俺たちがロングソードを構えると、妖魔は低く唸ったまま動かなくなった。
さっきまで一直線に襲ってきていたくせに、今は明らかに様子を見ている。潰れた片方を押さえながら、残った黄色い眼だけで俺と彼女を交互に睨んでいた。
一対二の状況に警戒しているのか。それとも、俺が宝玉を使ったことを理解しているのか。どちらにせよ、ただの獣ではない。そう思った瞬間、手の中のロングソードが急に重く感じた。
「どう?渡り人になった気分は?」
「なんか……身体が熱い」
「おっ、昂ぶっちゃってる~?」
彼女の言う通り、極度の緊張感で高揚しているのか、全身が熱い。身体の奥から、じわじわと熱が湧いてくる。心臓の辺りから火が広がるように、熱が指先までしっかりと流れていく。
「待て、何だこれ……。熱い……熱い熱い熱い熱い!?」
次第に熱は高まり、ついには全身が燃えているような熱さへと到達した。服が燃えているわけではない。皮膚が焼けているわけでもない。なのに、体の内側が真っ赤に煮えたぎっているような感覚がする。
「あっちぃぃぃぃぃ!!なな、何だこれぇぇぇぇぇ!?」
「あっはっはっはっは!良いリアクション!」
「笑ってないで説明してくれェ!」
「ひぃーひぃー!ふふふっ、大丈夫だよ!それ、渡り人になるための洗礼みたいなものだから! 私の時なんて、熱すぎて川に飛び込んだもん!」
「俺も飛び込みたいんだけど!?」
思わずその場でじたばたする。
だが、数秒もすると熱は少しずつ収まっていった。完全に消えたわけではない。肌の下に、ほんのりとした温もりだけが残っている。
薄い膜に包まれているような感覚。さっきまでの俺とは、何かが違う。
「何だったんだ、今の?……んっ?剣が、少し軽くなった気がする」
「渡り人の身体になった証拠だよ。細かいことは後で教える!」
「後でかよ!」
「今は……」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「来るよ!」
妖魔へ視線を戻すと、いつの間にか身体を沈めた。両足が潰れるように縮み、体全体がばねみたいに歪んでいく。
あの弾力で跳ぶ気だ。
「作戦Tでいこう!」
「待て、作戦って何だ!?しかもTって何のTだよ?!」
「とにかく頑張る!」
「それ作戦じゃなくて心構えだろ!」
ツッコミを入れた瞬間、妖魔が弾けた。
反発で撃ち出された妖魔の体が、砲弾みたいな速度で飛んでくる。正面から受けたら終わりだ。そう判断するより早く、彼女が左へ跳んだ。俺も反射的に右へ転がるように避ける。
直後、妖魔が俺たちの間を突き抜け、床へ激突した。コンクリートが砕け、細かい破片が足元に飛び散る。
「今度はこっちの番!行くよ!」
「……おう!」
彼女は意気揚々と妖魔に向かって駆け出し、俺も遅れて踏み込む。
妖魔は一瞬だけ迷ったように見えたが、すぐに彼女へ向かって拳を振り下ろした。経験者を先に潰すつもりなのか、それともさっき眼を潰された恨みか。
拳が床を砕く。破片が跳ね、俺の頬をかすめた。
「今!」
「……ッ!」
彼女の声に押されるように、俺は妖魔の背中へ斬りかかった。
両手で握り、力いっぱい振り下ろす。刃は確かに当たった。だが、斬れない。
「うおっ!?」
妖魔の背中がぐにゃりと沈み込んだ。
刃が吸い込まれた直後、強烈な反発で押し返される。腕が跳ね上がり、体勢が崩れた。
「だから言ったでしょ~?すっごく柔らかいって!」
「柔らかいにも限度があるだろ!?今、完全に弾かれたぞ!」
妖魔が振り向く。黄色い眼が、今度は俺を捉えた。
やばい、そう思った時、妖魔の腕が鞭のようにしなる。
「くッ……!」
反射的に後ろへ跳んだ。
風が頬を叩く。ほんの少し遅れていたら、首から上を持っていかれていたかもしれない。
「おぉ~!初陣なのに良い動き!」
「褒めてる場合か!?」
「前に育児本で見たんだけど、褒める時はちゃんと褒めた方がいいんだって!偉い偉~い!」
「俺は幼児か!?」
叫びながらも、眼だけは妖魔から離せない。
怖い。足が震えている。逃げたい。こんな化け物と戦うなんて、どう考えても普通じゃない。でも、剣を手放す気にはなれなかった。
妖魔は腕を振るのを止めて、また体を縮める。さっきの反発による突撃をするみたいだ。すぐさま床を蹴って妖魔から離れる。戦闘の素人の俺は無意識に「距離を取る=攻撃から逃れられる」と認識していた。だが、それは違った。
「距離を取りすぎないで!!」
「え……?」
彼女が注意してくれたが、もう遅かった。
俺との間には、突撃するには十分な距離ができていた。妖魔はすぐさま元の体の大きさへ戻り、その反発で砲弾みたいな速度で跳んだ。
「やべっ……!」
中途半端に逃げたせいで、避けられる体勢ではない。確実に直撃する。
そう判断した瞬間、生存本能が働いたのか頭より先に体が動いた。咄嗟にロングソードの刃ではなく刀身の平を正面へ向けて、盾のようにして受ける姿勢になる。
「がっ!?」
衝撃が腕から肩へ抜けた。
そのまま体ごと吹き飛ばされ、床を転がる。背中を打ち、肺の中の空気が一気に押し出された。
「かはっ……!」
痛い。痛いが、まだ動ける。
普通なら骨の一本くらい折れていてもおかしくない。なのに、俺はロングソードを杖代わりにして立ち上がれた。
ロングソードを盾にしたから?思っていたより妖魔には攻撃力がない?それとも全身を覆う、この温もりのおかげか?何でもいい、とにかくまだ動けるなら戦わないと。
視線を妖魔に戻すと、今度は彼女に仕掛けていた。
「おりゃあああ!敵討ちじゃァ!」
勝手に殺すな、まだ死んでいないぞ。
それにしても分かっていたつもりだが、やっぱり彼女は強い。あんな化け物を相手に真正面から戦えるなんて。だが激しい攻防に少しずつ押されていく。彼女はロングソードを振るい、妖魔の拳を受け流す。相性が悪すぎる。斬撃は弾かれ、突きは沈み込み、柔らかい体に受け流される。
「んぐっ……!ほんっと、今日も斬りにくいなぁ……!」
彼女は笑ってはいるが、呼吸は少しずつ乱れていた。俺を庇うように位置取りを変えているせいで、余計な動きも増えている。
俺がいるせいだ……。
そう思った瞬間、胸がざわつく。
何かしないと。何でもいい、考えろ。あの体は斬撃を逃がす。
一方向からの力だと、沈んで、歪んで、反発してくる。まるでゴムみたいだ。
「……ゴム?」
「そう、ゴムっぽいよね~。今朝のゴム手袋みたいに!」
彼女が、戦闘中だというのにこちらへ笑った。
「ねぇ、私がどうやってゴム手袋を切ったのか、覚えてる?」
忘れるわけがない。
今朝、彼女はゴミ捨て場から拾ってきたゴム手袋を、ハサミの片刃で無理やり切ろうとして失敗していた。
だが、放課後には切れていた。普通に、刃と刃で挟んで。
「……やりたいことは何となく察した。でも、相手は動き回るぞ。タイミングも力もズレたら失敗する」
「難易度超ハードだね!」
そう笑う声はいつも通りだった。
けれど、剣を握る指先だけは白くなっていた。
「楽しそうに言うな」
「だって、マルチプレイっぽい!」
眼がきらりと輝く。
こっちは怖くて仕方ないのに、その顔を見ると、少しだけ気が緩んでしまう。
「よぉし、作戦H!」
「……挟み撃ちのHか?」
「挟んで斬ってやろう!」
「今度はちゃんと作戦っぽいな!」
妖魔が唸った。こっちの会話を不快に思ったのか、その眼に怒りが宿る。
次に失敗したら、もう同じ手は通じない。やるなら一度きりだ。
「私が前に出る。後ろをお願い」
「分かった」
彼女が飛び出すと、妖魔の意識がそちらへ向く。
「こっちこっち!」
わざと大きく動き、妖魔の攻撃を誘う。
俺はその間に背後へ回った。足音を殺したいのに、心臓の音がうるさすぎて、自分の動きが全部相手に伝わっているような気がする。
妖魔が一瞬、俺を見た。
「見ちゃダメだよ!」
彼女がロングソードを振り上げる。
だが今度は刃ではない。剣の背で、妖魔の頭を思い切り殴りつけた。鈍い音が響くと、妖魔がよろめいた。切れなくても、衝撃は通る。体の表面が特殊でも、中身までは無敵じゃなかったみたい。
彼女の一撃は弾かれたが、妖魔の意識が完全に乱れた。俺と彼女の位置も、ちょうど向かい合う形になっている。やるなら、今しかない。
「いくよッ!」
「ああッ!」
狙うのは首。妖魔は両腕で頭を押さえている。だったら、その腕ごと斬る。
怖い。手が震える。でも、剣は離さない。
「せぇぇぇのッ!」
「うおおおおおッ!」
二本のロングソードが、同時に妖魔の腕と首へ食い込んだ。
ぐにゃり、と嫌な感触が伝わる。また逃げられる、弾かれると思った。けれど、反対側から彼女の刃が押し込まれている。妖魔の肉は逃げ場を失っていた。
「いっけぇぇぇぇぇ!!」
「斬れろぉぉぉぉぉ!!」
刃が沈む。弾力が悲鳴を上げるように歪む。次の瞬間、今までとは違う手応えが腕に走った。
ザンッ、と妖魔の両腕と首が、まとめて宙へ飛んだ。黄色い眼が、信じられないものを見るように見開かれる。その体が一度大きく痙攣し、次の瞬間、黒い粒子となって崩れ始めた。腕も、胴体も、足も、ぼろぼろとほどけて消えていく。
「……やった、のか?」
「やったよ!すごい、すっごいよ!初陣でアレを倒しちゃうなんて!」
「は、はは……」
膝から力が抜けた。
立っていられなくなりそうになる。腕も震えている。さっきまで握れていたロングソードが、急に重く感じた。
怖かった。本当に、怖かった。今さらになって吐き気がこみ上げてくる。けれど、それ以上に胸の奥が熱かった。生きている。俺は、逃げずに戦えた。
その時、妖魔が消えた場所から何かが跳ねた。
「んっ?」
小さな球体が、淡い光を帯びながら宙を舞う。
まるで意思があるみたいに、俺の手元へ落ちてきた。
「これは……宝玉?」
「うわっ、それ!」
彼女が眼を丸くする。
俺の掌にあるのは、透き通った球体だった。触れると、ほんの少しだけ弾むような感触がある。
「もしかして、あの妖魔の?」
「うん!『柔軟』宝玉だよ!ずっと狙ってたやつ!」
「ずっと?」
「前に何回か戦ったんだけど、毎回逃げられてたんだよねぇ。いや~、今日こそ決着つけられてよかった!」
そういうことか。さっきから「今日こそ」とか「いつも斬れない」とか言っていたのは、強がりではなかったのか。あの妖魔は、彼女にとって因縁の相手だったのか。
「なら、これはお前にやるよ」
俺は『柔軟』宝玉を差し出した。
「えっ?いいよいいよ!?普通だったら、宝玉は最後に倒した人のところに来るものだから!」
「それならお前にも受け取る権利があるだろ。俺一人じゃ絶対に倒せなかった」
「でも、正面から斬り込んだのはそっちだし、宝玉が選んだ感じもするし……」
「お前がいなかったら、俺は何回も死んでた。前から狙ってたんだろ?だったら受け取ってくれ」
彼女は少しだけ黙ると、それから困ったように笑った。
「……損する方を選ぶの上手いね」
「褒めてるのか、それ?」
「褒めてるよ。ちょっと心配もしてるけど」
これ以上、引き下がることなく、彼女は『柔軟』宝玉を受け取ってくれた。
その表情が本当に嬉しそうだ。渡してよかった。
「じゃあ、等価交換だね!」
「交換?」
「うん。やっぱり宝玉は二人で勝ち取ったものだもん。それを私だけ貰うのは変な感じ。だから、それをあげる」
彼女が指差したのは、俺の手元のロングソードだった。
「いいのか?宝玉は渡り人の命みたいなものなんだろ?」
「私は予備でロングソード持ってるから問題なし!それに、お隣さんも立派な渡り人になったんだよ?手ぶらで妖魔と戦わせるわけにはいかないでしょ」
「……分かった。ありがたく貰う」
もともと返すつもりだったが、まさか貰うことになるとはな。
彼女の言う通り、この先も渡り人として妖魔と戦い続けるなら、武器である宝玉は手元に置きたい。ここは彼女の言葉に甘えよう。
掌に残った球体は、さっきまでよりも少しだけ温かかった。俺が渡り人になって、初めて握った武器。初めて妖魔に立ち向かった力。命を預けた剣。不思議と、手に馴染む気がした。
「さて、と」
彼女は満足そうに伸びをした。
周囲には、さっきまでの死闘が嘘みたいな静けさだけが残っている。赤黒い空が遠くで渦を巻いていた。
「これで一件落着だね!」
「一件落着って言えるほど軽い戦いだったか?」
「生きてるからセーフセーフ!」
「またそれか……。その基準、いつか事故るぞ」
「ねぇねぇ、自己紹介しようよ!」
「何故急に?」
「だって、この世界じゃ一応初めましてなんだし。ちゃんと挨拶しておかないとでしょ? だからずっと、お隣さんって呼んでたんだよ」
あまり気にしていなかったが、思い返すと確かに裏世界に来てから名前を呼ばれていなかったな。色々とありすぎたせいで不自然に思わなかったが、確かに変な話だ。
「それじゃあ改めまして!」
彼女は俺の前に立ち、胸を張った。
「私は
「……同じく
「オッケー♪ 改めてよろしくね、大和!」
学校では名字呼びだったのに、いきなり名前呼び。
これは俺も名前で呼んだ方がいいのか?恋人でもない女子を名前呼びか……。流石に少し抵抗があるな。
「はぁ……疲れた。早くゲートを見つけて帰ろう」
「あっ、もう普通のゲートを探さなくても大丈夫だよ」
「えっ、何で?」
「渡り人になると、自分専用のゲートを出せるから」
「……は?」
俺は思わず固まった。
「だから迷い人みたいにウロチョロしなくても普通に帰れるよ」
「待て」
「うん?」
「じゃあ俺があんなに悩んだのは……何だったんだ?」
「……青春?」
「違ぁぁぁぁぁう!!」
はぁ……!?えっ、じゃあ、何??本当に俺が先に帰っても、犬星は戦闘せずにすぐに帰れたってことか?!お、俺の悩んだ時間や、渡り人になった覚悟はいったい……。
「あっ、でも勘違いしないでね。迷い人は渡り人用のゲートを通れないし、集中できないと失敗しやすいんだよ。だからさっきのお姉さんや、渡り人になる前の大和を帰すには、普通のゲートを探す必要があったんだ」
「そうだったのか」
「私は専用ゲートを出せるけど、妖魔に追い回されながら集中するのは難しいんだ。だから大和を普通のゲートへ帰した後、逃げ切れる保証まではなかったよ」
なるほど……。あはは……裏世界に来てからカッコつかないな、俺って。
素直に「お前はどうやって帰るんだ?」って聞けば済んでいたのか。まあ、あの妖魔が迫ってくる状況だったし、説明している時間がなかったから仕方がないか。
無駄に覚悟を決めたせいか、なんかもうアホらしくなってきた。
「じゃあゲートの出し方だけど、耳の後ろあたりに力を入れる感じで……って、どうしたの大和?」
俺はその場に倒れ込んでいた。
戦闘の疲れと、緊張が切れた反動が一気に来た。腕はまだ震えているし、足にも力が入らない。
「渡り人になったばかりで宝玉個体と戦ったんだもんね。お疲れ様!それと……」
犬星が屈み、俺の顔を覗き込む。
一呼吸置いてから、彼女は屈託のない笑みを見せた。
「渡り人になってくれて、一緒に戦ってくれてありがとう!」
その言葉は、裏世界の赤黒い空の下でも、不思議と温かかった。
正直、渡り人になったことが正しかったのかは分からない。
それでも、その笑顔を見た瞬間だけは、逃げなくてよかったと思えた。