自来也が最初に異変へ気づいたのは、音ではなかった。
夜の街道には音がある。虫が鳴き、葉が擦れ、遠くで水が流れている。旅を長く続けていると、その全部を聞き分ける必要などなくなる。むしろ、いつもある音がなくなった時だけ身体が勝手に止まる。
その夜は、森が一度に黙った。
「……なんじゃ?」
火の国の北寄り、国境から半日ほどの古い街道だった。自来也は肩に掛けた荷を下ろさず、目だけを動かした。
月はある。風もある。
なのに道端のすすきが、ほんの一呼吸ぶんだけ静止した。
次の瞬間、十歩ほど先の空間が白く裂けた。
雷ではない。光は縦に走り、音も熱もなかった。ただ距離だけがおかしくなった。近くの木が急に遠ざかり、遠い月が手の届きそうな場所まで滑ってきたように見える。
「時空間……?」
自来也の顔から旅人らしい気の抜けた表情が消える。
印は結ばなかった。正体の分からない時空間現象へ、こちらから強い術をぶつけるのは悪手だ。
白い裂け目が広がった。
何かが落ちてきた。
小さい。
人だと分かった時には、金色の頭が夜の中をひっくり返っていた。
「おい!」
自来也は地面を蹴った。
小さな身体は土へ落ちる寸前、一度だけ空中で引かれるように速度を失った。それでも受け止めるには十分速い。自来也は両腕で抱え、そのまま肩から地面へ転がった。
背中に土が刺さる。
腕の中の重さは、驚くほど軽かった。
「……子供?」
三歳ほどだろうか。
薄い上着に短いズボン。片方の靴がない。金髪。頬には三本ずつ、細い痕がある。
子供は目を閉じていた。
自来也は呼吸を確かめる。ある。脈もある。大きな外傷は見当たらない。
「おい。聞こえるか」
肩が小さく動いた。
青い目が薄く開く。
目が合った途端、子供の身体が固まった。
「……や」
「何?」
「や……」
自来也は抱いていた腕を緩め、ゆっくり地面へ座らせた。
「触られるのが嫌か」
子供が頷く。
「分かった。もう勝手に触らん」
二歩離れて胡坐をかいた。
子供は両膝を抱えた。警戒している。それでも逃げようとはしない。いや、逃げるほど力が残っていないらしい。
自来也は水筒を外した。
一口飲んでから地面へ置く。
「水だ。飲みたければ飲め」
青い目が水筒を見る。
「毒は入っとらん」
反応がない。
「知らん爺がそう言っても信用できんか」
「……じい?」
「誰が爺じゃ」
思わず返してから、自来也は鼻を鳴らした。
子供の目から、ほんの少しだけ張り詰めたものが抜けた。
小さな手が水筒へ伸びる。
両手で持って飲み、すぐにむせた。
「ゆっくり飲め!」
咳き込む背中へ手を伸ばしかけ、自来也は止めた。さっき約束したばかりだ。
子供は自分で咳を止め、二口目はゆっくり飲んだ。
「名前は?」
水筒を抱えたまま見上げてくる。
「名前。ワシは自来也」
自分を指す。
「じ……ら」
「じ・ら・い・や」
「じらや」
「まあ上出来じゃ」
今度は子供を指した。
「お前は?」
唇が動く。
「……なる、と」
自来也の表情が止まった。
「もう一度」
「なると」
聞き間違いではない。
自来也は自分の書いた古い小説を思い出した。出来が良かったとは言えない。だが、あの主人公の名を気に入った弟子がいた。
子供が生まれたら、同じ名前を付けたい。
そう言って笑った金髪の青年を知っている。
その子供は三年前に死んだ。
「苗字は分かるか」
「……?」
「ナルトの、もう一個の名前」
しばらく考える。
「うじゅ……まき」
「うずまき?」
「うずまき、なると」
背筋を冷たいものが通った。
金髪。青い目。頬の痕。名前。
偶然は一つなら偶然だ。四つ続くと、偶然であってほしいという願いに変わる。
「ナルト」
呼ぶと、子供が顔を上げた。
「どこから来た?」
「……きのは」
「木ノ葉?」
「きのは」
「火影は知っとるか」
少し長い問いだったらしい。眉を寄せる。
自来也は言い換えた。
「火影。誰?」
「……じっちゃん」
「ジッチャン?」
「じっちゃん、ほかげ」
自来也は目を閉じた。
今の火影は波風ミナトだ。猿飛ヒルゼンは退いている。
「四代目は?」
「よん……だいめ」
子供は少しだけ空を見るような顔をした。
「しんだ」
「……死んだ?」
「しんだ、ひと」
今すぐ木ノ葉へ連れて帰る。
最初に浮かんだ答えは、それだった。
自来也は親指を噛み、口寄せの印を結びかけた。
途端に、ナルトが腹を押さえた。
「……いた」
空気が鳴らない音を立てた。
ナルトの背後に、さっきと同じ白い線が浮かぶ。
「術を切る!」
自来也は印を解いた。
線が消える。
ナルトの身体が前へ倒れた。
今度は許可を取る暇がなかった。受け止める。
上着が少し捲れた腹部へ、複雑なチャクラの折り返しが一瞬だけ浮かんだ。
封印。
そう見えた。
だが読めない。こんな短時間で読もうとするべきでもない。
「悪かった。もうせん」
ナルトは自来也の腕の中で荒く息をした。
「いく?」
「何?」
「じらや……いく?」
自分がいなくなるのかと聞いているのだ、と少し遅れて分かった。
「今は行かん」
小さな指が、自来也の着物を掴んだ。
「今夜は一緒にいる」
目が閉じていく。
「寝るなら寝ろ。宿場まで運んでやる」
もう返事はなかった。
自来也は子供を背負い直した。
軽すぎる。
三歳なら、もっと重くてもよいはずだ。
街道の先に小さな宿場の明かりが見える。
まず医者。
次に飯。
それから空間反応を考える。
木ノ葉への報告も必要だ。
背中の小さな手が、眠ったまま襟を握り直した。
その瞬間だけ、自来也は全部を後へ回した。
◆
宿の女将は、自来也の背中を見て眉を吊り上げた。
「お子さん?」
「違う」
「お孫さん?」
「違う!」
「では何です」
「……拾った」
女将が真顔になった。
「その言い方はやめなさい」
「ワシも言ってからそう思った」
布団を一組しか頼まず、また叱られた。
夜食に握り飯を出してもらうと、ナルトは半分食べたところで目が閉じ始めた。
「もう寝ろ」
「たべる」
「明日でいい」
「なくなる」
自来也の箸が止まった。
「なくならん」
ナルトが眠そうな目で見る。
「明日も飯はある」
「ほんと?」
「ほんとじゃ」
長く考えてから、残り半分を皿へ戻した。
それだけのことだった。
自来也は妙に長く、その握り飯を見ていた。
◆
ナルトが眠ったあと、自来也は紙を広げた。
――時空間系の異常現象に巻き込まれた幼児一名を保護。
――強い空間残滓を確認。口寄せ系術式への反応あり。
――現状のまま木ノ葉大結界へ接近させることは危険と判断。健康状態と反応減衰を確認後に再評価する。
身元。
筆が止まる。
うずまきナルト。
その名を書けば、木ノ葉で読む者は三年前に死んだ子供を思い出す。
自来也は紙の余白を睨んだ。
似ているだけかもしれない。
罠かもしれない。
何より、本人が三歳で、自分のことすら説明できない。
――身元詳細、確認後追送。
そう書いた。
その判断を、一年後、自来也は何度も思い返すことになる。
正しかったのか。
間違っていたのか。
答えは、最後まで簡単には出なかった。
窓の外を星が一つ流れた。
自来也は見なかった。
布団の中のナルトだけが、眠ったまま一度、小さく息を詰まらせた。