第1話:平穏な日々
香琳妃と、その侍女たちの取り調べは続いていた。
事件そのものは、壬氏や高順をはじめとした者たちの手へ移っている。
調べが進むにつれ、香琳妃が壬氏――皇弟・華瑞月へ抱いていた感情も、少しずつ明らかになってきた。
一つは、実家の問題だった。
壬氏が華瑞月として関わった政策によって、香琳妃の実家が長く保持していた既得権の一部が失われた。
もちろん、華瑞月本人に香琳妃の家を狙い撃ちにする意図などない。国全体を考えて行った施策の結果にすぎない。
しかし、それを「自分たちの家が貶められた」と考える者もいた。
さらに厄介だったのが、香琳妃自身の壬氏に対する感情だった。
好意。
執着。
憧れ。
そして、自分を見てくれないことへの怒り。
家の恨みまで混じり合い、愛情と憎悪の境界が分からなくなっていたらしい。
そのようなことを猫猫は聞かされたが、猫猫にとって、事件はもう、自分の手を離れたものだ。
毒がどこから来たのか。
誰が作ったのか。
誰を狙っていたのか。
そこまで分かれば、薬屋の出番は終わりである。
後は政治と法の問題。
猫猫が深入りしても、ろくなことにならない。
「ということで」
猫猫はあっさり言った。
「私はもう関係ありません」
「お前はそうやってすぐ逃げる」
「逃げるのではありません。適材適所です」
幸い、毒を盛られた女官も回復したと言う。だったら、もう猫猫はこの事件に関しては言うべきことはなかったのだ。
後宮には、少しずつ日常が戻っていった。事件が解決したことで、フリーレンとフェルンも再び、後宮での生活を楽しむようになった。
まず二人を呼んだのは玉葉后だった。
「この前はあまり聞けなかったもの。もっと旅のお話を聞かせてちょうだい」
元々、好奇心旺盛な玉葉后である。
フリーレンたちが「遠い西方」の旅人ということになっている以上、その旅の話は興味を引く。
雪深い土地。
巨大な森林。
海沿いの町。
古い遺跡。
不思議な風習。
もちろん、魔族や魔物といった、あまりにもこちらの世界からかけ離れた話については慎重に避ける。
それでも、話題には事欠かなかった。
さらに、上級妃の梨花妃。そして里樹妃からも声がかかった。
梨花妃は落ち着いた様子で二人の話を聞き。
里樹妃は年齢相応に目を輝かせた。
「本当に空を飛べるのですか?」
「飛べますよ」
フェルンが答える。
「……飛ばせてもらうのは?」
里樹妃が恐る恐る聞く。
フェルンが答えるより先に、付き添いの女官たちが一斉に青ざめた。
「里樹様!」
「駄目です!」
「絶対に!」
「……少しくらい」
「駄目です!」
フェルンは思った。
(子翠と同じですね……)
もちろん口には出さなかった。
そして、後宮の中だけではない。
ある日、壬氏の許可を得て、フリーレンとフェルンは後宮の外へ出ることになった。
一応、高順も同行する。
「護衛ですか?」
フェルンが尋ねる。
高順は少し困ったような顔をした。
「形式上は、そうなります。しかし‥‥‥」
香琳妃の宮で、武装した侍女たちをほとんど何もさせず制圧したフリーレンとフェルンである。
高順は思う。
(この二人に護衛が必要なのだろうか)
猫猫が横から言う。
「何かあった時の案内役と思えばいいんじゃない?」
「……それが一番正しいかもしれませんね」
高順は苦笑した。
まず訪れたのは、阿多妃のもとだった。
かつて上級妃であり、今は後宮を離れて暮らす女性。
阿多妃はフリーレンを見ると、興味深そうに目を細めた。
「随分変わった客を連れてきたな、猫猫」
「空から降ってきました」
「…………」
猫猫は真顔だった。
本当の話ではある。
阿多妃は猫猫を見る。
フリーレンを見る。
フェルンを見る。
そして。
「まあ、詳しいことは聞かないでおこう」
「助かります」
阿多妃は大人だった。フリーレンとも妙に気が合った。
長く生きてきた者と、多くを経験してきた者。
年齢も世界もまるで違うが、どこか達観したところが似ているのかもしれない。
「人間って面白いでしょう?」
阿多妃が言う。
「はい」
フリーレンは頷いた。
「最近、前よりそう思うようになりました」
猫猫は何気なくその言葉を聞いていたが、フェルンは少しだけ嬉しそうだった。
そして次に向かったのは花街。
緑青館。
猫猫が育った場所だった。
「ここが……」
フェルンが周囲を見る。
華やかな建物。
行き交う人々。
後宮とは、まるで違う空気。
フリーレンも興味深そうに眺める。
「猫猫はここで育ったんだ」
「そうだよ」
「随分賑やかなところですね」
「昼はまだ静かな方だよ」
猫猫が答える。
緑青館へ入る。
すると。
「猫猫!」
やり手婆が現れた。
そして猫猫の後ろにいるフリーレンとフェルンを見る。
まずフリーレン。
次にフェルン。
そして、フェルンの身体を上から下まで見る。
特に、ある一点で視線が止まった。
「…………」
フェルンが首を傾げる。
「何でしょう?」
「…………」
やり手婆は何か言いたそうだった。
非常に、とても、商売人らしい目をしていた。
猫猫が無言でやり手婆を見る。
「…………」
「…………」
しばし見つめ合う。
やがて。
「……まあ、今日は客なんだね」
「そうだよ」
「なら何も言わないよ」
猫猫は心の底から安心した。
フェルンだけは何も分かっていない。
「?」
ちょうどそのとき。
「あれ、嬢ちゃん?」
聞き覚えのある声。
振り返れば顔なじみの武官李白だった。
「李白様」
「どうしたんだ」
「ちょっと案内を」
猫猫がフリーレンとフェルンを示す。
李白は二人を見る。
「おお、噂の異国の客人か」
どうやら話は聞いているらしい。
「李白様こそ、何を?」
猫猫は聞いた。
李白の顔が少しだけ固まる。
「いや、その……」
緑青館。
李白。
そして、猫猫はすぐ分かった。
「白鈴姐ちゃんのところですか」
「…………」
図星。
「帰るところだったんだよ」
「そうですか」
「その目はなんだ」
「別に」
猫猫は何も言っていない。
フリーレンが猫猫へ聞く。
「知り合い?」
「うん。武官」
「強いの?」
「かなり」
李白が少し嬉しそうに胸を張る。
単純な奴だ。
さらに、二人は羅門にも会った。
「おや、猫猫」
穏やかな声。
猫猫の育ての親。
そして、薬師としての師でもある人物。
「親父」
猫猫が呼ぶ。
フリーレンとフェルンは羅門を見る。
「初めまして」
羅門は柔らかく頭を下げた。
「猫猫がお世話になっているようで」
「いや、こちらこそ」
フリーレンが答える。
フェルンも礼をする。
そして、二人は羅門を見る。
猫猫を見る。
また羅門を見る。
「…………」
「…………」
二人が顔を見合わせた。
猫猫の眉が動く。
「……何を言いたいのだ」
「いや」
フリーレンが言う。
「この人が」
フェルンも続ける。
「猫猫の育ての親……」
「だから何だ」
フリーレンが続ける。
「穏やかで常識がある人のようだね」
「‥‥‥お前にだけは言われたくはない」
猫猫はむっとする。
その横で羅門も穏やかに笑っていた。
「猫猫は、昔から少し変わったところがありまして」
「親父」
「毒や薬に興味を持つと周りが見えなくなることも」
「親父」
フェルンが頷く。
「よく分かります」
「フェルンまで」
緑青館を出た後。
猫猫は二人に、少しずつ花街について話した。
華やかな場所。
美しい妓女。
酒。
音楽。
笑い声。
だが、それだけではない。
「ここには光もあるけど、闇もある」
猫猫は淡々と言った。
借金。
病。
売られてくる少女。
客との揉め事。
時には命に関わることもある。
「私がそばかすを描いてるのも、そのためだよ」
フェルンが驚く。
「そのため?」
「花街で目立つ顔をしてると面倒なことになる」
「だから、わざと?」
「うん」
「自分をあまり綺麗に見せないために……」
「まあね」
フェルンはしばらく黙った。
香琳妃が猫猫を「醜女」と呼んだとき自分は腹が立った。
でも、猫猫自身にとってはそばかすは単なる化粧ではない。自分の身を守るための知恵なのだ。
「猫猫」
「何?」
「大変だったんですね」
「別に」
猫猫はいつもの調子で答える。
「そういう場所だってだけ」
フリーレンは何も言わなかった。
ただ猫猫の横顔を少しだけ見つめていた。
そして、後宮へ帰ればまた平穏な日々。
「猫猫」
「何?」
「これとこれを混ぜたらどうなるかな」
「ちょっと待て。それは混ぜるな」
「なんで?」
「多分、臭い」
「毒じゃないだろ。ならやってみよう」
「臭いって言っただろ」
フリーレンと猫猫は、再び何やら始めている。
フェルンはもう止めることを半分諦めていた。
その代わり、フェルン、子翠、小蘭の三人は――
別の研究を始めていた。
「できた!」
小蘭が声を上げる。
「今度こそいけると思う!」
「本当?」
子翠が覗き込む。
フェルンも確認する。
「蜂蜜を少し薄めて、果汁を加えてみました」
そう、かき氷。
以前、フリーレンが魔法で出したものの。
最大の問題があった。
シロップがない。
そこで、この世界にある材料で、代わりを作ろうとしていたのである。
主に使ったのは蜂蜜。
そこへ果物の汁を加える。
少し煮詰め、冷ます。
「フリーレン様!」
フェルンが呼ぶ。
「何?」
「かき氷をお願いします」
「できたの?」
フリーレンがやってくる。
猫猫もついてきた。
「試作品か」
「そう!」
小蘭が胸を張る。
「私たちが作ったんだから!」
「じゃあ出すよ」
フリーレンが魔法を使う。
器の中へ、さらさらと真っ白な氷。
その上へ、蜂蜜と果汁を合わせた液体をかける。
「おお」
猫猫が少し感心する。
「見た目は悪くない」
「食べよう!」
五人で匙を持つ。
まず一口。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
小蘭が恐る恐る聞く。
「どう?」
猫猫がもう一口。
「甘い」
「おいしい?」
「うん」
子翠も笑う。
「これ、いいじゃない」
フェルンも頷く。
「十分シロップの代わりになりますね」
フリーレンは何も言わず、どんどん食べている。
「フリーレン様?」
「何?」
「気に入りました?」
「うん」
「なら良かったです」
「もう一杯」
「早いです」
「まだあるでしょ?」
「ありますけど」
「フェルン」
「駄目です」
「まだ何も言ってないよ」
「おかわりでしょう?」
「うん」
「やっぱり」
小蘭が笑う。
子翠も笑う。
猫猫まで少しだけ笑った。
そして、五人はかき氷を食べながら、取り留めのない話を続ける。
魔法の話。
薬草の話。
虫の話。
後宮の噂話。
旅の話。
猫猫とフリーレンの次の研究について。
「次は泡が出ない洗剤」
「まだ諦めてなかったんですか?」
フェルンが呆れる。
「当然だ」
猫猫が言う。
「人類の進歩のためだからね」
フリーレンも言う。
「その言葉、便利に使ってません?」
「そんなことない」
「ない」
また二人の声が揃う。
「「「はあ……」」」
今度はフェルンと子翠と小蘭。
三人のため息が重なった。
そして――笑い声。
魔法使いと薬屋。
しっかり者の弟子。
上級妃でありながら下女として遊び回る少女。
噂好きな明るい下女。
本来なら決して出会うことのなかった五人。
帰る方法は、まだ分からない。
けれど、今、この瞬間だけはそんなことを急いで考える必要もなかった。
甘い蜂蜜のかかった冷たい氷を食べ、くだらない話をして時々笑う。
こうして、後宮には、しばらく平和な時間が流れていったのである。