『隣人GV ―もしもスパイディの影響を受けたGVなら―』   作:幸田市

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第四話「なんでも解決します!!アメコミ研究会(ウチにはヒーローがいます)」

 

 

 朝の校門をくぐった瞬間、GVは足を止めた。

 

 止まったというより、視界へ一度に流れ込んできた情報量に足を掴まれた、と言った方が近い。

 

 昇降口前には、いつもの朝が流れている。眠そうな顔で靴を履き替える生徒、友人を待ちながらスマートフォンを眺める者、朝練帰りらしい運動部員。昨日と変わらない、ごく普通の学校の風景だった。

 

 その中央にだけ、昨日まで存在しなかった異物が堂々と根を張っていた。

 

 折り畳み机。

 

 模造紙を三枚繋げた巨大な看板。

 

 赤、青、黄の原色を遠慮なく使い、爆発型の吹き出し、集中線、拳を天へ突き上げた人物のシルエットまで描き込まれている。文化祭の案内というより、古いアメリカンコミックの表紙が学校という現実へ強引に貼り付いたような有様だった。

 

 中央には太い文字で、

 

『なんでも解決します!! アメコミ研究会』

 

 その下には、それ以上に大きく、

 

『――ウチにはヒーローがいます。』

 

 そして、その看板の前に男子高校生が四人。

 

 華はなかった。

 

 本当に、なかった。

 

 華という概念の方から彼らを見て進路を変えたのではないかと思えるほど、見事に男だけで構成されたオタク四人組だった。

 

「……帰ろ」

 

 GVは踵を返した。

 

 判断は早かった。逃げるという結論だけなら、この朝一番の冴えを見せていた。

 

 しかし、それより一瞬早く黒い影が机の向こうから飛び出した。

 

「待てGV!!」

 

 黒江トオル。

 

 アメコミ研究会部長。

 

 制服の上から季節感を完全に無視した黒いロングコートを羽織り、細い黒縁眼鏡を掛けた男だった。黒江は勢いのまま折り畳み机を飛び越えようとしたものの、コートの裾が机の角へ引っ掛かり、身体が盛大に前へ傾く。

 

「うおっ!?」

 

 二歩、三歩とたたらを踏み、両腕を回してどうにか顔面から床へ突っ込む未来だけは回避した。

 

 格好いい登場は三秒も保たなかった。

 

 GVが無言で見ると、黒江は何もなかったように眼鏡を押し上げた。

 

 この男が眼鏡へ触れた時は、だいたい話が長くなる。

 

「まず前提として――」

 

「帰るね」

 

「まだ前提しか言ってない!」

 

 黒江のロングコートは、本人曰く「都市型ヴィジランテを想起させるシルエットの研究結果」であり、決してバットマンを意識したものではないらしい。

 

 鞄には黒いコウモリ型のキーホルダーが三つ付いていた。

 

 本人以外は全員、バットマンだと思っている。

 

「僕これ知らない」

 

「何を言う。本日より我々アメコミ研究会は、学内におけるあらゆる困難へ――」

 

「知らない」

 

「二回言った!」

 

 黒江が声を上げたところで、今度は青白い光がGVの視界へ刺さった。

 

 犬飼ケンジの胸だった。

 

 四人の中ではやや丸みのある体格。制服の上にはポケットだらけの作業ベスト、額には工作用ゴーグル、腰には小型の工具ポーチ。そして胸の中央には、直径十センチほどの円形発光ユニットが青白く輝いている。

 

 犬飼ケンジ。

 

 アイアンマンの人。

 

 そう覚えておけば、だいたい間違わない。

 

 犬飼は胸元のつまみを調整しながら、のんびりGVへ笑った。

 

「おはよ」

 

「……犬飼、それ昨日なかったよね」

 

「うん。昨日の夜作った」

 

「何のために?」

 

「今日のため」

 

 犬飼は誇らしげに胸を張る。

 

「何ができるの」

 

「光るよ」

 

「うん」

 

 GVは少し待った。

 

 犬飼も待った。

 

「……それだけ?」

 

 犬飼の眉が僅かに下がった。

 

「大事だよ?」

 

 割と本気で傷ついていた。

 

「ごめん」

 

 謝るほどのことか、とGV自身も思ったが、犬飼の表情が真剣すぎた。

 

 犬飼はアイアンマンの派手な火力より、失敗したアーマーの欠点を次の型で直し、それでもまた新しい問題が出ればさらに作り替えていく、その試行錯誤そのものが好きだった。

 

 その結果、本人にも「とりあえず作ってみる」という癖だけはしっかり根付いている。

 

 完成度はともかく。

 

 その隣では、真田リクが左手首へ巻きつけた銀色の筒と格闘していた。

 

 制服の下には赤いパーカー。片手だけフィンガーレスグローブ。腰には明らかに玩具と分かるユーティリティベルト。

 

 真田リク。

 

 スパイダーマンの人。

 

 そして四人の中では、最も口が速い。

 

 普段から脳内へSNSのタイムラインでも流れているような男だったが、スパイダーマンの話題だけはさらに一段階加速する。

 

 GVが銀色の筒を指差した。

 

「それ何」

 

 真田の顔が即座に上がる。

 

「試作ウェブシューター二号」

 

「出るの?」

 

「出る」

 

 返答が速い。

 

 真田が左手を構え、中指と薬指を掌へ折り込んだ。

 

 小さな駆動音。

 

 ぷしゅっ。

 

 白い糸が飛び出した。

 

 飛距離、およそ三十センチ。

 

 そこから先へ行く力はなかったらしく、そのまま頼りなく垂れ下がった。

 

 GVは糸を見た。

 

 真田を見る。

 

 もう一度、糸を見る。

 

「短っ」

 

「試作だから!!」

 

 返答まで〇・一秒もない。

 

「何に使うの、それ」

 

「将来的な拡張性を見ろよ! 一号は二十センチだったんだぞ!」

 

「十センチ伸びたんだ」

 

「五割増しだからな!?」

 

「数字ってすごいね」

 

「その言い方やめろ!」

 

 真田が騒ぐ。

 

 その騒音から少し離れたところで、三枝ユウタだけは静かだった。

 

 原色を大胆に使ったジャケットに、左右で色の違う靴下。鞄には数こそ多くないが、妙に選び抜かれたアクリルキーホルダー。そして右手の中指には、安価な緑色のリング。

 

 三枝ユウタ。

 

 グリーンランタンの人。

 

 三枝は普段、会話の最後尾にいる。

 

 黒江が話を始め、真田が横から追い越し、犬飼が一拍遅れて乗ってきた後で、ようやく「……まあ、いいんじゃない」と小さく落とす。

 

 それくらいの速度だった。

 

 ただし。

 

「その指輪、グリーンランタン?」

 

「……うん」

 

 GVが尋ねると、三枝は少しだけ嬉しそうに右手を見た。

 

「想像した物、何でも出せるやつだっけ」

 

「違う」

 

 速かった。

 

 黒江が眼鏡を押し上げるより、真田が息を吸うより、犬飼が瞬きをするより早い。

 

 三枝自身も、自分が食い気味に否定したことへ一瞬遅れて気づいたらしい。

 

 だが、もう遅い。

 

「いや、“何でも作れる”が本質じゃなくて。意志なんだよ。怖くないから戦えるんじゃなくて、怖さを知った上で、それでも自分の意志を通すからリングが応えるっていうか――」

 

 そこからの三枝は、普段の彼からは考えられない速度で言葉を重ねた。

 

 数秒。

 

 四人の視線が集まっていることに気づき、勢いが急速に萎む。

 

「……まあ、そういうやつ」

 

「めっちゃ好きじゃん」

 

「……うるさい」

 

 真田がにやにやする。

 

 三枝はリングを触りながら顔を背けた。

 

 これで四人。

 

 黒江は黒コートと眼鏡、そして「まず前提として」のバットマン男。

 

 犬飼は胸が光り、工具を持ち、少し会話が遅いアイアンマン男。

 

 真田は赤パーカーと三十センチウェブシューターを装備したスパイダーマン狂。

 

 三枝は緑のリングを握り、普段は静かなのに解釈違いだけは誰より速いグリーンランタンの人。

 

 名前を覚えるより先に、その辺りを覚えた方が早い四人だった。

 

 女子生徒が彼らの横を通り過ぎる。

 

 一度見る。

 

 二度見る。

 

 そして、少し歩調を速める。

 

「今の俺ら、二度見されたよな」

 

 真田が呟く。

 

 犬飼は嬉しそうに胸を張った。

 

「やっぱ目立つねえ」

 

「良い意味ではないと思う」

 

 三枝の返答だけは、いつもの速度だった。

 

 黒江が咳払いをする。

 

 眼鏡へ指を掛ける。

 

 嫌な合図である。

 

「でだ。まず前提として――」

 

「また始まった」

 

「研究会という組織は、その活動内容を外部へ提示する必要がある。そして我々はアメコミ研究会だ」

 

「そこまでは分かる」

 

「アメコミといえばヒーロー」

 

「まあ」

 

「ヒーローといえば人助け」

 

「うん?」

 

「ゆえに我々が人助けをすれば、極めて自然な活動実績の――」

 

「途中で論理壊れたね」

 

 黒江が一瞬止まったところへ、真田が間髪入れずスマートフォンをGVの顔の前へ差し出した。

 

「でも告知済み」

 

「早いな」

 

 画面には、今朝の看板と同じデザインの画像。

 

『困りごと募集中!! アメコミ研究会があなたの問題を解決します!』

 

 そして例の文句。

 

『ウチにはヒーローがいます。』

 

 GVが画面から顔を上げた。

 

「そもそも、これ誰のこと?」

 

 黒江の眼鏡が光った。

 

 真田がスマートフォンを下ろす。

 

 犬飼は発光ユニットを弄っていた手を止める。

 

 三枝だけが一拍遅れて顔を上げた。

 

 四つの視線が同じ一点へ集まる。

 

 嫌な予感が形になるまで、二秒もかからなかった。

 

「お前」

 

 黒江。

 

「お前」

 

 その語尾へ被せて真田。

 

「GVかなあ」

 

 犬飼が少し遅れて追撃。

 

「……GV」

 

 三枝が最後に逃げ道を塞いだ。

 

 GVの返答だけは速かった。

 

「やめよう、この企画」

 

     ◇

 

 話は前日の放課後へ遡る。

 

 アメコミ研究会の部室は、ヒーローたちの秘密基地という言葉から想像される場所とはかなり違った。

 

 狭い。

 

 雑然としている。

 

 そして妙に生活感がある。

 

 本棚には翻訳コミックと原書。

 

 棚にはフィギュア。

 

 壁には映画ポスター。

 

 机の片隅では製作途中のプラモデルが、四日前とまったく同じ姿勢で放置されていた。

 

 飲みかけの炭酸。

 

 ポテトチップス。

 

 進路希望調査票。

 

 赤点寸前の答案。

 

 ミニ四駆のパーツ。

 

 推しと現実が、同じ机の上で肩を寄せ合っている。

 

 その中央へ、黒江が一枚の紙を叩きつけた。

 

「我々は今、存亡の危機にある」

 

 言い切る。

 

 直後。

 

 犬飼はまだポテトチップスを噛んでいた。

 

 二回。

 

 三回。

 

 飲み込む。

 

 指についた粉を舐める。

 

「また?」

 

 遅い。

 

 犬飼の会話は、基本的に一拍遅かった。

 

「今回はマジだ」

 

「前もマジって言ってたよねえ」

 

「あれは限定版の予約終了だ」

 

「全然違うじゃん」

 

 GVが紙を取る。

 

 生徒会からの通知だった。

 

 研究会活動の実態が不明瞭なため、今年度の活動内容をまとめて提出すること。部室利用の継続についても、それを踏まえて判断する。

 

 即廃部ではない。

 

 だが、アメコミを読み、映画を観て、フィギュアを眺め、新作予告が出れば全員で騒ぎ、時折「ヒーローとは何か」という答えのない問いで数時間揉める彼らにとって、学校へ提出可能な活動実績は驚くほど少なかった。

 

「研究はしている」

 

 黒江が腕を組む。

 

「してるね」

 

「先月だけでヒーローの倫理について十四時間議論した」

 

「そのうち五時間くらいバットマンだったけど」

 

「五時間に抑えた俺を褒めろ」

 

「怖いよ」

 

 黒江は即座に身を乗り出した。

 

 ここからが速い。

 

「いや待て。まず“バットマンは準備してれば誰にでも勝てる”って理解が違うんだよ。そこだけ抜くと一番大事な部分が消える。普通に負けるし、判断ミスもするし、身内とも揉めるし――」

 

 一度息を吸う。

 

 止まるのかと思った。

 

「それでも翌日またゴッサムへ出るからいいんだろ!」

 

 止まらなかった。

 

「めっちゃ好きだね」

 

 GVが差し込めたのは、そこだけだった。

 

「好きだよ!!」

 

 返事は〇・一秒。

 

 そこまで迷いなく他人の人生について語れる男が、机の端に置かれた自分の進路希望調査票だけは三日間白紙だった。

 

 GVが紙を指差す。

 

「部長、こっちは?」

 

 黒江の勢いが死んだ。

 

「……人生のオリジンを模索している」

 

「決まってないんだ」

 

「言い方ァ!」

 

 ヒーローがなぜ戦うかは語れる。

 

 自分が大学で何を学びたいかは分からない。

 

 黒江トオルは、そういう普通の高校生だった。

 

 その隣で犬飼は、フィギュアの肩関節を動かしていた。

 

「犬飼は案ない?」

 

「んー」

 

 黒江とGVが三往復する間も、まだフィギュアを見ている。

 

 肩。

 

 肘。

 

 胸部。

 

 そこでようやく顔を上げた。

 

「展示とか?」

 

「何を」

 

「アーマー比較」

 

 犬飼はフィギュアを持ち上げる。

 

 話題がアイアンマンへ移った途端、口調はのんびりしたまま情報密度だけが上がった。

 

「旧型は肩の引き出し自体は大きいんだけど、胸部装甲と干渉するんだよねえ。でもこっちは逃がす構造になってるから腕を内側まで持ってける」

 

「急に喋るね」

 

「大事だよ?」

 

 犬飼にとって、アイアンマンの魅力は完成しないことだった。

 

 失敗する。

 

 直す。

 

 また別の問題が出る。

 

 また作る。

 

 その繰り返しが好きなのだという。

 

「それ新しいフィギュア?」

 

「うん」

 

「いくら?」

 

「一万二千」

 

 GVはカレンダーを見た。

 

「今日六日だよ」

 

「うん」

 

「今月あといくら?」

 

「二千三百円」

 

 真田が即座に顔を上げる。

 

「終了じゃん」

 

「まだ二千三百あるよ?」

 

「ポジティブすぎるだろ」

 

 犬飼は満足そうにフィギュアを眺めた。

 

「でも限定版はもう届いた」

 

「救いみたいに言わないで」

 

 バイトはしたい。

 

 けれど親には「赤点取って仕事増やすな」と止められている。

 

 工具も欲しい。

 

 映画も観たい。

 

 フィギュアも欲しい。

 

 高校生の財布は、トニー・スタークの資産とは違う。

 

 その横では、真田がスマートフォンを眺めていた。

 

「何見てるの」

 

「明日の予告公開時間」

 

 通知が三つ設定されている。

 

「三つ必要?」

 

「公式、公式日本、監督」

 

「一個でよくない?」

 

「初動舐めんな」

 

 真田は普段から速い。

 

 スパイダーマンの話題になると、もっと速い。

 

「ピーターの良さって生活終わってるところなんだよ」

 

「言い方」

 

「金ない、遅刻する、仕事なくす、恋愛こじれる、課題終わらない。でも誰か叫んだら行くだろ? そこなんだよ!」

 

「好きすぎて悪口みたいになってるよ」

 

「違う、そこ込み!」

 

 一方で。

 

 本人の恋愛能力は絶望的だった。

 

「今日さ」

 

 急に声量が落ちる。

 

「女子にキーホルダー可愛いって言われた」

 

「よかったじゃん」

 

「俺、“ヒーロー……”って返した」

 

 部室が静かになる。

 

 真田の方が耐えられなくなった。

 

「何点!?」

 

「十点」

 

「低っ!」

 

「百点満点で」

 

「殺してくれ」

 

 頭を抱える。

 

「GV、お前なんで女子と普通に喋れんの?」

 

「普通に喋るから」

 

「その“普通”ができねえんだよ!!」

 

 また速くなった。

 

 恋愛の話だけは、加速した口がそのまま自分を殴っている。

 

 三枝は、その騒ぎを少し離れた椅子から見ていた。

 

 普段は静かだ。

 

 だからこそ。

 

「グリーンランタンって、要するに想像したもの何でも――」

 

「違う」

 

 黒江が言い切る前だった。

 

 三枝自身も一瞬だけ目を丸くする。

 

 だが、もうスイッチは入っていた。

 

「“何でも作れる”が本質じゃない。意志なんだよ。怖くないから戦えるんじゃなくて、怖くても意志を通すからリングが応える。そこ抜いて能力だけ説明すると全然違う」

 

 普段とは別人の速度だった。

 

 ふと全員が見ていることに気づく。

 

 三枝の声が急に萎む。

 

「……ごめん。喋りすぎた」

 

「いつものことだろ」

 

「うるさい」

 

 中学時代。

 

 好きなものを喋りすぎて、少し周囲から浮いた。

 

 だから高校では、クラスで趣味を自分から語ることが少ない。

 

 この部室だけが例外だった。

 

 そんな三枝が、時々、一番現実的なことを言う。

 

「……高校卒業したらさ」

 

 四人が見る。

 

「こうやって集まらなくなるんかな」

 

 そこだけ。

 

 会話の速度が死んだ。

 

 黒江もすぐには返さず、犬飼はポテトチップスを噛むのを止め、真田もスマートフォンを伏せた。

 

「三枝」

 

「何」

 

「なんで今その話した?」

 

「なんとなく」

 

「やめろよ……」

 

 黒江が本気で嫌そうな顔をする。

 

 五分後には、新作映画のティザー画像一枚で全員叫んでいた。

 

 そんな四人だった。

 

 ヒーローへの愛だけは異様に深い。

 

 けれど。

 

 黒江は進路が決まらない。

 

 犬飼は金がない。

 

 真田は女子と喋れない。

 

 三枝は友達と離れる未来が怖い。

 

 その辺りだけ見れば、どこにでもいる男子高校生だった。

 

 だから黒江が、

 

「なら人助けを活動にすればよくないか」

 

 と言った時。

 

 誰もすぐには乗らなかった。

 

「……俺らが?」

 

 真田が自分を指す。

 

「そうだ」

 

「無理だろ。ヒーロー研究するのと、ヒーローやるの全然違うからな?」

 

 犬飼も首を傾げる。

 

「ぼくも喧嘩とか無理だよ?」

 

「誰も戦えとは言ってない」

 

「でも、人助けって何すんの」

 

「それは――」

 

「俺ら、何も解決できなくない?」

 

 三枝が静かに現実を刺した。

 

 黒江が止まる。

 

 真田も止まる。

 

 犬飼も止まる。

 

 そこから四人の顔が、ほぼ同じ速度でGVへ向いた。

 

「……何」

 

 黒江が指を一本立てる。

 

「一年が職員室の場所分かんなくて困ってた時、案内した」

 

「普通でしょ」

 

「雨の日、傘ない奴に貸した」

 

「家近かったから」

 

「体育倉庫で先生が荷物運んでた時、手伝った」

 

「見えてたから」

 

 三件目まで数えたところで犬飼が乗る。

 

「図書室でプリントばら撒いた子のやつも全部拾ってたねえ」

 

「踏みそうだったし」

 

 真田はさらに速い。

 

「先週、校門前で迷子のガキ交番まで連れてった」

 

「何で知ってるの」

 

「見た」

 

 三枝が最後。

 

「休んだ奴にプリント届けてた」

 

「家近かったから」

 

 黒江が満足そうに腕を組んだ。

 

「ほら」

 

「何が」

 

「ウチにはヒーローがいる」

 

「ただのお節介でしょ」

 

「それを俺らはヒーローって呼んでんだよ」

 

「呼んでないと思う」

 

「少なくとも俺らよりは」

 

「比較対象が弱すぎるよ」

 

 こうして。

 

 翌朝の惨状が完成した。

 

     ◇

 

 ところが。

 

 その惨状は、予想以上に繁盛した。

 

 最初の依頼は、二階の窓から落としてしまった体操服。

 

 木の枝へ引っ掛かっている。

 

 内容を聞き終えた瞬間、黒江がGVを見る。

 

 〇・五秒後には真田も見る。

 

 犬飼は一拍遅れて見る。

 

 三枝が最後に見る。

 

「僕を順番に見るのやめない?」

 

「出番だ」

 

「先生に脚立借りればいいよね」

 

 五分後。

 

 職員室。

 

 脚立。

 

 回収。

 

 終了。

 

 真田が木の下で腕を組む。

 

「……普通だな」

 

「何を期待してたの」

 

「こう、跳ぶとか」

 

「僕を何だと思ってるの」

 

 二件目は、図書室で探している本が見つからないというものだった。

 

 また四人の視線がGVへ寄る。

 

「これは僕いらないよね」

 

 三枝が一瞬だけ固まった。

 

「……俺?」

 

「図書室よく行くでしょ」

 

「まあ」

 

 三枝は司書へ聞きに行った。

 

 三分後、手には本がある。

 

「……あった」

 

「できるじゃん」

 

「これくらい普通だろ」

 

 そう言いながら、三枝は本を持つ手をほんの少しだけ高くした。

 

 胸を張るほどではない。

 

 でも、明らかに少し嬉しそうだった。

 

 三件目。

 

 壊れた模型。

 

 依頼者が机へ置いた瞬間、犬飼の目が変わった。

 

 返事より先に椅子を引く。

 

 遅い男が、そこだけ速い。

 

「これ、どこで折れた?」

 

 接合部を見る。

 

 指先で軽く動かす。

 

 工具袋を開く。

 

「そのまま接着するとまた折れるねえ。芯入れよ」

 

「直る?」

 

「たぶん」

 

 依頼者の顔が曇る。

 

 GVも横から見る。

 

「その“たぶん”怖いね」

 

「でも今壊れてるから、失敗しても現状維持だよ」

 

「強いな、その理屈」

 

 胸の発光ユニットは何の役にも立っていなかった。

 

 工具は役に立った。

 

 十五分後、模型は前より少し頑丈になって戻った。

 

 犬飼は満足そうに胸を光らせた。

 

 やはり、そちらは何の役にも立っていなかった。

 

 四件目。

 

 部活動の掲示物。

 

 黒江が手を挙げる。

 

「任せろ」

 

 三十分後。

 

 赤。

 

 黒。

 

 黄色。

 

 集中線。

 

 巨大な擬音。

 

 依頼した生徒が言葉を失った。

 

「普通にして」

 

「視認性は高いだろ!?」

 

「目が疲れる」

 

「デザインとは主張だ!」

 

「まず前提として?」

 

「そう、まず前提として――」

 

「始まった」

 

 五件目。

 

 女子生徒から、「少し話を聞いてほしい」。

 

 真田の動きだけは誰より速かった。

 

 GVの背後へ隠れた。

 

「何してるの」

 

「後方支援」

 

「依頼人一人だよ」

 

「女子だろ」

 

「だから?」

 

「ヴィランは俺に『最近どう?』とか聞いてこねえんだよ」

 

「面倒くさいなあ」

 

 相談内容は、友人との些細な喧嘩だった。

 

 黒江は最初、解決策を提示しようとした。

 

 犬飼が袖を引く。

 

「たぶん今、答えほしい感じじゃないよ」

 

 黒江が口を閉じる。

 

 三枝が一番長く話を聞いた。

 

 普段なら自分から会話へ入るのが遅い男が、相手が言葉を探している時だけは急かさなかった。

 

 GVは必要な時だけ相槌を打つ。

 

 真田は三メートル後ろで壁の模様を見ていた。

 

 何かが劇的に解決したわけではない。

 

 けれど女子生徒は帰る時、来た時より少しだけ肩の力が抜けていた。

 

 黒江がその背中を見送る。

 

「……今の、実績になる?」

 

「そこ気にする?」

 

 依頼は続いた。

 

 落とし物。

 

 荷物運び。

 

 忘れ物。

 

 教師への確認。

 

 部活動の人手探し。

 

 映画ならカットされる。

 

 コミックならコマとコマの間へ消える。

 

 世界は救わない。

 

 敵も倒さない。

 

 そんな小さな困りごとばかりだった。

 

 それでも昼を過ぎた頃には、四人の反応速度が少しずつ変わっていた。

 

 最初なら依頼を聞いた瞬間にGVを見る。

 

 それが、

 

「それなら俺が先生に聞いてくる」

 

 と黒江が立ち、

 

「これなら直せそう」

 

 と犬飼が工具へ手を伸ばし、

 

「目撃情報だけ集める」

 

 と真田がスマートフォンを出し、

 

「……俺、話聞いてくる」

 

 と三枝が最後に歩き出す。

 

 GVが普段していることは、よく見れば大したことではなかった。

 

 知らなければ聞く。

 

 一人で持てなければ、二人で持つ。

 

 自分にできなければ、できる人を呼ぶ。

 

 ただ。

 

 誰かが困っている時。

 

 自分に関係がないという理由だけで、その横を素通りしない。

 

 ほんの少しだけ余計なことをする。

 

 それだけだった。

 

「……これさ」

 

 夕方。

 

 黒江が依頼箱を整理しながら呟く。

 

「GVじゃなくても出来るやつ、結構あるな」

 

「今さら?」

 

「お前が毎回勝手にやるから、お前の仕事だと思ってた」

 

「ひどいな」

 

 犬飼が椅子へ深く座って笑う。

 

「お節介にも分業ってあるんだねえ」

 

「その言い方、あんまり嬉しくない」

 

 真田は達成件数をスマートフォンへ入力していた。

 

「十一件」

 

「数えてたの?」

 

「実績解除感ある」

 

「人助けで言う?」

 

「達成音ほしい」

 

「最低だな」

 

 三枝が小さく笑った。

 

 朝には「無理」と言っていた四人が、夕方には次の依頼を少し待っている。

 

 そんな空気さえあった。

 

 その日の活動は。

 

 そこで終わるはずだった。

 

     ◇

 

「すみません!」

 

 部室の扉が勢いよく開いた。

 

 一年生らしい男子生徒が立っている。

 

 息を切らし、顔色も悪い。

 

「友達が……旧校舎の倉庫に入ったまま戻ってこなくて」

 

 黒江が椅子から腰を浮かせた。

 

 普段なら「市民からの救援要請だ」くらい言ったかもしれない。

 

 けれど、少年の顔を見て、その言葉を飲み込んだ。

 

「先生は?」

 

「別の奴が呼びに行ってます。でも……」

 

 その続きは音が奪った。

 

 どん。

 

 遠い。

 

 旧校舎側。

 

 重い何かを壁へ叩きつけたような低音が響き、窓ガラスが細かく震えた。

 

 犬飼のフィギュアが机の上で倒れる。

 

 誰も拾わなかった。

 

「……何、今の」

 

 真田の声だけが落ちる。

 

 もう一度。

 

 どん。

 

 今度は床から来た。

 

 鈍い振動が靴底から膝の奥まで伝わる。

 

 GVはすぐに立った。

 

「見に行こう」

 

 四人は、その言葉へ即座には続かなかった。

 

 これまでなら黒江が何か言い、真田が被せ、犬飼が遅れて乗り、三枝が最後に締める。

 

 その順番が来なかった。

 

「……先生待った方がよくない?」

 

 真田が最初に言った。

 

 犬飼がすぐ頷く。

 

 今度は遅くなかった。

 

「ぼくもそう思う」

 

 三枝も壁の向こうを見る。

 

「……音、結構ヤバくない?」

 

 黒江が一度GVを見る。

 

 口を開く。

 

 閉じる。

 

「遠くから確認だけしよう。危なそうなら戻る」

 

 声は、いつもの部長のそれよりずっと小さかった。

 

 誰も反対しなかった。

 

 朝からヒーローを名乗っていた四人の足は、旧校舎へ近づくほど少しずつ遅くなった。

 

 放課後の校舎というのは、本来もっと騒がしい。

 

 運動部の掛け声。

 

 吹奏楽部の音。

 

 笑い声。

 

 廊下を走る足音。

 

 今日は、その全部の底に妙な音が混じっていた。

 

 どん。

 

 間。

 

 どん。

 

 壁の向こうで、大きすぎる心臓が不整脈を起こしているようだった。

 

 階段の途中で真田が止まった。

 

「……マジで行く?」

 

 普段なら「緊急イベント」やら「難易度S」やらと騒ぐ男だった。

 

 今日は一つも出ない。

 

 黒江も止まる。

 

「先生、来るんだよな?」

 

「呼びに行ってるって」

 

「なら……俺ら必要なくね?」

 

 その言葉を、誰も責めなかった。

 

 GVも同じだった。

 

「怖いなら戻ってていいよ。僕だけ確認してくる」

 

 一瞬、真田の肩から力が抜けた。

 

 安心。

 

 はっきり顔へ出た。

 

 ただ、本人はそれを見られたくなかったらしく、すぐに口元を歪めた。

 

「……いや。廊下の端までは行く」

 

 犬飼も続く。

 

「ぼくも。何かあったらすぐ逃げるけど」

 

 三枝も小さく頷いた。

 

「……俺も、そこまでなら」

 

 黒江は最後だった。

 

 黒コートのポケットへ手を突っ込む。

 

 何もない。

 

 バットラングも、防弾装備も。

 

 ただの高校生の手が入っているだけだった。

 

「……部長だけ帰ったら、後で一生言われるだろ」

 

「言う」

 

 真田の返事だけは速かった。

 

「お前な」

 

 ほんの少し。

 

 いつもの空気が戻る。

 

 それでも、足取りは重かった。

 

     ◇

 

 旧校舎の廊下には、細かな破片が散っていた。

 

 窓には薄い亀裂。

 

 天井の蛍光灯は一本が半分外れ、風もないのに揺れている。

 

 倉庫の扉。

 

 その周囲だけ、壁へ何かを何度もぶつけたような傷が増えていた。

 

「来るな!」

 

 中から声。

 

 男子生徒。

 

 掠れている。

 

「来ないでくれ……! 無理なんだよ、止まんない……!」

 

 四人の足が止まる。

 

 次の瞬間。

 

 倉庫の扉が内側から大きく膨らんだ。

 

 空気が炸裂した。

 

 目には見えない。

 

 だが、確かな質量を持った何かが廊下を駆け抜けた。

 

 制服が一斉に後方へ煽られ、真田の身体が壁へぶつかる。犬飼は尻餅をつき、三枝は反射的に頭を抱え、黒江の眼鏡がずれた。

 

 GVだけが足を滑らせながらも踏み留まった。

 

 音が去った後。

 

 耳鳴りだけが残った。

 

 誰もすぐには喋らなかった。

 

 いつもなら真田が真っ先に何か言い、黒江が理屈をつけ、犬飼が遅れて口を挟み、三枝が最後に一言落とす。

 

 その順番が、一つも来なかった。

 

 映画なら何度も見た。

 

 爆発。

 

 超能力。

 

 街を吹き飛ばす衝撃。

 

 画面の向こうなら、音響が凄いと笑えた。

 

 現実のそれは、腹の内側まで揺らした。

 

 空気が皮膚を叩いた。

 

 床が動いた。

 

 次を受ければ怪我をする。

 

 もっと悪いことになるかもしれない。

 

 その程度の想像だけで、四人には十分だった。

 

「……帰ろう」

 

 真田が言った。

 

 小さな声だった。

 

「これ、無理だろ」

 

 犬飼もまだ床へ手をついている。

 

「うん……先生来るし」

 

 三枝は扉を見たまま。

 

「……俺も無理」

 

 黒江だけは何も言わなかった。

 

 黒コート。

 

 青く光る胸。

 

 三十センチのウェブシューター。

 

 緑のリング。

 

 朝は少しだけヒーローになれた気がした。

 

 今は全部ただの玩具だった。

 

 それを四人とも、嫌というほど分かっていた。

 

 GVが一歩前へ出る。

 

「じゃあ戻って――」

 

 その時。

 

 廊下の向こうから声がした。

 

「何!? 何の音!?」

 

 女子生徒が二人。

 

 さらに別の教室から、数人が顔を出す。

 

 黒江がそちらを見る。

 

「……まずい」

 

 言葉は出た。

 

 身体はすぐには動かなかった。

 

 一秒。

 

 近づいてくる生徒を見る。

 

 二秒。

 

 倉庫を見る。

 

 三秒。

 

 自分の足を見る。

 

 動けない自分へ、自分自身が一番驚いたように黒江の顔が歪んだ。

 

「……くそ」

 

 そこでようやく。

 

 走った。

 

「こっち来んな!」

 

 声が裏返った。

 

 本人も一瞬顔をしかめる。

 

 でも止まらない。

 

「危ないから! 先生呼んで! 旧校舎側、来るなって!」

 

 ロングコートの裾が脚へ絡む。

 

「邪魔だこれ!」

 

 黒江はとうとう片手で裾を掴み上げたまま走った。

 

 朝には格好つけるために羽織っていた黒コート。

 

 今はただ邪魔だった。

 

 それでも、中身の黒江は走っていた。

 

 真田がその背中を見る。

 

 いつもなら一秒以内に茶化す。

 

 今は黙った。

 

 犬飼も見る。

 

 三枝も。

 

 誰か一人が突然勇敢になったわけではない。

 

 怖がっている一人が。

 

 先に一歩動いただけだった。

 

 犬飼の視線が半開きの防火扉へ向く。

 

 先ほどの衝撃でストッパーが歪んでいた。

 

 扉が閉じきらず、倉庫側から漏れた圧力がそのまま廊下へ抜けている。

 

「……これ」

 

 犬飼が工具袋へ手を伸ばす。

 

 ファスナーを掴む。

 

 滑る。

 

 もう一度。

 

 ようやく開く。

 

 ドライバーを出す。

 

 床へ落とす。

 

「あっ」

 

 いつもの犬飼なら、工具を持つ手は落ち着いている。

 

 今日は震えていた。

 

「犬飼?」

 

 真田が見る。

 

「これさ、直せるか分かんない」

 

「じゃあ――」

 

「でも」

 

 犬飼は歪んだストッパーと蝶番を見た。

 

 いつものように、一つずつ確認する。

 

「閉めるだけなら……たぶん」

 

 その「たぶん」は、普段の呑気な響きとは違った。

 

 自分を納得させるための声だった。

 

「真田」

 

「え?」

 

「押すの手伝って」

 

 真田の顔が引きつる。

 

「俺?」

 

「一人じゃ無理」

 

 また倉庫から低い衝撃音。

 

 真田の肩が跳ねた。

 

 逃げたい。

 

 顔に全部出ている。

 

 でも。

 

 犬飼が一人で扉へ手を掛けていた。

 

「……クソ」

 

 真田がスマートフォンをポケットへ押し込む。

 

「分かったよ!」

 

 二人で扉を押す。

 

 重い。

 

 金属が床を擦る。

 

 犬飼が工具を金具へ噛ませる。

 

「もうちょい!」

 

「重っ……!」

 

「俺も重い!」

 

「それは知ってる!」

 

「今言う!?」

 

 ほんの一瞬、いつもの速度が戻る。

 

 次の衝撃で、二人の顔から笑いが消えた。

 

 押す手へさらに力を込める。

 

 真田は片手を離してスマートフォンを取り出した。

 

 文字を打つ。

 

『旧校舎くるな』

 

 一度消す。

 

 指が震えている。

 

 打ち直す。

 

『旧校舎側に来るな』

 

 送る。

 

『先生呼んで』

 

 送る。

 

『倉庫付近危険』

 

 送る。

 

 普段なら動画やミーム、新作映画の情報ばかり送りつけている相手へ。

 

 今は短い警告だけを送る。

 

「……これでいい?」

 

「知らない!」

 

 犬飼も余裕がない。

 

「でも何もしないよりいい!」

 

 真田は画面を見る。

 

「……だよな」

 

 さらに送る。

 

 三枝だけは。

 

 まだ動けていなかった。

 

 倉庫の中から、また声。

 

「来るなって……! お願いだから……誰も来るなよ……!」

 

 三枝の右手。

 

 緑のリング。

 

 震えている。

 

 普段、誰かがグリーンランタンを「怖くない奴」と言えば、一秒も待たずに訂正した。

 

 恐怖を知らないことと。

 

 恐怖を抱えたまま意志を選ぶことは違う。

 

 何度も語った。

 

 今、その三枝自身の膝が震えていた。

 

「……怖っ」

 

 小さく漏れた。

 

 GVには聞こえた。

 

「三枝」

 

「……何」

 

「無理しなくていいよ」

 

 本当に逃げてもいい。

 

 そう言われている。

 

 三枝は、その言葉へ少しだけ困った顔をした。

 

 逃げる理由は十分ある。

 

 さっき衝撃波を受けた。

 

 怖かった。

 

 今も怖い。

 

 なのに。

 

 扉の向こうから聞こえる声は、自分よりもっと震えていた。

 

 三枝は一歩進み。

 

 止まる。

 

 もう一歩。

 

 また止まる。

 

 扉へ近づきすぎない位置まで行き、壁へ背を預けてゆっくり腰を下ろした。

 

 すぐ近くではない。

 

 何かあれば逃げられる。

 

 その程度の距離。

 

「……分かった」

 

 中から返事。

 

「何が……」

 

「入らない。そっち行かない」

 

 一度、喉が鳴る。

 

 言葉が出ない。

 

 少し待ってから。

 

「でも……ここにはいる」

 

「来るなって言ってんだろ……」

 

「うん。だから入らないって」

 

 何を言えばいいのか分からない。

 

 ヒーローらしい台詞なんて一つも浮かばない。

 

「俺……こういう時、何言えばいいか知らないから」

 

 沈黙。

 

 三枝の呼吸だけが聞こえる。

 

「……返事だけしてて」

 

 数秒。

 

 長い。

 

 やがて小さな声。

 

「……いる」

 

 三枝は目を閉じ、一度息を吐いた。

 

「うん。俺もいる」

 

 それだけだった。

 

 決め台詞でもない。

 

 格好いいポーズもない。

 

 緑の光も出ない。

 

 普通の男子高校生が、怖がりながら壁際に座っているだけだった。

 

 GVは、その一連を静かに見ていた。

 

 廊下の向こうでは黒江がコートの裾を掴みながら他の生徒を止め、犬飼は震える手で工具を握り、真田は何度も入力を間違えながら警告を送り続け、三枝は逃げられる距離を確保したまま扉の向こうへ声を返している。

 

 誰一人、朝から夕方までの数時間でヒーローになったわけではない。

 

 怖い。

 

 逃げたい。

 

 自分には無理だ。

 

 その気持ちは全部残っている。

 

 そのうえで。

 

 自分にもできそうなことを一つだけ掴んでいる。

 

 GVには、その姿が少しだけ嬉しかった。

 

 けれど、それを言葉にするほど気が利く少年でもなかった。

 

 代わりに倉庫を見る。

 

 正面は危険。

 

 扉の外には三枝。

 

 廊下は黒江が人を止めている。

 

 防火扉には犬飼と真田。

 

 教師ももう来る。

 

 なら。

 

 別の入口。

 

 窓。

 

 外壁。

 

 上階。

 

 割れた窓。

 

 黒江が「どうする」と考え始めるより先に、GVの視線はすでにそこまで走っていた。

 

「……じゃ」

 

 GVが一歩下がる。

 

「そっちは任せた」

 

 三枝が顔を上げる。

 

「え?」

 

 真田も。

 

 犬飼も振り返る。

 

 ちょうど戻ってきた黒江が、息を切らしながら眉を寄せた。

 

「待て。お前どこ行くんだ?」

 

 GVは窓の向こうを見た。

 

「中」

 

「いや、だからどうやって――」

 

 四人の理解が追いつくより、GVの身体が動く方が早かった。

 

 走る。

 

 廊下。

 

 階段。

 

 外。

 

 夕日の赤が視界へ差し込む。

 

 四人が窓際へ寄る。

 

 校舎脇でGVが止まり、外壁を見上げる。

 

 僅かに腰を落とした。

 

 次の瞬間。

 

 蒼い雷が足元で弾けた。

 

     ◇

 

 GVの身体は跳んだというより、地面から撃ち出された。

 

 黒江が反射的に窓へ身を乗り出した頃には、すでに靴底が外壁を捉えている。一歩踏むたび青白い電光がコンクリートを走り、その光が消えるより早く次の足がさらに上へ着く。

 

 重力が身体を落とす暇を与えないまま、GVは校舎の側面を駆け上がった。

 

 四人の会話が止まる。

 

 普段なら真田が最初に騒ぎ、黒江が理屈をつけ、犬飼が一拍遅れて細部を見て、最後に三枝が短く落とす。

 

 今は。

 

 その順番がない。

 

「……は?」

 

 真田から漏れたのはそれだけだった。

 

 黒江も眼鏡を直すことすら忘れている。

 

「いや待て……あいつ今」

 

 黒江がようやく声を出した頃には、GVはもう二階近くまで達していた。

 

 そこで真田の理解が追いついた。

 

「壁走ってるだろ!? いや走ってるよな!? 足から雷出てたよな!? 黒江見た!?」

 

「俺も見てる! お前が一気に喋るから余計分かんなくなるんだよ!」

 

 犬飼は手にしたドライバーを握ったままGVを見上げ、一度だけ自分の胸元へ視線を落とした。

 

 そこでは昨晩作ったユニットが健気に青白く光っている。

 

「……ぼくのより明るいねえ」

 

「比較するとこそこじゃねえだろ!」

 

 真田の反応だけは、すでに元の速度へ戻っていた。

 

 三枝はまだ無言だった。

 

 緑のリングを親指で擦りながら、壁を登っていくGVを追っている。

 

 GVは二階の窓枠へ一度だけ足を掛けると、そのまま身体を横へ投げた。空中で腰を捻り、割れた上階の窓へ片手を掛け、その勢いのまま中へ滑り込む。

 

 姿が消えてから数秒。

 

 真田が、自分でも信じていないような声を漏らした。

 

「……スパイダーマンじゃん」

 

     ◇

 

 窓を越えた先では、空気そのものが獣のように暴れていた。

 

 GVが倉庫へ着地した瞬間、目には見えない圧力が頬と胸をまとめて殴る。制服の裾が後方へ跳ね、床に散らばった紙や段ボール箱が渦を巻いた。少し重い椅子までが数センチ浮き、壁際では金属棚が何度も激しく揺れている。

 

 部屋の奥。

 

 一人の男子生徒。

 

 頭を両腕で抱え、膝を床へついて縮こまっている。

 

「来るな!」

 

 少年が叫ぶ。

 

「来ないでくれ! 止められないんだよ!」

 

 声へ呼応するように机が跳ね上がった。

 

 GVは飛んできた机を一度だけ見て、その軌道から身体を半歩ずらした。

 

「それは危ないな」

 

 右手が動く。

 

 ダートが机へ。

 

 続けて壁。

 

 床。

 

 三つの支点。

 

 そこへ雷が走った。

 

 普段なら周囲へ奔放に枝分かれする蒼い電光が、一本の細い線へ絞り込まれていく。

 

 机から壁へ。

 

 壁から床へ。

 

 蒼い雷糸が三点を結び、宙へ浮いた机をその場で絡め取る。

 

 少年が顔を上げる。

 

「……は?」

 

「ちょっと待ってて」

 

 GVが答えた時には、もう視線は次へ向いていた。

 

 左から椅子。

 

 頭上では工具箱。

 

 正面の棚は傾き、固定金具が悲鳴を上げている。

 

 GVは床すれすれまで姿勢を落とし、椅子の下へ滑り込んだ。そのまま走りながら床へダートを一発、壁へ一発、棚の脚と天井の梁へ続けて撃つ。

 

 視界へ入った危険物の位置と進行方向を、ほとんど同時に拾う。

 

 身体が、その判断を追いかける。

 

 支点が増えるたび。

 

 蒼い線も増える。

 

 一本の雷が壁から床へ走り、別の線が斜めから交差する。

 

 天井から棚へ。

 

 床から机へ。

 

 倉庫そのものを内側から縫い合わせるように、巨大な蜘蛛の巣が立体的に広がっていく。

 

 倒れかけた棚が途中で止まり、工具箱は天井へぶつかる前に引っ掛かる。別方向から飛んできた椅子も網へ沈み込み、雷糸を数度震わせただけで勢いを失った。

 

「やめろよ……!」

 

 少年が再び声を荒げる。

 

「止められないんだよ!」

 

「うん」

 

「だから! 止められないって言ってるだろ!」

 

 また衝撃波が広がる。

 

 GVの身体が横へ押され、靴底が床を滑った。

 

 それでも膝を曲げて勢いを逃がし、倒れない。

 

「聞こえてるよ」

 

 頭上では半分外れかけた照明器具が揺れている。

 

 GVはダートを撃ち込み、雷糸で天井へ固定した。

 

 そこまで済ませてから少年へ顔を向ける。

 

「だから、止まるまで待とう」

 

「……は?」

 

「無理に止めなくていいよ。僕が危ない物だけ押さえとくから」

 

 言い終える前に、小さな机が床を離れる。

 

 GVは横目で見て、すでに張った雷糸へ一本だけ追加する。

 

「ほら。また飛んだ」

 

「……」

 

「でも、これなら当たらない」

 

 続けて段ボール箱が浮く。

 

 蓋が開き、中から古いゴムボールがいくつも飛び出した。

 

 GVも一応そちらを見たが、それらは床へ落ち、ころころと転がるだけだった。

 

「……これは別にいいか」

 

 少年が呆けたようにその光景を見る。

 

 自分が怖がる。

 

 物が飛ぶ。

 

 もっと怖くなる。

 

 さらに能力が暴れる。

 

 その輪の中にいた。

 

 けれど目の前の少年は、混乱を一つずつ拾い上げ、危険なものだけを蜘蛛の巣へ掛けていく。

 

 超能力との戦闘というより。

 

 散らかった放課後の教室を片付けているようだった。

 

「……怖くないのかよ」

 

「怖いよ」

 

 GVの返事に迷いはなかった。

 

 少年の目が少し開く。

 

「当たったら痛いし。だから避けてる」

 

 その直後にも小さな圧力の波が走る。

 

 GVは肩を少しずらしてかわした。

 

「怖いからって、帰る理由にはならないでしょ」

 

 それだけ言って、また一本の雷糸を張る。

 

 少年の恐怖はすぐには消えなかった。

 

 ただ。

 

 呼吸を吐く時間が少しだけ長くなった。

 

     ◇

 

 廊下からは、倉庫内部の様子を完全には見られなかった。

 

 ただ、時折、割れた窓の向こうを青白い線が走る。

 

 そのたび真田の視線も追い、その直後には必ず自分の左手首へ落ちた。

 

 三十センチのウェブシューター。

 

 窓の向こう。

 

 蒼い糸。

 

 また自分の手首。

 

 三往復ほどした頃、黒江が戻ってきた。

 

 額には汗。

 

 黒コートは腰へ巻いている。

 

「何ぶつぶつ言ってんだ」

 

「……理性を保ってる」

 

「何から?」

 

「現実から」

 

 その時、窓の奥を蒼い線が斜めに走った。

 

 黒江は数秒見て、あっさり言った。

 

「……ウェブだな」

 

「言うな」

 

「いや、どう見ても――」

 

「言うなって!」

 

 真田が本気で遮る。

 

「たまたま電気系で、たまたま糸状で、たまたま壁を走れて、たまたま俺の友達なだけかもしれない」

 

「“たまたま”を四回使う時点で相当無理あるぞ」

 

 犬飼は防火扉の金具を調整し続けていた。

 

 まだ指は少し震えている。

 

 それでも工具を握っている間だけ、視線は朝の模型修理の時と同じだった。

 

「真田、あとちょっと押して」

 

「まだやるの?」

 

「ここ閉まれば、次に圧が来ても廊下側へ抜けにくくなると思う」

 

「“思う”なんだな」

 

 犬飼は工具を噛ませたまま、少しだけ眉を下げた。

 

「……大事だよ?」

 

 真田は一瞬だけ笑った。

 

「分かったよ。押す!」

 

 犬飼の胸では、今日一度も役に立っていない発光ユニットだけが律儀に光っている。

 

 三枝は倉庫から少し距離を取った場所へ座り続けていた。

 

 扉の向こうから聞こえる声は、少しずつ落ち着いている。

 

「……まだいる?」

 

 今度は中から聞かれた。

 

 三枝はほとんど間を置かなかった。

 

「いる。そっちは?」

 

「……いる」

 

「そっか」

 

 それ以上は言わない。

 

 上手い励まし方も知らない。

 

 だから返事が途切れない程度に、何度か短く声を掛ける。

 

 それだけだった。

 

     ◇

 

 倉庫の中では、暴発も少しずつ間隔を広げていた。

 

 さっきまでは呼吸のたび部屋全体が震えていた。

 

 今は、数秒に一度、床の紙が僅かに浮く程度。

 

 GVもそれに合わせて動きを減らす。

 

 蒼い蜘蛛の巣には机や椅子、棚、工具箱が固定され、部屋の中は途中で時間を止められたような光景になっていた。

 

 少年が自分の手を見る。

 

「……オレ、壊した」

 

「うん」

 

「窓も、棚も……」

 

「うん」

 

「……怒られる」

 

 GVは少し考えた。

 

「まあ、怒られるかもね」

 

 少年が顔を上げる。

 

 慰めてもらえると思ったのかもしれない。

 

 GVは肩を僅かに竦めた。

 

「でも、それは後でいいでしょ。今は怪我しない方が先」

 

 少年は何も返さなかった。

 

 ただ。

 

 ゆっくり息を吸う。

 

 長く吐く。

 

 空気は揺れなかった。

 

 もう一度呼吸する。

 

 今度も。

 

 何も起きない。

 

「……止まった」

 

「うん。止まったね」

 

 GVも右手を下ろした。

 

 廊下の向こうから教師たちの足音と声が聞こえてくる。

 

 非日常の中心へ。

 

 学校の日常が、少しずつ戻ってきた。

 

     ◇

 

 数十分後。

 

 旧校舎側には教師と職員が集まり、能力を暴発させた少年も保健室へ連れていかれていた。

 

 壊れた窓や備品は多い。

 

 倉庫もしばらく片付けが必要になるだろう。

 

 それでも。

 

 怪我人はいなかった。

 

 黒江は廊下の壁へ背中を預けていた。

 

 腰へ巻いた黒コートは皺だらけ。髪も乱れ、眼鏡も少しずれたままだ。

 

 普段なら、こういう出来事の後には必ず何かしら総括を始める男だった。

 

 今日は違った。

 

「……疲れた」

 

 それしか出なかった。

 

 犬飼は床へ座り、ドライバーやペンチを一本ずつ工具袋へ戻している。

 

 作業が終わってから、ようやく胸元の発光ユニットへ目を落とした。

 

「これ、今日一回も役立たなかったなあ」

 

 黒江が横目で見る。

 

「知ってた」

 

「ひどい」

 

「工具は役立っただろ」

 

 犬飼の手が止まった。

 

 防火扉。

 

 工具袋。

 

 それから少し笑う。

 

「……まあ、それはそうだねえ」

 

 真田は壁際へ座り、スマートフォンを眺めていた。

 

 そこには警告メッセージの履歴が残っている。

 

「俺さ。マジで帰ろうと思った」

 

 真田がぽつりと言った。

 

 いつもの速さはなかった。

 

 黒江が少し間を置く。

 

「俺も」

 

 犬飼も頷く。

 

「ぼくも」

 

 三枝もリングを見ながら。

 

「……俺も」

 

 誰も笑わなかった。

 

 それが妙に可笑しくて、四人とも少しだけ口元を緩める。

 

 三枝が緑のリングを親指で撫でた。

 

「俺さ。いつも“怖くても意志を通すのが大事”とか言ってたけど」

 

 一度止まる。

 

「普通にめちゃくちゃ怖かったわ」

 

 真田の返事だけは、以前の速度へ戻っていた。

 

「そりゃ怖いだろ。俺なんか最初に帰ろうって言ったぞ」

 

「知ってる」

 

「堂々と言うな」

 

「だって帰りたかったもん!」

 

 黒江の口元が少し上がる。

 

「でも帰らなかっただろ」

 

 そこだけ。

 

 真田もすぐには返せなかった。

 

「……まあな」

 

 スマートフォンをポケットへ押し込む。

 

 その時。

 

 廊下の向こうからGVが戻ってきた。

 

「終わったよ」

 

 制服の袖に少し埃がつき、髪も普段より乱れている。

 

 それ以外は、いつもの顔。

 

 四人の視線が集まる。

 

 黒江が眼鏡を直し、犬飼が工具袋へ伸ばしていた手を止め、真田はスマートフォンを取り出しかけて戻し、三枝は緑のリングを握ったままGVを見る。

 

 普段なら。

 

 誰かがすぐ喋る。

 

 今日は数秒かかった。

 

「……お前」

 

 最初は黒江だった。

 

「どうやって中入った?」

 

「外から」

 

「それは見た」

 

 黒江の声が徐々に元の速度へ戻る。

 

「俺が聞いてるのは、なんで外壁を走って二階まで行けたんだってことだ」

 

「ああ」

 

 GVはそこでようやく質問の意味を理解したようだった。

 

「能力」

 

 あまりにも軽く言った。

 

 黒江の眼鏡が僅かにずれ、犬飼の手が止まり、三枝の指もリングの上で固まる。

 

 真田に至っては、すぐに聞き返せなかった。

 

「……能力って、第七波動?」

 

「うん」

 

 黒江が慎重に聞く。

 

 GVは普通に頷いた。

 

 そこでようやく真田が立ち上がる。

 

「……お前、能力者なの?」

 

「そうだけど」

 

 軽い。

 

 四人が今日一日かけて触れた世界の向こう側に、GVは最初からいた。

 

 それを本人だけが何でもないことのように答えている。

 

 犬飼がGVの靴を見て、手を見た。

 

「じゃあ、さっきの青いのも?」

 

「僕の雷」

 

 黒江が眉を寄せる。

 

「雷ってことは……もしかしてソーみたいな――」

 

「いや」

 

 GVは首を振った。

 

「ウェブ出してる」

 

 その一言で。

 

 真田の思考が止まった。

 

 左手をゆっくり持ち上げる。

 

 三十センチの試作ウェブシューター。

 

 それを見る。

 

 GV。

 

 また手首。

 

「……ウェブ?」

 

「うん」

 

「雷で?」

 

「そう」

 

 犬飼が少し身を乗り出す。

 

「ちゃんと張れる?」

 

「張れるよ」

 

 三枝も、普段より早く続いた。

 

「壁も走れる?」

 

「走れる」

 

 黒江。

 

「スイングは?」

 

「するよ」

 

 そこまで聞いた瞬間。

 

 真田の顔から理性が消えた。

 

 大きく息を吸う。

 

 その吸気だけで黒江が何かを察したが、止める方が遅かった。

 

「みせてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 廊下全体へ声が響いた。

 

 黒江もすぐに「俺も見たい!」と乗り、犬飼まで珍しくほとんど間を置かず頷いた。

 

 三枝も今日は速かった。

 

「……俺も」

 

 遠くにいた教師が振り返る。

 

「静かにして」

 

 GVが注意する。

 

「無理!!」

 

 真田の返答だけは〇・一秒だった。

 

 さっきの恐怖を忘れたわけではない。

 

 手の震えも、疲労も、残っている。

 

 ただ。

 

 その上から四人分のオタク心が、一気に噴き出した。

 

 真田はGVへ詰め寄りたいのを必死に抑え、身体だけを前のめりにしている。

 

「どこから出す!? 手首!? 指!? 粘着する!? 張力は!? スイング時の荷重は!? 名前――」

 

「真田」

 

「何」

 

「一個ずつ」

 

「無理」

 

 即答。

 

 黒江も眼鏡を押し上げる。

 

「いや待て。まず前提として、お前が能力を今まで隠していた理由から聞くべきだろ。活動範囲、目的、どういう相手と――」

 

「黒江も一個ずつ」

 

「これは体系的に聞く必要がある!」

 

 犬飼は二人ほど騒がない。

 

 代わりに、GVの装備を見る視線だけが妙に鋭い。

 

「装備見てもいい?」

 

「ダメ」

 

「触らないよ?」

 

「ダメ」

 

「写真だけなら?」

 

「ダメ」

 

 一拍。

 

 犬飼が条件を悪化させる。

 

「分解は?」

 

「なんで段階上がったの」

 

「構造、大事だよ?」

 

「僕にはもっと大事だから」

 

 犬飼は本気で残念そうだった。

 

 三枝は三人の少し後ろに立ち、何度か口を開きかけては閉じていた。

 

 普段なら最後まで他人の会話が終わるのを待つ男だ。

 

 それでも今日は。

 

「……本当に」

 

 真田がまだ喋っている途中で、珍しく割り込んだ。

 

「本当にウェブ出せるの?」

 

「出せるよ」

 

 三枝はそれだけ聞くと、少しだけ笑った。

 

「……すご」

 

 その横で、真田は自分のウェブシューターを手首から外した。

 

 手のひらへ乗せる。

 

 数秒見つめる。

 

「俺さ」

 

「何」

 

「昨日これ完成して、めちゃくちゃ喜んだんだよ」

 

「うん」

 

「友達が本物出せるんだけど」

 

「うん」

 

「俺の一晩返して」

 

「知らないよ」

 

 黒江が慰めるように肩へ手を置いた。

 

「真田。お前のそれは努力の証だ」

 

「一番いらねえ慰め方すんな!」

 

 犬飼が胸を指差しながら一拍遅れて口を挟む。

 

「ぼくも光るだけだから大丈夫だよ」

 

「お前は何の仲間意識だよ!」

 

 会話の速度は、完全に朝へ戻っていた。

 

 黒江が理屈を立てる。

 

 真田が横から追い越す。

 

 犬飼が少し遅れて妙な角度から参加する。

 

 三枝が最後に短い一言を落とす。

 

 違うのは。

 

 四人の視線が、ずっとGVへ向いていることだった。

 

 GVはしばらく、その四つの顔を見比べた。

 

 そして。

 

 根負けした。

 

「……一回だけね」

 

 その一言で。

 

 あれほど騒がしかった四人が、同時に黙った。

 

「何?」

 

 黒江が慎重に聞く。

 

「今なんて?」

 

 真田まで、珍しくゆっくりだった。

 

 GVは少し嫌そうな顔をする。

 

「見せるって」

 

     ◇

 

 夕方の校舎裏。

 

 古いフェンス。

 

 街路樹。

 

 その向こうに校舎の壁。

 

 日はかなり低くなり、空は橙色から群青へ色を変え始めていた。

 

 GVが前。

 

 四人が後ろ。

 

 少なくとも。

 

 最初はそのはずだった。

 

「近いよ」

 

 GVが言うと、四人が揃って一歩下がる。

 

 真田だけ半歩。

 

「真田」

 

「何」

 

「近い」

 

「細部見えなくなる」

 

「見えるよ」

 

「ウェブを肉眼で初観測するんだぞ!?」

 

 黒江が真田の肩を掴み、強引にもう一歩下げた。

 

「研究者として適切な観察距離を守れ」

 

「お前も前出てんじゃねえか!」

 

「俺は部長だ!」

 

「何の権限だよ!」

 

 二人が揉める横で、犬飼は胸元へ手を伸ばした。

 

 一度考え。

 

 発光ユニットを消す。

 

「こっちの光、邪魔になるかなと思って」

 

 GVが見る。

 

「今日初めて役立ったね」

 

「消しただけなんだけど!?」

 

 三枝は緑のリングを外した。

 

 ポケットへしまう。

 

 自分が好きなヒーローの象徴を。

 

 今だけ。

 

 少し横へ置く。

 

 目の前の友人を見るために。

 

 GVが右手を上げる。

 

 最初に生まれたのは、指先で小さく弾ける火花だけだった。

 

 真田の呼吸が浅くなり、黒江は反射的に眼鏡を直し、犬飼は光の集まり方を追うように僅かに首を傾ける。

 

 三枝は瞬きすら忘れていた。

 

 GVの指先へ集まった蒼い雷は、空気へ奔放に枝分かれする代わりに、一本の細い光へ収束していく。

 

 最初のダートがフェンスへ飛ぶ。

 

 次は街路樹。

 

 三本目は校舎の壁。

 

 三つの支点が作られた瞬間。

 

 蒼い光が、その間を走った。

 

 フェンスから木へ。

 

 木から校舎へ。

 

 さらに別のダートが地面へ刺さり、次の線が斜めに重なる。

 

 もう一本。

 

 さらに一本。

 

 雷なのに落ちない。

 

 消えない。

 

 空中へ細い線として張り渡され、互いに交差しながら立体的な網を編んでいく。

 

 夕焼けを背景にして。

 

 蒼い蜘蛛の巣が、少しずつ完成していった。

 

 空間そのものへ縫い付けられたような雷糸は、風を受けるたび僅かに震え、その振動に合わせて細かな火花を散らした。

 

 橙色の夕日と。

 

 青白い雷。

 

 二つの光が四人の顔へ重なる。

 

 誰も喋らない。

 

 さっきまで一秒も黙っていられなかった真田さえ。

 

 何も言えない。

 

 GVはそんな四人を一度振り返り、少しだけ気恥ずかしそうに右手を構えた。

 

「――VOLTIC WEB STRINGER」

 

 手首を引く。

 

 張り巡らされた雷糸が一斉に収束した。

 

 地面へ置いてあった空き缶が蜘蛛の巣へ絡め取られ、蒼い線の上を滑るようにGVの方へ引き寄せられる。

 

 最後に。

 

 ぱし、と片手で掴んだ。

 

「……こんな感じ」

 

 静寂が続いた。

 

 GVが首を傾げる。

 

「何?」

 

 最初に聞こえたのは、鼻を啜る音だった。

 

 真田だった。

 

 両目から普通に涙を流している。

 

「……何で泣いてるの」

 

 真田は自分の三十センチウェブシューターを握りしめた。

 

「だって……ウェブだぞ……」

 

「うん」

 

「友達が……本当にウェブ出した……」

 

「そこ?」

 

 犬飼も目元を何度も擦っていた。

 

 泣いているくせに。

 

 視線はまだGVの手元とダートを追っている。

 

「ちゃんと支点ごとに張って……雷なのに線として維持して……」

 

「泣きながら分析するのやめて」

 

「だって……大事だよぉ……」

 

 いつもの言葉が。

 

 今日は鼻声だった。

 

 三枝は両手で顔を覆っていた。

 

「三枝?」

 

「……ヒーローって」

 

 手の向こうから小さな声がする。

 

「本当にいるんだな……」

 

「いや、僕は能力者だけど」

 

「今それどうでもいい……」

 

 黒江だけはまだ腕を組み、何とか耐えていた。

 

 GVがそちらを見る。

 

 黒江は眼鏡を外し、袖で目元を拭いてから、何事もなかったように掛け直す。

 

「……違う」

 

「何が」

 

「夕日が目に入った」

 

「ずっとこっち向いてたけど」

 

「うるせえ」

 

 少し鼻声だった。

 

 そこからしばらく。

 

 四人は、もう消えてしまった蒼い蜘蛛の巣の跡を見ていた。

 

 黒江はバットマンが好きだった。

 

 何度失敗しても。

 

 傷ついても。

 

 また街へ戻る男が好きだった。

 

 犬飼はアイアンマンが好きだった。

 

 失敗を次へ残し。

 

 何度でも作り直す男が好きだった。

 

 真田はスパイダーマンが好きだった。

 

 自分の生活がどれだけ滅茶苦茶でも。

 

 誰かが困っていれば、余計なことへ首を突っ込む男が好きだった。

 

 三枝はグリーンランタンが好きだった。

 

 恐怖を知らない者ではなく。

 

 怖いまま。

 

 それでも意志を選ぶ者が好きだった。

 

 そして今日。

 

 黒江は逃げたかったのに、生徒を遠ざけるために走った。

 

 犬飼は手を震わせながら工具を握った。

 

 真田は帰りたかったのに、警告を送り続けた。

 

 三枝は怖いと口にしたまま、扉の外から離れなかった。

 

 誰一人。

 

 ヒーローになったつもりなどない。

 

 それでよかった。

 

 そもそも。

 

 彼らがGVを「ウチのヒーロー」と呼んだのだって。

 

 能力者だからではなかった。

 

 壁を走れるからでも。

 

 雷を撃てるからでも。

 

 本物のウェブを張れるからでもない。

 

 困っている奴を見つければ。

 

 頼まれてもいないのに。

 

 勝手に手を伸ばす。

 

 その面倒なお節介を。

 

 四人は。

 

 秘密を知るずっと前から。

 

 ヒーローと呼んでいた。

 

「……なあ」

 

 黒江がようやく口を開いた。

 

 いつもの「まず前提として」はなかった。

 

「何」

 

「ファミレス行こうぜ」

 

 GVが振り返る。

 

「今から?」

 

「今から」

 

 返事は短かった。

 

 黒江は眼鏡の奥へまだ少し涙を残しながら、僅かに笑った。

 

「もっと教えてくれよ」

 

「能力のこと?」

 

「それもあるけど」

 

 黒江は一度だけ言葉を探した。

 

 理屈は並べない。

 

 バットマンも出さない。

 

「……お前のこと」

 

 GVはすぐには返さなかった。

 

 犬飼が、いつもの一拍遅れで沈黙へ入ってくる。

 

「いつから使えるのとか、どういうことしてきたのとかねえ。話せる範囲でいいから」

 

 三枝も小さく頷いた。

 

「……言いたくないことはいいし」

 

 そこへ。

 

 真田だけは待てなかった。

 

「あとウェブ!! どうやって思いついた!? 絶対スパイダーマンだよな!? 技名まで完全に――」

 

「真田」

 

「何」

 

「さっきまで泣いてたよね」

 

「泣いたまま聞いてる!!」

 

 三枝が吹き出した。

 

 犬飼も笑った。

 

 黒江も眼鏡を押し上げながら肩を揺らす。

 

 結局。

 

 いつもの四人だった。

 

 黒コートで何でも理屈へ持っていくバットマンの人。

 

 胸を光らせながら慢性的に金のないアイアンマンの人。

 

 三十センチしか飛ばないウェブシューターを宝物のように巻いているスパイダーマン狂。

 

 普段は一番静かなのに、グリーンランタンの解釈違いだけは誰より速く訂正する人。

 

 今日。

 

 少しだけ格好いいところを見せた。

 

 だからといって。

 

 別人になるわけではない。

 

 GVは四人の顔を順番に見た。

 

 そして。

 

 少しだけ困ったように笑った。

 

「長くなるよ」

 

 黒江が鼻を啜りながら笑う。

 

「上等」

 

 犬飼は工具袋を肩へ掛け、ドリンクバーがあるから時間はいくらでも潰せると言った。

 

 真田はそれを聞き終える前に「朝までいける」と宣言し、GVから即座に「帰れよ」と返される。

 

 三枝も鞄を持ち上げ、小さく笑った。

 

「……じゃ、行こ」

 

「うん」

 

 五人で校門へ向かう。

 

 黒いコート。

 

 工具ベスト。

 

 赤いパーカー。

 

 原色ジャケット。

 

 その間を歩くGV。

 

 ついさっき、本物の能力者事故へ巻き込まれた連中には見えない。

 

 誰が見ても。

 

 放課後の男子高校生。

 

 しかも。

 

 かなり濃いオタク五人組だった。

 

 それでよかった。

 

 校門を出る頃には、夕焼けの赤もかなり薄くなっていた。

 

 五人が珍しく数十秒ほど静かに歩いている。

 

 最初にその沈黙へ耐えられなくなったのは。

 

 やはり真田だった。

 

「なあGV」

 

「何」

 

「ファミレス着いたら、最初ウェブの話でいい?」

 

「嫌だよ」

 

 GVの返答は、真田の質問が終わった直後に返ってきた。

 

「なんで!?」

 

「僕のこと聞くんじゃなかったの?」

 

「ウェブもお前の一部だろ!!」

 

 黒江がすぐに乗る。

 

「それは一理ある」

 

「部長まで」

 

 犬飼は二人のやり取りが一往復してから、いつもの速度で加わった。

 

「構造も聞きたいなあ」

 

「触らせないからね」

 

「まだ言ってないよ?」

 

「顔で分かる」

 

 最後に。

 

 三枝が少しだけ迷って。

 

「……スイングも」

 

 GVが振り返る。

 

 三枝は普段よりほんの少しだけ、目を輝かせていた。

 

「見たい」

 

 GVは四人の顔を見渡した。

 

 黒江。

 

 犬飼。

 

 真田。

 

 三枝。

 

 朝から散々見てきた。

 

 うるさくて。

 

 面倒で。

 

 どうしようもなくオタクな。

 

 いつもの四人。

 

 GVは一度だけため息をついた。

 

「……いつかね」

 

 その返事が意味を持つまで、四人には一秒ほど掛かった。

 

 最初に真田の目が見開かれ、次に黒江が意味を飲み込み、犬飼が少し遅れて顔を上げ、最後に三枝の表情が明るくなる。

 

 そして。

 

 四人分の声が。

 

 ほとんど同時に夕暮れの道へ響いた。

 

「「「「マジで!?」」」」

 

 その騒がしさだけは。

 

 能力者であろうが。

 

 ヒーローであろうが。

 

 何一つ変わらなかった。




昨日まで、普通に話していたんです。

 小テストのこととか、帰りにコンビニへ寄るとか。

 そんな、明日も会えると思っていた話を。

 でも、その子は帰ってきませんでした。

 警察の方も、ご家族も探している。

 わたしが何かしたところで、きっと邪魔になるだけだと思っていました。

 それでも――心配することまで、諦めなくていいんですよね。

 GV。

 どうか、お願いします。

 あの子を……連れて帰ってきてください。

 次回。

 第五話「月下 ―ビースト―」

 ……必ず、連絡してくださいね。

 次回も、グッドラック!
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