星を渡って、ただいまを 作:ka_na
話す朝になっても、ナルトはいつもと同じように朝飯を食べた。
自来也の宿舎の小さな卓。
焼いた魚をほぐして、味噌汁の豆腐を先に食べて、最後まで残していた青菜を自来也に睨まれて口へ入れる。
「にがい」
「飲み込め」
「じらや食え」
「ワシはもう食った」
「もう一回」
「何でじゃ」
いつもの朝だった。
ただ。
卓の端に、今日は二つの物が置かれていた。
一つは、ミナトと一緒に描いた木ノ葉の地図。
もう一つは、四年前から波風家に残っていた細い木札。
――ナルト。
ナルトは食べながら何度かそれを見た。
「今日、その話?」
自来也が箸を置く。
「そうじゃ」
「長い?」
「分からん」
「昨日、ミナトは長くしないって言った」
「ならミナトに文句言え」
そこへ戸が叩かれた。
ナルトの箸が止まる。
自来也が立つ。
「入れ」
戸が開く。
ミナトとクシナだった。
二人とも普段着だった。
火影の羽織もない。
封印班の装束もない。
今日は火影と人柱力として来たのではない。
そのことを、ナルトが理解しているかは分からない。
それでも二人はそう決めていた。
「おはよう」
ミナトが言う。
「おはよう」
クシナも。
「おはよ」
ナルトは青菜を口に入れたまま返した。
自来也が眉を吊り上げる。
「飲み込んでから喋れ」
「ん」
ごくん。
「おはよう」
言い直した。
クシナが少し笑った。
その笑顔がいつもより硬い。
ナルトは気づいた。
「クシナ、怖い?」
不意打ちだった。
クシナは目を見開く。
「……うん」
「昨日も?」
「昨日より」
「なんで」
クシナはすぐには答えなかった。
代わりにミナトがナルトと同じ高さへ座る。
「今日は、俺たちが君に言わなきゃいけないことがあるから」
「悪いこと?」
「違う」
「オレ怒られる?」
「違うよ」
「じゃあ何」
ミナトは一度、息を吸った。
この数週間。
封印式を読んだ時より。
九尾と向き合った時より。
別の自分へ問いかけた時より。
今の方が怖かった。
「先に、ご飯食べ終わろうか」
ナルトが眉を寄せる。
「逃げた」
自来也が吹き出した。
クシナまで笑った。
ミナトは額を押さえる。
「……そう見える?」
「見える」
「じゃあ話す」
ナルトは箸を置いた。
◆
地図を広げた。
以前、ミナトとナルトが描いた木ノ葉の地図。
火影塔。
猿飛家。
カカシ宅。
波風家。
紙の端に、自来也のために描いた「決まっていない場所」の丸。
そこから木ノ葉へ戻ってくる、ナルトの曲がった線。
今日は裏側に、もう一枚の紙を重ねた。
ミナトが一本の線を引く。
「覚えてる? 前に、道が二つに分かれたかもしれないって話したこと」
「ちょっと」
「ここ」
線の途中へ点を打つ。
「君が生まれた日」
「十月十日」
「そう」
そこから、線を二つに分けた。
右。
左。
「ここまでは、同じ道だった」
ナルトが指で点を触る。
「ここから?」
「二つになった」
「なんで」
「まだ全部は分からない。でも、同じ日の出来事が違う結果になった」
ナルトは左の線を見る。
「オレの木ノ葉?」
「うん」
右を見る。
「こっち?」
「そう」
ミナトの指が右の線へ触れる。
「こっちでは、俺とクシナが生きてる」
左へ動く。
「君のいた方では、俺とクシナは死んだ」
ナルトの顔から、少しずつ表情が消えた。
「よんだいめ、死んだ」
「うん」
「オレ知ってた」
「君が知っていた四代目は、そっちの俺だった」
「ミナトと同じ?」
「道が分かれるまでは、同じ俺だった」
ナルトはクシナを見る。
「クシナも?」
「うん」
クシナは膝の上で手を握った。
「赤い髪の私がいた」
「死んだ?」
「……うん」
ナルトは自来也の袖を掴んだ。
一年前から、怖い話を聞く時にする癖だった。
自来也は何も言わない。
袖も引かなかった。
ミナトは、そこで一度言葉を止めた。
ここから先は、説明ではない。
本人へ真実を渡す。
昨日まで大人たちの間だけにあった言葉を。
今日からナルト自身のものにする。
「ナルト」
「なに」
「俺たちが調べていたのは、君がどこから来たかだけじゃない」
ナルトの目が動く。
「君と、俺とクシナが、どういう関係なのかを調べてた」
「関係?」
ミナトは木札を取った。
ナルト、と書かれた小さな札。
「これは、君がここへ来るよりずっと前に俺たちが作った」
「オレの?」
「君と同じ名前の子のために」
「死んだナルト?」
「うん」
ナルトは木札を見る。
ミナトはもう逃げなかった。
「その子も、君も。道が分かれるまでは、同じ一人の赤ちゃんだった」
ナルトが眉を寄せる。
四歳の子に「同じ存在」と言っても意味はない。
だからミナトは、一番短い言葉にした。
「ナルト」
「うん」
「俺が、君の父親だ」
音が消えたようだった。
ナルトは動かない。
ミナトは続ける。
「クシナが、君の母親だ」
クシナの呼吸が震えた。
「道が分かれた後は、別の時間を生きた。でも、その前まで俺たちは、君を生んだ父ちゃんと母ちゃんだった」
ナルトはミナトを見る。
次にクシナ。
それから自来也。
「……父ちゃん?」
誰に聞いたのか分からない声だった。
ミナトは答える。
「うん」
「母ちゃん?」
クシナの目から涙が落ちた。
それでも笑った。
「うん」
ナルトはまた黙った。
長い沈黙だった。
大人たちは待った。
泣き出してもいい。
怒ってもいい。
分からないと言ってもいい。
何も言わなくてもいい。
一番最初にナルトが言ったのは。
「オレにも、いたの?」
だった。
クシナの表情が崩れた。
「いたよ」
声が震える。
「ちゃんと、いた」
「ずっと?」
「あなたが生まれる前から」
「じゃあ」
ナルトが自来也の袖をさらに強く握る。
「なんで、来なかったの」
その一言で。
部屋の空気が変わった。
ミナトは目を閉じなかった。
クシナも逃げなかった。
この問いのために、今日ここへ来たのだと思った。
「迎えに」
ナルトの声が小さくなる。
「なんで来なかったの」
クシナが口を開こうとする。
声が出ない。
ミナトが先に答えた。
「行けなかった」
「なんで」
「君が生まれた夜に、向こうの俺たちは死んだから」
ナルトの瞳が揺れる。
「オレが生まれたから?」
「違う」
今度はクシナが即答した。
強い声だった。
「絶対に違う」
ナルトがびくりとする。
クシナは声を落とした。
「ごめん。怒ってない」
「……」
「あなたが生まれたことは、悪いことじゃない」
「でも、死んだ」
「危ない人が来た。大きな力が暴れた。私たちはあなたを守ろうとした」
「オレのせいじゃない?」
「違う」
ミナトも言う。
「君のせいじゃない」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、なんで一人だったの」
今度こそ、ミナトの胸の奥が裂けるように痛んだ。
答えは簡単だった。
簡単だから、残酷だった。
「生きて、一緒にいることができなかったから」
「……」
「置いていきたかったんじゃない」
クシナの声が重なる。
「捨てたんじゃない」
ナルトの唇が震えた。
「ほんとに?」
「ほんとに」
「嫌いじゃなかった?」
クシナはもう涙を止めなかった。
「大好きだった」
「会ったことないのに?」
「お腹にいる時から知ってた」
「オレ、うるさかった?」
泣きながら笑ってしまった。
「お腹の中ではね」
「蹴った?」
「いっぱい」
「悪い」
「謝らないの」
クシナが両手を膝から離した。
伸ばしかけて、止める。
「ナルト」
「なに」
「抱いてもいい?」
ナルトはクシナの手を見る。
次にミナトを見る。
そして自来也。
自来也は何も促さなかった。
ただ、ここにいる。
一年かけて覚えた。
選んでも、選ばなくても、いなくならない大人の顔をしていた。
ナルトは小さく頷いた。
「いい」
クシナが近づく。
ゆっくり。
逃げられる速さで。
腕を回す。
最初、ナルトの身体は硬かった。
それでもクシナは強く締めなかった。
背中へ手を置くだけ。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
ナルトの肩が揺れた。
それは、封印の向こうにいたもう一人のクシナから預かった台詞ではなかった。
同じ言葉を。
今ここにいるクシナ自身が、ずっと言いたかった。
「私のところへ来てくれて、じゃないよ」
クシナが続ける。
「生まれてきたこと。今日まで生きてたこと。その全部」
ナルトの小さな手が、クシナの服を掴んだ。
「……おそい」
クシナの息が止まる。
「うん」
「おそいってば」
「うん」
「三さいまで来なかった」
「うん」
「じらやが先だった」
自来也が顔を背けた。
ミナトは笑えなかった。
クシナは泣いたまま答えた。
「待たせたね」
「……うん」
「ごめんね、とは言わない」
ナルトが顔を上げる。
「なんで」
「あなたが生まれたことを、ごめんにしたくないから」
ナルトには難しかったのかもしれない。
でも。
しばらくして、クシナの胸へ顔を戻した。
「母ちゃん」
ほとんど聞こえない声だった。
クシナの腕が一瞬だけ強くなる。
すぐ緩める。
「うん」
ナルトが顔を上げた。
ミナトを見る。
ミナトは動かなかった。
自分から入れば、欲しがったように思えた。
だから待った。
ナルトが片手を伸ばす。
「ミナトも」
「……うん」
一歩近づく。
「父ちゃん?」
その呼び方を、ミナトは四年間、想像の中で何度聞いただろう。
想像の声はいつも曖昧だった。
今の声は、少し鼻にかかっていて。
泣いた後で。
まだ迷っていた。
だから、何より本物だった。
「うん」
ミナトはそれだけ答えた。
ナルトがもう一度手を伸ばす。
そこで初めて、ミナトも二人へ腕を回した。
三人になった。
誰も「家族になった」とは言わなかった。
名前を呼んだからでも。
血がつながっていると分かったからでもない。
ただ。
四年前には一度もできなかった形で。
三人が同じ場所にいた。
◆
泣き疲れたのか。
ナルトはしばらくして自来也の隣へ戻った。
クシナも顔を洗った。
ミナトは水を飲んだ。
誰も、さっきの呼び方をもう一度言わせなかった。
「まだ話ある?」
ナルトが聞く。
自来也が本を取り出した。
「一個だけな」
「長い?」
「短い」
「ほんと?」
「たぶん」
「じらやのたぶん信用ない」
「誰が教えたそんなこと」
ミナトとクシナが同時に笑った。
自来也は古い本を卓へ置く。
旅の途中にも見せた、表紙に渦巻き模様のある本。
「覚えとるか」
「ぐるぐるの本」
「ワシが書いた」
「知ってる」
「この主人公も、ナルトって名前じゃ」
「オレより先?」
「ずっと先」
ナルトが不満そうにする。
「ずるい」
「何がじゃ!」
そのやり取りを見てから、ミナトが木札へ手を置いた。
「俺がこの本を読んでね」
「うん」
「何度転んでも、自分で立って、自分の道を選ぶ人になってほしいと思った」
「だからナルト?」
「そう」
クシナも頷く。
「私もいい名前だって思った」
ナルトは三人を見る。
「じらやが作って、父ちゃんがつけて、母ちゃんもいいって?」
言ってから。
本人が一番驚いた顔をした。
ミナトもクシナも、反応を堪えた。
自来也が先に鼻で笑う。
「めんどくさい名前じゃな」
「じらやが始めたんだろ!」
「ワシのせいか!」
笑いが起きた。
今度の笑いは、泣いた後の部屋へちゃんと馴染んだ。
◆
昼を過ぎても。
誰も「今日から父ちゃんと母ちゃんと呼べ」と言わなかった。
ナルト自身も、さっき一度口にした呼び方を何度も繰り返しはしなかった。
水が欲しい時には、
「ミナト、水」
と言った。
クシナへは、
「クシナ、これ持って」
と言った。
二人とも普通に返事をした。
そのことをナルトは見ていた。
呼び方を戻しても。
怒らない。
がっかりした顔で追いかけてこない。
それを確かめる時間も必要だった。
夕方。
ナルトは地図を畳んだ。
「じらや」
「何じゃ」
「父ちゃんと母ちゃん分かったら」
「うん」
「じらや、いなくなる?」
自来也は即答した。
「ならん」
「ほんと?」
「ワシは父ちゃんでも母ちゃんでもない」
「知ってる」
「ワシは自来也じゃ」
ナルトは少し考える。
それから頷いた。
「それでいい」
自来也の顔が一瞬だけ歪んだ。
すぐ、いつもの顔に戻る。
「そうか」
「うん」
ナルトは地図を旅袋へ入れた。
今日。
父と母の名前を知った。
父ちゃんと母ちゃんが、自分にはいたのだと知った。
捨てられたのではないと知った。
一度だけ、その呼び名を口にした。
それでも。
どの家へ帰るかは、まだ決めなかった。
それでよかった。
真実を知ることと。
暮らす場所を決めることは。
同じ日でなくていい。
残り2話