ミナトは家屋へ向かう途中、一度も飛雷神を使わなかった。
使えば数秒で着く。
けれど、歩いた。
火影塔から門へ。
門から森へ。
その間に、ヒルゼンから渡された報告書を頭の中でもう一度並べる。
――三歳頃の幼児を自来也が国外で保護。
――時空間現象により出現した可能性。
――自称、うずまきナルト。
――十月十日生まれ。
――四代目火影を故人として認識。
――三代目を現役火影として認識。
――一年間の連続観測記録あり。
文字だけなら、いくらでも疑える。
誰かが作った記憶。
誰かが作った身体。
誰かが、自分たち夫婦を狙って用意した罠。
そんな仮説は火影として当然に立てるべきだった。
だからこそ。
ミナトは自分の手が震えていることが、腹立たしかった。
「落ち着け」
誰に言うでもなく呟く。
森の先に古い家が見えた。
戸の前にはヒルゼンがいる。
「遅かったな」
「歩いてきました」
「珍しいの」
「考えたかったので」
「考え終わったか」
「いいえ」
正直に答える。
ヒルゼンはそれ以上何も言わず、戸を開けた。
◆
最初に見えたのは、自来也だった。
低い卓へ肘をつき、地図を見ている。
その隣。
小さな金色の頭がある。
ミナトの足が止まった。
報告書に書いてあった。
写真も見た。
ヒルゼンが似ていると言った。
それでも足りなかった。
実際に動くその子供を見た瞬間、四年前に自分の中へ押し込めたものが、一度に音を立てた。
髪。
頬。
横顔。
そして、こちらへ向いた青い目。
あの夜、見ることのできなかった色。
ナルトが立ち上がった。
逃げはしない。
ただ、自来也の袖を掴む。
それを見て、ミナトの胸に別の痛みが生まれた。
この子は。
一年間、自来也を頼って生きてきたのだ。
自分ではない。
当然なのに、痛かった。
「……よんだいめ」
子供が言った。
ミナトは息を吸う。
「うん」
「ほんもの?」
「たぶん」
言ってから、自分でもおかしな答えだと思った。
ナルトが眉を寄せる。
「たぶん?」
「自分で自分を本物だって証明するのは難しいから」
自来也が片手で顔を覆った。
「お前、そういう所ほんと変わらんな」
「先生は黙っててください」
ミナトはナルトへ視線を戻す。
「波風ミナト。今の木ノ葉の四代目火影だよ」
ナルトが首を振った。
「しんだ」
「君の知っている四代目は?」
「うん」
「どうして死んだか知ってる?」
「でっかいきつね。きのは、まもった」
「誰に聞いた?」
「じっちゃん」
一つ一つ。
短い。
大人が作った説明のようには聞こえない。
むしろ、知っている断片だけが子供の言葉で落ちてくる。
「俺が生きてて、怖い?」
聞いた直後、ヒルゼンが僅かに眉を動かした。
早すぎた質問だ。
それでもナルトは考えた。
「へん」
「変?」
「しゃしん、動かない」
「うん」
「ミナト、動く」
呼び捨てだった。
自来也が一瞬だけ笑う。
「誰がそう呼べって言った」
「ワシは言っとらん」
ナルトは二人を見比べる。
「ミナト、だろ?」
「そうだよ」
「じゃあミナト」
「……うん」
胸の奥へ落ちた名前の響きが、重かった。
父と呼ばれたわけでもない。
それなのに。
◆
ナルトが自来也と外へ薪を取りに出た後、ミナトは卓の向かいへ座った。
「先生」
「おう」
「一年」
「……ああ」
「どうして言わなかったんです」
声は静かだった。
自来也は冗談で逃げなかった。
「最初は危険だった」
「旅帳で読みました」
「強い時空間術に反応した。口寄せですら空間が裂けた。木ノ葉の大結界へ直接入れる判断はできなかった」
「そこは理解できます」
「なら」
「名前を伏せる理由にはならない」
自来也が黙る。
「三か月後には、外部からの時空間刺激への反応は半分以下になってる。半年後には通常の瞬身や結界術には無反応。少なくとも、その段階で身元情報は送れたはずです」
「その通りだ」
「なぜ」
「怖かった」
ミナトが目を上げる。
「何が」
「お前らに見せるのが」
「俺たちが傷つくから?」
「それもある」
「他は」
「ワシが、この子を手放す話になるのが」
空気が止まった。
自来也は続ける。
「最初の一月は、明日死なせないことだけ考えとった。三月目には、飯の好き嫌いを覚えた。半年経った頃には、ワシが何も言わず外へ出ると怒るようになった」
「……」
「一年経つ頃には、もうただの調査対象じゃなかった」
「だから隠した?」
「結果としてはそう見える」
「見えるじゃない。そうでしょう」
「……ああ」
ミナトの手が握られる。
怒っている。
当然だった。
けれどその怒りの中には、もう一つ別の感情が混じる。
嫉妬だ。
自来也が一年を持っている。
自分が知らないナルトの寝顔を知っている。
好きな食べ物を知っている。
泣いた時を知っている。
言葉が増えていくところを知っている。
その感情が醜いと分かっているからこそ、ミナトは一度目を閉じた。
「先生」
「なんだ」
「怒ってます」
「知っとる」
「でも、今ここであなたを責めることと、あの子の身元を判断することは分けます」
「……ああ」
「俺はあの子を、息子だとはまだ決めません」
自来也の目が細くなる。
「似ていても?」
「似ていることは観測です。同一人物だという結論じゃない」
「三代目みたいなこと言うな」
「教わったので」
ミナトは旅帳へ手を置く。
「一年の記録は証拠として価値があります。だからこそ、先生が父親代わりになったこととは分けて使う」
「父親代わり、か」
「違うんですか」
「ワシはそんな大層なもんじゃない」
「本人がどう思ってるかですね」
自来也は何も返さなかった。
その時、戸が開いた。
「じらや!」
ナルトが薪を二本だけ抱えて戻ってくる。
「重い!」
「二本で何を言っとる!」
「持てって言った!」
「一本でいいと言った!」
「二本のほうが早い!」
揉める二人を見ながら、ミナトは胸の奥で何かを認めた。
この一年を消してはいけない。
たとえ本当に自分の息子だとしても。
自来也との時間まで「本当の親が来たから終わり」にしてはいけない。
それだけは、身元調査より先に分かった。
◆
夕方までに、ミナトはナルトへいくつか確認した。
痛いことはしない。
嫌なら止める。
分からなければ分からないと言っていい。
それを先に説明した。
「お腹、見てもいい?」
ナルトが自来也を見る。
「服をちょっと上げて、外からチャクラの流れを見るだけじゃ。中へは入らん」
「いたい?」
「痛くしない」
ミナトが答える。
ナルトは少し迷って頷いた。
「いい」
上着を上げる。
ミナトは触れず、掌を数センチ離してチャクラを薄く流した。
すぐ止めた。
「……」
「何があった?」
自来也が聞く。
「ある」
ミナトの声が低くなる。
「でも今日はここまで」
「みないの?」
ナルトが聞く。
「もっと見るなら、先に君へ何をするか説明してから」
「なんで?」
「君の身体だから」
ナルトは少し考えた。
「ミナトのじゃない?」
「俺のじゃない」
「じらやのでも?」
「もちろん違う」
「じゃあオレの」
「そう」
その答えに、ミナトは少し救われた。
◆
帰る前。
ミナトは玄関で靴を履いた。
ナルトが地図帳を持ってくる。
「これ」
「地図?」
「じらやがくれた」
開く。
旅した町に丸がある。
宿に丸。
医者に丸。
川辺に丸。
そして最後の頁。
木ノ葉の外に、今いる家の丸。
「丸は何?」
「かえるとこ」
ミナトは答えられなかった。
ナルトが鉛筆を差し出す。
「ミナト、どこ?」
「俺?」
「いえ」
自来也もヒルゼンも黙っている。
ミナトは鉛筆を受け取った。
木ノ葉の大まかな位置の中へ、小さな丸を一つ書く。
「ここ」
「なにある?」
「俺と、妻が住んでる」
「つま?」
「奥さん」
「あかい?」
ミナトの指が止まる。
「どうして分かったの」
「じらや言った」
「先生」
「髪の色くらいええじゃろ!」
ナルトは地図を見る。
「ここも、かえる?」
聞かれた。
ミナトは考える。
「俺にとってはね」
「オレは?」
「君は、まだ決めなくていい」
ナルトが顔を上げる。
「行ってみたくなったら、来ていい」
「かえるじゃない?」
「今は、来るでいいよ」
ナルトは丸の横へ、小さく印をつけた。
何の印かは分からない。
ただ消さなかった。
ミナトはそれを見てから家を出た。
森を歩きながら、今度は飛雷神を使わなかった理由が分かった。
帰る場所というものは、速く着けばできるわけではない。
明日。
まずクシナへ話す。
一度で。
知っていることと、知らないことを分けて。
それが、次の仕事だった。