『隣人GV ―もしもスパイディの影響を受けたGVなら―』 作:幸田市
# 第三話「買い物」
目を覚ました時、最初に分からなかったのは、天井だった。
白い天井そのものは見慣れている。けれど、皇神の施設で毎日見ていたものとは違っていた。照明は眩しすぎず、機械の低い唸り声も聞こえない。窓の向こうからは車の走る音や、どこかの家から漏れてくる生活音がかすかに届いている。
昨日、わたしは外へ出た。
そう思い出してから、ようやく身体を起こした。
ここはGVが使っていた部屋らしい。広くはなく、家具も必要最低限しかない。昨日は疲れ切っていて気づかなかったけれど、改めて見れば本当に物が少なかった。
机の上には、昨夜GVが置いてくれた水の入ったコップがある。
わたしのために用意されたもの。
たったそれだけなのに、しばらく見つめてしまった。
『起きた?』
声とともに、モルフォが姿を現した。
「……うん」
『眠れた?』
「たぶん」
『たぶんって何よ』
「何度か起きたから……」
目を閉じれば、警報の音や機械の光を思い出した。けれど目を開ければ、知らない天井があった。それを繰り返しているうちに朝になっていた。
『まあ、初日だものね。それより、いい匂いしない?』
「……ほんとだ」
扉を開けると、小さな台所にGVがいた。
「おはよう、シアン」
「……おはようございます」
GVの手にはフライ返しが握られていた。
「そんなに固くならなくてもいいよ。昨日一緒に皇神から逃げた仲なんだし」
『それ、距離を縮める材料として合ってる?』
「かなり濃い一日を共有したってことで」
皿の上には焼いた卵とパンがあり、その隣では簡単なスープから湯気が立っていた。
「口に合うか分からないけど、朝ごはん。食べられそう?」
「GVが……作ったんですか?」
「一人で暮らしてたら、誰も作ってくれないからね」
『意外と生活力あるのよね、この人』
「意外とは余計だよ」
席についてスープを飲む。温かかった。
皇神でも食事は与えられていた。栄養だって考えられていたと思う。
でも、これは少し違う。
「……おいしいです」
そう言うと、GVは安心したように笑った。
「よかった」
それから、わたしが使っていたコップへ目を向ける。
「そういえば、それ僕の予備なんだよね」
「……?」
「シアン用のコップ、ないなって思って」
GVは部屋を見回し、少しずつ表情を曇らせた。
「というか、コップどころじゃないか」
モルフォが指を折るような仕草をした。
『歯ブラシは?』
「……ありません」
『タオル』
「昨日、借りました」
『着替え』
「……これだけです」
『シャンプーとかは?』
「研究所では、用意されていたので……」
GVとモルフォが揃って黙った。
「……買い物行こうか」
『そうなるわね』
買い物。
言葉は知っている。
でも、自分がするところを想像したことはなかった。
「わたしも……行くんですか?」
思わず尋ねると、GVが首を傾げた。
「シアンの物なんだから、シアンが選んだ方がいいでしょ」
「でも……必要な物なら、GVが決めても……」
「僕が?」
「はい」
「シアンが使う歯ブラシの色まで?」
「……色?」
『ほら、もうダメよ。この子、歯ブラシに選択肢があるところから説明が必要』
「そこからかあ」
GVは困ったように笑った。
わたしには、何がおかしいのかよく分からなかった。
◇
外へ出る直前になって、足が止まった。
昨日は逃げることだけで精一杯だった。GVの後ろを追いかけて、皇神から離れることしか考えていなかった。
でも、今日は違う。
扉の向こうへ出る理由は、買い物。
追われているからでも、誰かに命令されたからでもない。
それが、かえって怖かった。
「無理そう?」
GVが振り返る。
「……少し」
「じゃあ、今日はやめる?」
「え?」
思っていなかった返事だった。
「行かなくても……いいんですか?」
「今日じゃなくても店は逃げないし。必要な物だけなら、僕が買ってきてもいいよ」
まただ。
昨日から、この人は何度もわたしに選ばせる。
行くか、行かないか。
どうしたいか。
どちらでもいいと言われることに、わたしはまだ慣れていなかった。
「……行きます」
「大丈夫?」
「怖いけど……見てみたいです」
GVはそれ以上聞かなかった。
「了解。じゃあ、ゆっくり行こう」
外へ出ると、街は当たり前のように動いていた。
信号を待つ人も、自転車で走る学生も、店の準備をする人も、誰もわたしを見ていない。
皇神では、いつだって誰かに見られていた。
測られて、記録されて、歌えば反応を確認された。
ここでは、立ち止まっても誰も記録しない。
「シアン?」
「……なんでもないです」
「疲れたら言ってね」
「まだ歩き始めたばかりです」
『シアン、あんまり体力ないんだから強がらないの』
「モルフォ……」
「じゃあ休憩多めで行こう」
「だ、大丈夫です」
二人に心配されるのが少し恥ずかしくて、わたしは歩幅をほんの少しだけ大きくした。
◇
店に入って、すぐに立ち止まった。
「……多い」
「何が?」
「物が……」
棚が何列も続いている。
同じように見える商品にも、大きさや色の違いがあり、値段も違う。
最初に案内された歯ブラシ売り場だけで、わたしには充分すぎるほどだった。
「……歯ブラシだけで、こんなにあるんですか?」
「あるね」
『ピンクがいいんじゃない?』
「モルフォが使うんじゃないでしょ」
『アタシはシアンの本心を反映してるんだから、意見は参考になるわよ』
「便利な理屈だなあ」
何本もの歯ブラシを見る。
「どれが……正しいんですか?」
「正しい?」
「一番いいものです」
「うーん……」
GVは棚を見ながら少し考えた。
「毛の硬さとか大きさとかで違いはあるけど、この辺ならどれを選んでも普通に使えると思う」
「じゃあ、これで」
一番近くにあった白いものへ手を伸ばした。
「待った」
「……?」
「今の、それが欲しかった?」
「使えるなら……どれでも」
GVは少し黙った。
「じゃあ、性能は全部同じってことにしよう」
『急に雑になったわね』
「今だけね」
GVが棚を指す。
「白、青、黄色、ピンク、水色。どれが好き?」
「……好き?」
「うん。理由はなくてもいいよ」
答えに困った。
好きな色。
そんなことを聞かれた記憶がなかった。
必要か、不必要か。
適合するか、しないか。
そういうことなら答えられる。
でも、好きかどうか。
「……分かりません」
GVは笑わなかった。
「じゃあ、見てて一番気になったやつ」
もう一度、棚を見る。
今度は必要かどうかを考えないようにしてみた。
目が止まったのは、水色だった。
「……これ」
「水色?」
「はい」
「じゃあ決まり」
GVが買い物かごへ入れる。
たった一本の歯ブラシだった。
なのに、かごの底へ落ちた小さな音が妙にはっきり聞こえた。
◇
それからも、同じことを何度も繰り返した。
「タオルは?」
「どれでも……」
「はい、もう一回」
「……この、青いのがいいです」
「了解」
マグカップを選ぶ時には、最初GVと同じ物にしようとした。
「僕と同じのがいいならいいけど、合わせなくてもいいよ」
そう言われて見直すと、小さな花の描かれたものが気になった。
「……これにします」
『かわいいじゃない』
シャンプーはさすがに分からなかった。
「皇神では何使ってた?」
「番号で書かれていました」
「皇神、こういうところまで夢がないな……」
GVが何種類か候補を選び、その中から香りを試した。
「……これ、好きかも」
口にした後で、自分自身が一番驚いた。
「じゃあ、それにしよう」
GVは理由を聞かなかった。
もっと良い物があるかもしれないとも言わなかった。
好きだから。
それだけで選んでよかった。
衣類売り場ではモルフォの方が楽しそうだった。
『シアン、これ! こっちも絶対いい!』
「モルフォ、一回値段見ようか」
『かわいさに値段なんて関係ないわ』
「支払う人には大いに関係あるよ」
『甲斐性なし』
「昨日無職になった人に厳しすぎない?」
昨日、わたしのためにフェザーを辞めた人が、今日は服の値札を見て苦しんでいる。
変な人。
そう思うと、少し笑いそうになった。
「シアンは?」
GVに聞かれ、今度はすぐ「どれでも」とは言わなかった。
時間をかけて棚を見て、派手ではない、柔らかい色の服を選ぶ。
「……これがいいです」
「うん。いいと思う」
『それだけ? もっと「似合う」とかないの?』
「まだ着てないのに?」
『ほんっと気が利かないわね』
「試着してから言おうと思ってたんだけど……」
二人が言い合っている間に、わたしは背を向けるふりをして少しだけ笑った。
◇
買い物かごがいっぱいになる頃には、足が重くなっていた。
気づかれないようにしていたつもりなのに、GVが急に休憩スペースの方へ曲がった。
「休もう」
「まだ大丈夫です」
「僕が休みたい」
『嘘ね』
「モルフォ、こういう時は乗ってよ」
座ると、GVが自動販売機を指した。
「飲み物、何がいい?」
また、選ぶ。
でも今度は、さっきほど怖くなかった。
「……これがいいです」
果物の絵が描かれたものを選ぶ。
一口飲むと、甘かった。
「おいしい?」
「はい」
しばらくして、わたしは手元の飲み物を見ながら口を開いた。
「GV」
「ん?」
「昨日……アシモフさんは、フェザーに行く方が安全だと言っていましたよね」
「うん」
「わたしも……そう思います」
GVは何も言わず、続きを待っている。
「でも、わたしが外へ行きたいと言ったから、GVはフェザーを辞めて……」
「後悔してる?」
「わたしが、ですか?」
「うん」
考えた。
怖くないと言えば嘘になる。
皇神に見つかるかもしれない。これから何が起こるのかも分からない。
それでも、買い物かごの中には自分で選んだ物がある。
水色の歯ブラシも、青いタオルも、花のマグカップも。
「……してません」
思っていたより、はっきり言えた。
「怖いです。でも、今日……初めて知ったことがいっぱいありました」
「歯ブラシに色があるとか?」
「それもです」
GVが笑う。
「自分が何を好きなのか、まだほとんど分からないけど……」
わたしは自分で選んだ飲み物を両手で持った。
「分からないことを、自分で探してもいいんですよね」
「もちろん」
GVは当たり前のように答えた。
「間違えたっていいしね」
「間違えても?」
「歯ブラシの色を間違えたくらいじゃ、世界は終わらないよ」
『シャンプーが合わなかったら?』
「次は別のにしよう」
『服が気に入らなくなったら?』
「次に別のを買おう。予算の範囲で」
『最後だけ現実的ね』
「そこ大事だから」
笑い声が出た。
今度は、隠さなかった。
◇
会計を終えて店を出ると、GVの両手には大きな袋が下がっていた。
「……わたしも持ちます」
「大丈夫だよ」
「でも、わたしの物です」
GVは少し考え、軽い方の袋を一つ差し出した。
「じゃあ、こっちお願い」
「はい」
全部持ってくれるわけでもなく、全部押しつけるわけでもない。
そんなところも、少し変だった。
帰り道、街の大型ビジョンにモルフォの姿が映った。
わたしは立ち止まる。
たくさんの人が知っているモルフォ。
誰も知らないシアン。
『どうしたの?』
「……いつか」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「わたしも、歌いたいなって」
GVがビジョンを見上げる。
「誰かを探すためじゃなく?」
「はい。普通に……聞いてもらうために」
「じゃあ、その時は僕にも聞かせてよ」
「……はい」
GVは、歌で誰かを救ってほしいとも、世界を変えてほしいとも言わなかった。
ただ、聞きたいと言った。
それが嬉しかった。
◇
部屋へ戻り、買った物を一つずつ袋から出した。
水色の歯ブラシに、青いタオル。小さな花の描かれたマグカップと、自分で香りを選んだシャンプー。それから、自分で選んだ服。
どれも、店に行けば誰でも買える普通の物だった。
でも、わたしには全部が特別に見えた。
『結構買ったわね』
「予算も結構減ったよ……」
GVは財布を眺めていた。
『そういえば、晩ごはんは?』
「……」
GVの手が止まった。
『GV?』
「日用品に集中しすぎて、食材買うの忘れた」
『バカ!』
「服売り場で予想以上に時間使ったんだよ!」
『アタシのせいにしないで!』
思わず笑った。
二人がこちらを見る。
「ご、ごめんなさい」
「いや、いいんだけど」
『シアンにまで笑われてるじゃない』
「今日は散々だなあ」
そう言いながら、GVも笑っていた。
わたしは花の描かれたマグカップを手に取った。
誰かから与えられた物ではない。
番号も書いていない。
必要だから選ばれた物でもない。
わたしが見て、わたしが気に入って、わたしが選んだ。
「……GV」
「ん?」
「明日も、何か選んでいいですか?」
GVは少し驚いた。
でも、すぐにいつもの顔で答えた。
「もちろん」
たった一言だった。
それだけで、胸の奥が少し温かくなった。
昨日、わたしは外へ出た。
今日、初めて自分の物を買った。
自由というものは、きっともっと大きくて、難しいものなのだと思う。昨日GVとアシモフさんが話していたことを、わたしはまだ全部理解できていない。
でも今は、それでいい。
水色の歯ブラシを選ぶ。
花の描かれたコップを選ぶ。
好きな香りを一つ見つける。
そんな小さなことから、自分がどんな人間なのかを知っていけばいい。
明日は、今日よりもう一つだけ。
自分の「好き」を見つけられたらいい。
そう思った。
## 次回予告
買い物を終え、少しずつ新しい生活に慣れ始めたシアン。
そんな彼女には、一つだけ気になっていることがあった。
「GVって……どうして、あんなに人を助けるんですか?」
「え?」
『ほら来たわよ、“お節介焼きのガンヴォルト”』
「その呼び名を正式名称みたいに使わないでよ」
皇神の人間であろうと。
道端で困っている知らない人であろうと。
GVは、手が届くなら迷わず助けようとする。
その理由を聞かれ、珍しく言葉に詰まるGV。
「うーん……どこから説明したものかな」
そして、彼は部屋の棚から一枚の古い映像ディスクを取り出した。
「シアン。スパイダーマンって知ってる?」
「……すぱいだーまん?」
「知らない!?」
『うわ、急に声大きくなった』
「いや待って。これは重要だから」
そこから始まる、まさかの特別講義。
「まず大前提として、スパイダーマンの魅力って強さだけじゃないんだよ。普通に生活して、失敗もして、困ったり悩んだりしながら、それでも誰かが困ってたら――」
『長くなりそう?』
「まだ導入だけど?」
『シアン、逃げるなら今よ』
「逃げないで!?」
歴代作品。
好きな場面。
ヒーローとしての在り方。
そして“親愛なる隣人”という言葉の意味。
普段とは比べものにならない勢いで語り続けるGVを前に、シアンは思う。
――この人、こんなに喋る人だったんだ。
「だからさ。世界全部を救うとかじゃないんだよ」
ひとしきり語った後、GVは少しだけ照れ臭そうに笑う。
「すぐ隣で困ってる人がいて、僕の手が届くなら……助けたい」
「それが……スパイダーマンみたいだから?」
「最初は、そうだったのかもね」
憧れて。
真似をして。
いつしか、それは彼自身の生き方になった。
「まあ、その結果が“お節介焼きのガンヴォルト”なんだけど」
『ちゃんと影響受けすぎじゃない』
「僕ももうちょっと格好いい二つ名になる予定だったんだよ……」
次回、第四話――「隣人」
ひとりの少年が憧れた、ひとりのヒーロー。
そしてその憧れが、やがて彼自身の生き方になるまで。
「ところでシアン、作品によってスーツのデザインが結構違って――」
『まだ続くの!?』
次回も、グッドラック。