今日は少しやらかしてしまった。
まず高校生になって初めて二度寝をしてしまい、遅刻しかけた。目覚まし時計の音は聞こえていたはずなのに、気付いた時には布団の中で二度目の夢を見ていた。そのせいで朝飯をゆっくり食べる時間なんてなく、食パンを咥えながら玄関を飛び出した。まるで漫画みたいな真似までしてしまった。
学校に着いてからも散々だった。今日は体育の授業があったのに体操着を忘れた。更衣室で鞄を漁った瞬間、背中に冷たい汗が流れた。先生には「猪飼が忘れ物とは珍しいな」と言われ、クラスメイトにも「珍しいな」と笑われてしまう始末。
先日の中間テストだって、寝不足のせいか集中できず、普段なら解ける問題を何問も落としてしまった。答案が返ってきた時は本気で落ち込んだ。
今までなら絶対にしないミスばかりだ。原因は分かっている。ここ数日、裏世界での活動に集中しすぎていたからだ。
生き残るために鍛えるのは大事だ。宝玉の扱いに慣れるのも必要だ。妖魔と戦う以上、何もせずにいるわけにはいかない。けれど、裏世界で生き残るために頑張って、表世界で普通に生きられなくなる。そんなの、笑い話にもならない。
俺は渡り人になった。けれど、渡り人である前に高校生でもある。
授業を受けて、宿題をやって、友達と話して、家に帰って飯を食べて眠る。そんな当たり前の生活を守れなくなったら、俺はいったい何のために戦っているんだろう。
「……今日は、行くのやめるか」
小さく呟いて、自分に言い聞かせる。
ちょうど全ての授業が終わり、放課後になったところだ。こういう自由時間にこそ、ぼーっと空でも眺めて、少しは気持ちにゆとりを作るべきだろう。
窓の外を見ると、夕方の光が校庭を薄く染めていた。部活へ向かう生徒たちの声が聞こえる。野球部の掛け声、吹奏楽部の音出し、廊下を走る誰かの足音。どれもこれも、当たり前の学校の音だ。今日は裏世界へ行かない。普通の高校生として、普通に帰る。
そう決めて、鞄へ教科書をしまおうとした時だった。
「猪飼、ちょっといいかな?」
帰る支度をしていると、クラスメイトの女子に声を掛けられた。
雀色の髪をした彼女とはあまり交流はない。だけど、ちょっとした印象があって名前くらいは覚えている。
「どうしたの、
「はい、これ」
そう言って一本の缶ジュースを俺の机に置く。
学校の敷地内にある自動販売機に売られている、ごく普通の炭酸飲料。しかも、俺が好んで飲んでいる奴だ。
「えっと……これは?」
「あたしの奢り」
「えっ?」
「なんか今日、珍しく疲れているっぽいからさ。気休めになるかと思って。いつもそれ飲んでるのを見てたから買ったけど……余計なお世話だったか?」
確かに昼休みに、教室でこの炭酸飲料を飲むことは何度かあった。けれど、それを覚えられているとは思わなかった。
人がよく飲む銘柄なんて、わざわざ意識しなければ気づかないはずだ。つまり鶏崖さんは、俺が思っているよりも周りをよく見ているんだろう。
「い、いやいや、とんでもない!これは嬉しいサプライズだ!……でも、何でわざわざ俺に?」
「疲れてる奴に何かを贈るのは変なことか?何かあったら助け合うのが普通だろ?」
うわぁ~、メッチャいい人だ……!後光が差して見える!
そう、鶏崖さんはこういう人だ。誰かが困っていると、自然に手を差し伸べる。しかも、それを鼻にかけない。本当に当たり前みたいに善意で動く。
犬星の奇行が目立つせいで話題に埋もれがちだが、鶏崖さんもクラスではちょっと有名だった。誰かが困っていると、気付けば手を貸している。関わりの少ない俺が名前を覚えていたのも、それが理由だ。
「ありがとう!お言葉に甘えて頂くよ!」
「どういたしまして。まあ、あくまで気休めだからな。ちゃんと飯食って、今日は早く寝ろよ」
「お、おう……」
同い年のはずなのに、まるで年上のお姉さんに注意されているような気分だ。
けれど、不思議と嫌な感じはしない。言い方が押しつけがましくないからだろう。
「あちゃ~、先越されちゃったか~!」
貰った缶ジュースを開けようとした瞬間、教室の扉から大きな声が聞こえた。
振り向くと、そこには両腕に大量の缶を抱えた犬星が立っていた。歩くたびに缶同士がぶつかり、カコンカコンと不安になる音を鳴らしている。
なんだろう。見ただけで疲れる予感しかしない。
「うわぉ。爆買いしたね」
「犬星、何だその缶の山は?」
「大和が疲れてそうだったから、元気になりそうな物を持ってきたよ!」
犬星はそう言うと、両腕いっぱいに抱えていた缶を、俺の机の上にドンと雑に置いた。机が小さく揺れ、近くにいたクラスメイトが何事かとこちらを見る。
缶の名前を確認して、俺は言葉を失った。
「“コーヒーっぽいコーラ”、“マヨネーズっぽいミルク”、“黒糖っぽいおしるこ”……」
見事なまでに、好奇心と不安だけを刺激してくる品揃えだな。
「さぁ、好きなの選んでいいよ!要らない分は私が持って帰るから!」
「なんと言うか……すげぇラインナップだな」
「あはははは!こんなジュースがあるなんて、知らなかったよ!」
腹を抱えて鶏崖さんは笑うが、俺も全く同感だ。というかどうなっているんだ、この学校の自販機は。
学校という教育機関に設置していい品揃えなのか、少し真剣に考えてしまう。
「嬉しいけど、こんなに買わなくてもよかったのに……」
「だって大和の好みが分からなかったんだもん。だから大和が喜びそうな物を手当たり次第に選んでみた!」
犬星の目には、俺はどう見えているんだ?少なくとも高校に入学してから、こんなゲテモノジュースを買った覚えはないぞ。
鶏崖さんは、俺の好きな一本を選んでくれた。犬星は、俺の好みが分からないから全部買ってきた。方向性は真逆なのに、どっちも善意なのが困る。
「てか何、二人してプレゼントって……。今日の俺、そんなに疲れているように見えていたのか?」
「うん。天然属性でも目覚めたのかなってくらい、今日の大和はなかなかのポンコツぶりだったよ」
「普段真面目にしていた奴が、今日はミスを連発したからな。不思議に思うのは当然だろ。それに顔色も少し悪そうだし」
マジか……。自分ではそこまで疲労を感じているつもりはなかったが、傍から見て顔色が悪いのなら、思っていたよりも重症なのかもしれない。
犬星はいつもの調子で笑っているが、よく見ると目だけは少し心配そうだった。鶏崖さんも、冗談っぽく振る舞いながら、俺の顔色を確かめるように見ている。結果的に誰かに心配を掛けている時点で、自己管理ができていない証拠だ。これは本格的に、生活の見直しをした方がよさそうだ。
「まっ、何か悩みがあるなら言いな!これでも長女だし、話くらいなら聞くぜ!」
だからどこか頼りがいがあったのか。俗にいう、姉御って奴か。
確かに、同い年とは思えない「しっかりしなきゃ!」という雰囲気で納得できる。
「いよっ、
「犬星に言われると、褒められてるのか分からないなぁ」
「褒めてる褒めてる!すごく褒めてる!」
犬星が大きく頷くと、鶏崖さんはまた楽しそうに笑った。
そういえばこの2人、普段から会話しているところをちょくちょく見たことがあったな。犬星の突拍子もない言動に対して、鶏崖さんは驚きつつもちゃんと笑って受け止めている。今のやり取りで思ったが、案外相性がいいのかもしれない。
鶏崖さんはこう言ってくれるが、流石に普通の人に裏世界のことは話せないし、巻き込めない。それに、二人からのプレゼントに多少気分も良くなった気がする。
「犬星もありがとう、こんなに選んでくれて。でも流石に多いから、一本だけ貰うよ」
「なんのこれしき!それで、どれにしちゃう?」
「……それじゃ、これでも貰おうか」
俺が手にしたのは「コンソメっぽいコーンポタージュ」という名前の缶ジュース。まあ比較的、無難な選択ではあるだろう。
鶏崖さんには悪いが、まずはこっちから先に頂こう。こういうジュースは間違いなく腹に溜まる。後から飲んで、夕食が食べられなくなったらキツい。鶏崖さんがくれた炭酸飲料は、風呂上がりにでもありがたく飲ませてもらおう。
「おぉ~、なかなか渋いのを選びますなぁ!」
「せっかくこんだけあるんだし、犬星も一緒に飲まないか?持って帰るにしても、今ここで数減らした方が楽だろ」
「そうだね!じゃあ私はこれを飲もっと!」
そう言って彼女が選んだのは「ソフトクリームっぽいメロンジュース」と書かれた缶だ。見るからに甘ったるそうなジュースだな。
「羽菜ちゃんも選んで!」
「えっ?あたしも貰っていいの?」
「こんなにジュースがあるんだし、せっかくだから3人で乾杯しよ!大和もいいよね?」
まあこれも何かの縁だしな。あまり話したことのない俺にわざわざ気遣って飲み物をくれたんだ。むしろ、この流れで鶏崖さんだけ飲まずに帰る方が申し訳ない。
もちろんと俺が頷くと、鶏崖さんは少し嬉しそうに笑った。
「飲み物をあげるつもりが、まさか逆に貰うとはね。じゃあ、あたしも貰っちゃおうか!」
そう言って鶏崖さんは「イチゴっぽいブドウジュース」と書かれた缶を手に取り、先に帰った前の席の生徒の椅子に座る。
えっ、何それ、めっちゃ美味しそう。完全に俺の死角に埋もれていたから気付かなかった。俺もそっちがよかった。
「それでは2人共、ジュースを開けて~~~~~!乾杯!!」
「「乾杯!」」
犬星の合図とともに俺たちは蓋を開けて、3つの缶を当てる。
そういえば同級生と宴会みたいなパーティーとは無縁だったからな。こうして同い年の人らと乾杯するのは初めてだから、なんだかすごく新鮮だ。ただ缶をぶつけただけなのに青春っぽいな。
さて、こいつの味は、っと。……うん、不味くはない。ただ味はコーンポタージュなのに、鼻へ抜ける香りはコンソメ。決して合わない訳じゃないが、別々で楽しんだ方が格段に良いと思う。
「ん~~~~~♪あっまぁ~~~い!」
「このジュース美味いな!犬星、これどこにあったんだ?今度また飲んでみたいから、場所教えてよ」
「んっ?全部、柔道場の前にある自販機に」
ミスマッチにも程があるだろ。もはや嫌がらせだろ。
まあ、ぶっちゃけ他にどんな物があるのか気になるから、一度は覗きに行きたい気持ちが……。
――キィィィィィン。
「うッ……!?」
「……大和?」
「お、おい、どうした猪飼?」
突如として、激しい耳鳴りが響いた。思わず持っていた缶を乱暴に机に置き、両手で耳を塞ぐ。
この音、覚えがある。脳みそにまとわりつくような不快感。耳を塞いでも意味がない、頭の奥へ直接流し込まれるような音。
間違いない、俺が初めてゲートを見つける前に起きた現象だ。
《書物まみれの大部屋……人知れず門に招かれた……》
出た、あの時と同じ声だ。
痛みを堪えながら、なんとか周りを見渡す。
《翼なき狩人よ空を追うな……地を踏み続ければ空から訪れよう……》
ゲートらしきものが一切見当たらないまま、また意味がよく分からない言葉が聞こえる。
前回はゲートを見つけた直後にこの声を聞いたから、てっきりゲートから聞こえていると思っていた。この声そのものは別の何かから俺へ直接送られている。
《嗤ってくるなら怒声で返すと良い……さすれば翼持つ者が姿を見せてくれよう……》
それを最後に、声と同時に耳鳴りがピタリと無くなる。
二回目ということもあり、前みたいに息切れはそこまではない。
「おい、猪飼?蹲って大丈夫か?頭痛がするのか?」
「そうだよ大和?頭大丈夫?」
「犬星、それは聞き方によっては普通に悪口だぞ」
顔を上げると、鶏崖さんと犬星が心配そうにこちらを見ていた。傍から見れば、急に頭を抱えて苦しみ出したようにしか見えないだろう。
教室に残っていたクラスメイトたちも、何人かこちらを見ている。まずい、あまり騒ぎにしたくない。
「いや……大丈夫。少し耳鳴りがしただけだから」
「耳鳴りって、そんな苦しそうにするものか?」
「たまにあるんだよ。疲れてる時とか」
自分でも雑な誤魔化しだと思った。けれど、鶏崖さんはそれ以上深く聞かなかった。ただ、心配そうに眉を寄せたまま見ている。
俺は飲みかけのジュースを手に取り、一気に飲み干した。コンソメとコンポタを同時に味わったせいで少し吐き気がしたが、今はそれどころじゃない。
「犬星、この後時間はあるか?」
「特に予定はないけど、どうしたの?」
「裏」
その一言で、犬星の目の色が変わった。
ここには鶏崖さんがいる。裏世界のことをそのまま口にするわけにはいかない。それでも犬星には、これだけで十分だった。
「……なるほどね」
犬星は小さく頷き、机の上に残った缶ジュースを手早くまとめ始めた。
こんな時でも持って帰るつもりなのかと思ったが、よく見ると動きに無駄がない。いつもの奇行に見えて、ちゃんと行動は早い。
「悪い鶏崖さん。俺と犬星はちょっと席を外す」
「えっ……ああ、分かった」
「ジュース、ホントにありがとう。あと、心配かけてごめん」
「それはいいけど……」
鶏崖さんは俺と犬星を交互に見た。何か言いたそうだった。けれど、言葉にする前に俺は鞄を肩に掛ける。
「行こう、犬星」
「うん!」
帰る支度を済ませ、俺は荷物を持ってすぐに教室を出た。
犬星も理由までは分からないはずだが、迷わず後を追ってくる。
「もぉ~、強引だなぁ~。いきなり裏って言うからビックリしたよ。急になんなの?」
「巻き込んで悪い。けど、どうしても犬星の力を借りたいし、急がなくちゃいけない」
「頼ってくれるのは嬉しいけど、どこに向かうの?」
「図書室だ!」
「図書室?」
俺も自信があるわけではない。
あの声の意図も、正体も分からない。信じていいのかすら、本当は分からない。けれど、あの声に従った先で、俺は犬星に出会った。迷い人を助けることができた。もし今回の言葉を無視すれば、俺の知らないところで誰かが裏世界に引き込まれるかもしれない。今日は行かないって決めたばかりだ。でも、誰かが巻き込まれているかもしれないのに無視なんてできない。
「分かった。急ごう、大和」
犬星が短く言った。いつものふざけた調子ではない。裏世界で何度も戦ってきた渡り人の顔だった。先生に見つかったら指導だろうが、そんなことを気にしている余裕はなかった。俺たちは全速力で、第二校舎にある図書室へ向かった。
幸い誰にも呼び止められることなく、俺たちは第二校舎へ入り、そのまま図書室の扉の前までたどり着いた。いくら緊急事態とはいえ、ここは学校の中で最も静かな部屋。それを好んで勉強に来ている学生が多い。
「今更だけど、なんで図書室に来たの?」
さて、ここはどう説明した方がいいか……。
頭の中へ声が響いたなどと言って、信じてもらえるのか。今は説明している時間もないし、適当なことを言って強引にでも納得させるしかない。
「もしかしたら、ここにゲートが開いたかもなぁって。直感的に」
「嘘ぉ!?おーいみんなぁ、大丈夫?!」
その場の思い付きを言った途端、犬星は疑うことなく豪快に図書室の扉を開けて、そう叫んで入り込む。
いや嬉しいよ、そんな真っ直ぐに信じてもらえるのは。だけど、こうも簡単だと逆に変な奴に騙されないか心配になるレベル。……まあ実際に騙した俺が言うのは可笑しな話だけど。
「おい犬星、あまり大きな声で……えっ?」
注意しながら遅れて図書室に入ると、室内に人の気配がなかった。
うちの高校は学習意欲の高い学生が多く、放課後だけじゃなく土日でも訪れて学習する者がいる。それに本を整理整頓する図書委員会の生徒や、鍵などの管理をする先生が必ずいるから、この時間に、ここまで完全に無人になることなんてまずない。
「誰も……いない?」
「……おぉぉぉぉぉい!!」
俺も犬星に続いて大声で呼びかけるが、どこからも返答がなかった。
学習の途中であっただろう机の上に置かれた勉強道具、何故か床に捨てられたかのように散らかった多くの本、そして電源が入ったままのパソコン。人の気配はないが、さっきまで人がいた痕跡は確かにあった。
この異様な室内に、思わず息を呑む。
「犬星、大勢の人が一度に裏世界へ引き込まれることってあるのか?」
「裏世界が原因の神隠しって、一人だけとは限らないよ。集団で攫われることもある。でも、そういうのはもっと人気の少ない場所で起こるものだと思ってたけど……」
流石の犬星もこの状況に険しい表情を浮かべる。
床には椅子が倒れ、本が散乱している。机の脚には、誰かが必死に掴んだような擦れ跡まで残っていた。必死に抵抗した跡が無残に残された感じだ。しかも、この高校の図書室は、以前改修した際に防音設備を入れたらしく、外からだけでなく内からの音も遮断できるらしい。設備が優秀だったせいで、中にいた人たちの助けを呼ぶ声が誰にもとどかなかったんだろう。全く皮肉な話だ。
「私たちも急いで
「ああ!」
正直、どれだけの妖魔と戦うことになるのかと、冷や汗までかく。だが、ここまで来てもう引き返すわけにはいかない。今日まで散々鍛錬してきた自分と、ポケットに入っている『ロングソード』を信じるしかない。
決死の覚悟を決めて、俺たちはゲートを開いて裏世界へ向かう。
「うおっと!?……ここが、裏世界の彩間高校の校舎内か?」
ゲートを通った先で、俺たちは彩間高校を彷彿とさせる建物の中へ出た。
だが、見渡せば建物の所々に亀裂があって、蔦や苔が侵食している。造りが似ているだけで、ここも立派な裏世界だ。
「大和、こっちこっち!」
窓際にしゃがんでいる犬星に小さな声で呼びかけられた。
俺は足音を殺しながら犬星の隣まで移動し、同じように窓の外を覗き込む。
「なッ……!?」
思わず息を呑んだ。