『隣人GV ―もしもスパイディの影響を受けたGVなら―』 作:幸田市
かんそうくれくれ
電子の謡精――モルフォ。
駅前の大型ビジョン、商店街のスピーカー、携帯端末の広告。街を歩けば、一日に一度はその姿か歌声に出会う。青白い光をまとった少女が現実にはないステージで歌い、学生も会社員も子供も、その名を知っている。
実体を持たない国民的バーチャルアイドル。世間の大多数にとって、モルフォとはそういう存在だった。
「今回の標的は、そのモルフォだ」
フェザーの作戦室でアシモフが告げた瞬間、ジーノが椅子から身を乗り出した。
「待った。モルフォって、あのモルフォ?」
「この国に何人モルフォがいるのよ」
モニカが冷静に返す。
「俺のプレイリスト上位常連の、あのモルフォだよな!?」
「安心しなよ」
GVが壁面モニターを見ながら口を挟む。
「別に本人を殴りに行くわけじゃないんでしょ?」
「本人も何も、バーチャルアイドルだぞ」
「だったらなおさら殴れないじゃん」
「お前、こういう時だけ夢がねえよな……」
アシモフは二人を無視して資料を切り替えた。複雑な波形と皇神の観測記録が表示される。
「破壊対象はモルフォを構成しているとされるプログラムコアだ。彼女の歌は
GVの顔から軽さが消えた。
「歌を聞かせて、反応した人を探して捕まえる?」
「ああ」
「……趣味の悪い使い方するね」
誰かにとっては通学路で聞く歌であり、誰かにとっては落ち込んだ日に背中を押してくれた歌だ。その同じ歌が、別の誰かを捕らえる網として使われている。
「モルフォ自身は知ってるの?」
「モルフォはプログラムだ。意思があるとは考えにくい」
「ならいいんだけど。壊した後で『実は生きてました』は寝覚め悪いからさ」
「やめろよ。ファンの前でそういう想像させんな」
ジーノが顔をしかめる。
「我々が陽動する。GV、お前は
「了解。入って、壊して、帰る。簡単だね」
「その台詞、前にも聞いたぞ」
「ちゃんと帰ってきたでしょ」
「任務目標放ったらかして人助けしてな」
「三人助かったんだから結果オーライじゃない?」
「その報告書を書いたモニカの前でもう一度言ってみろ」
GVがモニカを見る。にっこりと笑われた。
「……任務行ってきます」
「賢明ね」
◇
「いやあ……予定通りにはいかないもんだね」
しばらく後、GVは皇神施設の拘束台に固定されていた。
潜入には成功したが、フェザーの動きはある程度読まれていたらしい。目的のモルフォはすでに移送され、移送先を探っていたところで罠に掛かった。両手足の拘束具は能力者の第七波動
「あらァ? 随分余裕じゃない」
ロメオが笑う。
「能力者一人にしては豪華な部屋だなと思って」
「余裕を見せるのも今のうちよ」
「それ、捕まえた側が一度は言いたい台詞ランキング上位にありそう」
「アナタ、状況分かってる?」
「捕まってる。あと帰りが遅いとモニカさんに怒られる」
「そっちを心配するの!?」
軽口を叩きながら、GVは拘束具の制御周期を読んでいた。抑制波には僅かな切り替えの隙間がある。
その時、室内端末から搬送通信が流れた。
『特別輸送車両、出発。対象は先頭車両へ収容済み』
ロメオが端末へ目を向ける。
「残念だったわねェ。アナタたちのお目当てなら、もうここにはないわ」
GVは内心でだけ頷いた。欲しかった情報は手に入った。
「ところで、この拘束具って電磁式?」
「能力者用の抑制装置よ」
「へえ。普通の能力者ならかなり厄介そうだね」
「普通の?」
ぱちり、と蒼い火花が散った。
ロメオの笑みが止まる。
「……その光」
もう一度、青白い電撃がGVの腕を走った。
ロメオの脳裏に、皇神の現場で囁かれている噂が蘇る。
フェザーには蒼い雷を操る能力者がいる。コードネームはガンヴォルト。交戦記録は山ほどあるのに、不思議なほど人物情報がない。顔を見たかと聞けば「暗かった」、年齢を聞けば「動きが速く分からなかった」。上層部は彼の機動力のせいだと考えていた。
実際には違う。
皇神兵たちは、彼の顔を見ていた。真正面から話した者さえいる。それでも黙っていた。
崩れた足場から引き上げられた者。負傷して追撃されるどころか医療班を呼ぶよう言われた者。火災の中で敵味方関係なく避難させられた者。自分を助けた少年の素性まで律儀に上へ売る気にはなれなかったのだ。
ただし、噂だけは広がった。
正規の報告書には何も残さないくせに、休憩時間の雑談となれば話は別だった。助けられた本人がぽつりと漏らした話へ別の兵士が自分の体験を重ね、いつの間にか「またあいつか」と笑われる程度には有名になっていた。
一般人がいれば戦闘を止める。敵兵まで助ける。怪我をした皇神兵に「今日は帰った方がいい」と言ったらしい。
そして末端の兵士たちは、顔も知らないその能力者をいつしかこう呼ぶようになっていた。
「ま、まさかアナタ――!」
GVが嫌そうな顔をする。
「何。その前置き、嫌な予感しかしないんだけど」
「『お節介焼きのガンヴォルト』!?」
沈黙。
GVはゆっくり自分を指さした。
「……僕?」
「アナタ以外に誰がいるのよ! 民間人を助ける! 敵味方関係なく首を突っ込む! 皇神兵まで救助する!」
「怪我してたら助けるでしょ」
「その反応! 間違いないわ!」
「それで本人確認するのやめてよ!」
GVは抑制波が切り替わる一瞬へ蒼雷を滑り込ませた。拘束具が異常を検知し、保護機構がロックを解除する。
「なるほど。ちゃんとよくできてた。危なかったよ」
「全然そう見えないわよ!」
GVは身体を起こしたものの、それより通称の方が気になるらしい。
「もっと格好いいのあるじゃん。『蒼き雷霆』とか」
「現場じゃお節介焼きの方が印象に残ってるのよ」
「不名誉すぎる……」
そこでGVはふと気づいた。
「でもロメオさん、僕の顔知らなかったんだよね」
「交戦報告は多いのに、顔写真も人相も全然上がってないもの」
「……そっか」
助けた皇神兵たちの顔がいくつか浮かぶ。
「みんな、黙っててくれたんだ」
「何で嬉しそうなのよ」
「敵同士でも、こういうのって返ってくるんだなって」
「『お節介焼き』だけは盛大に広められたけど」
「そこも黙っててほしかった!」
◇
『GV! 無事なの!?』
施設を抜けて通信を復旧すると、モニカの声が飛んできた。
「うん。でも精神的に傷ついた」
『怪我!?』
「皇神での僕の通称が『お節介焼きのガンヴォルト』だった」
『ぶっ!』
「ジーノ、笑うな!」
『そのまんまじゃねえか!』
「もっと格好いいのあるでしょ!」
『遊んでいる場合ではない』
アシモフだけは平静だった。
「モルフォは専用列車に移された。今から追う」
『了解した。それと念のため操作を確認する。Bでジャンプ、Yでショット、Lでダッシュ、Rで
「……アシモフ。BとかLって何?」
『今はLがダッシュ。それだけ覚えろ』
「そこを気にしない方が――」
『GV、前!』
防衛シャッターが急速に落ち始めた。
「あっ」
GVは身体を低くし、足元へ蒼雷をまとわせる。
「なるほど。こういう時のLね!」
一気に加速し、閉まり切る寸前を滑り抜けた。
「普通に『急げ』じゃダメだった?」
『Lでダッシュだ』
「そこ絶対譲らないんだ……」
◇
高速で走る輸送列車へ飛び移った瞬間、強烈な風がGVを叩いた。
「列車の屋根って思ったより怖いね」
『今さら!?』
「映画だとみんな普通に立ってるじゃん」
ジーノが何か返すより先に、後方から重い機械音が響いた。
『大型反応複数。マンティスよ!』
並走する高架から巨大な装甲車両が接近してくる。
「戦車ってもっと地面のある場所で使うものじゃない?」
『皇神に言え!』
遠方から閃光が走り、二機が装甲を撃ち抜かれた。
『二機はこちらで処理した。一機抜けたぞ』
「今のアシモフ? やっぱりすごいね」
『感心する前に構えろ』
残ったマンティスが列車上へ乗り移る。赤いセンサーがGVを捉えた。
「こんにちは。悪いんだけど、先頭まで通してくれない?」
ランチャーが開く。
「……最近この返事多いな。交渉決裂!」
誘導ミサイルが飛ぶ。GVは
射線を読んで跳び、空中からダートを三発。
「タグ付け完了」
着地と同時に雷撃を流し込む。
『頭部を狙って! 損傷させれば冷却時にコアが露出する!』
「弱点を自分から出すの?」
『冷却に必要なの!』
白い蒸気とともに装甲が開き、発光するコアが現れた。
「本当に出た。親切設計だなあ」
雷撃を集中するが、破壊寸前でコアが収納される。
「あ、戻った」
『もう一度!』
二度目は攻撃の癖を読んでいた。ミサイルを
「同じ攻撃を二回見せるの、僕相手にはおすすめしないよ」
『今それ言う必要ある!?』
「ちょっと言ってみたかった」
再び冷却へ入った瞬間、GVはコアへ最大の雷撃を叩き込んだ。
発光体が砕け、マンティスが沈黙する。
GVは通り過ぎざま、装甲を軽く叩いた。
「お疲れさま。次は平らな場所で会おう」
『兵器に挨拶すんな!』
「礼儀は大事だよ」
しかし先には、もう一機。
「……おかわり?」
今度は足場が狭く、マンティスの中央砲口へ強烈な光が集まっていた。
『高出力レーザー!』
GVは発射寸前まで射線を引きつけ、横へ跳ぶ。巨大な光線が列車上を薙いだ。
「こっちはさらに話が通じなさそう」
『無人兵器と会話しようとするな!』
「一応、平和的解決を試したいじゃん」
レーザーの照準を誘い、発射時の硬直へダートを叩き込む。狭い足場を走り、撃たせ、避け、雷撃を返す。
『無茶しすぎるなよ!』
「大丈夫。落ちたら友情で助けて」
『友情に物理法則越えさせんな!』
三度目のレーザーを寸前でかわし、死角へ滑り込む。限界に達した頭部装甲が開いた。
「悪いけど、急いでるんだ」
蒼雷がコアを貫き、二機目も沈黙する。
GVは息を整えながら先頭車両を見た。
「……ただのプログラム護衛にしては、随分厳重だな」
◇
先頭車両の扉へ手を掛ける。
「プログラムコアさん。できれば大人しく壊され――」
扉が開き、言葉が止まった。
巨大なコンピューターはない。透明なケースと、その中で身を縮める一人の少女だけがあった。
「……え?」
GVの軽口が消える。
一歩近づくと、少女の肩が震えた。
『待って』
青白い光が集まり、街で何度も見た歌姫の姿を作る。モルフォは少女を庇うようにGVとの間へ浮かんだ。
『あなた、研究所の人間じゃないわよね?』
「違うよ」
GVはすぐ銃口を下げた。
「フェザーっていう組織から来た。最初は……モルフォのプログラムを壊すように言われてたんだけど」
『プログラム? アタシはそんなものじゃない。この子から生まれた
GVはケースの少女を見た。少女は何も言わず、不安そうにこちらを見ている。
歌。共鳴。能力者探知。異常な警備。すべてが繋がった。
「……最悪だ」
モルフォが身構える。
「君たちじゃなくて、
少女はその言葉にもすぐには反応しなかった。助けに来たと言う人間を信じていいのか、そもそも助けられた先に何があるのかすら分からないのだろう。モルフォだけが警戒を解かず、少女とGVの間に立ち続けている。
GVはそれを見て、無理に安心させる言葉を重ねるのをやめた。信用してほしいと頼むより、これからすることを見てもらう方が早い。
GVは通信を開いた。
「こちらGV。情報が違う。モルフォはプログラムじゃない。ここに能力者の女の子がいる。モルフォはこの子の
『なんですって!?』
『
モニカとジーノが声を上げる中、アシモフの判断は早かった。
『了解した。作戦変更。プログラムコア破壊は中止。その少女を能力者として保護し、フェザーへ連れ帰れ』
GVの肩から僅かに力が抜ける。
「了解。話が早くて助かるよ」
前の任務でも同じだった。目の前に救助を必要とする能力者がいるなら、アシモフも見捨てない。その一点では二人の考えは同じだ。
「もう大丈夫。今からここを開ける。急に触ったりしないから安心して」
少女は返事をしない。GVも無理に近づかなかった。
『待て、GV。連れ出した後はそのまま帰投しろ。彼女はこちらで安全を確保する』
「うん。それは分かってるけど」
『モルフォの能力は特殊すぎる。
「保護って、具体的には?」
『外部との接触と外出は制限する。モルフォの能力も、安全性が確認されるまでは自由な使用を認められない』
GVの手が止まった。
「……本人の希望は?」
『まず安全確保が先だ』
「……また……?」
ケースの中から、か細い声がした。
「また……ここみたいなところに……?」
『違う。我々は
少女は俯いたまま何も言わない。代わりにモルフォが前へ出る。
『それで、この子は外に出られるの?』
『安全が確認されれば検討する』
『歌は?』
『能力の詳細を確認するまでは許可できない』
「……結局……」
少女が小さく呟く。
「どこに行っても……同じなんですね……」
「同じ?」
「わたしが歌っていいかも……外へ出ていいかも……わたしには決められない……」
アシモフへ反発しているというより、最初から諦めている声だった。
GVが静かに通信へ向き直る。
「アシモフ。それ、
『GV』
「もちろん同じじゃない。フェザーなら酷いことはしない。この子を守ろうとしてるのも分かる。でも、安全に生きることと、生きたいように生きることは同じじゃないよ」
『理想論だ。彼女を自由にすれば
「分かってる」
『ならなぜ反対する』
「一番安全だからって、それ以外を最初から選ばせないから」
『他に現実的な方法があるのか?』
「あるかどうか、まだ探してないじゃん」
『何?』
「僕たちは今、この子が能力者で
『それが最も安全だからだ』
「最も安全なのと、それしかないのは違うよ」
GVはそこで、少しだけ言葉を選んだ。アシモフが間違っていると言いたいわけではない。自分だって、何の備えもなく少女を街へ放り出せばどうなるかくらい分かる。皇神は追うだろうし、彼女自身にはその追跡を振り切る術がないかもしれない。
「フェザーに一時的に避難するのはいいと思う。傷がないか調べるのも、皇神の追跡を切るまで隠れるのも必要ならやればいい。でも、それと『いつ出られるかは僕たちが決める』『歌っていいかも僕たちが決める』は別の話でしょ?」
『安全が確認できるまでは、誰かが判断しなければならない』
「だったら、その判断に本人も入れようよ」
『危険を正しく判断できる状態とは限らない』
「だから説明するんだよ。危ないことも、できることも、できないことも全部。その上で一緒に決める」
GVは透明なケースへ目を向けた。少女は会話の行方を追いながらも、自分のことを自分抜きで決められていくことに慣れ切っているように見えた。反論もしない。ただ、受け入れる準備だけをしている。
「この子、さっき『また』って言ったんだよ」
『……』
「フェザーが皇神と違うって言うなら、最初に見せる違いは設備とか待遇じゃないと思う。『君はどうしたい』って聞くことじゃない?」
『なら何をする』
「隠れられる場所を探す。追跡を切る方法を考える。身元を隠す必要があるならそうする。僕が一緒にいて守ることもできる」
『どれも保証がない』
「フェザーに置けば絶対安全だって保証もないでしょ」
『少なくとも危険は減らせる』
「その代わり、この子の人生まで減らすの?」
アシモフが黙った。
「僕だって、この子を街に放り出して『自由だから好きにして』なんて言わない。危ないなら守る。逃げるなら一緒に逃げる。それで足りなきゃまた考える」
『それを無計画と言う』
「計画って、本人抜きで決めるものなの?」
GVは一度息を吸った。
「アシモフ。僕たちって、能力者が『危険だから』って理由で自由を奪われる世界がおかしいと思って戦ってたんじゃなかったの?」
通信が静まる。
「前に助けた子は自由に帰した。でも、この子は力が強いから自由にできない。それって結局、能力の強さでその人がどこまで自由でいていいかを僕たちが決めてるってことじゃない?」
『単純化するな。自由を守るには、まず生き延びなければならない。死者に自由はない。危険を理解しながら無防備に放り出すことを、私は自由とは呼ばない』
「僕も呼ばないよ」
GVは即座に返した。
「だから一緒に考えるって言ってる」
『一人の少女のために、お前一人で皇神の追跡を引き受けるのか』
「必要なら」
『自分が倒れたら?』
「その時は別の方法を考える」
『答えになっていない』
「じゃあフェザーが正しい答えを持ってるの?」
『少なくとも、お前より現実的だ』
「それは認める」
あまりに素直に認められ、アシモフが一瞬黙った。
「安全だけ考えたらアシモフの方が正しいよ。フェザーには人も設備もある。僕一人よりずっと守れる。でも、それでも本人が嫌だって言うなら、その先を探したい」
『なぜだ』
「だって、僕らが守りたいのは『能力者』っていう括りじゃないでしょ」
GVの声が少しだけ低くなる。
「能力がある前に、その人には好きなものも、嫌いなものも、行きたい場所もある。モルフォの力がどれだけ貴重でも、それを理由にこの子の人生を僕たちの都合へ合わせたら、皇神が能力者を道具として扱うのと、距離はあっても向いてる方向は同じになっちゃう」
『フェザーは彼女を道具にするつもりはない』
「うん。アシモフがそんなことしないのも知ってる。でも、するつもりがないことと、そうならないことは別だよ」
その言葉には、責める響きよりも警戒があった。アシモフを信用しているからこそ、ここで曖昧にしたくなかった。
「最初は安全のため。次は能力者全体のため。その次は、少しくらい協力してもらってもいいだろうってなるかもしれない。そうなる前に、最初の線を本人に引いてもらいたいんだ」
「安全だからって理由で、選ばなくていい人生にするのは違うと思うから」
GVはケースの前にしゃがみ、少女と目線を合わせた。近づきすぎず、手も伸ばさない。
「ねえ。僕たちの話は一回置いとこう。皇神がどうしたいかも、フェザーがどうしたいかも関係ない。君は、どうしたい?」
少女の瞳が揺れた。
「……わたし……?」
「うん」
長い沈黙。
少女は何度か口を開きかけ、やがて俯いた。
「……分かりません」
「分からない?」
「ずっと……言われた通りにするだけだったから……何をしたいかなんて、考えたことがなくて……」
その答えは、拒絶よりGVの胸に重く落ちた。外へ出たいのかと聞かれて、それすらすぐ答えられない。選択肢がなかった時間が、それだけ長かったということだ。
モルフォが少女へ顔を向ける。代わりに答えてやることはできるはずだった。それでも、今だけは口を挟まなかった。
GVは少しだけ目を伏せ、それから笑った。
「じゃあ、今から考えよう」
「……今から?」
「遅くないでしょ。人生全部じゃなくて、最初の一個だけ」
GVはケースの外、流れていく夜景へ目を向けた。
「ここを出たい?」
少女も窓を見る。
「…………はい」
初めて迷いの少ない返事だった。
「外を……見てみたいです。自分で歩いて、いろんなものを見て……」
少女はモルフォを見る。
「いつか……わたしの歌を、誰かを探すためじゃなくて……ただ、聞いてもらうために歌いたい」
「それが君のしたいこと?」
「……はい」
「分かった」
『GV』
「ごめん、アシモフ」
『その願いを叶えるつもりか』
「うん」
『甘いぞ』
「知ってる」
『住む場所も金も身分も必要になる。皇神は追ってくる。それらを用意できるのか』
「今すぐ全部は無理。でも、だから最初から諦める理由にはならない」
『失敗すれば彼女まで危険に晒す』
「危険は本人にもちゃんと話す。その上で決めてもらう」
『子供に背負わせるには重すぎる選択だ』
「勝手に代わりに決めるには、大きすぎる人生だよ」
『お前は責任という言葉を軽く考えている。守ると言うのは簡単だ。だが、眠っている間も、食事をしている間も、いつ皇神が来るか分からない生活を彼女に強いることになる』
「分かってる。だから僕の考えを正しいって押しつけるつもりもない」
GVはケースの少女へ一度目を向ける。
「フェザーへ行く方がいいと思ったなら、それでもいい。僕が嫌なのは、危険だからって理由で最初から選ぶ権利までなくすことなんだ」
『自由には責任が伴う』
「うん。でも責任があるから自由を渡さない、じゃ順番が逆だよ。責任を背負えるように手伝うのが、守る側の仕事なんじゃない?」
アシモフはすぐには答えなかった。その言葉はあまりにもGVらしく、同時にあまりにも危なっかしかった。
アシモフは目を閉じた。
甘い。あまりにも甘い。一人の願いのために、自分の安全も、所属も、未来すら後回しにする。指導者として見れば危ういにも程がある。
だが、昔からそうだった。
自分が拾い、育ててきた少年は、力を持ちながら誰かを踏みつけるためには使わなかった。敵を敵という記号だけで見ず、能力者を能力という価値だけで見ない。いつも目の前の一人を人間として見る。
愚かで、甘い。
それでも。
それでこそ、私の息子だ。
『……お前は昔からそういう奴だったな』
「何が?」
『自分のことなら迷うくせに、他人のことになると相談もせず飛び込む』
「悪い癖?」
『最悪だ。その甘さでいつか痛い目を見るぞ』
「もう結構見てる気がするけど」
『まだ足りん』
「厳しいなあ」
一瞬の沈黙の後、アシモフの声が少しだけ柔らかくなった。
『だが、それを失ったお前など、私の知るGVではない』
GVが目を見開く。
「……アシモフ」
『どうする』
「命令は守れない。だったら、僕がフェザーに残る理由もない」
GVは一度だけ息を吸った。
「僕、フェザーを抜けるよ」
『はあ!?』
ジーノの絶叫が通信を突き抜けた。
『待て待て! お前さっきまでLボタンがどうとか言ってただろ! 何でそこから脱退の話になるんだよ!』
「僕も今日辞める予定じゃなかったよ」
『もっと悩め!』
「悩んでるって。この後どうやって生活しようかなって」
『そこから決めてねえの!?』
ケースの中の少女が、呆気に取られたようにGVを見る。その口元がほんの少しだけ緩んだ。
『……行け、GV』
「アシモフ?」
『皇神の増援はこちらで引き受ける。今のお前はフェザーの構成員ではない。それに、一般人を我々の戦闘へ巻き込むわけにはいかん』
GVは苦笑する。
「……アシモフも結構お節介だね」
『誰に似たと思っている』
「え。僕、アシモフに似たの?」
『早く行け』
「はいはい」
通信が切れる寸前。
『グッドラック、GV』
「……ありがとう」
通信が途切れた。
作戦室で一人になったアシモフは、椅子へ深く背を預ける。指導者としてなら、今の決断は褒められない。一人のために組織を離れ、保証のない道へ踏み出すなど危うすぎる。
それでも口元には、僅かな笑みが残った。
「まったく……それでこそ、私の息子だ」
◇
ケースのロックが外れた。
少女はしばらく動かなかった。開いた扉、その向こうのGV、さらに先の外の世界を見つめている。
やがて恐る恐る一歩を踏み出した。
ほんの一歩だった。それでも、少女にとっては誰かに指示されて進む一歩ではなかった。自分で外へ出たいと言い、自分で選んで踏み出した一歩だった。
GVは手を貸そうとして、途中で止めた。今は引っ張るより、彼女が自分の足で出てくるのを待った方がいい気がしたからだ。少女がケースの外へ完全に出てから、ようやく少しだけ安堵したように笑った。
「……羽……」
「ん?」
「さっき……蒼い光が、羽みたいに見えて……」
GVが自分の背中を振り返る。
「羽?」
少女は言い過ぎたと思ったのか、すぐ俯いた。
「……すみません」
「謝らなくていいよ。僕には見えないから、ちょっと気になっただけ」
GVは笑ってから、今さら気づいたように言う。
「そういえば名乗ってなかったね。僕はGV。ガンヴォルト」
少女が顔を上げる。
「君は?」
少し迷った後、小さな声が返った。
「……シアンです」
「シアン」
GVは一度だけその名前を繰り返した。
「よろしく、シアン」
「……はい」
まだ笑顔とは呼べない。それでも最初に会った時より、瞳は僅かに前を向いていた。
『ところでGV』
モルフォが割り込む。
「何?」
『これからどこに行くの?』
「まだ決めてない」
『お金は?』
「そんなにない」
『仕事は?』
「ついさっき辞めた」
『何にもないじゃない!』
「そう言われると急に不安になってきたな」
「……あの、本当に大丈夫なんですか?」
シアンまで心配そうに尋ねる。
「大丈夫」
『今ちょっと間があったわよ』
「これから大丈夫にするんだよ」
『行き当たりばったりじゃない!』
「それは……ごもっともです」
モルフォに押されっぱなしのGVを見て、シアンの口元がほんの少し緩んだ。
その時、警報が鳴り響く。
『追手!』
「やっぱり来たか」
GVは即座にシアンの前へ出た。先ほどまで言い負かされていた少年の周囲へ、再び蒼い電光が迸る。
シアンはその背中を見る。
名前だって今知ったばかりの相手。それなのに自分のために居場所まで捨て、今こうして前に立っている。
「シアン」
「……はい?」
「ちょっと騒がしくなるから、僕の後ろにいて」
『ちょっとで済む?』
「希望的観測」
『やっぱり信用できない!』
「そこはこれから積み上げていこうよ」
GVは銃を構える。蒼い雷光が暗い車内を照らした。
「じゃあ――今度こそ、こっそり逃げようか」
『絶対無理でしょ!』
「やってみなきゃ分からないって!」
次の瞬間、蒼い雷霆が夜を駆け抜けた。
この日、GVは一つの居場所を失い、一人の少女と出会った。
まだ彼自身は知らない。この出会いが皇神にも、フェザーにも、そして自分自身の生き方にも大きな波紋を広げていくことを。
今の彼にあるのは、そんな大げさな使命感ではなかった。
世界中の能力者をどう救うかなんて、まだ分からない。皇神とフェザーのどちらが正しいのかも、今のGVには答えを出せない。
それでも、目の前にいる一人が自分の足で外へ出たいと言った。その声だけは聞き逃したくなかった。
だから今は、その一人を外へ連れていく。そのために、自分ができることをやる。
それだけだった。
## 次回予告
フェザーを離れ、シアンとモルフォとの新しい生活を始めることになったGV。
しかし、自由になったからといって、すぐに平穏な暮らしが始まるわけではない。
「……そういえば、シアンって着替え持ってる?」
「……これだけです」
『歯ブラシは?』
「……ありません」
『タオルは?』
「……ありません」
『シャンプーは?』
「……研究所では用意されていたので……」
「…………」
『…………』
「買い物行こうか」
『そうなるわね』
こうして始まった、三人での初めての買い物。
初めて見る店に目を奪われるシアン。
予算を無視して次々と商品を勧めるモルフォ。
そして財布の中身を確認するたび、少しずつ顔色が悪くなっていくGV。
「これ、必要?」
『必要!』
「こっちは?」
『それも必要!』
「モルフォ、君お金払わないよね?」
『アタシ電子生命体だもの』
「最強の言い訳だな……」
服を選んで。
日用品を揃えて。
初めて自分で「欲しいもの」を選んで。
昨日まで閉じ込められていた少女は、ほんの少しずつ、当たり前の日常へ足を踏み出していく。
そしてGVもまた、この日初めて知ることになる。
一人暮らしと、三人暮らしでは――出費がまるで違うということを。
「……フェザー辞める前に、もうちょっと貯金しとけばよかった」
『今さら!?』
次回、第三話――「買い物」
戦うだけが、ヒーローの仕事じゃない。
次回も、グッドラック。