『隣人GV ―もしもスパイディの影響を受けたGVなら―』 作:幸田市
番外編①「隣人の中学生活」
午前六時四十分を告げるアラームが、まだ朝の薄暗さを残した部屋の中で鳴り始めた。
枕元に置かれたスマートフォンが細かく震え、電子音を規則正しく繰り返しているというのに、布団の中に丸まった少年はなかなか動こうとしない。しばらくしてようやく布団の端から片手だけが伸びてきたものの、その手も目標を正確には捉えられておらず、枕の脇やベッドの縁を何度か探った末にようやくスマートフォンを掴んだ。
画面も確認しないままアラームを止めると、GVは仕事を終えたと言わんばかりに腕を落とし、もう一度枕へ顔を埋めた。
急に静かになった部屋では、カーテンの隙間から差し込む朝日だけが少しずつ幅を広げ、床に置かれた鞄や読みかけの漫画、机の上で分解されたままになっているミニ四駆のパーツを照らしていた。
そのまま再び眠りへ沈みかけた頃、扉の向こうから聞き慣れた声が飛んできた。
「GVー、起きてる?」
「……起きてる」
自分でも説得力がないと分かるくらい、完全に寝起きの声だった。
「じゃあ出てきて。もうご飯できてるよ」
「今起きた」
「それ、さっきまで寝てたってことでしょ」
返す言葉が見つからず、GVは布団の中で数秒黙り込んだ。それから観念して上半身を起こしたが、寝癖のついた髪は片側だけ大きく跳ね、目もまだ半分ほどしか開いていない。
「……眠い」
「昨日遅くまで映画観てるからでしょ」
「途中で止められなかったんだよ。あと三十分だったし」
「そのあと特典映像まで観てたじゃん」
GVはそこでようやく目を少し開き、扉の方を振り返った。
「なんで知ってるの?」
「隣の部屋だもん。音、聞こえてたよ」
「あー……」
「あと、笑い声も」
「そんな大きかった?」
「結構」
「……次から気をつけます」
扉の向こうから笑い声が遠ざかっていくのを聞きながら、GVは大きく欠伸をしてベッドから降りた。
洗面所へ向かい、冷たい水を顔に浴びせると、ぼんやりしていた意識がようやく輪郭を取り戻してくる。タオルで顔を拭いて鏡を見ると、そこには眠そうな中学生が一人映っており、右側の髪だけが妙な方向へ跳ねていた。
水で押さえてみる。
指で整えてみる。
少し待ってから手を離すと、髪はまるで抵抗するように元の位置へ戻った。
「……なんで?」
もう一度試しても結果は変わらない。
GVはしばらく鏡の中の自分と睨み合った末、三度目の挑戦でようやく諦めた。
◇
制服へ着替えてリビングへ入ると、焼いたパンと温かい飲み物の匂いが部屋いっぱいに広がっていた。
シアンはすでに席についており、向かいではエリーゼが静かに朝食を取っている。二人が同時にこちらを見るなり、その視線がGVの顔ではなく、その少し上へ向いた。
「遅い」
「寝癖と戦ってた」
「直ってないけど」
「これでもかなり頑張ったんだよ」
「負けてるじゃん」
「強敵だった」
GVが椅子を引いて座ると、エリーゼも控えめにこちらを見つめた。
「おはようございます、GV」
「おはよ」
「あの……髪……」
「エリーゼまで?」
「あっ、いえ、その、変だと言いたいわけではなくて……」
言葉を探していたエリーゼは、結局いつものように困った顔を浮かべた。
「すみません」
「なんでエリーゼが謝るの!?」
GVが思わず声を上げると、隣でシアンが噴き出した。
「笑わないでよ」
「だって、朝から二連敗してるんだもん」
「髪を勝敗に数えないでくれる?」
文句を言いながらもパンを口へ運び、温かい飲み物を一口飲む。窓の外では通勤時間の車が道路を走り、テレビからは朝のニュースが小さな音量で流れていた。
誰も真剣には見ていない。
それより今は、朝食を食べ終えて学校へ行くことの方が重要だった。
「そういえば」
パンを半分ほど食べたところで、シアンが思い出したように顔を上げた。
「わたし、今日ちょっと遅くなるから」
「友達と?」
「うん。放課後、駅前見てくる」
「いいね」
GVは特に何かを確認するでもなく頷き、少し考えてから続けた。
「じゃあ僕も模型屋寄ろうかな」
「また?」
「またって何さ」
「この前も行ってたでしょ」
「見るだけならタダだから」
その言葉に、エリーゼが遠慮がちに顔を上げた。
「この前も、そう仰っていたような……」
GVの手が止まった。
「エリーゼまで?」
「あっ……いえ、責めているわけではないんです。ただ、前にも『今日は見るだけ』と仰っていた気がして……」
「ほら」
シアンがすかさず笑う。
「エリーゼにも覚えられてる」
「いや、でも今日は本当に見るだけかもしれないし」
「『かもしれない』になった」
「……すみません」
「だからなんでエリーゼが謝るの!?」
またシアンが笑い、エリーゼもつられるように口元を緩めた。
「まだ買うって決まったわけじゃないからね」
「はいはい」
「絶対信じてないでしょ」
「だってGVだもん」
「どういう意味?」
GVが納得できない顔をしたままパンを食べ終え、何気なく壁の時計へ視線を向けた。
その表情が固まる。
「……あ」
「何?」
シアンもつられて時計を見た瞬間、同じように目を見開いた。
二人がほとんど同時に椅子を引き、鞄と制服の上着を掴んで慌ただしく玄関へ向かう。GVは歩きながらポケットを確認し、スマートフォンと財布と定期があることを確かめ、その横ではシアンが髪を整えながら「だからもう少し早く起きてって言ったのに」と文句を言っていた。
「シアンだって結構ゆっくり食べてたじゃん!」
「GVが来るの待ってたの!」
「それはごめん!」
「ほら、靴ちゃんと履いて!」
「分かってるって!」
玄関で靴紐を結びながら鞄を肩へ掛け、二人揃って扉へ向かう。
「行ってきます!」
「行ってきまーす」
「はい。いってらっしゃい」
エリーゼに見送られ、二人はそのまま外へ飛び出した。
ところが十秒もしないうちに扉が勢いよく開き、GVがもう一度室内へ戻ってくる。
「忘れ物!」
「GV!」
「机の上にノート置いてきた!」
玄関から自室まで一気に駆け抜け、ノートを掴んで戻ってくると、シアンは腕を組んで待っていた。
「今度こそ大丈夫?」
「たぶん!」
「そこは絶対って言って!」
「じゃあ絶対!」
二人の足音が廊下から遠ざかり、玄関の扉が今度こそ閉まった。
急に静かになった部屋で、エリーゼはしばらく玄関の方を見ていたが、やがて小さく息を吐くと、自分のカップを両手で包んだ。
「……毎朝、賑やかですね」
その声音には困惑よりも、どこか嬉しそうな響きが混じっていた。
◇
一時間目の数学では、黒板いっぱいに数字と記号が並んでいた。
GVは頬杖をつきながらそれを眺めていたが、昨夜の夜更かしの影響は思っていた以上に大きく、教師の説明を聞いているつもりでも、少し油断すると意識が遠のいていく。
「それじゃあ、ここの続き」
教師が黒板を軽く叩いた。
「GV」
「はい」
名前を呼ばれた反射で立ち上がったものの、何を求められているのかを理解するまで一拍遅れた。
教室の何人かが笑う。
GVは誤魔化すように咳払いをし、黒板へ向かった。
チョークを受け取って途中式を見ると、なんとなく授業の内容は思い出せた。だが、そこから先の計算がすぐには繋がらず、一本目の式を書いては止まり、少し考えてから消し、別の形へ書き直す。
「先生」
「なんだ?」
「これ、さっきの公式使います?」
「それを考えるのがお前の仕事だ」
「ですよね」
後ろから笑いが起きた。
「GV死んでるぞ」
「うるさいな!」
「昨日夜更かししただろ」
振り返ったGVへ、友人が楽しそうに言う。
「なんで知ってんの?」
「朝からずっと眠そうだから」
「そんな分かりやすい?」
「めちゃくちゃ」
「そこ、私語しない」
「はい」
「すみません」
教師に注意され、GVはもう一度黒板へ向き直った。
数字を一つずつ追い、先ほどの説明を頭の中で繰り返してみると、ようやく繋がりが見えた。途中式を書き足し、そのまま答えまで辿り着くと、教師が小さく頷いた。
「正解」
「よし」
思わず小さく拳を握ったGVに、後ろからまた笑い声が飛ぶ。
「数学一問で喜びすぎだろ」
「うるさいって!」
席へ戻ると、隣の男子が机の下で肘を軽くぶつけてきた。
「今日マジで眠そうだな」
「映画が悪い」
「お前が夜更かししたんだろ」
「映画が面白かったのが悪い」
「責任転嫁すんなよ」
「じゃあ次の休み時間寝る」
「次、移動教室」
GVはしばらく無言で友人を見つめた。
「……ひどい」
「時間割に言え」
◇
午前中の授業を終え、昼休みを知らせるチャイムが鳴った途端、教室の空気は一気に緩んだ。
椅子を引く音や机を動かす音が重なり、購買へ向かう生徒が廊下へ飛び出していく。窓際では女子たちが机を寄せ、教室の後ろでは男子が誰かのスマートフォンを覗き込みながら騒いでいる。
GVも友人たちと机を囲み、弁当の蓋を開けた。
「そういやGV、昨日の映画観た?」
タイトルを聞いた瞬間、GVの箸が止まった。
「観た」
「どうだった?」
「良かった」
「お、珍しく短い」
「いや、特に最後の戦いがさ」
友人が笑った。
「始まった」
「何が?」
「GVの映画語り」
「まだ一文しか喋ってないよ」
「顔がもう長いやつなんだよ」
「顔で判断しないでよ」
そう言いながらも、GVはすでに少し前のめりになっていた。
「最後のあれ、単純に強い方が勝ったんじゃなくてさ。途中からずっと相手の動きを見せてて、最初は主人公が全然対応できてなかったのに、最後の場面では同じ動きをされた瞬間に――」
「ほら長い」
「まだここからだから!」
「そこが問題なんだよ」
別の友人が弁当を食べながら笑う。
「俺、爆発すげえって思ってた」
「爆発もすごかったよ。あそこ音も良かったし」
「結局そこも好きなんじゃねえか」
「好きだよ!」
思わず声が大きくなり、窓際の女子たちがこちらを振り向いた。
その中にいたシアンとも目が合う。
シアンは騒いでいるGVを見て一瞬だけ呆れたような顔をした後、隣の友達へ何かを囁いた。相手の女子がGVを見て笑ったため、本人は嫌な予感を覚えたものの、距離があるため内容までは聞こえない。
「……絶対なんか言われた」
「何?」
「いや、何でもない」
弁当に視線を戻したところで、教室の入り口から紙が床へ落ちる音がした。
大量のプリントを抱えていた生徒がバランスを崩し、白い紙が廊下近くまで広がっている。
GVは反射的に椅子から腰を浮かせた。
しかし、自分が立ち上がるより早く近くにいた二人がしゃがみ込み、一人が廊下側へ散った紙を集め、もう一人が教室内へ飛んだ分を拾っていく。落とした本人もすぐに加わり、三人で動き始めれば、床いっぱいに広がった紙は見る間に一つの束へ戻っていった。
GVはその様子を一瞬だけ眺め、それ以上立ち上がることなく椅子へ座り直した。
「で、映画の続きは?」
正面の友人が何事もなかったように聞いてくる。
「ああ。それで、最後に最初と同じ構図になるんだけど――」
GVもそのまま話へ戻った。
教室の入り口では、拾い終えた生徒たちが「ありがと」「いいって」と笑いながらプリントを整えている。
◇
放課後になると、教室の空気は昼休みよりさらに自由になった。
部活動へ向かう生徒は急いで荷物をまとめ、友人同士で遊びに行く者たちは今日どこへ寄るかを相談している。GVが教科書を鞄へ押し込んでいると、机の横へシアンがやってきた。
「じゃあ、わたし行くね」
「うん。また家で」
「GVもパーツ買いすぎないようにね」
「まだ買うって決めてないって」
「朝は『見るだけ』だったよ?」
「だから見るだけかもしれない」
「さらに弱くなってるじゃん」
「いいんだよ。現地で決めるから」
「それ買う人の言い方じゃない?」
「まだ分かんないって」
友達から名前を呼ばれ、シアンがそちらを向いた。
「じゃ、行ってくる」
「うん。楽しんできて」
「GVもね」
軽く手を振ると、シアンは友人たちと一緒に教室を出ていった。
GVも鞄を肩へ掛けたところで、近くにいた男子から声をかけられる。
「お前ら相変わらず仲いいよな」
「そう?」
「そうだろ」
「一緒に住んでるし」
「いや、それは知ってるけどさ」
「じゃあ何?」
「……いや、いいわ」
「なんなの?」
友人が意味ありげに笑い、そのまま先へ行ってしまう。
少し離れた場所では女子二人がこちらを見ながら小声で話しており、一人が廊下の向こうへ消えていくシアンを見た後、GVへ視線を戻して妙に納得したように頷いていた。
GVは自分の制服に何かついているのかと思って胸元を確認したが、特に変なところはない。
「……?」
結局理由は分からないまま、教室を出た。
◇
模型店の自動ドアが開いた瞬間、GVの足取りは学校からここまで歩いてきた時より明らかに軽くなった。
店内には色鮮やかな箱が壁一面に並び、透明なケースにはローラーやギア、シャフト、タイヤといった細かなパーツが種類ごとに整然と収められている。奥の常設コースからはモーターの高い駆動音が響き、直線へ入るたびに小さな車体が風を切るような音を立てていた。
GVはまず新商品棚へ向かい、以前から気になっていたパーツを見つけると手に取った。
値札を見る。
財布の中身を思い出す。
もう一度パーツを見る。
「……今日は見るだけ」
自分へ言い聞かせるように呟き、商品を棚へ戻した。
それから十五分後には、自分のマシンを持って常設コースの前へ立っていた。
昨夜調整したローラーの位置をもう一度確かめ、スイッチを入れて車体をスタート位置へ置く。手を離した瞬間、小さなマシンは勢いよく飛び出し、モーター音を高く響かせながら長いストレートを一気に駆け抜けた。
最初のコーナーへ入ると車体が外側へ膨らむものの、ローラーが壁を捉えて姿勢を戻し、そのまま次の短い直線へ飛び込む。GVの視線はマシンを追ってコース上を走り、二つ目の高速コーナーへ差しかかった瞬間には、少しだけ身体を前へ傾けていた。
「そのまま、そのまま……」
マシンはコーナーへ入った。
速度をほとんど落とさず外側の壁へ接触し、ローラーが回転した直後、車体の片側が浮き上がる。
「あっ」
次の瞬間にはコースを飛び越え、外側の柔らかなフェンスへ突っ込んでいた。
GVはすぐに回収すると、壊れていないことを確かめてからタイヤを指で回し、シャーシを横から眺める。
「速度は出てるんだけどなぁ……」
「またローラー?」
カウンターから顔なじみの店員が声をかけてきた。
「今回は本気で悩んでます」
「前回は?」
「前回も本気でした」
「毎回じゃん」
「ミニ四駆ってそういうものですよ」
冗談ではなく真顔で返し、GVはもう一度パーツ棚へ向かった。
少し重いが安定性の高そうなローラーを手に取って重さを確かめ、今度は軽量タイプを持ち上げて自分のマシンへ当ててみる。速度を残すならこちらの方がいいが、今のセッティングでは先ほどの高速コーナーで同じように姿勢を崩す可能性が高い。
棚の前で二種類を見比べながら考え込んでいるGVを見て、店員が笑った。
「楽しそうだねえ」
「楽しいですよ?」
その返事には迷いがなかった。
その時、コースの反対側から小さな声が聞こえてきた。
「まただ……」
見ると、小学生くらいの少年がフェンスへ飛び込んだマシンを拾っていた。
少年は車体を確認すると、少し位置を直してもう一度コースへ置く。マシンはストレートでは十分な速度を出しているものの、先ほどGVが失敗した場所とは別のコーナーへ入るたび大きく外側へ膨らみ、その勢いのまま壁を乗り越えてコースアウトしてしまう。
少年はまた拾い上げ、今度は手でローラーを少し触ってから走らせた。
やはり同じところで飛ぶ。
GVは手にしていたパーツを棚へ戻し、しばらくその様子を見ていた。
何度目かのコースアウトを拾った少年と目が合う。
「それ、ちょっと見てもいい?」
「え?」
「勝手にいじったりしないから」
少年は一度マシンを見下ろし、それからGVを見ると、少し迷った末に差し出してきた。
「はい」
「ありがと」
GVは両手で受け取り、まずタイヤやローラーの位置を見た。裏返してシャーシを確認してから再び元へ戻し、少年へ尋ねる。
「最近、速くした?」
「モーター変えた」
「やっぱり」
「ダメだった?」
「全然。速くするのはいいと思う。ただ、速くなった分だけ今までのセッティングだとコーナーで踏ん張りきれなくなってるんじゃないかな」
GVは自分のマシンを持ってきて、隣へ並べた。
「これ、お兄ちゃんの?」
「うん」
「速そう」
「速いよ」
「おお」
「そして飛ぶ」
「ダメじゃん」
「ダメなんだよ」
少年が思わず笑い、GVもつられて笑った。
「だから僕も今調整中。たぶん君のも、いきなり新しいパーツを買わなくても今ついてるやつの位置を少し変えれば安定すると思う」
「どうやるの?」
「一緒に試してみよっか」
二人でコース脇へしゃがみ込み、少年が持っていた工具を使いながらローラーの位置を少しずつ調整する。GVは自分で勝手に締めることはせず、どこを緩めてどこへ移せばいいのかを指で示し、少年が手を動かすのを横から見ていた。
「これくらい?」
「うん。一回それで走らせてみよう」
再びスイッチを入れ、スタート位置へ置く。
少年が手を離すと、マシンは先ほどと変わらない勢いでストレートを駆け抜けた。問題のコーナーへ近づくにつれ少年の身体が前へ傾き、その横でGVも自分のマシンを走らせている時と同じように、目だけで小さな車体を追い続ける。
マシンがコーナーへ飛び込んだ。
外側へ膨らむ。
ローラーが壁へ触れ、車体が一瞬傾いたものの、そのまま姿勢を戻してコース内へ残った。
「いった!」
思わずGVの方が先に声を上げた。
少年が一瞬こちらを見て、それから笑う。
「お兄ちゃんのじゃないじゃん」
「いいじゃん、嬉しいんだから!」
マシンはもう一周して同じコーナーを抜け、少年は今度こそ大きく拳を握った。
「やった!」
「うん。さっきよりだいぶ安定したね」
「ありがとう!」
「どういたしまして。でもまた速くしたら、たぶんまた飛ぶよ」
「また直せばいい?」
「そういうこと」
「ミニ四駆って大変だな」
「そこが面白いんだよ」
さも当然のように答えたGVを見て、近くにいた店員がまた笑っていた。
◇
店を出る頃には、昼間の明るさはすっかり薄れ、建物の隙間から見える空が橙色へ変わっていた。
GVの右手には小さなビニール袋が提げられている。
歩きながら一度袋を見る。
中には先ほど散々迷った末に買ったパーツが入っていた。
「……見るだけだったんだけどな」
誰も聞いていないのに言い訳をしてみたが、自分でも説得力がない。
帰ったら確実にシアンに言われるだろうと考えながら住宅街へ入ったところで、道路脇に数人の大人が集まっているのが見えた。
近づくと、小型の配送機械の片輪が側溝へ落ちている。
「もうちょっとこっち持ち上げられればな」
「三人だと向こう側が重いな」
大人たちが位置を変えながら試しているものの、機体を傾けすぎれば別の車輪まで落ちかねないらしい。
GVは歩調を緩め、そのまま通り過ぎようとはせず、人の間から機械の状態を覗き込んだ。
「手伝います」
一人が振り向く。
「ん? いいのか?」
「四人なら持ち上げられそうなんで」
「悪いな。じゃあこっち持ってくれる?」
「はい」
模型店の袋を邪魔にならない場所へ置き、GVも機体の一角を持つ。
「せーので少し上げよう。無理に引っ張らなくていいからな」
「分かりました」
掛け声に合わせて四人で力を入れると、機体がゆっくり持ち上がった。側溝へ落ちていた車輪が縁を越えた瞬間、そのまま横へずらし、舗装された道路の上へ戻す。
「おお、いった」
「助かったよ。ありがとう」
「いえ。たまたま通っただけなんで」
GVは軽く手を振り、袋を拾い上げた。
数十秒後には、もう普通に帰り道を歩いていた。
◇
「ただいまー」
玄関を開けて声をかけたが、すぐには返事がなかった。
靴を見る限り、誰かは帰っている。
GVが靴を脱いで廊下を進んでいると、リビングの方から足音が近づき、エリーゼが姿を現した。
彼女はGVを見つけると、玄関に置かれた鞄と本人を交互に確認するように視線を動かした。
「……帰った」
「うん。ただいま」
エリーゼはもう一度GVを見た。
「……いる」
「いるよ」
それだけ聞くと、彼女は少しだけ表情を緩め、何事もなかったようにリビングへ戻っていく。
GVも特に不思議がることなく後を追った。
リビングではシアンがソファに座っており、こちらを見るなり手を上げた。
「おかえり」
「ただいま。シアンも帰ってたんだ」
「ちょっと前にね」
GVが鞄を置いたところで、シアンの視線が右手へ落ちる。
その目が細くなった。
「買ってる」
「……買った」
「見るだけって言ってなかった?」
「必要になったんだよ」
「何が?」
「パーツが」
「そのまんまじゃん」
「いや、本当に必要だったんだって。今日走らせたら高速コーナーで姿勢が崩れて――」
「はいはい」
「絶対聞いてないでしょ」
GVが袋を机へ置く。
それまでソファの端にいたエリーゼがそちらへ視線を向け、少しして顔を上げた時には表情が変わっていた。
「で?」
声の調子も先ほどとは違う。
GVは一瞬だけ目を瞬いた。
「何?」
「何買ったの?」
「ローラーだけど」
「見せて」
「いいけど」
袋からパーツを取り出すと、エリーゼはそれを受け取って箱を眺めた。
「朝、見るだけって言ってなかった?」
「……覚えてるんだ」
「当たり前でしょ」
「人格変わってもこういうの共有されてるの、こういう時だけちょっとズルくない?」
「はぁ?」
「いや、何でもないです」
「アンタが勝手に墓穴掘ってるだけでしょ」
シアンが堪えきれず笑った。
「やっぱり買ってるじゃん」
「二対一じゃん……」
「三対一だけど?」
エリーゼが平然と言う。
「エリーゼを人数で数えるのやめない!?」
「アタシが言ってんだからいいでしょ」
「そういう問題なの?」
「細かいわね」
「そっちが言い出したんじゃん!」
GVが抗議している横で、シアンはますます笑っていた。
◇
夕食の頃には、リビングには料理の匂いとテレビの音、それに三人の話し声が混ざっていた。
「それでね、駅前のお店で結構いい服あったんだけど」
シアンは今日友達と見てきた店の話をしながら、箸で料理を取り分けている。
「買ったの?」
「今日は見ただけ。今度また行こうかなって」
「ちゃんと見るだけで帰ってきたんだ」
「誰かさんと違ってね」
「まだ言う?」
「今日一日は言えると思う」
GVが不満そうな顔をしながら食事を続ける。
「僕だって最初は本当に見るだけのつもりだったんだよ」
「最初は?」
「……途中で必要になった」
「ほら」
「でも今日、模型屋で小学生のマシン調整するの手伝ってさ」
「話逸らした」
「逸らしてないって。それで、その子もモーター変えたらコースアウトするようになってたから、一緒にローラーの位置変えて――」
GVが実際にコーナーを曲がるマシンのように箸を動かしながら説明するので、シアンが笑う。
「楽しそう」
「楽しかったよ。最初ずっと同じところで飛んでたんだけど、調整したらちゃんと抜けてさ。僕の方が先に『いった!』って言っちゃって」
「GVらしい」
「その子にも『お兄ちゃんのじゃないじゃん』って言われた」
「そりゃ言われるでしょ」
GVが笑いながら醤油へ手を伸ばしたところで、エリーゼも皿から顔を上げた。
「……帰りも、何かしてた?」
「なんで分かったの?」
「少し遅かったから」
「ああ。配送機械が溝に落ちてたから、大人の人たちと一緒に持ち上げただけ」
シアンが箸を止める。
「模型屋からここまでの間に何回人助けするの?」
「一回だよ」
「模型屋の子は?」
「あれ人助けに数える?」
「数えるでしょ」
「そうかなぁ」
GV自身は本気で分かっていないらしく、首を傾げたまま料理を口へ運んだ。
テレビでは能力者を巡る社会問題についてニュースキャスターが話している。
皇神という名前も聞こえた。
GVは一度だけ画面へ視線を向けたが、内容が今すぐ自分のところへ飛び込んでくるようなものではないと分かると、何も言わず食卓へ視線を戻した。
「GV、それ取って」
「ん」
シアンに醤油を渡す。
テレビのニュースはそのまま次の話題へ移った。
◇
夜も遅くなり、風呂を済ませたGVは自分の机の前で腕を組んでいた。
今日買ったミニ四駆のパーツではない。
宿題でもない。
机の中央には学校から配られた一枚の紙が置かれている。
進路希望調査票。
第一志望と第二志望、それぞれの学校名を書くための空欄が並んでいるものの、GVの紙にはまだ一文字も書かれていない。
「何その顔」
部屋の入り口からシアンが覗き込んだ。
「いや……」
「まだ書いてないの?」
「シアンは?」
「わたしもまだ」
「だよね」
「なんで安心してるの」
「仲間がいたから」
シアンが呆れたように笑い、そのまま机の横まで来る。
GVは椅子の背もたれへ身体を預け、紙を眺めた。
「高校かぁ……」
「行くでしょ?」
「行くよ」
「じゃあ何?」
「なんていうかさ」
指先でペンを転がしながら、GVは少し考えた。
「僕、高校生になるんだなって」
シアンが瞬きをする。
「何それ」
「自分でもよく分かんない」
「変なの」
「うん」
そう言いながら、GVはもう一度紙を見る。
来年、自分がどこにいて、誰と一緒にいて、何をしているのか。
以前なら、そんなことをゆっくり考える余裕すらなかった時期があった。
けれど今は、紙の上に空欄がある。
何を書くのか決まっていないのに、それを急いで埋める必要もない。
「シアンはどこ行きたい?」
「まだ分かんない。何校か見てみたいとは思ってるけど」
「そっか」
「GVは?」
「僕もまだかな。やりたいことは色々あるんだけど」
「例えば?」
「ミニ四駆」
「高校の進路の話だよ?」
「部活あるかもしれないじゃん」
「それ進路決める基準にするの?」
「結構大事じゃない?」
シアンが笑う。
その時、廊下から小さな足音が近づき、開いたままだった扉の前で止まった。
「……決まっていなくても、いいんでしょうか」
二人が振り返ると、エリーゼが立っていた。
「あ……すみません。聞くつもりではなかったんですけど、お二人とも、まだ分からないと仰っていたので……」
「うん」
GVが椅子を少し回して身体を向ける。
エリーゼは二人の進路希望調査票を交互に見た。
「その……分からないままでも、いいんでしょうか」
GVはすぐに答えず、一度自分の紙へ視線を落とした。
真っ白な空欄を眺めてから、顔を上げる。
「いいんじゃない?」
「……いい?」
「まだ決める途中だし」
ペン先で空欄を軽く示す。
「今決めても明日変わるかもしれないし、来月になったら別のものを見つけるかもしれない。だったら、分からない時は分からないでいいと思う」
シアンも頷いた。
「エリーゼだって、まだ決めてないこといっぱいあるでしょ?」
「わたしも……?」
「うん」
エリーゼはそこで言葉を止めた。
誰かが望んでいる答えを探すように二人を見るのではなく、少しだけ視線を下げ、自分の内側から言葉を探している。
時間をかけて考えた後、ようやく顔を上げた。
「……まだ、分かりません」
GVは笑った。
「じゃあ一緒だ」
「三人ともだね」
シアンも笑う。
エリーゼは二人の顔を見てから、小さく頷いた。
「……はい」
その口元が少しだけ緩んだ。
いつものように最後へ続きそうだった謝罪の言葉は、今度は出てこなかった。
◇
翌朝。
昨日より少しだけ早く家を出たGVが通学路を歩いていると、後ろから名前を呼ばれた。
「GV!」
振り返ると、クラスメイトが小走りで追いついてくる。
「おはよ」
「おはよう。なあ、昨日の進路の紙書いた?」
「まだ」
「俺も。高校行ったら何する?」
「何するって?」
「部活とか」
「ああ」
GVは少し考えてから答えた。
「ミニ四駆部」
「ねえよ」
「なんで即答なの?」
「そんなピンポイントな部活あるかよ!」
「探せばあるって」
「模型部とかならまだ分かるけど」
「じゃあ作ればいいじゃん」
「高校入る前から新設する気かよ」
「楽しそうだし」
「部員どうすんだ」
「集める」
「お前そういう時だけ行動力おかしいんだよ!」
二人で笑いながら歩いていると、少し後ろから女子たちの話し声が聞こえてきた。
その中にシアンもいる。
GVが何気なく振り返ると目が合い、シアンは友達との会話を続けたまま小さく手を振った。
GVも同じように手を上げると、すぐ前を向いた。
「ほら、急ぐぞ。今日遅刻したら昨日の夜更かしのせいにできないからな」
「昨日も遅刻はしてないって」
「ギリギリだったろ」
「間に合えばいいんだよ」
「先生の前でそれ言ってみろよ」
「それは嫌」
くだらないことを言い合いながら、二人の歩調が少しずつ速くなる。
学校へ着けば授業があり、昼になれば友達と弁当を食べ、放課後になればそれぞれ好きな場所へ向かう。
帰れば誰かがいて、その日にあった出来事を話すことができる。
来年のことは、まだ決まっていない。
それでも明日になれば、また学校へ行く。
「おいGV、本当に時間やばいぞ!」
「え?」
友人が腕時計を見せてきた瞬間、GVの表情が変わった。
「ちょっと待って、それ先に言ってよ!」
「今言っただろ!」
「走るよ!」
「最初からそのつもりだ!」
二人は同時に駆け出し、人の間を縫いながら学校へ向かって速度を上げていった。
少し後ろでは、シアンたちがその様子を見て笑っている。
朝の通学路を全力で走っている理由は、誰かと戦うためでも、何かを救うためでもない。
単純に、学校へ遅刻しそうだからだった。
そんな理由で必死になれる一日が、今日もまた始まっていた。
紫電戦、最高だった?
-
最高だった
-
いや...キツいっすわ