犬星にゲートの出し方を教えてもらい、俺たちは無事に表世界へと帰れた。時間の進み方は表世界と同じみたいで、夕暮れだった空が、戻った頃には暗くなっていた。ゲートを潜り抜けた後、犬星の言う通りスマホや鞄などの小物が手元にあった。それだけじゃなく、妖魔に吹き飛ばされたことでボロボロになった制服も、元の状態へと戻っている。最初は恐ろしい印象だったが、こうも都合よく戻してくれると、ゲートもなかなか使い勝手が良いな。
とりあえず、スマホで心配しているだろう母さんに連絡を入れた。初めて帰りが遅くなった俺に、何か事故に巻き込まれたんじゃないかと不安だったみたい。すぐに謝って、もう寄り道することなく真っ直ぐ家に帰った。
翌日。
朝になれば普通に目が覚めた。制服に着替え、朝飯を食べ、母さんに「いってきます」と言って家を出た。駅へ向かう道も、電車の中も、校門前で騒ぐ生徒たちも、昨日までと何も変わらない。変わったことがあるとすれば、俺のポケットに小さな球体が入っていることくらいだ。
昨日、裏世界で犬星から譲ってもらった『ロングソード』宝玉。何度も夢だったのではと思った。だが、ポケットの中にある球体が、それを否定してくる。あの赤黒い空も、崩れた街も、人を食おうとする妖魔も、剣を持って笑う隣の席の女子も、全部本当だった。
「おっはよー、大和!」
「……お、おはよう」
教室に入って席に着いた直後、隣からいつも通りの声が飛んできた。
振り向くと、犬星光が机に突っ伏しながら片手だけを上げている。昨日、妖魔と真正面から戦っていた女子高生とは思えないくらい気の抜けた姿だ。
「昨日はよく眠れた?」
「寝付きは悪かったよ。誰かさんのおかげでな」
「えへへ~、それはきっと青春の始まりだね!」
「便利な言葉みたいに使うな」
いつものようにツッコミを入れる。
だけど、いつもと同じではなかった。
犬星の横顔を見るたび、昨日の光景が頭をよぎる。ロングソードを握って妖魔の拳を受け流していた姿。壁に叩きつけられても立ち上がった姿。俺に笑いかけて、「一緒に戦ってくれてありがとう」と言った顔。
そのせいか、授業中も全然集中できなかった。
先生の声が黒板から遠ざかっていく。教科書の文字を目で追っているのに、頭の中では裏世界の赤黒い空が渦を巻いている。
昨日、俺は勢いで渡り人になった。
あの時は、ああするしかないと思った。犬星を一人で残して帰るのが嫌だった。ここで逃げる自分が嫌だった。
でも、冷静になった今はどうだ?
俺は普通の高校生だ。
妖魔と戦う訓練なんて受けていない。剣道すらやったことがない。昨日だって犬星がいなければ何度も死んでいた。
このまま渡り人を続けて、本当に大丈夫なのか。
そんなことを考えている間に、午前の授業は終わった。
昼休みになると、教室は一気に騒がしくなる。
弁当を広げる者、購買へ走る者、机をくっつけて話し始める者。いつも通りの光景だ。
普段なら俺はクラスメイトと共に昼ご飯を食べるが、今日は違う。弁当を片手にどこかへ行こうとする犬星を呼び止める。
「犬星、ちょっといいか?」
「んっ?なになに?」
「話がある。屋上に来てくれ」
「……屋上?」
犬星は一瞬だけ目を丸くした。
「2人きり?」
「まあ、そうなるな」
「大事な話?」
「かなり大事な話だ」
犬星の目が、みるみる丸くなる。
次の瞬間、がたんっと椅子を鳴らして立ち上がった。
「分かった!先に行ってて!」
「えっ、いや、一緒に……」
「女の子には準備が必要なのです!」
「何の準備だよ!?」
そう聞く前に、犬星は弁当箱を机に置いたまま、教室から飛び出していった。周囲のクラスメイトが何事かとこちらを見る。俺も何事か分からない。
「……まあいいか」
犬星の行動を深く考えたところで、どうせ理解できない。俺は弁当を持って、屋上へ向かった。
今日の屋上の風は少し強い。昼休みということもあって、校庭からは部活動の掛け声や、購買へ走る生徒たちの声が聞こえてくる。
空は青い。昨日見た裏世界の赤黒い空とは、まるで違う。俺はフェンスの近くに立ち、ポケットの中の宝玉を握った。
俺は普通に生きてきた。そこそこ勉強して、そこそこ友達と話して、そこそこ平和に過ごしてきた。命を懸けて化け物と戦うような人生を選ぶ理由なんてない。だけど……。
「お待たせぇ!」
屋上の扉が勢いよく開いた。振り向いた俺は、言葉を失った。
そこには、キャッチャーマスクを被り、胸にプロテクターを着け、左手にミットを構えた犬星光が立っていた。
「何だその格好!?」
「受け止める準備!」
「何を?!」
「大和の本気!」
「……えっ、ごめん。話が見えないんだが」
犬星はミットをばしんっと叩き、やけに真剣な声で言った。
「屋上に呼び出し。二人きり。大事な話。これはもう、真正面から受け止めるしかないと思って!」
「ちょっと待て!何を想定しているんだ?」
「告白!」
「違うわ!?」
とんでもない勘違いしているな。確かに「屋上、二人きり、大事な話」ってなったらそう勘繰っちゃう人もいるだろうけど。
……んっ?これ、そう思わせるような言い方した俺が悪いか??いや、だとしても告白を受け取る側がキャッチャーの姿になる方もおかしな話か。
「な~ん~だ~よ~!気合入れておめかししてきたのに~!」
「おめかしにしては重装備過ぎるだろ!というか相手の気持ちを受け止めるのに、何で防具が必要なんだ?」
「本気の気持ちは豪速球かもしれないじゃん!」
「高校生の告白にそんな物理的なもの来るか!……とにかく、その防具外してくれ。普通に話しづらい」
「せっかく野球部から借りてきたのに~」
「昼休みによく借りられたもんだよ」
犬星は素直に防具を外し、ミットと共に床に置く。
「それで、大事な話って?」
今度は茶化すことなく、犬星は俺を見る。
その目を見て、俺は少しだけ息を整えた。
「裏世界について教えてほしい」
「おっ!渡り人になったばかりなのに、もう興味津々?」
「当たり前だ。何も知らないままってわけにはいかない」
「なるほどなるほど」
犬星は頷くと、ポケットに手を入れた。
宝玉でも取り出すのかと思ったが、出てきたのは、黒縁のメガネだった。
「では、犬星先生の特別授業を始めます!」
「何でメガネをかけてる?」
「先生っぽいから!」
「形から入るタイプか」
犬星は伊達メガネをかけて腕を組む。
本人は教師っぽくしているつもりなのだろうが、さっきまでキャッチャー装備だったせいで説得力が薄い。
「では猪飼くん。まず問題です。裏世界とは何でしょう?」
「俺が聞いてるんだけど?!」
「素晴らしい!分からないことを素直に聞ける姿勢は大事です!」
ちゃんと教える気があるのか、このポンコツ教師。
犬星は人差し指を立てる。
「裏世界は、表世界の裏側にある世界です!」
「それは昨日も聞いた」
「表世界は私たちが暮らしている普通の世界。学校があって、コンビニがあって、テストがあって、寝坊したら怒られる世界」
「最後だけ個人的だな」
「そして裏世界は、その表世界の形にそっくりだけど全然違う、もう一つの地球の顔。地面や建物はすご~くボロボロで、たくさんの妖魔がうろついてる怖~い世界です」
「昨日見た徒画市っぽい所が、それか?」
「ザッツライト!」
意図的なのか、はたまた偶然に似てきたのかは分からないってところか。表世界と裏世界って呼ばれているから、やっぱり多少の因果関係とかあるのか?
犬星はフェンスの方へ歩き、空を見上げる。
「裏世界には妖魔がいる。妖魔は人間を襲う。理由は色々あるけど、一番分かりやすいのは……人間が美味しいから」
「人肉が好物……。まさに人間の天敵だな」
「妖魔はゲートが開くと表世界まで出てきて、人を攫っちゃうことがある。そうやって裏世界へ連れて来られたり、偶然ゲートに迷い込んだ普通の人を迷い人って呼ぶの」
昨日の俺やお姉さんが妖魔に追われていたのは、そういうことだったのか。
「そういえば大和って、どうやって裏世界に来たの?あのお姉さんと一緒で妖魔に捕まった」
「俺はちょっとした成り行きでゲートを見つけてな。叫び声が聞こえて触ったら、あの砂山に落ちた。それで、渡り人は?」
「宝玉を発動して裏世界で戦える人のこと。私や大和みたいにね!」
犬星は俺のポケットに指を差す。
俺は中に入った宝玉を握った。
「宝玉は裏世界にある不思議な力の塊。武器になったり、魔法っぽいことができたり」
「このロングソードとかか?」
「正解!宝玉には色んな種類があってね、集めて使いこなすのが渡り人の基本です」
「つまり、渡り人は宝玉を使って妖魔と戦う人間、ってことか」
「うん。ざっくり言えばそんな感じ!」
「ざっくりじゃない説明は?」
「難しいから今は割愛!」
「教師モードもう終われ」
犬星はえへへと笑いながら、伊達メガネを外す。
だが、すぐに表情を少しだけ真面目にした。
「あと、これは大事なことだからちゃんと聞いて。渡り人は裏世界で怪我しても、表世界に戻れば大体元に戻る。服の汚れとかもリセットされる。そして普通の人よりはかなり丈夫で、痛みにも我慢強くなる。宝玉を発動した後、身体が熱くなったでしょ?あれは渡り人の身体になるための洗礼みたいなもの」
あの異様な熱さはそういうことだったのか。妖魔に吹き飛ばされても、思っていたよりも痛くなくてすぐに動けたのは納得した。
「渡り人の身体は裏世界用に作られる感じかな。表世界の本体とはちょっと違うって言われてる」
「じゃあ、裏世界では死なないのか?」
その問いに、犬星は少しだけ黙った。風が吹き、彼女の髪が揺れる。
「死ぬことは、あんまりないよ」
「あんまり?」
「うん。普通にやられたらワールドアウトって言って、表世界に強制的に戻される。持ってた宝玉は全部その場に落として、一週間くらい裏世界に入れなくなる」
「宝玉は全部無くなって、一時的な活動停止……。かなりキツいな」
「かなりキツいよ。何回も言うけど、宝玉は裏世界の命綱みたいなものだからね。でも、一番危ないのは核を壊されること」
「核?」
聞き返すと、犬星は自分の胸の前に両手でハートを作る。
「渡り人の身体の心臓の奥には核があってね。そこを壊されると、ロストになる」
ロスト……。「喪失」や「損失」の意味がある単語だな。殺伐とした裏世界で、その単語はあまりに不気味すぎる。
「ロストすると、渡り人じゃなくなる。裏世界にはもう行けなくなる。それから、裏世界で得た記憶だけ、ぽっかり抜け落ちる」
犬星は軽く言った。でも、その内容は軽くなかった。
「核を破壊されたら……昨日のことも忘れるのか?」
「そう。大和が私と裏世界で会ったことも、妖魔と戦ったことも、ロングソードを使ったことも、全部」
俺はポケットの宝玉を握る手に力を込める。
昨日の恐怖、犬星と並んで戦った感覚、初めて妖魔を斬った手応え、犬星の「ありがとう」という笑顔。それが全部、消える。
「……もし俺が、渡り人を辞めたいって言ったら、犬星は俺の核を破壊してくれるのか?」
犬星は一瞬だけ目を伏せた。それでも、逃げずに頷いた。
「うん、いいよ」
犬星は即答した。
だが、その表情は少しだけ硬かった。
「でも、あんまりやりたくはないかな」
「そりゃ、そうだろうな。偽物の身体とはいえ、人殺しみたいなもんだし」
犬星はフェンス越しに空を見上げる。
表世界の空は、昨日の裏世界とは違って青かった。
「ううん。大和が昨日、ちゃんと自分で選んだから。怖いのに宝玉を握って、私と一緒に戦ってくれたから。それを私が壊して、なかったことにするのは、ちょっと寂しいなぁ~って」
「……」
「でも、大和が本気でやめたいなら、私は止めないよ。裏世界は危ないし、妖魔は怖いし、痛い思いもする。普通の生活に戻りたいって思うのは、当たり前だから」
犬星はいつものように明るい笑顔だ。
けれど、今は少しだけ無理をしているように見えた。
「だから、ちゃんと考えて決めていいよ」
その言葉に、俺はすぐ返せなかった。
核を壊してもらえば、俺は渡り人ではなくなる。昨日のことも忘れられる。あの恐怖も、妖魔も、裏世界も、全部。
それは、きっと楽な選択だ。俺は普通の高校生に戻れる。成績も悪くなく、友達もいて、遅刻欠席なしの平凡な学生生活に戻れる。裏世界で死にかけることもない。妖魔に追われることもない。剣を握って震えることもない。だが……。
「犬星は……今まで一人で戦ってきたのか?」
「んっ?」
「裏世界で……昨日みたいに、人を助けたり、妖魔と戦ったり」
犬星は少しだけ目を瞬かせる。それから、あっさり頷いた。
「うん。まあ、基本は一人かな」
「怖くないのか?」
「怖い時もあるよ」
意外だった。犬星は、怖いなんて思わない人間だと思っていた。
「でも、妖魔に襲われてる迷い人はいるなら、できるだけ助けてあげなくちゃ。それに宝玉を探すのも面白いし。あと、誰も知らない場所を歩くのって、ちょっとワクワクしない?」
「……昨日、何度も吹き飛ばされてた」
「飛んだね~。あれはなかなか良い飛距離だった」
「笑い話みたいに言うなよ」
思わず声が強くなる。犬星はきょとんとした顔で俺を見た。
「大和?」
想像してしまった。俺が何も知らないところで、犬星が一人で裏世界に入る。昨日みたいな妖魔と戦う。壁に叩きつけられる。武器を手放す。それでも笑って、また立ち上がる。
俺はそれを知らないまま、表世界で普通に昼飯を食べて、授業を受けて、友達と笑う。そんな自分を想像した瞬間、胸の奥が妙に気持ち悪くなった。
昨日、俺は「ここで逃げる自分が嫌だ」と言った。それは今も変わらない。
「……やめるのは、やめる」
「うん?」
「渡り人をやめるのを、やめる」
自分で言っていて少し分かりづらいなと思った。
だが犬星には伝わったらしい。彼女の目が丸くなる。
「いいの?」
「ああ。正直、怖い。今でも裏世界には行きたくないと思ってる。でも……お前の言う通り、昨日みたいに困ってる人がいるって知った後で、何も知らないふりして戻るのは嫌だ。まして犬星が一人でやってるなら、なおさらだ。」
「……」
「役に立てるかは分からない。昨日だってほとんど足手まといだった。でも、何もできないまま終わるのは嫌だ。せめて、やれるだけやってみる」
言い終えると、急に恥ずかしくなった。何だ、この決意表明。屋上で女子相手に何を熱く語っているんだ。
犬星はしばらく黙っていた。
「そっか!」
彼女は、昨日と同じように笑った。
裏世界で「一緒に戦ってくれてありがとう」と言った時と同じ、屈託のない笑顔だった。
「じゃあ、改めてよろしくね!大和!」
「……ああ。よろしく、犬星」
「むっ。光って呼んでくれてもいいんだよ?」
「それは、そのうち」
「そのうちかぁ~。なら予約しておこう!」
「名前呼びに予約制度なんてないだろ」
犬星は楽しそうに笑う。その笑顔を見て、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。
その時、昼休み終了五分前の予鈴が鳴り響く。
「「……あっ」」
俺たちは同時に声を漏らした。
「昼飯……」
「食べてないね」
屋上に、妙な沈黙が流れる。
大事な話をしていた。渡り人を続けるかどうかという人生に関わる話だった。それは分かっている。分かっているのだが、腹は容赦なく空く。
ぐぅぅぅぅと、俺たちの腹が悲鳴を上げる。
「犬星も昼飯まだだったのか?」
「野球部に道具を借りて、そこから屋上まで走ってきた私に食べる時間があると思う?」
「……ごめん」
これに関しては本当に申し訳ない気持ちになる。
「……育ち盛りに昼抜きは厳しいな」
「うん。世界の真理より、お昼ごはんは大事だよ」
「そこまで言うか?」
「ということで、大和」
犬星は真剣な顔で俺を見た。
「五時間目、隠れて食べよう!」
「教師みたいな説明をした直後に、生徒として最低な提案をするな!?」
ため息を吐きながらも、俺は自分の弁当を思い出す。
朝、母さんが作ってくれた弁当。今頃、鞄の中で出番を待っている。
確かに、昼抜きは厳しい。
「……絶対バレないようにしろよ」
「おっ、共犯成立!」
「その言い方やめろ」
こうして俺は授業中に飯を食べて空腹を凌いだ。こんなことをするのは人生初だ。
幸い俺たちの席は最後列で窓際だ。教科書を器用に立てれば、弁当箱の一つくらい机に置いてもパッと見ではバレにくい。それでも先生だけじゃなくクラスメイトにも見つからないように、今までにないほど周囲に気を配って箸を進めた。もし見つかれば間違いなく2人仲良く指導される。昨日の妖魔と戦ったよりも長い緊張感が全身を巡った気がする。
因みに、犬星がキャッチャー姿で屋上まで駆け抜けたことで、学校内で大きな話題となった。注目の的となった彼女は、誇らしげな顔で「どうもどうも~♪」とにやけている。
これから彼女を呼び出す時は……時間と場所、そして何を話すのか事前に伝えてからの方がいいな。