ちゃんと喋れるじゃん!」
シアンの笑い声がついに漏れる。
「ふふっ……!」
「笑い事じゃないんだけど!」
騒がしい。
昨日まで。
この家には二人しかいなかった。
今は。
一人増えただけなのに。
随分と。
騒がしい。
しばらくして。
ようやく明かりが消える。
「じゃ」
GVが自分の布団へ入る。
「もう寝よう」
「……」
「明日もあるし」
その言葉に。
エリーゼの目が少し動いた。
明日。
当たり前のように。
明日もここにいる。
追い出されるわけでも。
研究へ連れていかれるわけでも。
戦う予定があるわけでもない。
ただ。
朝になれば起きる。
朝食を食べる。
洗濯物を畳む。
もしかしたら買い物へ行く。
その程度。
でも。
エリーゼは。
そんな明日を。
今まで知らなかった。
「おやすみ、シアン」
「おやすみ、GV」
GVは少し間を置いて。
「おやすみ、エリーゼ」
番号は付けなかった。
誰が今そこにいるのか。
確認もしなかった。
「……」
布団の中。
静かな声が返ってくる。
「……おやすみなさい」
1だったのか。
あるいは。
他の誰かだったのか。
GVには分からない。
でも。
それでいいと思った。
エリーゼは。
エリーゼだ。
少なくとも。
今は。
それでいい。
やがて。
家の中が静かになる。
小さなマグカップが。
食器棚に一つ増えていた。
洗面所には。
新しい歯ブラシが一本。
玄関には。
新しい靴が一足。
ただ。
それだけ。
けれど。
その全部が。
エリーゼが。
これからここで生きていくためのものだった。
戦うためでも。
研究されるためでも。
誰かに管理されるためでもなく。
明日の朝。
目を覚ますために。
そして。
その次の日も。
また。
生きるために。
次回――
休日。
久しぶりにゆっくりとした時間を過ごすGVたち。
だが、その帰り道で出会ったのは――
「……蒼き雷霆」
以前、パンテーラを巡って刃を交えた少年。
能力者狩り――アキュラ。
「次にオレの邪魔をすれば、今度は貴様ごと排除する」
「同じことするなら、また止めるよ」
相容れない二人。
譲れないものを抱えたまま、再びぶつかる蒼き雷霆と白き能力者狩り。
しかし――
「……じゃあさ」
「何だ」
「別ので決めない?」
「……何?」
戦いの果てにGVが持ち出した、まさかの“決着方法”とは――?
次回、
第十五話「宿敵」
敵か。
ライバルか。
それとも――
次回も、グッドラック。