『隣人GV ―もしもスパイディの影響を受けたGVなら―』 作:幸田市
無印編を最後まで追ってくださった方も、ここから読み始める方も、ようこそ。
連載開始から約1か月。
おかげさまで、UA10,000を突破しました!
まさか2026年の今、こんなにも『ガンヴォルト』の二次創作を読んでくださる方がいるとは……作者としても一ファンとしても、私は嬉しい!!
ここからは二年後。
無印で積み上げてきたものを引き継ぎながら、第二部『爪』編が始まります。
ここでかなり本音を言うと――
感想、めちゃくちゃ欲しいです!
原作をずっと追っている方も、最近知った方も、この作品から『ガンヴォルト』を知った原作未履修の方も、初見の方も、どんな方でも大歓迎です。
「ここ好き!」
「この台詞よかった!」
「このキャラをこういう形で出してくれるのいいね!」
「この関係性もっと見たい!」
「次こうなるんじゃない?」
「原作知らないけど、このキャラ気になる!」
みたいな一言でも本当に嬉しいです。
むしろ原作未履修だからこその予想や反応も、作者としてかなり見てみたいです。
展開予想や考察もぜひ。
当たっていても外れていても、ネタバレになる返答はせず、作者がニヤニヤしながら全部読ませてもらいます(笑)。
『爪』編も追ってくださる方は、お気に入り登録を忘れていないか一度確認していただけると助かります!
次の目標は――
お気に入り100件突破!!
ここまで来たら一度は見てみたい……!
まだ評価を入れていない方も、「面白かった」「続きも読みたい」と思っていただけたなら、評価してもらえるとかなり励みになります。
お気に入りや評価ももちろん嬉しいんですが、
何より皆さんの反応を見るのが一番楽しみです。
なので『爪』編も、ぜひ一緒に騒いでください。
本日より毎朝7:30更新予定!
改めて、UA10,000ありがとうございます。
では、今日から第二部。
『隣人GV 爪』
よろしくお願いします!
第一話「境界線」
目覚まし時計が鳴るより少し早く、カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、部屋の床を細長く切り取っていた。
その光の先には、昨夜途中まで弄っていたミニ四駆が一台。傍らには開きっぱなしのアメコミ、書き込み途中の数学の課題、キャップの外れたまま転がっているシャープペンシル。
机の上だけ見れば、昨夜この部屋の主が何をしていたのかは大体分かった。
勉強をして。
途中で漫画を開いて。
そのままミニ四駆を弄り始めて。
そして、おそらく予定していた時刻よりずっと遅く寝た。
その証拠に、本人はいまだ布団へ深く沈んでいる。
「GV」
返事はなかった。
シアンは少し待った。
「朝」
「……起きてる」
布団の中から、くぐもった声だけが返ってくる。
「目、閉じてるけど」
「これは……考え事してるだけ」
「寝てる人の言い訳だよ、それ」
容赦なくカーテンを開ける。
一気に入り込んできた朝日に、布団の中から低い呻き声が漏れた。
「まぶし……」
「朝だからね」
シアンはそう言いながら、部屋を見回した。
二年前なら、こんな朝が来るとは思っていなかった。
白い壁も。
カーテンの色も。
使い込んで少しだけ傷の増えた机も。
台所に並んだ食器も。
どれも皇神が与えたものではない。
フェザーの拠点に用意されていたものでもない。
誰かに「ここで暮らせ」と決められた場所ではなく、自分たちで少しずつ増やしてきた生活の跡だった。
昨日使ったものが残り、今日使うものがあって、明日もたぶん同じ場所に帰ってくる。
そんな当たり前の繰り返し。
その繰り返しができるということを、シアンはまだ時々、不思議に思う。
「昨日、今日こそ早く寝るって言ってなかった?」
「言った」
「何時に寝たの?」
「……一時くらい」
「三時」
布団から顔だけ出したGVが、ゆっくりこちらを見る。
「なんで知ってるの」
「三時にお水飲みに起きたら、まだミニ四駆持ってたから」
「……」
完全に逃げ道を塞がれた。
しばらく天井を見たあと、GVはようやく上半身を起こした。
髪は見事に跳ねていた。
そのまま眠そうな目で机に置かれたマシンを確認する。
「あとちょっとだったんだよ。ローラー位置変えたら、コーナーの抜けが結構変わりそうでさ」
「その話、朝ごはん食べながら聞く」
「聞いてくれるんだ」
「聞かないとずっと言うでしょ」
「よく分かってるね」
「毎日いっしょにいればね」
シアンはそう言って部屋を出た。
その言葉に、GVがほんの少しだけ笑ったことには気づかなかった。
◇
着替えて。
顔を洗って。
朝食を済ませて。
あとは学校へ向かうだけ。
そんな、何の変哲もない朝のはずだった。
テレビではニュース番組が流れている。
海外情勢。
巨大企業の新規事業。
能力者を巡る制度上の議論。
画面の中ではスーツ姿の専門家たちが、ずいぶん難しい顔をしながら社会の未来について話していた。
それらが重要ではないとは思わない。
GV自身、能力者を取り巻く世界が決して平穏ではないことくらい知っている。
知りすぎている、と言ってもいい。
けれど、その朝の彼にとって差し迫った問題は、もっと小さかった。
「ない」
「何が?」
「英語のプリント」
鞄の中を探りながら、GVが眉を寄せる。
「今日提出の?」
「うん」
「昨日、テーブルに置いてたやつ?」
「そう」
「鞄の横」
GVが止まる。
視線を横へ向ける。
そこにあった。
「あった」
「探してないじゃん」
「探したよ。視界には入ってた」
「それは探したって言わないよ」
「見えてるのに見つからない時ってあるじゃん」
「ないよ」
「あるって」
「GVにはあるんだろうね」
プリントを鞄へ押し込み、ようやく玄関へ向かう。
靴を履いて。
扉を開ける。
外はよく晴れていた。
朝の空気にはまだ少しだけ冷たさが残っている。
通学路を自転車が走り、制服姿の学生が駅へ向かい、コンビニの前では店員が届いたばかりの荷物を運び込んでいる。
横断歩道では犬を連れた老人が信号を待っていた。
住宅街のどこかから掃除機の音がする。
何も起きていない。
誰も逃げていない。
警報も鳴っていない。
戦う理由もない。
GVは、こういう朝が結構好きだった。
世界のどこかでは、今日も能力者を巡って誰かが怒り、誰かが恐れ、誰かが難しい正解を考えている。
けれど、この道では高校生が遅刻を気にして歩いている。
パン屋からいい匂いがする。
信号が変わる。
それだけで一日は始まる。
「今日、放課後どうするの?」
隣を歩きながら、シアンが尋ねた。
「先にアメ研」
「今日は何するの?」
「新入生に最初に何見せるか決める」
「映画?」
「うん」
「また揉めるでしょ」
「揉めないよ」
「前に『最初に見るスパイダーマンはどれがいいか』だけで一時間話してたじゃん」
「あれは揉めたんじゃなくて議論」
「途中で机叩いてたって言ってなかった?」
「あれは熱意」
「それを揉めたって言うんだよ」
GVとしては納得しかねるところだった。
作品を入り口として誰かに薦める場合、どれを最初に選ぶかはかなり重要である。
公開順。
完成度。
単体での見やすさ。
あるいは、その人がヒーローものに何を求めているのか。
検討すべき材料はいくらでもある。
だが、今それを説明し始めれば学校に着くまで終わらないことも分かっていた。
「そのあとミニ四駆部」
「今日は走らせる日?」
「昨日弄ったやつ試す」
「だから三時まで起きてたんだ」
「そこ繋げなくていいから」
「帰りは?」
「今日は真っ直ぐ帰るよ」
シアンが足を止めそうなほど、じっとこちらを見る。
GVも見る。
「……何その顔」
「昨日も聞いたなって」
「昨日の僕とは違うよ」
「それ、昨日も言ってた」
「……」
「二日連続だね」
「人は日々成長するものだから」
「少なくとも昨日から今日のGVはあんまり成長してないと思う」
「ひどくない?」
GVが何か言い返そうとした、その時だった。
「あ……」
小さな声が聞こえた。
大通りへ出る少し手前。
歩道脇の植え込みの向こうに、一人の少年が立っている。
まだ小学校の低学年くらいだろうか。
首を大きく反らし、街路樹の枝を見上げていた。
黄色い帽子が引っかかっている。
風に飛ばされたらしい。
少年は何度か背伸びして手を伸ばしているが、もちろん届かない。
GVは一度、時計を見る。
始業までの時間を頭の中で逆算する。
駅まで。
電車。
学校まで。
かなり微妙だった。
もう一度、少年を見る。
今度は少し助走をつけて飛び跳ねた。
届かない。
困ったように辺りを見る。
GVの足が半歩、そちらへ向いた。
シアンは何も言わなかった。
ただ、その横顔を見て、小さく笑った。
「……行くんでしょ」
GVが振り返る。
「顔に出てた?」
「もう二年見てるから」
諦めたような言い方だったが、声はどこか楽しそうだった。
「じゃ、ちょっとだけ」
「その『ちょっとだけ』信用してないからね」
「今回はほんとにちょっと!」
言い終えるより早く、GVは道路の反対側へ向かっていた。
「どうしたの?」
少年が振り返る。
「帽子……」
「あれ?」
「うん」
「取ってあげるよ」
「ほんと?」
「これくらいならね」
軽く助走をつける。
幹へ片足をかけ、そのまま身体を上へ送る。
能力を使うほどのことでもない。
枝を片手で掴み、もう片方の手で帽子を取る。
着地まで数秒。
「はい」
黄色い帽子を差し出す。
「ありがとう!」
「どういたしまして。次は飛ばされないようにね」
「うん!」
少年は嬉しそうに帽子を被り直し、そのまま走っていった。
GVはその背中を見送る。
別に、たいしたことはしていない。
困っている子供がいて。
自分なら届いた。
だから取った。
それだけだった。
道路を戻る。
待っていたシアンが、無言でスマートフォンをこちらへ向けた。
時刻が表示されている。
「三分」
「三分なら誤差だよ」
「学校では遅刻って言うの」
「厳しいなぁ」
「社会がね」
そして、二人は走り出した。
二年前にも、似たようなことがあった。
任務へ向かう途中で困っている子供を見つけて、そのせいで集合時間に少し遅れた。
あの時は、通信機の向こうから低い声で叱られた。
任務において二分を誤差と呼べるとは限らない、と。
その時のGVは、それでも二分くらいだと思っていた。
今もたぶん、三分くらいなら誤差だと思っている。
変わったことは多い。
フェザーの戦闘員として毎日を過ごしていた少年は、今では制服を着て学校へ向かっている。
シアンは誰かに保護されるだけの少女ではなく、自分の予定を決め、自分の友人を持ち、隣を自分の足で歩いている。
帰る場所がある。
放課後の予定がある。
明日の提出物を気にする必要がある。
戦場の外に、続いていく時間ができた。
けれど。
困っている誰かを見つけた時、考えるより先に身体が動くところだけは、どうやら二年程度では変わらなかったらしい。
「GV、急いで!」
少し先を走るシアンが振り返る。
「待ってって!」
「置いてくよ!」
「それはひどくない!?」
「遅れたの誰のせい!」
「帽子のせい!」
「帽子に責任押しつけない!」
朝の通学路を、二人は走った。
戦うためではない。
世界を救うためでもない。
誰かから与えられた使命のためですらない。
ただ、学校へ遅刻しないために。
そんな理由で走ることのできる朝を、二人は二年間かけて手に入れていた。
少なくとも――この時までは。
今日もその続きを過ごせるものだと、そう思っていた。
◇
放課後。
一日分の熱を吸った校舎から、生徒たちが一斉に外へ流れ出していく。
部活動へ向かう者。駅へ急ぐ者。友人同士で、このあとどこへ行くか相談している者。
朝とは違い、今度は急いでいる理由もない。
GVとは校内で別れた。
アメコミ研究会へ寄ったあと、ミニ四駆部にも顔を出すらしい。
朝からあれだけ眠そうにしていたくせに、好きなことになると途端に元気になる。
しかも今夜にはたぶん、また「今日は早く寝る」と言う。
そして守らない。
そんなことを考えながら校門を出たところで、シアンは待ち合わせていた少女を見つけた。
「オウカ」
「あ、シアンさん。お疲れさまです」
オウカがいつもの穏やかな笑顔で手を振る。
「待った?」
「いいえ。わたしも来たばかりです」
二人はそのまま並んで歩き始めた。
今日は駅前に新しくできた店を見て、それから適当に寄り道して帰る。
それくらいしか決めていない。
こういう予定も、シアンは好きだった。
誰かに命令された行き先ではない。
何かを逃れるための移動でもない。
行きたいところへ行って、気が変われば予定を変える。
それだけのことが、かつてはできなかった。
最初のうちは学校の話をしていた。
授業。
友達。
今日出された課題。
そして。
ほんの数分もしないうちに。
「そういえば今日ね、GVがまたやったんだよ」
始まった。
オウカは別に驚かなかった。
むしろ、今日はいつ始まるのだろうと思っていたくらいだった。
「また、ですか?」
「登校中にね、小さい子の帽子が木に引っかかってたの」
「それを取ってあげたんですね」
シアンが足を止めた。
「……まだそこまで言ってない」
「でもGVですよね?」
「そうだけど!」
言い返しながらも、シアンの表情はどこか嬉しそうだった。
「しかも時間ギリギリだったんだよ? 一回ちゃんと時計見てるの。遅れるって分かってるのに、結局そのまま行くんだから」
「ふふ」
「なに?」
「いえ。シアンさん、楽しそうだなと思って」
「楽しい話じゃないよ。こっちは遅刻しかけたんだから」
そう言う。
けれど、口は止まらない。
「でね、帽子取ってあげたあとも、別に何でもないみたいな顔して戻ってくるの。ほんとに普通に」
「GVらしいですね」
「そうなの!」
即答だった。
それから一拍。
シアンは少しだけ声を落とす。
「……ああいうところ、全然変わらないんだよね」
二年前もそうだった。
相手が誰なのか。
得になるのか。
急いでいるのか。
そんなことを考える前に、困っている人の方へ身体が動く。
シアンはそれを何度も見てきた。
戦場でも。
街でも。
家の近所でも。
学校へ向かう途中でも。
そのたびに思う。
本当に、ずるい。
「本人はさ、自分がすごいことしてるなんて全然思ってないんだよ」
「そうですね」
「そこがまた――」
言葉が止まる。
オウカが横を見る。
「また?」
「……なんでもない」
「そうですか?」
「そう」
シアンは少しだけ歩く速度を上げた。
本人の前なら、絶対にこんなことは言わない。
朝だってそうだ。
GVが帽子を取って戻ってきた時、シアンが口にしたのは「三分」だけだった。
それでいい。
本人に向かっていちいち格好いいだの何だの言っていたら、恥ずかしくて仕方がない。
それに――GVは、シアンにとって「蒼き雷霆」だけではない。
朝は弱い。
提出物は目の前にあっても見つけられない。
好きなものの話になると長い。
ミニ四駆を弄って三時まで起きている。
そういう、ただのGVだ。
それを一番よく知っているつもりだった。
だからこそ、余計にたちが悪い。
何でもない普通の少年が、誰かが困った瞬間だけ、ためらいもなくそちらへ行ってしまう。
その姿をもう何度見ても、慣れない。
本人の前では、ただ隣にいればいい。
こういう話は、本人がいないところですればいい。
「でも、GVって本当に優しいですよね」
オウカが言った。
「……うん」
「以前、わたしが荷物をたくさん持っていた時も、何も言わずに半分持ってくれましたし」
シアンの顔が、ゆっくりオウカの方を向いた。
「いつ?」
「この前です」
「この前って?」
「少し前ですね」
「……二人で?」
「偶然会っただけですよ?」
「ふーん」
「シアンさん?」
「別に」
分かりやすかった。
オウカは口元へ手を添えて、小さく笑う。
「そんな顔をしなくても」
「どんな顔?」
「少しだけ、むすっとしています」
「してない」
「していますよ」
「してないってば」
二人の関係を、オウカも知っている。
それでも彼女がGVに好意を持っていることも、シアンはとっくに知っていた。
そして厄介なことに。
オウカは、シアンを理由に自分の気持ちまで引っ込めるつもりはあまりないらしい。
二人の仲を壊したいわけではない。
奪おうとしているわけでもない。
ただ。
好きなものは好き。
そこだけは、どうにも譲る気がない。
「でも、わたしもGVのそういうところ、素敵だと思います」
「……」
「困っている人を見ると、すぐ動いてしまうところ」
「……知ってる」
「はい」
「わたしの方がいっぱい知ってるからね」
オウカが少し目を丸くする。
それから柔らかく笑った。
「はい。それは敵いません」
素直に引いた。
――はずだった。
「でも、わたしもこれから知っていけばいいですから」
「...オウカ」
「はい?」
「やっぱり油断ならない」
「何がですか?」
本気で分かっていなさそうな顔をする。
それが一番油断ならなかった。
そんな話をしながら、二人は駅前から少し離れた住宅街へ入っていった。
人通りが減る。
大通りの車の音も遠くなり、代わりに庭木を揺らす風の音が聞こえる。
坂道を上った先に、一風変わった建物があった。
病院というには小さく。
普通の住宅というには大きい。
白を基調とした建物が道路から少し奥まったところに建ち、その周囲を植木と鉄柵が囲んでいる。
入口には控えめな表札があるだけだった。
シアンも以前から存在は知っていた。
個人療養所。
それ以上のことは知らない。
「今日は誰かいますね」
オウカが言った。
シアンも柵の向こうを見る。
建物と植木の間に、小さな庭がある。
その中央に、車椅子が一台。
一人の少女が座っていた。
最初は、自分たちより年下に見えた。
身体が小さい。
手足も細い。
膝の上には薄いタブレット端末が置かれている。
長い間、外とは少し離れた生活を送ってきたのだろう。
そんなことだけは、なんとなく分かった。
少し離れたところには、メイド服姿の女性が立っている。
付き添いらしい。
「あと五分ほどにいたしましょう、ミチルさま」
女性――ノワが告げた。
少女はタブレットへ視線を落とし、指を動かす。
『もう少しだけ』
ノワの表情が少しだけ柔らかくなった。
「今日は随分とお加減がよろしいですからね」
すぐに否定はしなかった。
けれど、そのまま許すわけでもない。
「ですが、無理をして明日寝込んでしまわれては意味がありません」
少女はしばらく考え、
『わかった』
と打った。
その時だった。
風が吹いた。
庭木が揺れる。
少女の膝の上に置かれていた白いハンカチが、ふわりと浮いた。
「あ」
柵を越える。
道路へ落ちる。
その寸前で、シアンが手を伸ばした。
掴む。
「セーフ」
手の中を見る。
端に、小さな花の刺繍が入っている。
顔を上げると、車椅子の少女がこちらを見ていた。
シアンはハンカチを持ち上げる。
「これ、君の?」
少女が頷く。
何か言おうと口を開いた。
けれど声は出ない。
代わりに、膝の上の端末へ指を走らせる。
『ありがとう』
「ああ」
シアンは柵へ近づいた。
「これ、ここから渡せるかな」
少女も車椅子を少し前へ進める。
鉄柵の隙間から腕を入れる。
「はい」
少女が受け取った。
またタブレットへ入力する。
『ありがとう』
「二回目」
一瞬、少女が目を丸くした。
それから小さく笑う。
声は聞こえなくても、笑っているのは分かった。
「シアンさん、お知り合いですか?」
隣まで来たオウカが尋ねる。
「今知り合った」
「今なんですね」
「今」
少女がタブレットへ文字を打つ。
『シアン?』
「あ、うん」
自分を指差す。
「わたし、シアン」
オウカも軽く頭を下げた。
「オウカです」
少女も自分を指す。
『ミチル』
「ミチル?」
頷く。
「よろしく、ミチル」
シアンは、それ以上を聞かなかった。
何の病気なのか。
なぜここにいるのか。
なぜ声が出ないのか。
知らない。
けれど、今すぐ知る必要もないと思った。
話したければ本人が話すだろう。
話したくなければ、それでいい。
ミチルの視線が、ふとシアンの制服へ向いた。
しばらく眺める。
それから文字を打った。
『学校?』
「うん」
『高校?』
「そうだよ」
ミチルの指が止まる。
少し考えてから、もう一度動いた。
『楽しい?』
「学校?」
頷く。
シアンはすぐに「楽しい」とは答えなかった。
少し考える。
「楽しいことばっかじゃないよ」
ミチルが顔を上げる。
「朝眠いし。宿題あるし。テストもあるし」
「シアンさん」
「ほんとのことだよ」
オウカが困ったように笑う。
「あと、GVは提出物なくすし」
「それは学校の問題なんでしょうか?」
「GVの問題」
ミチルの肩が小さく揺れた。
笑っている。
シアンもつられて笑った。
そして少しだけ考えてから続ける。
「でも――」
教室。
昼休み。
友達。
放課後。
退屈な授業。
帰り道。
二年前までは、自分とは無縁だったもの。
「行けるのは、好きかな」
口にしたあと、自分でも少し不思議だった。
ミチルは画面へ視線を落とした。
ゆっくり文字を打つ。
『わたしも』
一度消す。
また打つ。
『いつか行ってみたい』
シアンは、その文章をしばらく見た。
可哀想。
そんな言葉は浮かべなかった。
少なくとも、この子の前では。
自分がそういう目で見られることを、ずっと嫌ってきたからだ。
代わりに、
「じゃあ、行けるようになったら案内するよ」
そう言った。
ミチルが目を丸くした。
「学校くらいなら案内できるし」
少し笑う。
「面白いかどうかは保証しないけど」
『それでもいい』
「じゃあ決まり」
いつになるのかも分からない。
本当に実現するかも分からない。
けれどミチルは、嬉しそうに頷いた。
その直後。
シアンの耳の奥で、何かが鳴った。
ほんの一音。
歌にしては短く。
耳鳴りにしては鮮明だった。
「……え?」
視界が一瞬だけ揺れる。
同時に。
ミチルの傍らに置かれていた携帯モニターの数値が変化した。
心拍。
呼吸。
いくつかの数値が、短い時間だけ滑らかに整っていく。
ノワが気づいた。
「……?」
ミチル自身も胸へ手を当てる。
タブレットを取る。
『なんか』
少し間を置いて、
『楽』
「楽?」
ミチルが頷いた。
その瞬間。
『……シアン』
頭の内側から声がした。
モルフォ。
「どうしたの?」
『今の、何?』
「モルフォも分かんないの?」
『分かったら聞いてないわよ』
珍しく、モルフォの声にも戸惑いが混じっていた。
シアンはもう一度ミチルを見る。
ミチルも、こちらを見ていた。
初めて会ったばかり。
名前を知ってから、まだ数分しか経っていない。
なのに一瞬だけ。
ずっと前から何かが繋がっていたような、奇妙な感覚が残った。
「ミチルさま」
ノワが時計を見る。
「そろそろお戻りになりましょう」
ミチルは少しだけ残念そうな顔をした。
それでも、今度は素直に頷く。
最後にタブレットへ、
『またね』
と打った。
「うん。またね」
シアンも手を振った。
車椅子がゆっくり建物へ向かっていく。
姿が見えなくなるまで、何となくそこに立っていた。
「不思議な方でしたね」
オウカが言う。
「うん」
シアンは胸元へ手を当てる。
もう、あの感覚はない。
モルフォも黙っていた。
「でも、いい子だった」
「そうですね」
二人は再び歩き始めた。
鉄柵を挟んで。
外を自由に歩く少女と。
その向こうから外を見ていた少女。
ほんの少し前まで、その二人の間にあるものは、ただの柵にしか見えなかった。
けれど。
あの瞬間に何が起きたのか。
なぜミチルの身体が一時的に安定したのか。
なぜ《電子の謡精》であるモルフォまで、その異変を感じ取ったのか。
この時のシアンには、まだ何一つ分からなかった。
そして――。
柵の向こうで起きた、そのほんの数十秒の変化が。
すでに記録として残されていたことも。
◇
ミチルが療養所の中へ戻ったのは、それから十分ほど後だった。
外に出ていた時間そのものは、決して長くない。
庭を歩き回ったわけでもなければ、何か激しい運動をしたわけでもない。
車椅子に座って。
風に当たって。
陽の光を浴びて。
たまたま柵の向こうを通りかかった二人の少女と、少し話した。
それだけだった。
それだけのはずなのに。
「……安定していますね」
ノワは携帯端末に表示された数値を、もう一度見直した。
心拍。
呼吸。
血中酸素濃度。
自律神経系の変動。
どれも、普段の外気浴では少しずつ乱れ始める頃だった。
ミチルは幼い頃から身体が弱い。
少し無理をしただけで熱を出す。
長く外気に触れていれば、それだけでも翌日に響くことがある。
季節の変わり目などは特にそうだった。
だから、体調がいい日でも長時間は外へ出さない。
本人がまだ平気だと言っても、身体の方が先に限界を迎えることを、ノワは何度も見てきた。
今日もそのつもりだった。
十五分。
長くても、それくらい。
けれど。
室内へ戻って数分経った今も、ミチルの数値は崩れていない。
むしろ――。
「いつもより、良いくらいです」
車椅子に座ったミチルが、きょとんとした顔でこちらを見る。
それから、自分の胸元へ手を当てた。
確かめるように一度だけ深く息を吸う。
苦しくない。
息切れもない。
身体の重さも、いつもより少ない。
ミチルは膝の上のタブレットへ指を滑らせた。
『今日、すごく楽』
「そのようですね」
『もう一回、外に出てもいい?』
ノワは思わず微笑んだ。
「今日はもうおしまいです」
ミチルの顔が露骨に曇る。
『まだ元気』
「元気だからこそです」
『五分だけ』
「駄目です」
『三分』
「交渉になっておりませんよ」
ミチルは少し考えた。
『一分』
「短くしても駄目です」
完全に逃げ道を塞がれた。
ミチルが不満そうに頬を膨らませる。
その姿だけを見れば、療養生活を続けている少女には見えなかった。
「そんなお顔をなさらないでください」
ノワは端末を操作しながら言う。
「今日は十分、外の空気を楽しめたでしょう?」
ミチルは少し考えた。
そして。
『友達できた』
ノワの指が止まった。
「……先ほどの方ですか?」
すぐに頷く。
『シアン』
もう一度入力する。
『オウカ』
少し間を置いて。
『学校、案内してくれるって』
「まあ」
『行けるようになったら』
その一文だけ、少しゆっくりと打った。
ノワは画面を見た。
それからミチルを見る。
不用意に「きっと行けます」とは言わなかった。
それがいつになるのか。
本当に叶うのか。
自分には分からないからだ。
だから代わりに、
「では、その日まで楽しみにしておきましょう」
と言った。
ミチルが笑う。
その笑顔を見ながら、ノワはもう一度端末へ視線を落とした。
今日の外気浴開始時刻。
数値の推移。
そして。
明らかに一度だけ存在する、異常なほど滑らかな安定域。
時間にして、ほんの数十秒。
ちょうど。
柵越しに、あの少女――シアンと話していた時間だった。
◇
「なるほど」
報告を受けた神園博士は、そう言って端末を受け取った。
声に驚きはなかった。
大きな反応もない。
画面へ視線を落とし、表示されたグラフを一つずつ確認していく。
場所は療養所内の応接室だった。
医療施設らしい白一色の部屋ではない。
落ち着いた色の机と椅子。
壁には小さな絵。
窓からは、先ほどミチルがいた庭が見える。
そこだけなら、普通の家の一室にも見えた。
神園博士もまた、白衣ではなく簡素な服を着ていた。
研究者というより。
今は、娘の様子を聞きに来た父親に見える。
「外気浴を始めて十二分ほどで、通常であれば心拍数に上昇傾向が見られます」
ノワが説明する。
「ですが本日は、逆に安定しました」
「時間帯は?」
「こちらです」
ノワが画面を指す。
神園博士は指先で表示を拡大した。
折れ線が変化している。
乱れていた数値が、ある一点を境に滑らかになっていた。
「この時、何を?」
「特別な処置はしておりません」
「薬も?」
「はい」
「環境設備の変更は?」
「ございません」
博士は短く頷いた。
「では、違ったのは人間だけか」
「はい」
ノワは少しだけ言葉を選んだ。
「ちょうどその頃、ミチルさまが外を通りかかった少女たちと会話をなさっていました」
「少女?」
「お二人です。一人はオウカさま。もう一人は――」
ほんの一拍。
「シアンさまと名乗っておられました」
博士の指が止まった。
本当に、ごく短く。
画面を操作していた指先が止まっただけだった。
「……シアン」
「ご存じなのですか?」
神園博士は画面から顔を上げた。
「名前を聞いたことがある程度だよ」
それ以上は続けない。
ノワも深くは聞かなかった。
「ミチルさまは、随分楽しそうにされていました」
「そうか」
「友達ができた、と」
今度は、博士の表情が少しだけ柔らかくなった。
「それは良かった」
その言葉だけなら、何の違和感もない。
娘に同年代の友人ができたことを喜ぶ父親。
実際、ミチルが長い療養生活の中で、家族や使用人以外の誰かと関係を持つ機会が少なかったことくらい、博士もよく知っていた。
「また会いたいと仰っています」
「なら、止める必要はないだろう」
「よろしいのですか?」
「もちろんだ」
博士は端末を机へ置いた。
「身体のために生活へ制限を設けることと、人付き合いまでこちらで決めることは別だ」
「……はい」
「またその子たちが通りかかった時、ミチルが会いたいと言うなら会わせてやってくれ」
「承知いたしました」
ノワは頭を下げる。
それから、ふと思い出したように付け加えた。
「ミチルさまが、その……学校を案内していただく約束をされたそうです」
「学校?」
「シアンさまと」
博士は少しだけ目を細めた。
「そうか」
「大変、楽しみにしておられます」
「なら、その楽しみは取っておこう」
「……博士」
「何だね?」
「いえ」
ノワは小さく首を振った。
「ミチルさまがお聞きになれば、喜ばれると思います」
「そうだろうか」
「はい」
「では、私からは言わないでおこう」
博士はわずかに笑った。
「本人が勝手に期待している方が、長持ちすることもある」
その言葉も、どこか父親らしかった。
ノワが退出しようとする。
「ノワ」
呼び止められた。
「はい」
「今日の記録は残しておいてくれ」
「先ほどの数値変化も、でしょうか」
「もちろんだ」
神園博士は当たり前のことを確認するように答えた。
「一度の変化だけで原因を決めつける必要はない。偶然である可能性も十分にある」
「はい」
「だが――」
博士は再び画面を見る。
「偶然かどうかを判断するためにも、記録は必要だ」
「承知いたしました」
「心拍や呼吸だけではなく、その前後の状況も頼む」
「状況、ですか?」
「誰と会ったか。何を話したか。本人がどう感じたか」
そこで一度言葉を切る。
「身体と気持ちは、完全に別々に動くものでもないからな」
医師として聞けば、不自然ではなかった。
病状の変化を追うなら、身体的な数値だけでなく精神状態まで記録する。
ただそれだけの話だ。
「分かりました」
「頼む」
ノワが部屋を出ていく。
扉が閉まった。
静かになる。
神園博士は、しばらくそのまま座っていた。
窓の外を見る。
庭には、もう誰もいない。
先ほどまでミチルの車椅子が置かれていた場所に、風で揺れる草木があるだけだった。
やがて、視線を端末へ戻す。
もう一度。
数値の変化が起きた時間帯を表示する。
その横には簡単な記録。
外気浴。
少女二名と接触。
オウカ。
そして。
シアン。
博士は、その名前を指先で一度だけなぞった。
驚いた様子はない。
笑いもしない。
何かに納得したようにも見えない。
ただ、ほんの少し長く、その文字を見ていた。
それから。
「……なるほど」
小さく呟いた。
それだけだった。
画面を閉じる。
立ち上がり、部屋を出る。
廊下の先では、ミチルがノワに何かを訴えていた。
タブレットを両手で持ち、画面を見せている。
『明日も外』
「明日の体調を見てからです」
『元気』
「今日は、です」
『明日も元気』
「それは明日にならなければ分かりません」
博士は少し離れたところから、そのやり取りを眺めた。
「お父さん」
声の代わりに、ミチルがタブレットへそう表示する。
博士が近づく。
「今日は楽しかったそうだな」
ミチルが大きく頷いた。
『友達できた』
「聞いたよ」
『シアン』
「ああ」
『オウカ』
「そうか」
そしてミチルは、嬉しそうにもう一文を打つ。
『学校、案内してもらう』
博士はその文字を見た。
少しだけ笑う。
「それは楽しみだな」
ミチルも笑った。
その日の神園博士は、どこから見ても。
娘が久しぶりに楽しそうにしていることを喜ぶ、普通の父親だった。
◇
放課後の予定は、結局ほとんど予定通りに消化された。
アメコミ研究会では、新入生に最初に何を見せるかという議題が予想通り紛糾した。
GVとしては、入口になる作品はかなり重要だと思っている。
知識が何もない相手に、いきなり何十年分もの歴史や設定を背負わせても仕方がない。一本で完結していて、そのヒーローが何を大切にしているのかが伝わり、それでいて次を見たくなるもの。
そういう作品がいい。
問題は、部員全員が同じことを考えたうえで、それぞれ違う作品を推していることだった。
結局、一時間近く議論して結論は出なかった。
朝のシアンの予言は当たった。
ただし机は叩かなかったので、GVとしては昨日より成長している。
その後に寄ったミニ四駆部では、昨夜三時まで弄っていたマシンを走らせた。
ローラー位置の変更は悪くなかった。
狙っていた通り、コーナー進入時の姿勢は以前より安定した。ただ、そこから立ち上がる時にほんの少し加速が鈍る。
今度は重心か。
ブレーキか。
あるいはモーターとの組み合わせを変えるべきか。
タイムを確認しながら、GVが次に試す組み合わせを考え始めたところで。
制服のポケットが震えた。
スマートフォンではない。
もう一台。
普段の生活ではほとんど使わない、小型の通信端末だった。
画面を見る。
表示されている名前はモニカ。
嫌な予感――というほどではない。
ただ、この端末に連絡が来る時点で、少なくともミニ四駆の相談ではない。
『GV、今いい?』
「今?」
マシンを見る。
時計を見る。
もう一度マシンを見る。
『その間は何?』
「いや、ちょっとだけ」
『何してたの?』
「部活」
『……ミニ四駆?』
「うん」
通信の向こうで、小さく息を吐く音がした。
『じゃあ終わったら顔を出してくれる?』
「フェザー?」
『そう。あなたに会いたいって子が来てるの』
「僕に?」
『正確には、あなたに伝えたいことがあるって』
声の調子が、少しだけ変わった。
それだけで、ただの訪問客ではないことは分かった。
「急ぎ?」
『……できれば今日中に』
GVはもう一度時計を確認した。
帰る時間は遅くなる。
朝、シアンに何と言ったかを思い出す。
今日は真っ直ぐ帰る。
別に嘘をついたつもりはない。
その時は本当にそうするつもりだった。
「分かった。終わったら行くよ」
『ありがとう』
通信が切れる。
GVは端末をしまった。
そのまま自分のマシンを見る。
もう一回だけ走らせたい。
非常に走らせたい。
だが。
「……また怒られるな」
結局、その日のテスト走行はそこで終わった。
◇
フェザーが現在使っている国内拠点は、二年前のものとは少し違っていた。
表向きはごく普通の雑居ビル。
周囲に武装した兵士が立っているわけでもない。
能力者の自由を掲げる武装組織――という看板を、そのまま街中へ掲げているはずもなかった。
かつて皇神と全面的に敵対していた頃と比べれば、フェザーを取り巻く状況も変わっている。
皇神そのものも変わった。
紫電も生きている。
アシモフもいる。
二年前と同じ図式のまま、世界が止まっているわけではない。
だからGVも、今では毎日ここへ出入りしているわけではなかった。
フェザーの仕事をすることはある。
能力者絡みで、どうしても自分の力が必要な案件もある。
けれど。
学校へ行く。
部活へ行く。
シアンと帰る。
宿題をする。
ミニ四駆を弄る。
映画を見る。
それらを全部捨てて、戦うためだけに生きるつもりは、もうなかった。
エレベーターを降りる。
簡素な廊下を抜けると、懐かしい声が飛んできた。
「おっせーぞ、GV」
壁にもたれかかっていたジーノが片手を上げる。
「モニカには部活終わったらでいいって言われたけど」
「だからって本当に最後までやってくるヤツいる?」
「ここに」
「威張んな」
「別に威張ってないよ」
「で、何してた?」
「ミニ四駆」
「知ってた」
ジーノが頭を抱えた。
その向こうではモニカが端末を操作している。
「ジーノ、からかわないの」
「いや、コイツ二年前から大概だったけど高校入ってさらに自由になってね?」
「いいことでしょ」
「限度ってモンがあるだろ」
GVとしては納得できなかった。
少なくとも学校へは通っている。
提出物だって――今日はちゃんと出した。
たぶん。
「それで、僕に会いたい人って?」
「ああ」
ジーノの表情から軽さが抜けた。
「あっち」
会議スペースへ目を向ける。
一人の少年が座っていた。
GVと大きく年齢が離れているようには見えない。
小柄な体格。
整った顔立ち。
姿勢は真っ直ぐで、初めて来た場所だからと必要以上に周囲を警戒している様子もなかった。
その足元には、かなり使い込まれた鞄。
新しい旅行鞄ではない。
何度も持ち運ばれてきた跡がある。
少年もGVに気づいた。
立ち上がる。
「キミが、ガンヴォルト?」
「うん」
少し考えてから、
「GVでいいよ」
「……分かった」
少年は小さく頷いた。
「ボクはシャオウー。シャオでいい」
握手を求めるでもなく。
必要以上に堅苦しく頭を下げるでもなく。
ごく普通に名乗った。
ただ、その日本語にはほんの少しだけ異国の響きが残っていた。
「よろしく、シャオ」
「うん」
GVが向かいへ座る。
モニカとジーノも近くへ来た。
机の上には、いくつかの資料と電子端末。
表示されているのは、日本ではない地図だった。
「シャオは海外のフェザー支部にいたの」
モニカが簡単に説明する。
「……いた?」
過去形だった。
GVがシャオを見る。
シャオは視線を逸らさなかった。
「もう、ないんだ」
穏やかな声だった。
怒鳴りもしない。
悲劇的に語るわけでもない。
けれど、机の下で握られた拳だけが少し強くなった。
「正確には、組織そのものが消えたわけじゃない」
一度、息を吸う。
「乗っ取られたんだ。エデンに」
初めて聞く名前だった。
「エデン?」
「能力者だけで作られた組織だよ」
シャオは端末を操作した。
地図の上に、いくつもの印が表示される。
一国だけではない。
複数の地域。
複数の施設。
「始まりがどこだったのかは、ボクにも分からない。気づいた時には、いくつもの国で活動してた」
「目的は?」
「能力者の解放」
答えだけ聞けば、フェザーと似ていた。
能力者を拘束し、利用し、排除する社会へ抵抗する。
その言葉自体に、GVは聞き覚えがある。
「じゃあ、フェザーと同じ?」
尋ねると。
シャオの表情が、初めて明確に変わった。
「違う」
強い声だった。
すぐに本人も気づいたのか、一度目を伏せる。
「……ごめん」
「いいよ」
シャオは少し間を置いて続けた。
「エデンにとって、能力を持たない人間は『旧人類』だ」
画面が切り替わる。
破壊された施設。
閉鎖された道路。
武装した人影。
「能力者が支配する世界を作る。そのためなら、今ある社会がどうなっても構わないと思ってる」
「……」
「ボクたちのフェザーも最初は抵抗した。でも、内部に入り込まれてた」
そこから先だけ。
シャオの説明が少し短くなった。
誰が裏切ったのか。
どこから侵入されたのか。
何人が残ったのか。
詳しいことは語らない。
語れないのかもしれない。
「気づいた時には、フェザーの通信網も装備も、エデンのものになってた」
指先が、端末の縁を強く掴む。
「能力者を守るために作ったものを使って、別の能力者を従わせてる」
そこでようやく。
穏やかだった声に、わずかな熱が混じった。
「……あいつらは、それを解放って呼んでる」
GVは黙って聞いていた。
正しいとか。
間違っているとか。
まだ判断できない。
会ったこともない人間のことを、シャオの言葉だけですべて決める気もなかった。
けれど。
目の前の少年が海を越えてここまで来た理由は分かった。
「それで、日本に?」
「うん」
シャオは頷く。
「エデンはこっちにも来る」
「確かなの?」
「かなり」
地図が日本へ切り替わった。
「もういくつか不自然な通信を拾ってる。日本国内に協力者がいる可能性もある」
モニカも頷いた。
「こちらでも照合してるけど、シャオが持ってきた情報と一致する部分があるわ」
「皇神には?」
「情報は回してる」
答えたのはジーノだった。
「向こうも向こうで動くと思うぜ」
皇神。
フェザー。
そして、新たに現れたエデン。
二年前なら、その名前だけで敵味方を分けていたかもしれない。
今は、そう簡単でもない。
GVは椅子の背にもたれた。
「それで僕に何をしてほしいの?」
「協力してほしい」
シャオは迷わなかった。
「ボクは戦えない。でも、エデンの情報ならある程度持ってる。装備や通信の支援もできる」
「オペレーター?」
「そうなると思う」
GVは少し考えた。
学校。
部活。
シアン。
今の生活。
それを捨てるつもりはない。
「先に言っとくけど」
「うん」
「僕、もうフェザーの戦闘員としてずっと動いてるわけじゃないよ」
「聞いてる」
「学校もあるし」
「うん」
「部活もある」
「……そこも大事なの?」
「大事」
即答すると、シャオが初めて少しだけ困った顔をした。
後ろでジーノが吹き出す。
「おい、そこは説明必要だろ」
「必要?」
「初対面のヤツに『エデンの侵略よりミニ四駆優先する時あります』みてーに聞こえるぞ」
「そんなこと言ってないよ」
「ほぼ言ってる」
「違うって」
シャオは二人を交互に見た。
それから。
ほんの少しだけ笑った。
初めて年相応に見えた。
「……聞いてた印象と、結構違うね」
「どんなの聞いてたの?」
「もっとこう……」
言葉を探す。
「孤高の戦士みたいな」
「誰がそんなこと言ったの?」
「さあ」
「全然違うぞ」
ジーノが即答した。
「余計なこと言わないでよ」
少しだけ空気が軽くなった。
それでも。
シャオが海を越えて運んできた話そのものが軽くなったわけではない。
GVは机の地図へ視線を戻す。
「でも」
指先で、日本の表示を軽く叩く。
「こっちで誰かが困ってるなら、その時は行くよ」
シャオが顔を上げる。
「フェザーの仕事だからとか、能力者だからとかじゃなくて」
GVは肩をすくめた。
「そこにいるなら、だけど」
「……理由、それだけ?」
「他にいる?」
シャオはしばらく答えなかった。
理解できない、という顔でもない。
かといって、すぐ納得したわけでもなさそうだった。
「変な人だね、キミ」
「今日二回目くらいに言われた気がする」
「一回目誰だよ」
「たぶんシアン」
「たぶんって何だよ」
そんなやり取りの中。
モニカの端末から、短い電子音が鳴った。
最初はただの受信音に聞こえた。
だが。
モニカの表情が変わった。
「……待って」
指が画面を走る。
もう一度。
今度は別の端末が警告音を発した。
ジーノから笑みが消える。
「どうした?」
「皇神管制網から緊急信号」
画面に表示された識別情報を見て。
モニカが眉を寄せた。
「自律飛行艇――《飛天》」
GVも立ち上がる。
「何があったの?」
数秒。
モニカが受信した情報を読み込む。
「制御系に外部侵入」
シャオの顔から、さっきまでの僅かな笑みが完全に消えた。
さらに、新しい警告。
モニカが低く続ける。
「航路が変更されてる」
「どこへ?」
「……市街地」
その言葉とほぼ同時に。
シャオが画面へ身を乗り出した。
「この侵入方式……」
指先が、一つのコード列を指す。
その顔を見れば、答えを聞く必要はなかった。
「知ってる?」
GVが訊く。
シャオは頷いた。
今度は迷わなかった。
「エデンだ」
海を越えてやってきた警告は。
その日のうちに、現実になった。
◇
療養所の廊下で、壁面端末が一度だけ瞬いた。
ノワが足を止める。画面には普段通りの院内情報が表示されており、警告も出ていない。手元の端末で回線状態を確認しようとしたところで、そちらの表示が先に暗転した。
『接続中www』
見覚えのない文字が浮かぶ。
『認証突破ww』
『管理者権限ゲット~ww』
『施設セキュリティ乙www』
照明が落ちた。
数秒遅れて非常電源が立ち上がり、廊下が赤い光に変わる。生命維持に必要な機器は独立系統へ切り替わったが、自動扉と院内通信は応答を失っていた。
車椅子の上で、ミチルがノワを見る。
「ミチルさま、こちらへ」
ノワはすぐに車椅子の向きを変えた。
電子設備を奪われた場合に備え、療養所には手動で開閉できる避難経路が残されている。院内設備を一つずつ確認している時間はなかった。まずミチルを外へ出す。
非常扉へ続く角を曲がったところで、ノワは車椅子を止めた。
床に霜が降りている。
薄かった白は扉へ近づくほど厚くなり、手動レバーから蝶番までをまとめて氷の中へ閉じ込めていた。
「備えとしては悪くない」
反対側の廊下から声がした。
青年が一人、ゆっくり歩いてくる。その足元からも白い冷気が広がっていた。
「電子系統が落ちた時の逃走経路。用意していて当然だな」
テンジアンは凍りついた扉を見てから、ノワとミチルへ視線を戻した。
「だが今日は、先手必勝とさせてもらった」
ノワは車椅子の前へ出た。
「この子が目的ですか」
「今のところは」
それ以上は答えなかった。
逃げ道を塞いだ後で、無理に距離を詰めることもしない。外では別の作業が進んでいるらしく、建物の奥から時折、重い機械音が響いていた。
スピーカーから別の声が割り込む。
『いや~、手動とかマジ勘弁ww テセオさんそういうアナログ思想キライなんですケドww』
「なら最初から見落とすな」
『結果オーライじゃんww』
テンジアンは返事をしなかった。
◇
療養所から離れかけていたシアンは、建物の明かりが落ちるのを見て足を止めた。
隣を歩いていたオウカも振り返る。
「停電でしょうか」
「……分かんない」
非常灯だけが赤く残っている。
シアンが気にしたのは、電気そのものではなかった。
ミチルがいる。
身体が弱く、携帯型の医療機器をつけていた。詳しい病状までは聞いていない。それでも、何か起きた医療施設からそのまま帰れるほど、今日会った少女のことを他人のままにはしていなかった。
「ちょっと戻ってくる」
「シアンさん?」
「ミチル、いるから」
オウカも一歩戻ろうとした。
「私も――」
「待ってて」
シアンは建物を見たまま言った。
「何があるか分かんないし。何かあったらGV呼んで」
「それならシアンさんも行かない方が……」
「うん」
「うん、ではなくて」
「ごめん」
言いながら、もう歩き出していた。
オウカは追いかけようとして、止まる。
ここで二人とも中へ入れば、外から連絡する人間がいなくなる。
「……本当に似ていますね」
遠ざかる背中へ小さく言って、スマートフォンを取り出した。
◇
療養所の正面入口は途中で停止していた。
わずかに開いた隙間へ身体を滑り込ませると、普段は明るい受付が赤い非常灯だけで照らされている。
「ミチル?」
返事はなかった。
シアンが奥へ進もうとしたところで、受付横の端末が点灯した。
『お?』
「……何?」
『侵入者追加キターww』
画面の向こうで誰かが笑っている。
『一般人さんは危ないんで帰ってもろてww』
「一般人、ね」
『ん?』
シアンが端末を見る。
数秒の間に、画面上の表示が何度か切り替わった。
『……あれ?』
さっきまで軽かった声が、ほんの少しだけ止まる。
『シアン?』
「なんで名前――」
奥で何かが砕ける音がした。
シアンは画面から目を離した。
「ミチル!」
そのまま走った。
◇
ミチルを見つけた時、ノワは彼女の前に立っていた。
その向こうにはテンジアンがいる。
「ミチル!」
車椅子の上で、ミチルの表情が変わった。
シアンは迷わずそちらへ駆け寄る。
距離が縮まったところで、頭の奥に一つの音が鳴った。
「……っ」
一つではなかった。
重なる。
ずれていた音が途中から同じ場所へ寄せられるように、妙な感覚が身体の内側へ広がっていく。
『シアン!』
「モルフォ?」
『その子から離れて!』
声が乱れた。
背後で蒼い光が弾け、モルフォの姿が現れる。
いつもの具現化とは違う。自分から出てきたのではない。輪郭がほどけては戻り、何かに引かれるように何度も形を崩していた。
『なに、これ……!』
反対に、ミチルの携帯モニターは落ち着いていく。
呼吸も脈拍も、シアンが近づくにつれて安定していた。
ノワが表示を確認する。
テンジアンも、ミチルとモルフォを交互に見た。
『ちょww待ってww』
テセオの声がスピーカーから響いた。
『これミチル単体の反応じゃないッスわww』
「どういうことだ」
『二人近づけた時だけ波形跳ねてるww シアン込みじゃんコレww』
テンジアンの視線がシアンへ移る。
『パンテーラには?』
「もう送れ」
『もう送ってますぅww』
すぐに別の声が入った。
『二人とも連れてきて』
パンテーラだった。
「は?」
シアンが声の方を睨む。
『予定変更だね』
「勝手に決めないで!」
ミチルの前へ出ようとした瞬間、足元を霜が走った。
靴底が床へ固定される。
「っ!」
氷を蹴り割ろうとしたところで、建物の外壁が大きく崩れた。
粉塵の向こうから、巨大な機械腕が入ってくる。
「追加か」
ガレトクローネの上から、アスロックが室内を見た。
「注文が増えたなら、焼き過ぎる前に運ぶぞ。ここで仕上げる必要はない」
『言い回しがいちいちパティシエなんよww』
「黙れ」
ノワがミチルへ手を伸ばす。
シアンも氷から足を抜こうとした。
巨大な腕が動いた方が早かった。
◇
外で待っていたオウカは、療養所から一台の搬送車が出ていくのを見た。
見た目だけなら医療用だったが、後部扉の隙間から覗いた機械装甲は、この施設のものではない。
スマートフォンを見る。
圏外。
場所を変えると、一瞬だけ一本立った。
すぐに発信する。
『もしもし?』
「GV!」
『オウカ?』
「シアンさんが――!」
そこで切れた。
画面はまた圏外へ戻る。
オウカは搬送車が曲がった方向を確認してから、もう一度発信を試した。
◇
フェザーの拠点で、GVの端末が震えた。
『GV!』
『シアンさんが――!』
聞こえたのは、そこまでだった。
「……シアン?」
かけ直しても繋がらない。
GVは立ち上がった。
「どうしたの?」
モニカが聞く。
「オウカから。シアンが何かあったみたい」
横でシャオが端末を開いた。
「待って」
療養所周辺の通信を確認する。広範囲を落としているわけではない。必要な回線だけが不自然に切られている。
シャオの手が止まった。
「エデンだ」
「分かる?」
「このやり方、見たことある」
妨害の中に、移動を続けている中継点が一つあった。
住宅地を抜け、郊外へ向かっている。
地図上で進行方向を追うと、その先には使われていない皇神の旧研究施設があった。
「ここ」
シャオが言う。
「たぶん、ここへ行ってる」
「行こう」
GVはすぐに装備へ手を伸ばした。
モニカが止めたのは、出撃ではなかった。
「一人で全部やらないで」
「分かってる」
「本当に?」
「……分かってるって」
ジーノが横からため息をつく。
「お前のその『分かってる』、昔から信用できねえんだよ」
「今回は大丈夫」
「それも聞き飽きた」
GVは反論せず、シャオが出した施設図へ目を落とした。
西側の搬入口から保守通路へ入れる。
「ボクもオペレーターとしてサポートするよ」
シャオが言った。
「テセオが相手なら全部は無理。でも少しくらいなら穴を作れる」
「お願い」
GVは短く答えた。
◇
皇神側では、療養所の通信障害と旧研究施設の不正起動が同じ事件として処理され始めていた。
紫電は二つの記録を並べて見ていた。
「搬送車は?」
「地下道へ入った後、追跡が切れています」
「じゃあ車だけ追うのはやめようか」
紫電が旧研究施設周辺の情報へ切り替える。
隣でイオタが交通記録を確認していた。
「追跡班を回す。民間区域での交戦は禁止だ」
「逃走を許す可能性があります」
「構わん」
イオタは視線を上げない。
「位置を失う方がまずい」
紫電が能力反応の記録を開いた。
「これも残しておいて」
「識別情報ですか?」
「うん。通信特性も一緒に」
担当者が頷く。
「国内監視網へ共有します」
「お願い」
紫電は椅子へ少し深く座った。
「今日捕まらなくても、相手の逃げ道を少しずつ削いでいけば全体被害を抑えることができる。これで彼らも相当動きづらくなるさ。」
イオタはその間にも、旧施設周辺の部隊配置を変えていた。
現場へ急ぐだけではない。
逃走に使えそうな道路と地下経路から、順に監視が置かれていく。
◇
旧研究施設で、その変化を最初に拾ったのはテセオだった。
『……あ』
画面を見たまま声が止まる。
「どうしたんだい?」
パンテーラが聞く。
『いや、ちょっと待ってww』
皇神側から走っている照合要求を追う。
施設だけではない。
周辺交通、通信、能力反応まで、同じ識別対象として結び直されている。
『これ紫電直轄じゃないッスかww』
テセオの声が少しだけ低くなった。
『テセオさん皇神の監視リスト入りとかマジ勘弁ww サイアクww』
「魚目燕石とはいかなかったか」
テンジアンは表示を一度見ただけだった。
「向こうにも見る目はあるらしい」
『感心してる場合じゃないんですケドww』
アスロックは時間を確認する。
「客が増えた。仕上がったら運ぶぞ」
「そうだね」
パンテーラは実験区画を見る。
皇神に加えて、イージス側の反応も近づいている。
その上、別の経路から単独で施設へ向かってくる能力反応もあった。
『例の蒼き雷霆も来てるっぽいww』
「人気者だね」
『嬉しくない人気なんですケドww』
パンテーラは笑った。
「なら、愛を欲張るのはここまでにしようか」
目的を済ませれば帰る。
誰かを倒すために来たわけではなかった。
◇
旧研究施設の地下で、シアンはミチルの前に立っていた。
モルフォはまだ不安定なまま具現化している。
『……気持ち悪い』
「大丈夫?」
『アンタに言われたくない。顔色悪いわよ』
「モルフォも」
『アタシは元からこういう色なの!』
返事だけはいつも通りだった。
ミチルがシアンの袖を掴む。
声は出ない。
シアンはその手へ自分の手を重ねた。
「大丈夫」
根拠はなかった。
それでも、今ここでミチルに言うならそれでよかった。
足音が近づく。
シアンが振り返ると、見覚えのある男が実験区画へ入ってきた。
「……パンテーラ」
「覚えていてくれたんだね」
「嬉しくない」
「つれないなぁ」
パンテーラはシアンより先に、モルフォを見た。
「なるほど。あの子の近くにいると、キミとの繋がりが外へ引き出される」
「だから何」
「少し確かめるだけだよ」
「もう十分見たでしょ」
「愛は、見つけただけでは分からないものだからね」
「知らない」
パンテーラが片手を上げる。
周囲に鏡が現れた。
『シアン』
「うん」
モルフォが距離を取ろうとする。
鏡に映った像だけが、一瞬遅れて動いた。
『――っ!?』
映像の腕がこちら側へ伸び、モルフォを掴む。
『離しなさいよ!』
「モルフォ!」
シアンも手を伸ばした。
指先が触れる。
いつもなら、それだけで戻せる。
今日は違った。
握ったはずの輪郭が光へほどけ、鏡の方へ引き込まれていく。
『シアン!』
「戻って!」
モルフォの姿が鏡の中へ消えた。
シアンが追おうとしたところで、横から冷気が流れ込む。
テンジアンが前へ出た。
「一意専心」
鏡の表面が白く凍る。
「やめて!」
シアンが走る。
テンジアンが手を動かすと、鏡へ一本の亀裂が走った。
そこから細い線が広がり、次の瞬間には全体が砕ける。
破片は床へ落ちなかった。
九枚。
小さな鏡片が宙に浮かび、その奥で蒼い光が揺れている。
「……モルフォ?」
返事はない。
パンテーラは九枚を見た。
「《ミラーピース》」
シアンが睨む。
「名前なんてどうでもいい! 返して!」
「それは困るな」
パンテーラは穏やかに笑った。
「せっかく見つけた愛の欠片だ。少し預からせてもらうよ」
その時、実験区画の扉を蒼い雷が走った。
制御部だけを焼き、途中で止まった扉の隙間からGVが滑り込んでくる。
「シアン!」
「GV!」
GVが最初に見たのはシアンだった。
立っている。
大きな怪我はない。
その次にミチルを確認し、最後にパンテーラと宙に浮く九枚へ視線を移した。
「……アンタか」
「久しぶりだね、ガンヴォルト」
「モルフォは?」
シアンがミラーピースを見る。
GVも同じ方を見た。
「それ?」
「……うん」
GVはダートを構えた。
「返して」
「難しい相談だね」
「じゃあ取り返す」
その直後、反対側の隔壁が破裂した。
白い光が一度走り、アキュラが入ってくる。
「ミチル!」
最初から視線は妹だけへ向いていた。
ミチルが無事にいることを確認した後で、ようやく周囲を見る。
パンテーラを認めた瞬間、武装が開いた。
「貴様」
「こちらも久しぶりだね」
「ミチルに何をした」
「何もしていないよ」
「戯言を」
アキュラはそれ以上聞かなかった。
九枚のミラーピースが動き始める。
『パンテーラ』
テセオの通信が入った。
『皇神、もう近いッス。イージスも来てるww これ以上いたらテセオさん帰宅難民なんですケドww』
テンジアンは九枚を見た。
「目的は果たした。遠走高飛といこう」
『焼き上がったなら運べ。冷めてからでは遅い』
アスロックも撤収へ切り替えている。
パンテーラは頷いた。
「そうしようか」
九枚が散る。
アキュラがすぐに一枚へ射撃した。
軌道が逸れた鏡片を空中で掴む。
「……これは」
『アキュラくん、それ反応してる!』
ロロが声を上げる。
『歌姫と同じ波形。それだけじゃない。ミチルちゃんにも反応してるよ』
アキュラが鏡片を見る。
「返して!」
シアンが言った。
「それ、モルフォの一部でしょ!」
アキュラは一度だけミチルを見た。
「後だ」
「え?」
「今はミチルを連れて帰る」
鏡片を手元へ残す。
その間にも、残る八枚は別々の経路へ散り始めていた。
「待って!」
GVが追う。
進路へ氷壁が立ち上がった。
雷撃で砕く。
その向こうで、パンテーラの輪郭が揺れた。
「……?」
GVが足を止める。
体格が変わる。
髪も。
声も。
そこに立っていた男の姿が崩れ、代わりに現れたのは見覚えのない幼い少女だった。
シアンも言葉を失う。
アキュラが先に口を開いた。
「……貴様、パンテーラか」
少女は静かにアキュラを見る。
「ええ。その名でお呼びいただいて構いません」
「何なんだ、それ」
GVが聞く。
「その説明は、またの機会に」
『マジでもう行くッスよww』
「分かっています」
返し方まで、さっきまでとは違っていた。
八枚の光が通路の向こうへ消える。
テンジアンも別方向へ退いた。
GVは追おうとした。
『GV!』
ジーノの声が飛ぶ。
「今ならまだ追える!」
『何をだよ! 八方向に散ったんだぞ!』
「一枚でも――」
『シアンちゃん置いてくのか!?今大事なのはあの子のことじゃねぇのかよGV!」
GVの足が止まった。
振り返る。
シアンがいる。
ミチルもいる。
『向こうはもう逃げる段階だ。場所も分からねえまま一人で追うな』
モニカも通信へ入る。
『帰還して、GV』
通路の奥には、もう光が見えない。
GVは数秒そちらを見た。
「……分かった」
ダートを下ろした。
◇
皇神の追跡部隊が旧研究施設へ入った時には、エデンはすでに複数の経路へ分散していた。
地下貨物線、地上道路、通信上だけ残された偽の反応。そのすべてを同時に追うには遅い。
イオタは現場から上がる報告を聞き、追跡対象の位置を確認した。
「無理に止めるな。追尾を続けろ」
「捕縛は?」
「優先するな」
位置を失わないこと。
能力反応を記録すること。
次に現れた時、同じ相手だと分かること。
指示はその三つに絞られた。
別回線では、紫電が監視情報の共有状況を確認していた。
「国内の主要網には乗った?」
「はい」
「ならいいよ」
いくつかの反応はすでに途切れている。
紫電は無理に追わせなかった。
◇
『うっわww』
移動先を変えた後、テセオが露骨に嫌そうな声を出した。
『もう登録されてるww』
「何がだ」
『テセオさんたちww 次から皇神圏で雑にログ残せないじゃんww』
テンジアンは端末を一度確認した。
「想定内だ」
『言うだけならタダなんスよww』
アスロックは回収ケースの中を見た。
「八つある」
『一個取られたけどww』
「全員戻った」
それ以上は言わなかった。
少女の姿になったパンテーラは、ケースの中で淡く光る八枚を見ていた。
「…やはり、一筋縄ではいきませんね。」
テセオの愚痴だけが、その後もしばらく続いた。
◇
旧研究施設では、アキュラがミチルの前へ膝をついていた。
「ミチル」
声の代わりに、ミチルは兄の腕を掴んだ。
床に落ちていたタブレットを渡すと、少し震えた指で文字を打つ。
『大丈夫』
「本当に何もされていないか」
『うん』
少し間を置いて、次の文字が出た。
『シアンが守ってくれた』
アキュラがシアンを見る。
シアンも見返した。
「……そうか」
それだけ言って、アキュラはミチルを抱き上げた。
もう片方の手には、確保したミラーピースがある。
『それ、やっぱり変だよ』
ロロが言った。
「何がだ」
『ずっとミチルちゃんの方に反応してる』
鏡片の中で、蒼い光がわずかに強くなる。
アキュラは数秒見た後、それをケースへ収めた。
「調べる」
『うん』
「残りも取り返す」
◇
その夜。
フェザーの医務室で、シアンは何度目か分からない呼びかけを続けていた。
「モルフォ」
返事はない。
普段なら、呼ばなくても勝手に話しかけてくる。
それがないだけで部屋が広く感じた。
GVは隣の椅子に座っている。
「GV」
「ん?」
「追いかけたかった?」
少し間があった。
「……うん」
「やっぱり」
「顔に出てた?」
「二年見てるから」
朝と同じ返しだった。
GVは少しだけ笑った。
「追えば、一枚くらい届いた気がするんだよね」
「うん」
「でも、たぶんジーノたちが正しかった」
「それでも行きたかった?」
「……うん」
「知ってる」
シアンはそれ以上言わなかった。
その時、胸元に淡い光が灯った。
「……え?」
光は一度消えかけ、また集まる。
人の形。
翼。
見慣れた輪郭。
ただし、かなり小さい。
『……何、その顔』
「モルフォ!」
シアンが身を乗り出した。
『近い近い!』
「だって!」
『アタシだって今どうなってるか分かんないんだから!』
GVも覗き込む。
「……ちっちゃ」
『今なんつった!?』
「何も」
『言ったでしょ!』
「GV、言ったよ」
「シアン!?」
『ほら!』
返事の速さも、怒り方もいつものままだった。
シアンはしばらく小さなモルフォを見ていた。
「……よかった」
その時だけ、モルフォも黙った。
戻ったのは人格と記憶が中心だった。
長く姿を保つだけでも輪郭が揺れ、歌へ力を乗せても以前のようには広がらない。
『八枚』
モルフォが言った。
「うん」
『あとアキュラが持ってった一枚』
「うん」
『じゃあ九枚』
小さな身体で腕を組む。
『取り返せばいいのよ』
シアンは頷いた。
「そうだね」
『勝手にバラして勝手に持ってくとかムカつくし』
「そこ?」
『そこも!』
◇
アキュラが持ち帰った一枚は、その日のうちに解析へ回された。
神園博士は先にミチルの検査結果を確認した。
大きな外傷はない。
そして療養所でシアンと接触していた時間帯だけ、普段より数値が安定している。
解析台の上では、ミラーピースが淡く光っていた。
「ミチルへ反応しているな」
「ああ」
アキュラが答える。
「残りは八枚。エデンが持っている」
「奪い返すつもりか」
「当然だ」
「なら先に調べろ」
アキュラが博士を見る。
「何をだ」
「相手を」
神園博士はエデン側の記録を表示した。
「今日現れた者だけではない。どういう組織で、どう動くのか。それを知らずに追えば、次も向こうの用意した場所で戦うことになる」
アキュラは少し黙った。
「……分かった」
神園博士は頷き、ノワへ今日の検査記録を残すよう指示した。
最後にもう一度、ミラーピースを見る。
「……なるほど」
◇
翌朝。
GVは昨日と同じ制服を着た。
「宿題」
玄関でシアンに言われて足が止まる。
「持った」
「英語」
「入れた」
「数学」
「……」
「GV」
「今取ってくる」
部屋へ戻る。
シアンは玄関で待った。
肩の近くには、小さくなったモルフォが浮いている。
『遅刻するんじゃない?』
「するかも」
『昨日あんなことあったのに、今日は遅刻で怒られるの?』
「そういうものでしょ」
少ししてGVが戻ってきた。
「今度こそ大丈夫」
「ほんと?」
「たぶん」
「それ昨日も聞いた」
三人で外へ出る。
通学路の途中。
療養所の前で、シアンが一度だけ足を止めた。
壊れた外壁には応急処置がされている。
庭を囲う鉄柵は、そのまま残っていた。
「……約束したんだ」
GVが隣を見る。
「ミチルと?」
「学校、案内するって」
「そっか」
シアンは柵の向こうを見た。
「じゃあ、しないとね」
「うん」
それだけ話して、また歩き出す。
学校まではまだ少しある。
今度は少し早足だった。
「イージス。第七波動災害へ対処するための危機管理組織――らしい」
「……“らしい”というのは、オレも詳しく聞かされていなかったからだ」
「気づけば所属していた。説明もない」
「しかも、そこにいる連中がまた妙だ」
「能力者を救うことしか考えていない男」
「撃てば済むと思っている女」
「何でも安全管理で処理する女」
「泣きながら仕事をしている研究者」
「……これをオレに率いろと言う」
「正気か、父上」
「だが、現場へ出れば話は別だ」
「互いの欠陥を、別の誰かが埋める」
「思想は一致していない。それでも、守る時だけは迷わない」
「そしてそのイージスへ――蒼き雷霆が勝手に侵入する」
「……貴様も貴様だ」
「次回、『蒼き雷霆 ガンヴォルト 爪』」
「第二話――『イージス』」
「オレの知らないところで、話を進めるな」
「……次回も、グッドラック」