俺の隣の席の人は、おかしな人だ。
高校へ入学して、早くも一か月が過ぎた。
クラスにもそこそこ馴染んだ。成績も今のところ悪くない。遅刻も欠席もなし。大きな夢もないが、それなりに満足できる学生生活を送っている。
ただ、一つだけ小さな苦労があった。
「ねぇねぇ、これ見てよ!」
今日も来たか。
ため息を飲み込みながら隣を見ると、隣の席の人が得意げに片方だけの手袋を掲げていた。妙にごつく、ところどころ黒ずんでいる。砂埃のような汚れまでこびりつき、近づけられると薬品めいた臭いが鼻についた。
「……手袋だね。すごく汚れてるけど、どうしたの?」
「今朝、ゴミ捨て場で拾ったの!」
「何で拾ったの!?」
とりあえず押しつける勢いで近づけるのはやめてほしい。買ったばかりの制服に匂いが移るだろ。
「ふふーん!これはただの手袋ではない!見て、この伸縮性!」
「ああ、ゴム手袋なんだ。膨らませてボールにでもするの?」
「そんな小学生みたいなことするわけないじゃん! 私のこと馬鹿にしてる?」
ゴミ捨て場から拾った手袋を学校へ持ち込んだ人に言われても、まるで説得力がない。
「ごめんごめん。それで何するの?」
「今からハサミで切ってみようと思う!」
結局、小学生と大差ないじゃないか。
彼女は机の上へ手袋を広げ、小さなハサミを取り出した。
「この伸縮具合、かなりの切断耐性があると見た!大人たちの技術を結集させた安心安全な手袋!それを私が一刀両断してみせる!」
「そのハサミも大人たちの技術でできてるけどな。というか、何のために?」
「いざって時、何かの役に立つかもしれないじゃん!」
「どんな想定してるんだよ……」
彼女は体重をかけるようにハサミを押しつける。
だが、手袋はぐにゃりと沈むばかりで切れない。
「むむむ……!」
机がキィキィ鳴り始めた。
「机ごと壊すなよ」
「なんか、もう少しで切れそう!」
黙って座っていれば、かなり綺麗な顔をしている。
入学直後は何人もの男子が彼女へ話しかけていたが、一か月経った今では、その数もずいぶん減った。
放課後に教室の机を勝手に積み上げる。廊下の床の継ぎ目だけを踏んで歩く。理科室の人体模型へ制服を着せる。しかも誰かとの悪ノリではない。毎回、一人で真剣にやっている。
「またあの子、何かやってるよ」
「今日は手袋?」
周囲から声が聞こえても、本人は気にした様子もない。
俺なら耐えられない。普通に過ごしたいし、変な目で見られるのも嫌だ。なのに彼女は、周囲がどう思おうと楽しそうにしている。……少しだけ、羨ましいと思う時がある。
「……もう噛み切ろうかな」
「待て待て待て!」
真顔で手袋を口元へ運ぼうとしたので、慌てて手首を掴んだ。
「ゴミ捨て場にあったんだろ!?口に入れるな!」
「うーん、そうだね!せっかく歯磨きしたのに、汚すにはまだ早いか!」
「違う。根本的に違う」
彼女はしばらく考え込むと、急に机へ突っ伏した。
「なんか疲れちゃった。ちょっと寝よっと」
「あと五分でホームルームだぞ?」
「五分も寝られるんだ、やったね!三秒前になったら起こして!」
「無茶言うなよ」
「すぅ……すぅ……」
「……もう寝たのか」
自由が過ぎる。
それでも不思議と彼女を嫌いにはなれなかった。誰にでも明るく接するし、困っている人を見つければ真っ先に駆け寄る。奇行は多いが、その奇行で他人を傷つけることもない。
だから話しかけられると、結局こうして相手をしてしまう。
「むにゃ……どうやって斬ろう……」
寝言でもまだ手袋と戦っていた。
やっぱり、おかしな人だ。
◇
放課後。
ホームルームが終わると同時に、教室は一気に騒がしくなった。部活へ向かう者、友達と寄り道の相談をする者、机を囲んでスマホゲームを始める者。教室には、ありふれた放課後の光景が広がっていた。
そんな中、隣から嬉しそうな声が飛んできた。
「ねぇねぇ、見て!」
彼女が真っ二つになったゴム手袋を掲げている。
「じゃん!ゴムに勝ち申した!」
「おお。今朝あれだけ苦戦してたのに。どうやって切ったんだ?」
「ハサミの刃と刃の間にちゃんと挟んで、チョキンっと!」
「つまり普通に切っただけじゃねぇか」
朝の努力は何だったんだ。
彼女は満足そうに切断面を眺める。
「柔軟性に真っ向から勝利。あとは実戦に活かすだけ」
「来るといいな、そんな時が」
「そう言ってくれるなんて、お隣さんは優しいなぁ~」
悪意はなかったとはいえ、今の言葉を皮肉ではなく好意として受け取れる彼女の方が優しいと思う。彼女は鞄を背負い、元気よく手を振ってから教室を出ていった。
「それじゃ、私もう帰るね! また明日!」
「ああ、また明日」
明日は何をやらかすのやら。
そんなことを少しだけ楽しみにしながら、俺も鞄を肩へ掛けた。今日は一緒に帰る友達にも用事があるらしい。特に残る理由もなく、俺も学校を出て、駅へ向かった。
夕暮れが建物の影を長く伸ばしている。
五月に入ったとはいえ、吹き抜ける風にはまだ少し冷たさが残っていた。
「腹減ったな……。食堂で菓子パンでも買えばよかったな」
五時間目が体育だったせいか、いつもより腹が減っている。
今日の晩飯は何だろう。そんなことを考えていた時だった。
キィィィィィン
「っ……!」
頭の奥へ直接、針を突き刺されたような音が響いた。
思わず足を止め、耳を押さえる。
「なんだ……?」
周囲を見ると、サラリーマンはスマホを見たまま歩き、学生たちは笑いながら横断歩道を渡っていく。誰一人、今の音に反応していない。
「……俺だけ?」
やがて音は消えた。
疲れているのか。そう思った直後だった。
「……たす、け……」
「……えっ?」
かすかな声が聞こえた。
子供……いや、女の人か?反射的にもう一度、辺りを見回す。だが、助けを求めている人の姿はない。
キィィィィィン!
「うっ……!」
二度目は、さっきとは比べものにならないほど強かった。
脳そのものへ針を突き立てられたような痛みに、近くの電柱へ手をつく。
「誰か……助けて……!いやっ……来ないで!」
今度は、はっきり聞こえた。
「あっちか!」
声は細い路地の奥から聞こえた。俺なんかが行って何の役に立つのか分からない。そう思っていても足は先に動いていた。放っておいて、後で何かあったと知った方が嫌だ。
路地へ駆け込んだ瞬間、空気が変わった。
「……寒っ」
さっきまで聞こえていた車の音も人の話し声も、急に遠くなった。
薄暗い細道を進み、角を曲がる。その先に、女性の姿はなかった。
代わりに浮かんでいたのは……空間そのものに走った亀裂だった。
「……何だよ、これ」
ガラスに無理やり亀裂を入れたように景色が歪み、その中心だけが底の見えない黒へ染まっている。どう見てもまともじゃない。
数歩後ずさり、鞄からスマホを取り出した。これは高校生がどうにかするものじゃない。やっぱり警察に電話した方が……。
《静寂に至る分かれ道……流されるままでは指針は定まらず……》
「……はぁ?」
突如、男とも女ともつかない声が頭の中へ直接響いた。
まったく聞き覚えのない声だ。少なくても、さっきの女性とは明らかに違う。スマホを操作する指が止まる。
《進めば宝去れば平穏……されども平坦な世が歪むのは変わりなし……》
「宝?何言ってんだ……?」
意味が分からない。占いか何かか?
いや、考えている場合じゃない。こんな得体の知れないもの、高校生の俺がどうにかできるわけがない。さっさと離れて警察へ……。
「たすけてっ!!」
「……ッ!」
今までで一番大きな悲鳴が、目の前の亀裂から響いた。
間違いない。あの声は、この向こうから聞こえている。
「中にいるのか……?」
黒い亀裂を睨みながら、一歩だけ近づく。
怖くて足も震えている。それでも、もし本当にこの向こうで誰かが襲われているなら、このまま帰れるわけがない。
《迷うなら戌の方角を向け……さすれば歪んだ世にも道は見える……》
「戌……?」
その瞬間、亀裂の奥で何かが動いた。
「……え?」
暗闇の向こうから、青白い手が一瞬だけ伸びてくる。
「誰かいるのか!?」
考えるより先に、手を伸ばしていた。
届くと思った瞬間、伸ばした指先が黒い亀裂へ触れた。
「なっ!?」
空間が大きく脈打った。
咄嗟に腕を引こうとするが、遅かった。
「うわっ!?」
掴んでもいないはずの腕を、凄まじい力で引っ張られる。
足を踏ん張る暇もない。
「ちょ、待っ……!」
そのまま身体ごと亀裂の中へ吸い込まれた。
そして、世界から音が消えた。
◇
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
気がつけば、俺は落ちていた。
上下も左右も分からない。身体を見えない手で振り回され、胃の中身まで浮き上がる。
「何なんだよこれぇぇぇっ!」
数秒後、視界の先に砂山が見えた。
「嘘だろ!?」
そのまま頭から突っ込む。咄嗟に両腕で顔を庇った。
次の瞬間、全身へ鈍い衝撃が走った。
「ぐっ……!」
砂の中へ深くめり込む。
しばらく動けなかったが、どうにか身体を起こした。
「いってぇ……。どこだよ、ここ?」
砂を払いながら周囲を見る。
さっきまでいた路地裏ではない。荒れ果てた建物の中だった。壁はボロボロに崩れ、鉄骨は剥き出しになり、床全体に砂埃が積もっている。工事途中で何十年も放置されたような場所だ。
慌てて身体を確認する。
「……うっわ、最悪!」
肩に掛けていたはずの鞄がない。ポケットを探っても、スマホも財布も学生手帳も消えていた。制服と靴以外の物が無くなっている。
「どうなってんだよ……」
ガシャァン!!
建物の奥から、何かが壊れる轟音が響いた。
「誰かぁぁぁっ!!」
続いて聞こえたのは、女性の悲鳴だった。聞き覚えのある声、間違いなくさっき助けを求めた人だ。
「そうだ、あの人!」
荷物どころじゃない。俺は音のした方へ走り出した。
崩れた廊下を抜ける途中、周囲へ目を走らせる。大量の砂袋に錆びた鉄パイプ、キャスター付きの資材棚に黄色い立入禁止用のバリケードと、様々な道具が放置されている。本当に何を作っていた場所なんだ。
広い空間へ飛び出したところで、俺は足を止めた。
「はぁ……っ、はぁ……っ!誰かぁぁぁっ!!」
一人の女性が、泣きそうな顔でこちらへ走ってくる。スーツ姿で片方のパンプスは脱げ、髪もひどく乱れていた。やっぱり、あの人だ。だが、女性の後ろから現れた“それ”を見た瞬間、息が止まった。
黒く濁った獣のような三体の化け物だった。人の形に近いが、両腕が異様に長い。指先から伸びる爪は刃物のように鋭く、顔に浮かぶ濁った黄色い目だけが、暗がりの中で光っている。
「な、なんだよ……あれ……」
一瞬、コスプレか何かだと思ったが、床を踏む爪の音や荒い呼吸が、あまりにも生々しい。人間じゃない。そう認めるまでに、数秒かかった。
一体が壁を蹴り、異様な速度で宙へ跳んだ。鋭い爪が逃げる女性へ振り下ろされる。
「いやぁぁぁっ!!」
「危ないっ!!」
気がつけば、叫んでいた。 あんな化け物と関わるべきではないと分かっている。でも、放っておけば、目の前で人が死ぬ。
「こっちです!!早く!!」
俺は女性へ呼びかけながら、背後にある半壊した工事区画へ駆け込んだ。
声に反応した女性が咄嗟に身を投げ出し、爪がその背後の床を抉った。女性はそのまま必死にこちらへ走ってくる。区画の床には大量の砂袋が積まれ、壁際には鉄パイプやキャスター付きの資材棚が並んでいた。
「そのまま、こっちへ走って!!」
女性が俺の横を通り過ぎた瞬間、壁へ立てかけられていた鉄パイプを蹴り倒した。ガランッ、と音を立てながら数本のパイプが床を転がり、先頭の化け物の足元へ入り込む。一体が鉄パイプを踏み、わずかに体勢を崩した。
「今だ!」
近くの扉を開け、女性を中へ押し込む。続けてキャスター付きの資材棚へ両手をかけた。
「うおおおっ……!」
想像以上に重い。全力で押しても、びくともしない。
「動け……っ!」
歯を食いしばり、さらに力を込める。ギギギッ、と鈍い音を立て、ようやく車輪が動き始めた。
「よしっ……!」
棚が動き出した瞬間、俺はその側面へ体当たりした。大きく傾いた棚が横倒しになって通路を塞ぐ。さらに足元の砂袋を蹴り倒すと中身が床へ広がった。突っ込んできた化け物の一体が砂へ足を取られて派手に転倒する。
「今だ!!」
俺も扉の中へ飛び込み、すぐに閉めた。
近くにあったロッカーを倒し、机も押し込んで扉を塞ぐ。
「これで少しは時間を……!」
ドゴォンッ
「ひっ……!」
「だ、大丈夫です!すぐには破られ――」
バキィッ
「……はっ?」
扉が、内側へ大きく歪んだ。
次の瞬間、扉を塞いでいたロッカーや机ごと吹き飛ばされた。
「嘘だろ!?」
化け物が、瓦礫を踏み潰しながら部屋へ侵入してくる。濁った黄色い目が俺たちを捉え、喉の奥から低くうねるような声を漏らした。
「逃げましょう!!」
「む、無理よぉぉっ!!」
「無理でも走って!!」
俺は女性の腕を掴み、半ば引っ張るようにして走り出した。
廊下を曲がり、階段を駆け下りる。だが、後ろから追ってくる足音は消えない。それどころか、どんどん近づいてくる。
「うわっ!?」
一体が壁を突き破って目の前へ現れた。
「こんの、化け物……!」
いちいち驚いている場合ではない。足を止めたら終わる。とにかく走るしかない。
「っ……!」
しかし、逃げ込んだ通路の先は行き止まりだった。崩れた瓦礫が道を完全に塞いでいる。引き返そうと身を翻すが、もう遅かった。三体の化け物は、すでに目の前まで迫っていた。
じりじりと逃げ道を塞ぐように近づいてくる。
「いや……いやぁ……!」
女性が、その場へ崩れ落ちた。気がつけば、俺の足も震えていた。
逃げ道も武器もない。力で勝てるわけがない。濁った黄色い目が、まっすぐ俺を見据えている。一体がゆっくりと爪を振り上げた。足が動かない。声も出ない。目を閉じることすらできなかった。
あっ……死ぬ……。
「はい、ちょっと失礼♪」
刹那、甲高い金属音が響いた。振り下ろされた化け物の爪が、俺の目の前で止まっている。いや……止められていた。一本の長い剣によって。
「危ない危ない~。あと少し遅かったら、間に合わなかったね?」
俺と化け物の間へ、一人の女子高生が滑り込んでいた。
うちの学校の制服姿で、あまりにも不釣り合いな長剣を肩に担いでいる。少女は剣を振り抜き、化け物の腕を軽々と弾き返した。突然現れた乱入者に、化け物たちは動きを止める。黄色い目を細め、警戒するように後ずさった。
「……はっ?えっ……?」
少し癖のある話し方、わずかに跳ねた髪、毎日のように聞いている明るい声。 この人は……。
「やっほ~!ビックリした? 私もだよ~。まさか裏世界で会うなんてね~!」
振り返った女子高生の顔を見た瞬間、俺の思考は完全に止まった。
やっぱり、そうだ。この人は俺の隣の席の……おかしな人だ。