『隣人GV ―もしもスパイディの影響を受けたGVなら―』 作:幸田市
放課後の教室に、乾いたチャイムの音が響いた。
一日の授業を終えた生徒たちは、それぞれの予定に従って動き始める。部活動へ向かう者、友人と寄り道の相談をする者、机に突っ伏したまま動こうとしない者。窓の外では運動部が準備を始めており、校庭から聞こえてくる掛け声が、開け放たれた窓を通して教室まで届いていた。
シアンは鞄へ教科書をしまいながら、机の上で震えたスマートフォンに気づいた。
画面に表示された名前を見て、自然と頬が緩む。
ミチルだった。
『シアン』
『前に約束した学校のことなんだけど』
『まだ、行ける?』
シアンは一度、窓の外へ目を向けた。
思い出したのは、療養所の庭だった。
風に飛ばされたハンカチを拾ったことから始まった、ほんの短い出会い。あの時、ミチルはシアンの制服を見て、学校は楽しいのかと尋ねてきた。
楽しいことばかりではない。
宿題もあるし、テストもある。朝は眠いし、GVはしょっちゅう提出物を忘れる。
そんな話をして、それでも学校へ通えることは好きだと答えた。
ミチルは、その何でもない学校生活に目を輝かせていた。
いつか行ってみたい。
そう願った少女へ、シアンは案内すると約束した。
『もちろん覚えてるよ!』
『ミチル、行けそうなの?』
返事はすぐに届いた。
『最近、調子いいんだ』
『ノワも前より長く外にいられるって』
『だから、一度行ってみたい!』
画面の向こうで、ミチルがどんな顔をしているのか容易に想像できた。
「何かいいことあった?」
隣から声がした。
顔を上げると、GVが鞄を肩へ掛けたまま立っていた。片手には読みかけのアメコミがあり、表紙からは派手な色彩のヒーローが覗いている。
「ミチルから連絡が来たの」
「ああ、前に言ってた子?」
「うん。学校に行ってみたいんだって」
「へえ。いいじゃん」
GVはあっさりと頷いた。
「じゃあ案内しようよ」
「簡単に言うけど、学校の許可もいるし、ミチルの体調もあるでしょ」
「だから先生に聞けばいいんじゃない?」
「……まあ、そうだけど」
シアンは少し考えた後、スマートフォンを鞄へしまった。
「よし。今から職員室行こう」
「今?」
「先生、まだいるでしょ」
「いると思うけど」
「GVも来て」
「僕も?」
「当たり前でしょ。案内するんだから」
GVは一瞬だけ首を傾げ、それから笑った。
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
そんなやり取りをしながら、二人は教室を出た。
もっとも、学校側への相談は想像していたほど簡単ではなかった。
外部からの見学者を受け入れる以上、授業の進行だけでなく、校内の移動経路や休憩場所、緊急時の対応も考えなければならない。ミチルの場合は特に、長時間の外出による身体への負担が問題になる。
担任は二人の話を聞き、学年主任へ確認を取ると約束した。
その傍らでGVは校内案内図を覗き込み、車椅子で移動しやすい通路を探していた。普段なら放課後の予定にばかり気を取られている少年が、珍しく真面目な顔で廊下の段差について尋ねている。
「あと、部室棟って外側から入れますよね」
「ええ。一階なら問題ないと思うけれど」
「じゃあアメ研とミニ四駆部も行けるかな」
「GV」
シアンが横から声をかける。
「まず授業の見学でしょ」
「分かってるって。でも、せっかくなら色々見たいじゃん」
その言葉に、シアンも反論はしなかった。
自分だって、ミチルに学校の楽しいところを沢山見せたいと思っている。
そうして何度かの連絡と調整を経て、見学の日程が決まった。
午前中は授業に参加し、昼食を一緒に取る。午後には十分な休憩を挟み、体調に問題がなければ放課後の部活動も見学できる。
オウカについても、通っている女子校が休みの日だったため、正式に同行の許可が下りた。
学校側の準備は、これで整った。
残る問題は、神園家の方にあった。
◇
神園家の療養所には、夕方になると決まって静かな時間が訪れる。
検査やリハビリが終わり、食事まで少し余裕のある時間帯。窓の外では庭木が風に揺れ、廊下を行き交う職員の足音も昼間より少なくなっていた。
その静けさの中で、ミチルだけが妙に忙しそうだった。
膝の上には学校の案内図。傍らには持ち物を書き出したメモ。タブレットにはシアンから送られてきた時間割が表示されている。
まだ数日も先の予定だというのに、準備は既に始まっていた。
『授業は数学なんだって!』
「……そうか」
『あと、お昼ごはんも一緒!』
「ああ」
『アメコミ研究会っていう部活もあるの!』
「……聞いた」
アキュラは向かいの椅子に座り、手元の資料を読み進めていた。
ミチルが学校見学について話し始めた時点で、彼は既に外出計画の詳細を確認している。移動時間、校舎の構造、付き添いの人数、休憩場所。どれも一通り目を通したが、読み終わったからといって懸念が消えるわけではなかった。
先日の療養所襲撃以来、警備体制は以前より厳重になっている。
ミチルの身体が弱いことも変わらない。
いくら体調が安定しているとはいえ、不特定多数の人間が出入りする学校に長時間滞在することには、相応の危険が伴う。
「ミチル」
アキュラは資料を閉じた。
「オレは反対だ」
ミチルの指が止まった。
『え?』
「校内には医療設備が十分にない。緊急時の搬送にも時間がかかる。今の状態で、わざわざ外へ出る必要はない」
『でも、ノワが一緒だよ?』
「それだけの問題ではない」
『学校の先生もいるよ』
「医療従事者ではないだろう」
『シアンもオウカもいる』
「……《電子の謡精》か」
アキュラの眉間に皺が寄った。
あの少女がミチルを守ったことは知っている。旧研究施設で妹を助け出した時、ミチル自身がそう伝えてきた。
だが、その事実と能力者に対する評価は別だった。
まして、妹の安全を他人の善意へ委ねるつもりなどない。
「今回は見送れ。もう少し安全を確保できるようになってから――」
『アキュラくん』
タブレットの画面がこちらへ向けられた。
『わたし、行きたい』
アキュラは口を閉じた。
ミチルはしばらく兄の顔を見つめ、それからもう一度指を動かした。
『学校って、どんなところなのか知りたい』
『シアンと一緒に授業受けてみたい』
『友達とお昼食べたい』
文字が増えるたびに、アキュラの眉間の皺も深くなっていった。
そんなことのために身体へ負担を掛ける必要があるのか。
学校など、特別な場所でも何でもない。授業を受けるだけなら療養所でもできるし、友人と会いたいのならこちらへ招けばいい。
反論はいくらでも思いついた。
しかし、それを口にする前に、ミチルがもう一文を打ち込んだ。
『行ったことないから、行ってみたいんだよ』
「…………」
アキュラは黙った。
知らない場所へ行きたい。
それだけの理由だった。
合理的とは言い難い。安全上の懸念が解消されたわけでもない。
だが、ミチルは初めからそれを承知している。
自分の身体が自由にならないことなど、誰に言われるまでもなく知っているのだ。
その上で、行きたいと言っている。
「……」
何か言おうとして、言葉が止まった。
不意に、あの海の上で聞いた声が蘇った。
――オマエ自身は何がしてぇんだよ。
《リキッド》。
忌々しい能力者が、戦いの最中に投げつけてきた問いだった。
父の教えに従う。
人類へ仇なす危険因子を討つ。
それが自分の使命だ。
あの男へは、そう答えたはずだった。
だが。
目の前にいる妹が、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ている。
その顔を見て、何がしたいのか。
アキュラは資料へ目を落とした。
校内の移動経路。滞在時間。緊急時の連絡先。
問題点は残っている。
ならば、残った問題を解消すればいい。
少なくとも、最初から選択肢を閉ざす必要はない。
「……ミチル」
呼びかけると、妹が顔を上げた。
「条件がある」
ミチルの目が丸くなる。
「滞在時間は厳守だ。少しでも体調に異常があれば帰還する。ノワの指示には必ず従え」
『うん!』
「それと――」
アキュラは一度、息を吐いた。
「オレも同行する」
ミチルの指が止まった。
『……アキュラくんも?』
「何だ。不満か」
『ううん!』
『一緒に来てくれるの!?』
「警護のためだ。勘違いするな」
傍らに浮かんでいたロロが、面白そうに笑った。
『へえ。アキュラくんも学校見学するんだ?』
「違う。警護だ」
『でもミチルちゃんと一緒に行くんでしょ?』
「だからそう言っている」
『ふふ、よかったね、ミチルちゃん!』
ミチルは嬉しそうに頷き、タブレットへ新しい文章を打ち始めた。
『じゃあ、アキュラくんも一緒にお昼食べよう!』
「……何?」
『学校で!』
「オレは別に――」
『だめ?』
ミチルが首を傾げる。
アキュラは数秒だけ黙った。
「……食事の時間まで滞在する予定なのだろう」
『うん!』
「なら、勝手にしろ」
その言葉が許可を意味すると理解したらしく、ミチルの顔がぱっと明るくなった。
すぐさまシアンへ連絡を取り始める。
アキュラはそんな妹を横目で見ながら、もう一度資料を開いた。
「……オレが付き添うなら、まあ、許可してやらんこともない」
『やった!』
今度は返事が早かった。
ロロが傍で笑っている。
アキュラはそれを無視し、学校側へ追加の同行申請を出すため、端末を操作し始めた。
◇
見学当日の朝。
ミチルは、いつもより早く目を覚ました。
前の晩から何度も確認した鞄には、タブレットの予備バッテリーや筆記用具、小さなノートが入っている。ノワが準備した必要品とは別に、学校で使ってみたいものを自分で選んだのだ。
眠りにつくのは少し遅くなったものの、体調は良好だった。
朝食を終え、身支度を整える頃には、窓の外もすっかり明るくなっている。
「ミチルさま、準備はよろしいですか?」
『ばっちり!』
「それは何よりです」
ノワが微笑む。
その後ろからアキュラが現れた。
今日は戦闘装備ではなく、動きやすい私服姿だった。もっとも、表情が普段と変わらないため、服装だけで随分と柔らかな印象になるわけでもない。
「忘れ物はないな」
『うん!』
「体調は」
『元気!』
「昨夜は眠れたか」
『眠れたよ』
アキュラは一通り確認し、頷いた。
ミチルはその様子を見ながら、少しだけ笑った。
『アキュラくん、ノワみたい』
「……何?」
「お気持ちは分かります」
ノワが穏やかに答える。
「私も、今朝は既に三度ほど同じことを確認しておりますから」
「必要な確認だろう」
「ええ。ですから、似ているのかもしれませんね」
ミチルの肩が揺れた。
ロロまで笑っている。
『アキュラくん、心配性だもんね!』
「……出発するぞ」
アキュラはそれ以上取り合わず、先に扉へ向かった。
ミチルは嬉しそうに頷き、ノワとともにその後を追った。
窓の外では、朝の陽が木々の葉を透かしている。
今日は、学校へ行く日だった。
◇
校門の前は、登校する生徒たちで賑わっていた。
制服姿の少年少女が友人と話しながら門をくぐり、駐輪場へ自転車を押していく。校舎の上階では窓を開ける生徒の姿が見え、グラウンドの方からは朝練を終えた運動部の掛け声が聞こえていた。
ミチルは、しばらくその光景を見上げていた。
写真で見るより、校舎はずっと大きかった。
そして、思っていた以上に人が多い。
自分と同じくらいの年頃の子たちが、当たり前のように学校へ入っていく。
その中へ、今日は自分も加わるのだ。
『……大きい』
タブレットの画面を見たノワが頷いた。
「そうですね」
『人もいっぱい』
「ええ。ですが、今日は皆さまと一緒に見学できますから」
その時だった。
「ミチルー!」
聞き慣れた声がした。
校門の内側からシアンが手を振っている。その隣にはオウカ。そして、もう一人、青い髪の少年が立っていた。
ミチルは嬉しそうに顔を上げた。
『シアン!』
『オウカも!』
「おはよう、ミチル!」
「おはようございます。今日はよろしくお願いしますね」
二人が近づく。
シアンはしゃがんでミチルと目線を合わせ、今日の体調について尋ねた。ミチルが元気だと伝えると、安心したように笑う。
「よかった。先生も待ってるから、さっそく行こうか」
『うん!』
「あ、そうだ。その前に」
シアンは隣の少年を振り返った。
「ミチル、紹介するね。こっちがGV。前に話したでしょ?」
ミチルは少年を見上げた。
シアンが学校の話をするたびに、何度も名前が出てきた人だった。
提出物を忘れる。
映画が好き。
ミニ四駆に夢中。
そして、困っている人がいると放っておけない。
聞いていた話からは、なかなか一人の人物像が結びつかなかった。
けれど、実際に目の前へ立った少年は、思っていたよりもずっと普通の高校生に見えた。
「はじめまして、ミチル」
GVが笑って、片手を上げる。
「僕がGV。シアンから話は聞いてるよ」
ミチルはすぐにタブレットを操作した。
『はじめまして!』
『わたしもシアンからいっぱい聞いてるよ!』
「……いっぱい?」
GVがシアンを見る。
「何話したの?」
「色々」
「色々って何?」
「別にいいでしょ」
『宿題忘れるって!』
「シアン!」
即座に抗議するGVを見て、ミチルは笑った。
どうやら、シアンから聞いていた話は本当らしい。
「もう、ミチルまで」
シアンも笑っている。
そのやり取りを少し離れた位置から見ていたアキュラは、露骨に眉を顰めた。
「……貴様か」
GVが振り向いた。
「あれ、アキュラ?」
「何だ」
「いや、君も来るんだ」
「ミチルの警護だ。貴様には関係ない」
「そっか。よろしくね」
「馴れ馴れしくするな、《蒼き雷霆》」
「朝から元気だねえ」
「貴様……!」
アキュラの眉間に皺が寄る。
ミチルは二人を交互に見比べた。
『知り合いなの?』
「まあ、そうかな」
GVが答える。
「違う」
アキュラが即答した。
ミチルはもう一度、二人の顔を見比べた。
『……仲悪いの?』
「そんなことないよ」
「良くはない」
「ほら、こういう感じ」
「どういう感じだ!」
ミチルが声を出さずに笑った。
横でロロも楽しそうに揺れている。
『いやあ、朝から相変わらずだねぇ』
「ロロ。余計なことを言うな」
シアンは少し困ったように笑い、オウカも口元へ手を添えた。
何とも騒がしい顔合わせになったが、ミチルの緊張はすっかりほぐれていた。
GVが校舎の方へ手を向ける。
「じゃあ、行こうか。今日は色々案内するよ」
『うん!』
ミチルは大きく頷いた。
校門をくぐる。
その向こうには、これまで写真でしか見たことのなかった学校生活が広がっていた。
◇
教室へ入ると、ミチルは思わず周囲を見回した。
並んだ机と椅子。黒板。教室の後ろに貼られた掲示物。窓際には小さな植物が置かれ、壁の時計が秒針を進めている。
どれも特別なものではない。
けれど、実際にその場へ身を置くと、写真で見ていた時とは随分違って感じられた。
用意されていた席は窓際だった。車椅子のまま机へ向かえるよう、周囲には十分な空間が確保されている。
アキュラは移動経路と出入口を確認し、ノワへいくつか注意事項を伝えると、授業の邪魔にならない場所へ下がった。学校側との取り決めで、授業中は付き添い者として後方から見守ることになっている。
ミチルがタブレットを掲げた。
『神園ミチルです』
『今日はよろしくお願いします!』
担任の紹介に続いて挨拶すると、教室のあちこちから返事が返ってきた。
「よろしくー!」
「シアンの友達なんだって?」
「ミチルちゃん、こっちもよろしく!」
何人かの女子生徒が近づき、ミチルへ声をかける。
最初は少し緊張していたミチルだったが、質問に答えるうちに自然と笑顔が増えていった。
タブレットで会話することにも、周囲はすぐに慣れた。
文字を入力している間は少し待ち、表示された画面を見て返事をする。それだけのことだった。
やがて授業開始のチャイムが鳴り、生徒たちがそれぞれの席へ戻っていく。
ミチルも机へ向き直った。
今日の授業は数学だった。
教師が黒板へ式を書き、教科書のページを指定する。紙をめくる音が教室のあちこちで重なり、やがて静かになった。
ミチルはノートを開き、説明に耳を傾けた。
普段から問題集には取り組んでいるため、内容そのものに戸惑うことは少なかった。ただ、教師の説明に合わせて周囲の生徒が一斉に手を動かす光景は新鮮だった。
途中、黒板に出された問題を解く時間になる。
ミチルは式を眺め、少し考えてからノートへ答えを書いた。
隣にいたシアンがちらりと覗く。
「……もう解けたの?」
小声だった。
ミチルが頷く。
『前にやったことある』
「へえ、すごい」
その時、教壇から声が飛んできた。
「そこ、授業中ですよ」
「あっ、すみません!」
シアンが慌てて前を向く。
ミチルも肩を竦めた。
教室の後方では、ノワが小さく笑っている。
その隣にいたアキュラは、黒板へ目を向けたままだった。
授業が終わると、GVが楽しそうに近づいてきた。
「シアン、注意されてたね」
「GVにだけは言われたくない」
「なんで?」
「普段の授業態度を思い出して」
「……そんなに?」
『GVも怒られるの?』
ミチルが尋ねると、GVは少し考えた。
「たまにね」
「この前なんか、授業中にミニ四駆のセッティング考えてたんだよ」
「いや、授業も聞いてたから」
「余計ダメじゃん」
シアンの指摘に、GVが苦笑する。
ミチルはその言葉に興味を示した。
『ミニ四駆って、そんなに面白いの?』
GVの目が変わった。
「面白いよ。今日、時間があれば見せるね」
『ほんと!?』
「うん。メラクもいると思うし」
その名前を聞いても、ミチルには誰のことか分からなかった。
ただ、GVの表情から、きっと面白い人なのだろうと思った。
シアンは少しだけ嫌な予感がした。
GVが好きなものについて話し始めると、そう簡単には止まらない。
もっとも、今日に限っては、それも悪くない気がした。
◇
午前中の見学が終わり、昼休みになった。
教室の空気は一変する。
食堂へ向かう生徒たちが廊下へ流れ、教室では机を寄せて昼食の準備が始まった。さっきまで整然と並んでいた机が、幾つもの小さな集まりへと形を変えていく。
ミチルはその様子を面白そうに眺めていた。
『急ににぎやかになった』
「休み時間だからね」
シアンが笑う。
「ミチル、こっちで食べよう」
窓際には、シアンの友達たちが机を寄せて待っていた。
ノワが用意した食事を並べ、問題なく食べられることを確認してから、少し離れたところへ下がる。オウカも椅子を借り、女子たちの輪へ加わった。
GVは友人から呼ばれ、別の場所へ向かったらしい。
アキュラも、妹がノワと一緒にいることを確認すると、休憩を兼ねて廊下へ出ていった。
最初は学校の話だった。
好きな科目。苦手な科目。授業中に居眠りして叱られた話。
そこから最近流行っているゲームや、休日に行った店の話になり、誰かがシアンの髪飾りを褒めたことで、今度は買い物の話へ移った。
話題は目まぐるしく変わったが、ミチルは一生懸命についていった。
入力に時間がかかることもあった。それでも、誰も急かさない。ミチルが画面を向ければ話を聞き、笑えば一緒に笑う。
それが、ミチルには嬉しかった。
やがて話題が恋愛へ移ったのは、誰かが隣のクラスのカップルについて話し始めたからだった。
「そういえばさ、あの二人、付き合い始めたんだって」
「えっ、マジ?」
「やっぱりね。最近ずっと一緒だったもん」
女子たちが口々に話し始める。
ミチルは興味深そうに聞いていたが、やがてタブレットを操作した。
『みんな、好きな人いるの?』
「おっ、ミチルちゃんも気になる?」
『うん!』
その素直な返事に笑い声が上がる。
しばらく互いの恋愛事情を話していた女子たちだったが、やがて視線がシアンへ集まった。
「そういえばシアン、最近GVくんどう?」
「え?」
「どうって、彼氏でしょ?」
シアンの箸が止まった。
「……どうって言われても」
「最近も仲いいよねえ」
「そりゃ、まあ……」
シアンは頬を少し赤くする。
ミチルが目を輝かせた。
『GVの話?』
「そうそう。ミチルちゃん、今日初めて会ったんだよね?」
『うん!』
『シアンからいっぱい聞いてた!』
「えっ、そうなの?」
女子たちが面白そうに身を乗り出す。
シアンは何となく嫌な予感がした。
「……何を聞いたの?」
『宿題忘れるって!』
「そこ!?」
教室の一角に笑い声が広がる。
シアンは抗議しようとしたが、考えてみれば自分が話したことだった。
「でもさ、GVくんって本当に色々やるよね」
女子生徒の一人が言う。
「この前も困ってる子助けてたし」
「そうなの!」
シアンが顔を上げた。
「もう、ほんっと無茶するんだから。こっちは心配してるのに、本人は平気そうな顔して帰ってくるんだよ?」
「へえ。大変そう」
「大変だよ! しかも困ってる人見つけると、こっちが止める前に行っちゃうし」
最初は、いつもの愚痴だった。
少なくとも、シアン本人はそのつもりだった。
「……でもね」
ふっと笑う。
「そういう時のGVって、すっごくかっこいいんだ」
口調が変わった。
「相手が誰かとか、あんまり気にしないの。困ってる人がいたら、当たり前みたいに手を伸ばしてさ。助けた後も、全然偉そうにしないし」
「……ほう?」
「それで、お礼言われても『手が空いてたから』とか、そんなこと言うんだよ。ほんと、GVってば……」
シアンは思い出すように視線を上げた。
その表情を見て、女子たちが顔を見合わせる。
「……ねえ」
「うん」
「これ、愚痴?」
「完全に惚気でしょ」
「シアン、めっちゃ嬉しそうなんだけど」
「えっ!?」
シアンが慌てて顔を上げた。
「ち、違うよ! 本当に心配してるんだから!」
「それは分かったけどさ」
「心配してる顔じゃなかったよ?」
「目がハートだった」
「なってない!」
即答だった。
オウカが口元へ手を添え、小さく笑う。
「ふふ。シアンさん、GVさんのお話をしている時は本当に楽しそうですから」
「オウカまで!?」
「ですが、心配なさっているのも本当ですよね」
「……うん。それは本当」
そこだけは、少し真面目な顔になった。
「だから無事に帰ってきたら、ちゃんと怒るんだよ。そうしたらGV、困ったみたいに笑って『ごめんね』って……」
「はい、第二ラウンド!」
「また彼氏自慢始まった!」
「だから自慢じゃないってば!」
女子たちが笑う。
ミチルも肩を揺らしていた。
何とか話題を変えようとするシアンだったが、なかなかうまくいかない。オウカまで楽しそうにしているものだから、味方がいなかった。
その時だった。
『はいはい。今日も始まったわね』
聞き慣れた声が、シアンの傍らから響いた。
淡い青白い光が揺れ、小さなモルフォが姿を現す。
まだ以前のように自由に活動できる状態ではない。具現化した姿は小さく、輪郭も少し淡かったが、その表情はいつもどおりだった。
『まったく。GVの話になると止まらないんだから』
「モルフォ!?」
シアンが小声で抗議する。
『何よ。事実でしょ』
「今はいいってば!」
隣のオウカが、ますます楽しそうに笑った。
「ふふ。モルフォさんも大変ですね」
『分かってくれる? オウカ』
「はい。ですが、幸せそうで何よりです」
「二人とも!」
周囲の女子たちは、シアンが急に小声で抗議し始めたことに首を傾げていた。
彼女たちには、モルフォの姿が見えていない。
ところが。
『ねえ、シアン』
ミチルがタブレットを持ち上げた。
「ん?」
『その青い子、誰?』
シアンの動きが止まった。
オウカも目を丸くする。
「……ミチル?」
『シアンの横にいる子』
『小さくて、青くて』
『すっごくかわいい!』
ミチルは嬉しそうにモルフォのいる場所を指差した。
シアンとオウカが顔を見合わせる。
「……見えるの?」
『うん』
当たり前のような返事だった。
ミチルにとっては、目の前にいる小さな女の子を見ているだけなのだから、不思議に思う理由がない。
モルフォ自身も少しだけ驚いた顔をした。
『……へえ』
シアンは以前、療養所でミチルと初めて会った時のことを思い出した。
あの時、確かに何か奇妙な感覚があった。
けれど、その意味は今も分からない。
『あなたがモルフォ?』
ミチルが尋ねる。
モルフォはすぐに普段の調子へ戻った。
『そうよ。アタシがモルフォ。よろしくね、ミチル』
『よろしく!』
ミチルは満面の笑みを浮かべた。
それから、少し考えて文字を打つ。
『モルフォも、GVのこと好き?』
『まあ、嫌いじゃないわね』
「ちょっと、ミチル!?」
『あら、いい質問じゃない』
「モルフォも乗らないで!」
シアンの抗議をよそに、二人はすっかり楽しそうだった。
ミチルはすぐに次の質問を入力し、モルフォも面白がって答えようとする。
そのたびにシアンが慌て、オウカが笑う。
周囲の女子たちは何が起きているのか分からないまま、シアンがさらに赤くなっていく様子だけを見ていた。
ミチルは笑いすぎて、しばらく文字を打てなかった。
ようやく落ち着いてから、タブレットへ短い文章を入力する。
『女子会って、こんなに楽しいんだね!』
その言葉に、シアンもつられて笑ってしまった。
少し騒がしすぎる気もするけれど。
今日のミチルが楽しそうなのは、間違いなかった。
◇
同じ頃。
アキュラは廊下の窓際で、ノワから送られてきたミチルの体調記録を確認していた。
午前中の授業見学を終えた時点で、数値に大きな変動はない。食事についても問題なく、午後の休憩時間を十分に確保すれば、予定していた部活動見学まで参加できそうだった。
ひとまず、懸念していた事態は起きていない。
端末を閉じ、顔を上げる。
窓の向こうでは、男子生徒たちが校庭を横切っていた。誰かが冗談を言ったらしく、数人が笑いながら肩を叩き合っている。
その中に、見覚えのある金髪があった。
《蒼き雷霆》。
アキュラの眉が僅かに動く。
相変わらず、随分と無警戒だった。
人類に仇なす力を持ちながら、あの少年は何の警戒もなく無能力者たちの輪へ混ざっている。そして、周囲の生徒もまた、彼を特別扱いする様子がない。
それが以前から気に掛かっていた。
「……貴様ら」
近くを通りかかった生徒たちへ声をかける。
男子生徒が一人、女子生徒が二人。いずれもごく普通の学生だった。
「え、俺ら?」
「ああ。一つ聞く」
アキュラは窓の向こうへ視線を向けた。
「貴様らは、あの《蒼き雷霆》が何者なのか知っているのか」
三人は顔を見合わせた。
「……GV?」
「知ってるけど」
「能力者でしょ?」
「ならば、恐ろしくはないのか」
その問いに、三人はすぐには答えなかった。
最初に口を開いたのは、女子生徒の一人だった。
「……正直、怖いとは思うよ」
アキュラが目を細める。
「ほう」
「だって、雷とか普通に出せるんでしょ? ニュースで能力者の事件とか見ると、やっぱり怖いし」
隣の男子生徒も頷いた。
「俺も、最初はちょっとびびったな。話しかけるのも何となく緊張したし」
「……ならば、何故平然と接している」
アキュラが尋ねると、女子生徒は少し考えた。
「いや、でも……話してみたら普通だったし」
「普通?」
「うん。宿題忘れるし、テスト前に焦るし。好きな映画の話になると、めちゃくちゃ早口になるし」
男子生徒が吹き出した。
「あー、それな!」
「しかもさ、前に荷物落とした時、一緒に拾ってくれたんだよね。周りも忙しそうだったのに」
女子生徒は少し懐かしそうに笑った。
「ありがとうって言ったら、『いいよ、手が空いてたし』って。それだけ」
「…………」
「なんか、思ってたよりずっと普通の男の子なんだなって思った」
アキュラは黙った。
第七波動の危険性を判断するうえで、そのような出来事に意味があるとは思えなかった。
しかし、女子生徒はさらに続けた。
「シアンも最初はちょっと話しかけづらかったんだけどね。昔のこととか、聞かない方がいいのかなって思ってたし」
「……《電子の謡精》か」
「そうそう。でも、向こうから普通に話しかけてくれたんだよ。お菓子の話とか、休みの日の話とか。わたしが落ち込んでた時も、放課後にずっと話聞いてくれてさ」
その表情は穏やかだった。
「それに、困った時に助けてもらったこともあるし。あの子も普通に友達なんだよ」
「危険性を忘れたというのか」
「いや、忘れてないよ」
返事は早かった。
「怖いものは怖いし。でも、それとシアンが友達なのは別じゃん?」
アキュラは眉を顰めた。
理解できない。
危険性を認めながら、その相手を信頼する。
それも、自分たちが一緒に過ごしてきたという理由だけで。
そんなものは、危機管理の根拠にはならない。
「……貴様らは随分と呑気だな」
思わず吐き捨てると、男子生徒が苦笑した。
「まあ、そうかも。でもさ、俺ら、あいつと結構長いこと一緒にいるし」
「だから何だ」
「いや、だから……今さらGVはGVじゃん」
「…………」
また、それか。
アキュラは眉間の皺を深くした。
男子生徒は困ったように頭を掻く。
「そりゃ、あいつがもし雷を暴走させたら怖いよ。でも、あいつだってそんなことになったら嫌だと思うし」
その言葉を聞いて、アキュラは一瞬だけ目を細めた。
「何を根拠にそう断言する」
「根拠って言われてもなあ」
男子生徒は少し考えた。
「……普段のあいつ見てるから?」
あまりにも曖昧な答えだった。
議論を続けても無駄だと判断し、アキュラは会話を切り上げた。
生徒たちはそれほど気にした様子もなく、軽く会釈して去っていく。
再び、廊下に一人残された。
「……くだらん」
窓の外を見る。
先ほどまで校庭にいたGVは、もう姿を消していた。
それでも、先ほどの生徒たちの言葉が妙に耳へ残っていた。
怖いものは怖い。
それでも、友達だから。
話してみれば、普通の人と変わらなかったから。
アキュラは鼻を鳴らした。
そんな感情論で第七波動の危険性が消えるなら、誰も苦労はしない。どれほど善良な人間であろうと、制御を失った力が周囲へ及ぼす被害は変わらない。
その程度のことも分からないのか。
そう切り捨てようとして。
不意に、甲高いモーター音が脳裏を過ぎった。
ホビーショップ。
小さなコース。
自分のマシンを覗き込んでくる、金髪の少年。
――めちゃくちゃハマってるじゃん。
「…………」
眉間に皺が寄った。
今度は、別の光景が浮かぶ。
コースの最終周。自分と《蒼き雷霆》のマシンが僅かに姿勢を崩した、その隙間を一台のマシンが抜けていく。
ゴール。
《電子の謡精》が、両手を上げて喜んでいた。
あの時の表情まで、はっきりと覚えている。
……何故だ。
戦闘記録ではない。
第七波動の分析に必要な情報でもない。
ただ、一緒に遊んだ。
それだけのことだった。
アキュラの指がゆっくりと握り込まれていく。
《蒼き雷霆》。
その名を思い浮かべても、真っ先に浮かぶのは雷を操る姿ではなかった。
得意げに笑いながら、ミニ四駆を持ち上げる少年の顔。
《電子の謡精》も同じだ。
自分を出し抜いたことを喜び、次の勝負でも負けないと笑っていた少女。
能力者。
危険因子。
討滅すべき対象。
そうであるはずなのに。
「……ッ」
奥歯を噛んだ。
否定しようとして、できなかった。
それが何よりも腹立たしい。
以前なら、もっと簡単だった。
「……クソッ」
押し殺した声が漏れた。
アキュラは一度だけ目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
その時、傍らにいたロロが口を開いた。
『……アキュラくん』
「何だ」
『ミチルちゃん、そろそろ休憩に入るって』
「……そうか」
アキュラは端末を確認した。
午後の予定。
休憩時間。
部活動見学。
そこには何の問題もない。
「行くぞ」
『うん』
ロロはそれ以上、何も尋ねなかった。
アキュラは廊下を歩き出す。
背後では、相変わらず生徒たちの笑い声が響いていた。
◇
午後の授業が終わる頃には、ミチルの体調も十分に落ち着いていた。
保健室での休憩を終え、ノワによる確認を受けた後、予定どおり部活動見学へ向かうことになった。
最初の目的地は、アメコミ研究会だった。
部室棟の一角にあるその部屋は、扉の外からして随分と騒がしかった。
壁には映画のポスターやヒーローのイラストが貼られ、手作りの案内板には大きな文字でこう書かれている。
『なんでも解決します!! アメコミ研究会』
その下には、さらに一文。
『ウチにはヒーローがいます。』
ミチルは看板を見上げた。
『……ここ、何する部活?』
「アメコミを読む部活」
GVが答える。
『それだけ?』
「いや、映画観たり、フィギュア弄ったり、たまに変な企画やったり」
「変な企画、ですか?」
オウカが尋ねる。
GVは少し考えた。
「……見れば分かると思う」
そう言って、部室の扉を開ける。
途端に、騒がしい声が飛び込んできた。
「だから! その解釈は違うっつってんだろ!」
「何が違うんだよ!」
「まず前提として、ヒーローという存在は――」
「部長の前提、毎回長いんだよ!」
GVは扉を開けたまま、三秒ほど黙った。
「……今日も元気だねえ」
その声に、室内の視線が一斉に集まる。
最初に反応したのは、黒いロングコートを羽織った眼鏡の男子生徒だった。
「おお、GV! 待っていたぞ!」
黒江トオル。
アメコミ研究会の部長であり、バットマンについて語り始めると話が長くなる男だった。
本人は否定しているが、そのコートもどう考えても趣味の影響である。
「今日は見学の子連れてきたよ」
「うむ! まず我々アメコミ研究会の活動理念から説明すると――」
「長い長い。普通にこんにちはでいいって」
「まだ一行目だぞ!?」
「一行目から嫌な予感がするんだよ」
「お前、部長への敬意はないのか!」
「あるよ。ちょっとだけ」
「ちょっとかよ!」
黒江が眼鏡を押し上げる。
その動作を見たGVは、反射的に身構えた。
この男が眼鏡に触れた後は、大体話が長くなる。
しかし、今日はそれより早く別の声がした。
「ねえ、GV。これ見てよ」
机の奥から顔を上げたのは、犬飼ケンジだった。
制服の上にはポケットだらけの作業ベスト。額にはゴーグルを掛け、机の上には配線や小さな部品が散らばっている。
その手には、青白く光る円形の装置があった。
「何それ」
「歓迎用のアークリアクター」
「……何を歓迎するの?」
「ミチルちゃん」
「いや、それは分かるけど」
「光るよ」
「うん」
「七色に」
「無駄に高性能だな!」
GVが思わず突っ込む。
犬飼は満足そうに頷いた。
「頑張ったからねえ」
「そこ頑張るところ?」
「大事だよ?」
本人は大真面目だった。
その横から、今度は赤いパーカー姿の男子生徒が割り込んできた。
「おいおい! 初めて来た子への歓迎がそれだけでいいと思ってんのかよ!」
真田リク。
スパイダーマンの話題になると、普段の倍ほど口が速くなる男だった。
左手首には、銀色の筒状の装置が取り付けられている。
「ちょっと待って真田。それ、また改造した?」
GVが尋ねる。
「当然だろ! 見ろよ、試作ウェブシューター三号!」
「前は三十センチしか飛ばなかったやつ?」
「今は五十センチだわ!」
「伸びたなぁ」
「感心薄くね!?」
「いや、ちゃんと感心してるって」
「顔に出せよ!」
真田が騒ぐ。
その少し後ろでは、三枝ユウタが静かに本を閉じていた。
右手の中指には緑色のリング。
普段は物静かな彼も、好きな作品の解釈を間違えられた時だけは、誰よりも速く口を開く。
「……とりあえず、座ってもらったら」
その一言で、ようやく全員が来客の存在を思い出した。
GVがミチルを振り返る。
「ごめん。いつもこんな感じなんだ」
ミチルは既に肩を揺らしていた。
『面白い!』
画面を掲げる。
黒江が胸を張った。
「当然だ! 我々は――」
「お前は黙ってろ!」
真田が遮った。
「何でだよ!」
そのやり取りにミチルはまた笑い、シアンも呆れたように肩を竦めた。
部室の中は、思っていた以上に雑然としていた。
本棚には翻訳コミックと原書が詰め込まれ、壁には映画のポスター。机の上にはフィギュアや工具、飲みかけの炭酸飲料まで並んでいる。
誰かの好きなものが、誰かの好きなものとぶつかりながら同じ場所に収まっていた。
ミチルはどこから見ればいいのか迷ってしまうほどだったが、不思議と落ち着かなかったわけではない。
むしろ、次に何を見せてもらえるのか楽しみで仕方がなかった。
そんな部室の隅で、アキュラは黙って壁際に立っていた。
騒がしい連中だった。
何をするにも声が大きい。しかも、全員がそれぞれ違う話をしているように見える。
ミチルが楽しんでいることだけは分かったが、こんな場所で長時間過ごす必要があるのかは疑問だった。
そう考えていた時。
「……あれ?」
犬飼が顔を上げた。
「ねえ、GV」
「ん?」
「その人、もしかして……?」
犬飼の視線がアキュラへ向く。
GVも振り返った。
「ああ、アキュラ」
「えっ、マジ?」
犬飼が椅子から立ち上がる。
「自分で戦闘装備作ってるっていう?」
「そうだけど」
「……マジで?」
犬飼はアキュラを見た。
アキュラも怪訝そうに見返す。
「何だ」
「いや……ちょっと待って」
犬飼は額のゴーグルを押し上げた。
そして、叫んだ。
「アイアンマン枠きたぁぁぁぁぁぁ!!」
「うおおおおおお!?」
真田が反射的に立ち上がった。
「マジ!? 例の自作パワードスーツの人!?」
「おいGV! 何で今まで連れてこなかったんだよ!」
「いや、僕が連れてこられる相手じゃないし!」
「その認識で正しい」
アキュラが即答する。
しかし、男子たちは聞いていなかった。
黒江が眼鏡を押し上げた。
「待て、まず前提として確認したい。彼は第七波動を持たないんだな?」
「ああ」
「そして自ら装備を設計し、自ら戦闘に参加する」
「そうだが」
「しかも搭載した兵装は状況に応じて換装可能」
「……何が言いたい」
黒江はゆっくりと犬飼を見た。
犬飼も頷いた。
「……本物じゃん」
「本物だな」
「何がだ!?」
アキュラの声が部室に響いた。
その後の会話は、彼が予想していたものとは随分違った方向へ進んだ。
犬飼が、机の上に置いていた自作の発光装置を持ち上げたのである。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「……何だ」
「外装の電源って、全部共通なの? それとも推進系と兵装系で分けてる?」
アキュラの表情が僅かに変わった。
先ほどまでの露骨な不機嫌さが、ほんの少し薄れる。
「……用途による。高出力系統まで一括管理すれば、負荷が集中するだろう」
「だよね!? じゃあ駆動系の制御は?」
「当然、独立した制御系を設ける」
「やっぱり! いや、それ僕も考えてたんだよ! ただ、こっちは部品のスペースが足りなくてさあ」
犬飼が自作装置の裏側を開いて見せる。
アキュラは何気なく覗き込み、そのまま数秒黙った。
「……ここに配置する意味は?」
「発熱するから、外側へ逃がしたくて」
「ならば配線をこちらへ回した方がいい。現状では放熱経路を塞いでいる」
「……あっ!」
犬飼が目を見開いた。
「うわ、マジだ! そこ盲点だった!」
「設計時点で分かることだろう」
「いやあ、そうなんだけどねえ!」
犬飼は全く気にしなかった。
むしろ嬉しそうに工具を取り出し、指摘された場所を確認し始める。
その横では、真田がGVの肩を掴んでいた。
「おいGV! あいつすげえぞ!」
「だから言ったじゃん。技術は本物だって」
「いや、もっと早く言えよ!」
「言ってたよ!?」
「全然足りねえって!」
GVも笑いながら、アキュラの方へ近づく。
「アキュラ、その辺めっちゃ得意だよね」
「貴様に褒められる筋合いはない」
「いや、褒めてるんだからいいじゃん」
「黙れ、《蒼き雷霆》」
「ほら、こういう感じなんだよ」
GVが真田へ説明する。
「何がだ!」
「いや、褒めても怒るから」
「誰が怒っている!」
「今めっちゃ怒ってるじゃん!」
真田が吹き出した。
そんな二人を横目に、黒江が腕を組む。
「しかし、興味深いな」
「今度は何だ」
「君は自分の技術によって戦うわけだろう。つまり、超常的な力を持つ者たちに対して、人間自身の知性で挑んでいることになる」
「……当然だ」
アキュラが答える。
「人間は、自ら生み出した技術で限界を超えてきた。それの何が不思議だ」
黒江の目が輝いた。
「そう! そういうことだ!」
「……何?」
「つまり君は、技術そのものを人間の可能性だと考えているわけだな!」
「事実だろう」
「うおおお! そこはトニー・スタークだろ!」
真田が叫ぶ。
「いや待て! 思想の部分まで含めると、むしろバットマン的な要素も――」
「お前またバットマンに寄せようとしてんじゃねえか!」
「違う! これは正当な考察だ!」
黒江が机を叩く。
すると、それまで静かに聞いていた三枝が口を開いた。
「……でもさ、ちょっと違わない?」
全員が振り向く。
「道具を作れることと、それをどう使うかって別の話でしょ」
アキュラが目を向けた。
「何が言いたい」
「いや、強い装備を作れるのはすごいと思う。でも、それで何をするかも大事じゃん」
部室に、ほんの少しだけ静けさが戻った。
アキュラは三枝を見つめた。
先ほど廊下で聞いた生徒たちの言葉が、僅かに脳裏を過ぎる。
しかし、今度はそれを考える前に答えていた。
「……その判断を誤らないために、技術と知識が必要なんだろう」
三枝は頷いた。
「それはそうだね」
「おっ」
GVが笑う。
「何か普通に話せてるじゃん」
「貴様は黙っていろ」
「えー」
犬飼が再び装置を持ち上げる。
「そうだ。アキュラくん、今度ここの設計も見てくれない?」
「……今度?」
「うん。もうちょっと出力上げたいんだよねえ」
「まず電源設計から見直せ」
「やっぱそうだよねえ」
「あと冷却もだ。現状では連続稼働を想定していないだろう」
「え、そこも分かる?」
「見れば分かる」
GVが笑いを堪えた。
「……何だ」
「いや、アキュラ、めっちゃ馴染んでるなって」
「馴染んでなどいない!」
「今普通に次来る話してたじゃん」
「技術的な助言をしただけだ!」
「はいはい」
「その返事をやめろ!」
アキュラが睨む。
しかし、犬飼はもう次の質問を用意していた。
黒江も黙っていないし、真田は自分のウェブシューターを見てほしいと言い出す。
結局、アキュラは男子たちの輪から抜け出す機会を失った。
その様子を、ミチルは部室の隅から眺めていた。
兄が誰かと、こんなふうに話している。
仕事でもなく、訓練でもなく、妹である自分のためでもない。
ただ、興味のあるものについて話している。
時折怒鳴るし、相変わらず口調も厳しい。それでも、兄の視線は犬飼の工作物へ向けられたままだった。
ミチルは嬉しそうにタブレットを操作した。
『アキュラくん、楽しそう!』
「……!」
アキュラが振り向く。
「楽しくなどない!」
GVが笑った。
「いや、今絶対楽しかったでしょ!」
「貴様まで!」
「いいじゃん。楽しいなら楽しいで」
「黙れ!」
ミチルは肩を揺らして笑った。
そんな妹の表情を見て、アキュラは反論しかけた口を閉じる。
結局、何も言わずに作業台へ視線を戻した。
犬飼が何事もなかったように次の質問を投げかける。
「でさ、推進装置って――」
「……まず、何を実現したいか決めろ。必要な出力も分からず設計などできるか」
「おお、なるほど!」
また会話が始まった。
GVは楽しそうに笑っている。
シアンも呆れたように微笑み、オウカは興味深そうにその光景を見つめていた。
ミチルは、今日初めて見る兄の姿から、なかなか目を離せなかった。
◇
アメコミ研究会での見学が終わる頃には、当初予定していた時間を少し過ぎていた。
原因は明白だった。
アキュラである。
もちろん、本人は認めなかった。
犬飼の装置について幾つかの問題点を指摘し、改善案を説明していただけだと主張したが、それにしては随分長い時間を使っていた。
GVがそのことを指摘すると、また少し言い合いになった。
結局、ノワがミチルの体調を確認し、そろそろ次の場所へ移動しましょうと促したことで、ようやく部室を出ることになった。
別れ際、犬飼がアキュラへ手を振った。
「また来てねー!」
「……機会があればな」
アキュラが答える。
GVが横から笑った。
「今、また来るって言った?」
「言っていない!」
真田が腹を抱えて笑う。
「いや、絶対来るだろ!」
「次はウェブシューターも見てもらおうぜ!」
「お前のはまず飛距離伸ばせよ!」
「五十センチあるっつってんだろ!」
最後まで騒がしい部室だった。
その声を背中に受けながら、ミチルたちは次の目的地へ向かった。
◇
ミニ四駆部の部室へ近づくにつれ、小さなモーターの唸りが聞こえてきた。
一定の高さで響く音が、時折勢いを増しては遠ざかる。プラスチックのコースを車体が駆け抜ける軽快な音は、廊下の外まで届いていた。
ミチルは興味深そうに顔を上げた。
『何の音?』
「ミニ四駆」
GVが答える。
「今、誰か走らせてるみたいだね」
部室の扉を開けると、そこには大きなコースと、机の上に並んだ工具やパーツがあった。
そして、その中央でマシンを弄っていた一人の少年が、面倒くさそうに顔を上げた。
「……あー、来たんだ」
メラクだった。
眠そうな目つきに、気怠げな声。
その手には、細かなパーツを取り付けたミニ四駆が握られている。
GVが片手を上げた。
「やっほー、メラク」
「……今日は来ないと思ってた」
「なんで?」
「見学の子案内してるんでしょ」
「だから連れてきたんじゃん」
「……あー、そういうこと」
メラクは一度だけミチルへ目を向け、それから再びマシンへ視線を戻した。
「まあ、好きにすれば」
「何それ。もうちょっと歓迎してよ」
「ボク、別に接客係じゃないし」
「ひどいなあ」
GVが笑う。
メラクは面倒くさそうに肩を竦めた。
ミチルは二人のやり取りを眺め、タブレットを持ち上げる。
『こんにちは!』
メラクが顔を上げた。
「……ん。こんにちは」
『ミチルです!』
「メラク」
短い自己紹介だった。
しかし、ミチルは満足そうに頷いた。
その横でアキュラが、コースの構造を確認していた。
直線、コーナー、立体交差、連続する起伏。どれも珍しいものではないが、セッティング次第で勝敗が大きく変わる配置だった。
そのことを理解した瞬間、自然と目つきが変わる。
GVが気づいて笑った。
「あれ、アキュラも気になる?」
「……別に」
「その顔で?」
「何だ」
「いや、コース見た瞬間に目つき変わったから」
「気のせいだ」
GVは何とも言えない顔をした。
こういう返事をする時のアキュラは、大体気にしている。
ミチルが二人のやり取りを見比べた。
『アキュラくんもミニ四駆やるんだよね?』
「……ああ」
「えっ、そうなの?」
GVがわざとらしく驚く。
「知らなかったなあ」
「貴様……!」
シアンが横から笑った。
「GV、あんまりからかわないの」
「だってさ」
「だってじゃない」
その時、ロロが楽しそうに口を開いた。
『ミチルちゃん、アキュラくんの対戦相手ってね――』
「ロロ!」
アキュラが鋭く呼ぶ。
しかし、遅かった。
『GVなんだよ!』
ミチルの目が丸くなった。
『えっ!?』
GVが首を傾げる。
「……ミチル、知らなかったの?」
『じゃあ、前にアキュラくんが負けたって言ってた人!?』
今度はGVが笑った。
「ああ、あれか!」
「笑うな!」
アキュラの声が響く。
シアンも思い出したらしく、口元を押さえていた。
「……そういえば、あったね」
「シアンもいたよね」
「うん。最後はわたしが勝ったけど」
その言葉に、アキュラがぎろりと振り向いた。
「……《電子の謡精》」
「何?」
「次はあのような結果にはならん」
「えー、どうかな」
シアンが楽しそうに笑う。
GVも頷いた。
「でも、あの時のシアンの走りはよかったよね」
「うん。二人とも速さばっかり気にしてたから」
「……」
アキュラは黙った。
あの敗北は、今でも納得していない。
自分と《蒼き雷霆》が速度を競い合っていたところを、安定性を重視したセッティングで出し抜かれた。
結果として、一着は《電子の謡精》。
それも、一度の勝負で決まったことになっている。
今でも再戦の必要があると考えていた。
「……次だ」
アキュラが呟く。
GVが目を輝かせた。
「やる?」
「当然だ」
「じゃあ、準備しようか」
二人がほとんど同時にマシンケースを取り出した。
シアンはそれを見て、呆れたように笑った。
「……もう始まった」
メラクは少し離れた位置から様子を眺めていた。
「キミさぁ……見学の子どうすんの?」
GVが顔を上げる。
「あ、そうだった」
「……忘れてたんだ」
「忘れてないって!」
ミチルが笑った。
『わたしもやりたい!』
その一言で、GVの表情が明るくなった。
「もちろん!」
メラクも少し考え、机の端に置かれたマシンへ手を伸ばす。
「……初心者用なら、こっち」
「あ、それいいね」
GVが覗き込む。
「でも、もうちょっと速くしてもよくない?」
「最初から飛ばしたら意味ないでしょ」
「飛ばないように調整すればいいじゃん」
「簡単に言うね、キミ」
「メラクも普段そういうこと言うじゃん」
「ボクはちゃんと考えて言ってるから」
「僕も考えてるって!」
また言い合いが始まった。
その横から、アキュラがマシンを覗き込む。
「……そのローラー位置では、コーナーで車体が振られる」
メラクが顔を上げた。
「……あー、そう?」
「見れば分かる」
「キミ、初めて見るコースで随分言うねぇ」
「構造を見れば予測できるだろう」
「……ふーん」
メラクは一度だけアキュラを見た。
それから、机の上に置いていた工具を手に取る。
「じゃあ、試してみれば?」
「望むところだ」
GVが笑う。
「……何か、仲良くなりそう」
「どこがだ!」
「どこが?」
アキュラとメラクの声が、ほとんど同時に返ってきた。
シアンが吹き出した。
「GV、そういう人ばっかり集めてない?」
「僕のせい?」
ミチルも肩を揺らして笑っていた。
その後、初心者用のマシンが完成する。
メラクがタイヤを確認し、GVがローラーの位置を調整する。アキュラは駆動系の抵抗を確認し、必要以上の負荷が掛かっていないかを確かめた。
ノワはミチルが操作しやすい位置へコースの一部を移動させ、無理なく手を伸ばせるようにする。
ミチルは慎重にマシンを受け取った。
思っていたより軽かった。
手のひらに収まるほど小さな車体なのに、そこには細かな部品が幾つも組み込まれている。
『これが走るんだ』
「うん。スイッチ入れてみて」
GVの説明を聞きながら、ミチルは操作した。
モーターが小さく唸り始める。
目を丸くしたミチルへ、GVが笑いかけた。
「じゃあ、スタート位置に置いて」
ミチルは慎重にマシンを置き、手を離した。
次の瞬間、小さな車体が勢いよく走り出した。
直線を駆け抜け、カーブを曲がり、またこちらへ戻ってくる。
あまりの速さに、ミチルは目を丸くした。
文字を打つより先に、表情が驚きを伝えていた。
「結構速いでしょ?」
GVが尋ねる。
ミチルは何度も頷いた。
『もう一回!』
「いいよ」
マシンを回収し、再びスタート位置へ置く。
今度は少し慣れた様子で操作した。
走り出した車体を目で追い、カーブへ入るたびに小さく身体を揺らす。
コースを一周する時間は、ほんの数秒だった。
けれど、その短い時間の中にも、さっきとは違う発見があった。
カーブへ入る時の角度。直線での加速。同じところを走っているのに、少しずつ動きが違う。
『面白い!』
ミチルが画面を掲げる。
メラクがちらりとこちらを見た。
「……まあ、そうでしょ」
「でしょ?」
GVが嬉しそうに笑う。
「そこ、何でキミが得意げなの」
「だって楽しいって言ってるじゃん」
「ボクが組んだマシンなんだけど」
「僕も調整したって!」
「あー、はいはい」
ミチルはまた笑った。
その後、タイヤを変えてみたり、ローラーの位置を少し調整したりしながら、何度か走行を試した。
メラクは口では面倒そうにしながらも、ミチルが困ると手元を覗き込んで教えてくれた。
「……そこ。ちゃんと固定しないと走ってる途中でズレるから」
『こう?』
「うん。そんな感じ」
GVも横から説明を加える。
「そうそう。それで、次はこっち」
「キミ、説明被せないでよ」
「いや、分かりやすいかなって」
「余計分かりにくくなるんだけど」
アキュラは少し離れた場所で、その様子を眺めていた。
妹が初めて触る玩具に興味を持ち、自分で調整を試そうとしている。
ノワの確認では、体調も問題ない。
そうである以上、無理に止める理由はなかった。
ミチルはもう一度マシンを走らせる。
先ほどとは少し違う音を立てながら、小さな車体がコースを駆け抜けていった。
『さっきと違う!』
「お、分かった?」
GVが尋ねる。
『曲がるところ!』
「そうそう。コーナーの入り方が変わるんだよ」
メラクも小さく頷いた。
「……まあ、悪くないね」
その言葉を聞いて、ミチルは嬉しそうに笑った。
やがてノワが時計へ目を向ける。
「ミチルさま。そろそろお時間です」
ミチルの指が止まった。
『あと一回』
「……本当に一回だけですよ」
『うん!』
即答だった。
GVが最後の走行に向けてマシンを渡す。
ミチルは慎重にコースへ置き、スイッチを入れた。
モーター音が響く。
小さなマシンが夕方の光を受け、コースの上を一気に駆け抜けていく。
ゴールまで、ほんの数秒。
それを見届けたミチルは、満足そうに息を吐いた。
『またやりたい!』
GVが笑う。
「もちろん。次は自分のマシン作ってみる?」
ミチルが勢いよく顔を上げた。
『作れるの!?』
「作れるよ。難しいところは手伝うし」
『やりたい!』
その横で、アキュラが小さく息を吐いた。
「……最初から自分で組んだ方が構造を理解できる」
GVが振り向く。
「あれ、アキュラも手伝ってくれるんだ?」
「そうは言っていない」
『アキュラくんも!』
ミチルが嬉しそうに画面を掲げる。
『一緒に作ろう!』
「……」
アキュラは少し黙った。
GVが楽しそうに笑っている。
シアンも、その横で何やら期待するような目を向けていた。
メラクまで、面倒くさそうな顔をしながらこちらを見ている。
そして、妹は。
今日一番と言ってもいいほど、嬉しそうに笑っていた。
「……まずは、どんなマシンにしたいか決めろ」
アキュラが答えた。
ミチルの表情が、一気に明るくなる。
『やった!』
GVも嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、今度みんなでやろうよ」
「……貴様と約束した覚えはない」
「えー。ミチルと一緒にやるんでしょ?」
「それとこれとは別だ!」
「はいはい」
「その返事をやめろ!」
部室に、また笑い声が響いた。
アキュラは不機嫌そうに顔を背けた。
しかし、その手は既に机の上のパーツケースへ伸びていた。
初心者向けのシャーシ。
重量。
駆動効率。
ミチルが扱いやすい構造。
考えるべきことは幾つもあった。
それを一つずつ整理しているうちに、先ほど廊下で抱えていた苛立ちが、少しだけ遠のいていた。
◇
帰りの校門には、朝とは違う景色が広がっていた。
部活動を終えた生徒たちが友人と話しながら帰っていき、昇降口からはまだ賑やかな声が聞こえてくる。
傾いた陽が校舎の窓を赤く染め、その反射が地面に長い光の帯を作っていた。
ミチルは車椅子に座ったまま、もう一度校舎を見上げた。
朝に見た時よりも、少し小さく感じた。
建物そのものが変わったわけではない。
中を歩き、教室に入り、授業を受け、友達と昼食を食べたことで、知らなかった場所が幾つも知っている場所になったのだ。
あの窓の向こうが教室。
その隣が廊下。
少し離れたところにはアメコミ研究会の部室があって、さらに奥にはミニ四駆部がある。
今朝まで写真でしか知らなかった場所が、ひとつずつ自分の思い出になっていた。
「ミチル」
シアンが声をかける。
「今日はどうだった?」
ミチルはタブレットを持ち直した。
『楽しかった!』
「そっか」
『授業も』
『お昼も』
『アメ研も』
『ミニ四駆も!』
次々と表示される文字を見て、GVが笑った。
「ミニ四駆、気に入ってくれたみたいでよかったよ」
「そこばっかり気にするんだから」
シアンが呆れ気味に言う。
オウカも穏やかに笑っていた。
「でも、本当に楽しそうでしたね」
『うん!』
ミチルは大きく頷いた。
そして、少し考えてから文字を打ち込む。
『みんなと一緒にいられたのが、一番楽しかった』
シアンの表情が柔らかくなる。
ミチルはさらに文章を続けた。
『また来てもいい?』
「もちろん」
シアンは迷わず答えた。
「次も、ちゃんと案内するよ」
『ほんと?』
「うん。約束」
オウカも頷く。
「次は、もっと色々なお話をしましょうね」
『うん!』
『あと、ミニ四駆も!』
GVが笑う。
「じゃあ次は、自分のマシン作ろうか」
『やりたい!』
その瞬間、ノワが小さく咳払いした。
「……次回のお話は、体調を見てからにいたしましょう」
ミチルは少しだけ頬を膨らませる。
それから三人へ向き直り、最後にもう一度文字を打った。
『今日はありがとう』
『シアン、オウカ』
『友達になってくれて、ありがとう』
シアンは一瞬だけ目を丸くした。
そして、笑った。
「こっちこそ」
オウカも微笑む。
「はい。またお会いしましょう」
GVが片手を上げる。
「じゃあ、またね」
『またね!』
ミチルも大きく手を振った。
その横で、アキュラは一度だけ振り返った。
GVと目が合う。
「アキュラも、またね」
「……」
アキュラは何とも言えない顔をした。
その表情を見たGVが、少しだけ笑う。
「次のミニ四駆、楽しみにしてるよ」
「……次は負けん」
「言ったね?」
「何度でも言う」
GVの口元が緩んだ。
「じゃあ僕も、もっと速くしとかないと」
アキュラは鼻を鳴らした。
「出来るものならやってみろ」
そのやり取りを見ていたシアンが、呆れたように笑う。
「……ほんと、二人とも」
アキュラは何か言い返そうとして、やめた。
代わりに、ミチルの車椅子へ視線を落とす。
「帰るぞ、ミチル」
『うん!』
ミチルは大きく頷いた。
車がゆっくりと走り出す。
窓の向こうで、三人の姿が少しずつ遠ざかっていった。
ミチルは見えなくなるまで手を振り続けた。
◇
療養所へ戻ったミチルは、夕食の後もすっかり上機嫌だった。
神園博士へ学校での出来事を報告し、撮影してもらった写真を一枚ずつ見せる。
教室。
女子たちとの昼食。
アメコミ研究会の妙な歓迎装置。
そして、ミニ四駆を走らせている自分。
博士は一枚ずつ眺めながら、穏やかに頷いた。
「ずいぶん楽しめたみたいだね」
『うん!』
『すっごく楽しかった!』
「それはよかった」
博士は微笑み、ミチルの頭を優しく撫でた。
「疲れていないかい?」
『ちょっとだけ』
「そうか。今日はゆっくり休むんだよ」
『うん』
ミチルは素直に頷いた。
それから、少し考えて文字を打った。
『お父さん』
「何だい?」
『学校、また行きたい』
博士は画面を見つめ、穏やかな表情のまま頷いた。
「身体の調子が良ければ、また行けるように考えよう」
『ほんと!?』
「もちろんだよ。ただし、ノワの言うことはきちんと聞くんだよ」
『わかった!』
その返事があまりにも早かったので、傍らにいたノワが小さく笑った。
「そのお約束、忘れないでくださいね」
『忘れないよ』
「今日だけでも何度かお約束を追加しておりますが」
『……覚えてる』
「本当でしょうか」
ノワが微笑む。
ミチルは少しだけ頬を膨らませたが、やがて自分でもおかしくなって笑ってしまった。
その後、博士との話を終えたミチルは、部屋へ戻る前にアキュラを呼び止めた。
『アキュラくん』
「何だ」
『今日はありがとう』
アキュラが足を止めた。
「……何のことだ」
『一緒に学校に来てくれたこと!』
「警護のためだと言っただろう」
『でも、一緒に来てくれて嬉しかった!』
ミチルは笑った。
それから、もう一度タブレットを操作する。
『アキュラくんも楽しそうだったね』
「……何?」
『アメ研で!』
「……」
『みんなといっぱいお話ししてた!』
「技術的な質問に答えていただけだ」
『ミニ四駆も!』
「……必要な調整を確認しただけだ」
ミチルは少し考え、画面を掲げた。
『じゃあ、今度も一緒に行こうね!』
アキュラは答えなかった。
ミチルは返事を待っている。
いつものように、目を輝かせながら。
その顔を見て、アキュラは小さく息を吐いた。
「……体調次第だ」
『うん!』
ミチルは嬉しそうに頷いた。
その後、ノワに促されて自室へ戻っていく。
アキュラはしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
傍らへロロが近づく。
『……ねえ、アキュラくん』
「何だ」
『今日、楽しかった?』
「……くだらん」
『そっか』
ロロはそれ以上追及しなかった。
アキュラは窓の外へ目を向ける。
庭には夜の静けさが戻っていた。
今日の学校で見た光景が、幾つか脳裏を過ぎる。
教室で笑っていた生徒たち。
騒がしいアメコミ研究会。
妙な電子工作物へ熱中していた少年。
ミニ四駆のコース。
そして、その傍で楽しそうにしていたミチル。
アキュラは一度だけ目を閉じた。
また行きたい。
妹は、そう言った。
それならば、次も安全を確保する必要がある。
そう考えることは、何も間違っていない。
アキュラは端末を取り出し、次回の外出に備えて確認すべき事項を整理し始めた。
その指が、ふと止まる。
画面の端には、今日ミチルが撮影してもらった写真が一枚表示されていた。
アメコミ研究会の部室。
犬飼の工作物を囲む男子生徒たち。
その輪の中で、アキュラ自身が何かを説明している。
隣ではGVが笑っていた。
「…………」
アキュラは写真を見つめた。
しばらくして、端末を閉じる。
「……チッ」
小さく舌打ちした。
ロロが不思議そうに顔を上げる。
『どうしたの?』
「何でもない」
それだけ答え、アキュラは廊下を歩き出した。
その足取りは、普段と変わらなかった。
◇
その夜。
ベッドに入ったミチルは、今日撮影してもらった写真をもう一度眺めていた。
教室の机。
黒板。
友達と一緒に食べたお弁当。
アメコミ研究会の馬鹿騒ぎ。
ミニ四駆部で走らせた小さなマシン。
そして、何だかんだ言いながら自分に付き合ってくれた兄の姿。
今日という一日には、初めてのことが沢山あった。
けれど、一番嬉しかったのは、きっとそのどれでもなかった。
シアンが笑っていたこと。
オウカが隣にいてくれたこと。
初めて会ったGVが、気さくに話しかけてくれたこと。
アキュラが、普段とは少し違う顔を見せてくれたこと。
そして、自分もその輪の中で笑っていられたこと。
ミチルはスマートフォンを取り出し、シアンへメッセージを送った。
『今日はありがとう』
『学校、大好きになった!』
返事はすぐに来た。
『よかった!』
『また一緒に遊ぼうね』
少し遅れて、もう一つメッセージが届いた。
『今度は宿題も一緒にやる?』
ミチルは思わず笑った。
『やる!』
そして、少し考えてから付け加える。
『GVにもちゃんとやらせようね』
数秒後。
『それは任せて!』
力強い返事が届いた。
ミチルはしばらく画面を眺め、それからそっとスマートフォンを置いた。
窓の外には夜の庭が広がっている。
昼間の学校とは違い、療養所は静かだった。
けれど今夜は、その静けさが少しも寂しくなかった。
目を閉じると、今日聞いた声が次々に浮かんでくる。
授業中の先生の声。
昼休みの笑い声。
アメコミ研究会の騒がしい言い争い。
ミニ四駆がコースを走る音。
そして、別れ際に交わした「またね」という言葉。
明日になれば、いつもの生活へ戻る。
けれど、今日という一日は、きっとずっと忘れない。
そう思いながら、ミチルは布団を引き寄せた。
机の上には、今日学校でもらった小さな時間割が置かれている。
そこには、何でもない一日の予定が書かれていた。
けれどミチルにとっては、それが何よりも大切な宝物になっていた。
やがて常夜灯の淡い光の中で、ミチルは静かに眠りについた。
その寝顔は、いつもより少しだけ満足そうだった。